Sun Set Days
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2001年09月22日(土) |
『ホリー・ガーデン』1 |
江國香織は好きな作家の一人なのだけれど、そのたくさんの作品の中でも一番好きなのは『ホリー・ガーデン』だ。初版発行が1994年9月の二作目の長編小説で、文庫本の裏表紙に書かれている内容を引用すると以下の通り。
「果歩と静枝は高校までずっと同じ女子高だった。ふと気づくといつも一緒だった。お互いを知りすぎてもいた。30歳目前のいまでも、二人の友情に変わりはない。傷が癒えない果歩の失恋に静枝は心を痛め、静枝の不倫に果歩はどこか釈然としない。まるで自分のことのように。果歩を無邪気に慕う中野くんも輪に加わり、二人の関係にも緩やかな変化が兆しはじめる……。心洗われる長編小説。」
今日から不定期でこの『ホリー・ガーデン』の感想を一章ずつ書いていこうと思う。 これは本当にふいに思ったのだけれど、自分にとって大切な作品のひとつなので、こういう機会にちゃんと向き合ってみようと思ったからだ。もちろん、いままでにも何度も何度も何度も読み返してきてはいるのだけれど、その思い入れのためなのかたとえばMy Favorite に入れようと文章を書き始めても、何か違うような気がしてしまうのだ。 それなので、総括的なものではなく、少しずつ断片的かつ継続的にこの小説について脈絡のない感想を繋げていこうと思ったのだ。 もちろん、とても個人的で主観の入った感想になってしまうだろうし、全部で24章あるからどれくらい時間がかかるのかもわからないのだけれど、とりあえずやってみようという感じではじめてみることにする。 それなので、もちろん興味のない人はスクロールです。スクロール。
「1 紅茶茶碗」
江國香織はどこかで自分の小説の登場人物のかなり細かいところまで決めていると語っていて、この本のあとがきの中でも「なぜだか昔から、余分なものが好きです。」とも書いてある。実際の小説を読んでも各々の登場人物の本来表面には出てこない部分まで細かく決まっているのだろうなと思う。それがどの程度までなのかはもちろんよくわからないのだけれど、作中で触れられている部分がまるで氷山の一角のようなものだとしたらなかなかにすごいとは思ってしまう(それは作品の屋台骨の強さに繋がってくるだろうし)。 とりわけ、初期の作品についてはその傾向が強いはずで、この『ホリー・ガーデン』にいたっては、「余分の物語」だったりするのでその傾向はさらに強くなっているということができるだろう。 また、ストーリーに関してもある程度以上決めているのだろうなと思うのは、この一章がほとんどの登場人物の紹介のような面も兼ね備えているからだ。
たとえば、この章に登場する人物(と猫)を名前の登場順に列挙してみると、
・果歩 ・フキ(飼い猫) ・中野 ・静枝 ・今日子(果歩の姪) ・象足(果歩の上司) ・津久井(果歩の昔の恋人) ・オーデコロンエルメス(果歩の短大時代の友人) ・静枝の恋人
となっていて、その主な登場人物のほとんどすべてについて少しは触れられているのだ。 この「紅茶茶碗」は果歩のある一日を朝から夜まで追っているだけの章なのだけれど、その短さの中でもこの小説の持つ独特のトーン、淡々とした余分なものばかりでできている様が感じられるようになっている。この小説はスピード感のあるストーリー展開を楽しむようなものではなくて、むしろゆっくりとしたペースで読み進めていくべきなのだということも感じとることができる。
「果歩はあまり寝ない。通常三時に眠って七時に起きることにしているのだが、ぼーっとしているうちに朝になってしまうこともある。それでもこれといって生活に支障はない。起きているあいだもたいしてエネルギーを使わないので、そんなに寝る必要もないのだろうと果歩は思っていた。それに実際、起きていても夢の中にいるような気のすることが、果歩にはままあるのだった。」
物語は、このようにはじまっている。このように冒頭から果歩の淡々と暮らしている様が見てとれる。また、この文章で睡眠時間が4時間ということもわかるのだけれど、後の章を読んでも果歩はあまり眠らなくてもよい体質のようだ。
果歩はシャワーをあびてから朝食をとる。魅力的なのがその朝食。 リビングに小さなティーテーブルが置いてあって、そこで「いつもとおなじものをぼんやりと食べる。」と書いてある。 この”いつもと同じ”というのが果歩の生活のポイントだ。できるだけ波風が立たないような日々や生活を続けるのが果歩の基本的なスタンスになっていて、まるで日々の生活を自分のコントロール下におくことができれば、心が揺れないとでも信じてでもいるかのようなのだ。自分で生活を通じて感情に対して防衛線を張っているような感じ。
そのいつもとおなじ朝食と言うのは以下の通り。
「バターをたっぷりとつけたトースト、果物をどっさり、それに紅茶。紅茶には牛乳をいれ、カフェオレ用のボウルで飲む。」
この果歩のスタイルに憧れて同じメニューの朝食を食べてみた人やカフェオレボウルを購入した人は結構多いと思うのだけれど、実は僕も買ってしまった一人。ずっと欲しかったのだけれど、ある雑貨屋で白いカフェオレボウルを売っているのを見つけて衝動的に買ってしまったのだ。カフェオレボウル自体は一般家庭で主に使うもののようなのでカフェなんかで出てくることはないはずなので、実物が見たい方は雑貨屋に行くか、『ベティ・ブルー』という映画をレンタルビデオで借りてくるのが手っ取り早いかもしれない。『ベティ・ブルー』は狂気の愛が描かれているフランス映画で、結構痛いのだけれど、画面からつい目が離せなくなってしまうような作品だ。
朝食がすむと、果歩はやっぱり「ゆっくり」と身仕度をするのだけれど、その仕度の最後が眼鏡をかけることだ。果歩は引出しの中に十数個の眼鏡を入れていて、毎朝そのなかからひとつを選んでかける。ただ、その理由が「果歩はただ、眼鏡屋の店員だから眼鏡をかけた方がいいだろうと思ってかけているだけなのだ。」なのだ。これはかなり果歩らしい。基本的に果歩はほとんどすべての他人からの評価だとか目というものをどうでもよいと思っているようで、マイペースでもあって、そういうところがこういう細部から感じられる。
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ちなみに、主な登場人物である中野君は人間は眼鏡をかけると二通りの変化しかしないのだと言っていてその意見もなかなかに面白い。 その二通りとは「まるで色気がなくなるか、見とれるくらい色っぽくなるか」のことで、果歩は後者ということになっている。 このたとえにはなるほどと頷く人が多いんじゃないかと思う。 よくコミックなんかで眼鏡を外すとびっくりするくらい美少女だったというような話があるけれど、そういうのは現実的じゃなくて、中野君の言うことのほうがリアリティがある。
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果歩はバスにぎりぎりの時間にマンションを出るのだけれど、だからと言ってもちろん急いだりはしない。遅刻して叱られるということなどは、果歩にとってはたぶん全然重要じゃないのだ。部屋を出るときに飼い猫のフキに声をかけてから出かけるのだけれど、そのフキは化け物みたいなしゃがれ声でなく太った猫だ。けれども果歩は「薔薇が刺で身を守るように、フキはしゃがれ声で身を守るのだ」と思っている。そんなふうに、果歩は様々な物事にステレオタイプな反応は示さない人なのだ。自分のスタンスというものがあって、その場所から世間と向かい合っている。人によっては、傲慢だと思われてもしかたないようなところもある。
また、「空気に焚火の匂いがまざっているような寒い朝。」という表現は個人的にかなりすき。江國さんはそういう表現が本当にうまいと思う。
勤務中に静枝から電話がかかってくる。 「店に電話をかけてくることはめったにないが、たまにかけてきたからといって必ずしも用事があるわけではないことが、静枝の電話の特徴といえば特徴だった。」という電話。 いつものようにぎくしゃくした最初の沈黙があって、それから他愛のない話で盛り上がり、「声が聞けてよかったわ」といういつものセリフを静枝が言うまでがその唐突な電話のお約束だ。静枝は数年前の失恋に拘泥している果歩を心配して、たまにそういうことをしてくるのだ。
二人はもう20年来の親友だ。お互いを知りすぎている女友達がどれくらい近くて微妙なものであるのかは男の僕は想像することしかできないのだけれど、二人の関係はやっぱり奇妙な形式儀礼のようなものに溢れていて、結びつきは強固でもどこか面倒な感じだ。間違いなくお互いを信頼していて強固な友情で結ばれているのだけれど、それは簡単に表面に出てくるようなものではなくて、むしろ厄介とも言えるような感じ。
また、電話を切った後果歩を呼ぶために中野君が事務所に入ってくるのだけれど、この果歩を慕い続ける年下の男の子は現実にはなかなかいなさそうな男の子だ。
また、果歩は中野の眼に映っている自分の姿を想像しているのだけれど、それは以下の通り。
「肩のあたりでくるくると揺れる茶色っぽい髪、ながい睫にふちどられたあかるい色の目、やわらかいモヘアの、眼鏡とコーディネートされた淡いオレンジ色のワンピース、そしてそのワンピースからのびる、白いタイツをはいたかたちのいい脚――。」
果歩は作中で可愛い感じの美人と表現されていて、こういう文章からもなんとなくイメージすることはできる。
夜、果歩の部屋には短大時代の友人であるオーデコロンエルメスがいて、果歩の作った料理を一緒に食べている。果歩は一人で食事をすることが嫌いで、一ヶ月先まで一緒に夕食ととる約束で埋まっている。 果歩は料理が上手だ。その日のメニューも、「煮た野菜と鱈の粕漬け、柚酢で和えた蕪と蕪の葉」で、オーデコロンエルメスにして「お料理屋さんみたい」と言わしめるような出来栄えみたいだ。 食事の後、オーデコロンエルメスのいつも御馳走になっているお礼に紅茶茶碗をプレゼントしようかという申し出を、果歩は断っている。 「紅茶茶碗は持たない主義だから。」と。
果歩は数年前の失恋をいまでも乾いたまま引きずっている。そしてその失恋のときに、持っていた紅茶茶碗やコーヒー茶碗のほとんどすべてをお風呂場で割ってしまったのだ。それ以来新しく紅茶茶碗を買っていない。青い美しい薔薇の柄の紅茶茶碗だけはそのときにもどうしても壊すことができずに隠し持っているのだけれど、それは果歩以外の誰も知らない。 けれど、紅茶茶碗を隠し持っていることを知らなくても、静枝は果歩がいまだにその過去の失恋を引きずっていることを知っていて、気遣っていて、ふいの電話をくれるのだ。その静枝はこう思っている。
「いい加減で軟弱で、口ばかり上手くて大嘘つきの、あんな男のどこが果歩をひきつけたのか、静枝にはさっぱりわからなかった。そして、さらに判らないのは、別れたあとの果歩なのだ。もう五年ちかくたっている。(……)静枝の基準では、どう考えても、津久井のような男に果歩があれだけ拘泥する価値はないのだ。」
そして、果歩は静枝がこんなふうに思っているであろうことを知っている。 けれど果歩は思う。
「静枝は知らないのだ。津久井がどんなに優しい声をしていたか、どんなに子供っぽい顔で笑ったか、どんなに幸せそうに果歩を抱いたか。」
静枝をやきもきさせている原因でもあるのだが、果歩の周りには、いまでもまだ津久井の粒子のようなものが残っている。 そのように、果歩の過去はこの物語を通じて常に気配としてそこにある。けれども、津久井と再会するだとかそういったいかにもドラマ的で急な出来事は起こらない。ただ、そういう過去を持つ果歩や静枝の日々が、ただ淡々と余分なものをたくさん抱えながら語られていくだけなのだ。 だから、場合によってはあまりにも何も起こらないがために読み進めるのが大変になってしまうかもしれない。けれど、そういうものだとわかってしまえば、この淡々とした様が非常に魅力的なものに見えてしまう。傷は多かれ少なかれ誰にでもあって、どんな人にでもどこかしら損なわれてしまっている部分や時期がある。それだから、読んでいるうちに、果歩や静枝のそういう部分に共鳴することができるようになってくるのだ。その淡々とした物語のペースが、自分の中のそういう部分にじっくりと染み込みはじめるのだ。そして、そこにある種のリアリティのようなものを感じることもできるようになるのかもしれない。
思うままに書き連ねてしまったけれど、これからも不定期で、一章ずつ、また脈絡もなく個人的な感想を書いていこうと思う。
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最近、警察署に免許の書き換えに行ってきた。 しかも今回の更新でゴールド免許をもらえることになっている。 別にそれで何か得するようなことがあるわけではないのだろうけど、やっぱり嬉しいものは嬉しいのは事実。
そして更新のときに25分間ほどの交通安全ビデオのようなものを見せられたのだけれど、ああいうものはたまにしか見ないからなかなかに興味深い。 見ているときに、小学生の頃の交通安全指導のようなものを思い出した。 当時、小学校に警察の人がきて同じようにビデオを見せられたのだけれど、そのときは自転車の乗り方についてのものだった。 そのビデオの中では自転車に乗っている子供が右折や左折をするときに腕をハンドルから放して、L字に曲げていたりした。 そうするとドライバーにどちらに曲がろうとしているのか発見されやすくなるという話だったのだけれど、子供心にもおいおいとは思っていた。第一、実際の道路であんなふうに腕を曲げて右折をしている自転車なんか見たことがない。 逆にそうするほうが危ないようにすら見えたし。 悪法も法なりという言葉があるけれど、形骸化した法律なりルールというものはたぶんかなり恐いよなあと、なんとなく思ったり。 ただ、今回見たビデオは運転するときには気をつけようと思えるようなもので、車というものが実際には非常に危険な乗り物なのだといことを思い出させてくれたので見た価値はあったと思う。
それにしてもゴールドです! 嬉しい! 同僚の前でわざとポケットから落として、「あ、俺のゴールド免許が落ちたよ。まぶしい!」とかふざけてやろうかな(←嫌味っぽい、というかコドモ)。
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