解放区

2014年05月21日(水) 祖父の人生と家族について/チェインギャング

祖母は病状が落ち着きつつあり、個室から大部屋に戻ったらしい。自分の病状悪化をきっかけに、自分の血を分けた、しかし今までいろんなわだかまりのあった家族が密に連絡を取り合うようになったことについて、彼女は密かに喜んでいるだろうと思う。

今日は仕事が終わってから実家に戻り、色々と片付けをした。今まで散々片付けはしていて、てめえの小さなときのアルバムなどいるものはすべて持ってきたつもりだった。いらないものを処分してから家を解体して更地にして売る算段だったが、解体屋からは「どうせぶっ壊すので、家の中のいらないものはそのままで良い」と言われたのでそのままにしてある。

今日は実家に探し物もあったのだ。今まで散々必要なものを持ち出したと思っていたのだが、今日はとんでもない書類を発見してしまった。これをそのままにして、家もろとも破壊されなくて本当に良かった。

その書類は、最後まで帰化しなかった祖父の「帰化申請の手続き」だった。分厚く封筒の中にしまわれていたその中には、我が家の秘密が山盛り入っていた。

祖父と祖母の戸籍謄本。祖父のものは、もちろん中華民国のものである。戸籍の中に「阿片吸引」と「纏足」という項目があったのはさすがに戦前の中華民国だと思った。そして帰化申請書から初めて知った、彼の軌跡。


彼は国民学校を卒業して、しばらくは台北で働いていたらしい。そして台北で働いていた会社を退職し、一旗揚げようと日本に向かう。海路で尼崎から日本に入り、大阪の西淀川区でしばらく働いていたようだ。

終戦時に、彼は京都に移動する。日本国籍を喪失したそのタイミングで京都に移動した理由はなんだろうか。

そして、料理好きだった彼は四条高倉で中華料理店を開業する。多分、一緒に店をやろうと誘った友人がいたのだろうと想像するが、もちろん想像の域を出ない。住居は途中で左京区に引っ越した。そしてそこで祖母と出会っている。

5年でその店を閉じ、今度は錦小路東洞院で製パンを開業したらしい。この頃祖母と一緒になり、翌年に父が生まれた。

その後の話はてめえもよく知っている。


書類の中には、中華民国に対する「国籍離脱申請書」みたいなのもあった。

しかし、結局彼は帰化しなかった。



昭和20年8月。終戦に伴って日本国籍を突然喪失したのは、台湾・朝鮮・樺太の人々であった。世界中に華僑ネットワークを張り巡らせている中国人は、基本的にその住んでいる国に帰化することを躊躇わない。そして日本国籍を喪失した台湾人の多くは祖国に帰るか、あるいは日本に帰化することを選択した。

現在、日本国籍を喪失したにもかかわらず祖国にも戻らず、日本に帰化もしていない「特別永住者」はその99%が朝鮮半島出身者である。


実家から帰ってきて、てめえは惚けた親父に尋ねた。なぜ祖父は帰化しなかったのか? もちろんきちんとした回答は期待していなかった。

のだが、惚けた父はその瞬間真顔に戻り、「全然わからん。いったん申請書まで書いているにもかかわらず最後まで帰化しなかった理由は、彼自身の中にしかないと思う」と言った。てめえはだいたいその理由がわかる気がする。そして父は死ぬまでわからないだろう。



「しかし、なぜ生活が破綻するとわかっていて、祖父は母と同居したのだろ?」

それは時代だったからとしか言いようがないと思う。今ではいろんな選択肢があるが、昭和の時代はリタイアした老夫婦は長男と同居するのが当たり前だった。当時は介護保険もなかったし、老健などの施設もなかった。同居に関しては、母も全く反対せず、そういうものだと受け入れていた節があった。

そして予想通り水と油の祖父と母の同居生活は破綻した。

もし、祖父母が同居しなかったらてめえの人生はどうなっていただろうか。

おそらく普通に平和に育ち、うまくいけばそこそこの私大に進学して、教えるのが好きだったので教師にでもなっていただろうと思う。

どっちが良かったのだろうか? 祖父に追い出されてどん底の生活を送り。

中学から高校生活を過ごした公営住宅は、小さな台所に六畳二間で風呂場には浴槽もなく、一つの部屋をリビング扱いにしてもう一つの六畳の部屋に薄い布団を三枚引いて家族5人で寝ていた。寝室扱いしていた部屋に勉強机も置いていたので、足は机の下に突っ込んで寝た。寝返りもうてない状態だったし、時に体を這う気配で夜中に起きると、台所からやってきたゴキブリがてめえの体を這っていた。

高校生になってしばらくたった時。夕食時に、てめえは風の噂で聞いた話を何気なく母にした。

「医者かパイロットになったら、死ぬまで金に困らないってほんまか?」

本当に何気なく聞いたつもりだったのに、母は顔を真っ赤にして怒った。

「あのな、金のことを考えて仕事を選んだら、あんた最低やで。ええか、うちは確かに貧乏や。でもお金があったからと言って幸せかというとそうではない。お金があると、不幸ではないことが多いけど、幸せはお金では買えないんや。今うちは貧乏やけど、家族がそろってなんとかご飯は食べているし、ひしめきあってはいるけど夜寝る布団もある。しかもみんな元気や。おじいちゃんに追い出されたときのことを思い出してごらん、あのときと比べると私は、今の状態はこれ以上ないくらい幸せや。だからあんたも、お金のことなど考えずに好きな道を選んだらええ。」

母の気持ちはわからないでもなかったが、若いてめえは卑屈さの固まりだった。そのパワーがあったからあり得ないくらいのガリ勉にも耐えたし、皮肉なことに今の自分があるのだ。そして今の立場になって初めて、自分が卑屈であったということに気付いたのはこれまた大いなる皮肉だろうと思う。

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チェインギャング:囚人や奴隷が鎖で繋がれて強制労働させられていた。その繋がれていた人々のことを言う。


僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから
ブルースにとりつかれたら チェインギャングは歌いだす
仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない

人をだましたりするのは とってもいけないことです
モノを盗んだりするのは とってもいけないことです
それでも僕はだましたり モノを盗んだりしてきた
世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに
一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた
なんだかとても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない
キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない
死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう

だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し
人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ

だから親愛なる人よ
そのあいだにほんの少し人を愛するってことを
しっかりとつかまえるんだ

一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた
一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた



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