Sun Set Days
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僕はお祭りが大好きな子供だった。 中学生くらいまでは、近くでお祭りがあると必ずといっていいほど出かけていたし、いつの間にか行かなくなってしまったけれど、たとえばいまでも電車の窓から神社や公園でお祭りが開催されているのを見たりすると、胸の奥のほうがざわざわする。 そこが見知らぬ駅であっても降りていって、わたあめのひとつでも食べてみたなる。 あの原色の赤い明かりのなかに身を置きたくなる。
僕にとってのお祭りは祖母の住んでいる町のものと等しい。 小学校に入学する以前から、高校3年生のときにいたるまで、僕は毎年欠かすことなく祖母の住んでいる町で開催されるお祭りに参加していた。 お祭りは毎年6月中旬の土日にかけて開催され、駅の近くにある神社と路地とに、出店が立ち並んだ。 毎年、5月くらいになると祖母から家に電話がかかってきて、その年の開催日を知らされる。カレンダーにしるしをつけて、その週末は祖母の家に泊まりに行く段取りになる。 その土曜日が訪れると、学校が終わるやいなやすぐに列車に乗って、1時間もかからないところにある祖母の家まで向かうのだ。 そして週末を過ごすのだ。 子供の頃、その2日間の持つ魅力のようなものは、御し難いほど大きなもので、今年は何を買おう、どんなくじをやろうって、そういうことばっかりよく考えていた。もともと授業中上の空でいることが多かったのだけれど、だからその半日授業の土曜日なんかは、ろくに先生の話は聞いていなかった。 あの出店の建ち並ぶ様、たくさんの人手、わたあめやお面やプラモデル、そういったものはあからさまに非日常で、そういうハレの日なのだということは子供心にも感じていた。 いよいよお祭りがはじまるのだ。 そう考えると、胸が躍った。 駅から徒歩10分ほどのところにある祖母の家に着くと、まずは祖父の仏壇の前で手を合わせる。 僕が生まれたばかりの頃に亡くなった祖父のことを、正直な話覚えてはいないのだけれど、それでも聞かされたたくさんの話と写真から、どういう人物だったのかということは想像することができる。そして、人はそういう想像力の結果の人物像に、親愛の情を持つことさえできるのだということをいまでは知っている。 それから少し遅い昼食。 祖母は料理がとても上手で、いつも孫たち(僕と妹だ)の来襲のために腕によりをかけた料理を作ってくれていた。 僕らはそれを食べて腹ごしらえをしてから、いよいよ最初のお祭り(土曜日の午後バージョン)に出かけるのだ。
ご飯は美味しくて、僕はそれだけでこの週末が素晴らしいものになるんじゃないかっていう期待に胸を膨らませる。
午後2時か3時になると、祖母に連れられ僕と妹はお祭りの一角まで歩いていく。 大体歩いて15分くらいで出店が見えはじめる。 毎年、その瞬間――お祭りのエリアを目にする瞬間――は、そこまで駆けていきたい衝動にかられた。 まるでそれは砂漠に見えるオアシスの蜃気楼のように、魅力的なものに見えたのだ。 そして、お祭りは蜃気楼じゃないから、近づいてもなくならないわけだし。 もちろん、その衝動はあくまでも一瞬のことだ。けれど、その瞬間の興奮や陶酔感のようなものは、何年もずっと魅力的なものであり続けた。 それでも、その時間の出店はまだ完全に出揃っているわけではなくて、準備をしているところなんかも多くて、どこかまだ閑散と、間隔が広く空いているような感じがした。 まずは出店を通り抜けて、神社の境内に入り、賽銭箱のところまで行ってくる。お賽銭を入れて、手を合わせる。 それからおみくじを引く。 仮設のおみくじ売場には、巫女さんのような服装の女の人がいて、他にもお守りなんかも販売している。 大吉から末吉まで、不思議と記憶では凶を引いたことがないのだけれど、それはもしかしたら記憶を改竄してしまっているのかもしれない。それからおみくじを近くの木の枝やぴんと張られた紐にくくりつけて、いよいよ出店めぐりをはじめるのだ。
子供の頃は、お祭り=出店だった。 実際、当時の僕の目には、出店で売られているものはほとんどすべてが魅力的に映った。 金魚すくいにヨーヨー、ファミコンやプラモデルなどのたくさんのくじ引きに、スマートボール、それからチョコバナナにフラッペ、そしていか焼。 そういうすべてが特別なもので、年に一度だけこの週末のためにわざわざどこからかやってきているのだ。 とりわけ、僕は出店をやっている人たちが全国各地のお祭りをめぐっていると頑なに信じていたから、この出店の人たちは九州も、四国も、それぞれの神社の前で毎週お祭りをやっているんだと思っていた。 もちろん、実際にはそれはたぶん違う。
土曜日の午後バージョンはそれでもいわば下見のようなものだから、まだ特別にもらったおこづかい(そんなに多くはない)もその時点では使わない。いくら特別でもしょせんは小学生の持っているお金なので、いろいろ出店で買物をしたらすぐになくなってしまうから、それを最初のうちに使い切るわけにはいかないのだ。 それから、お祭りを一周してから、一反祖母の家に帰る。 祖母の家の居間にあるテーブルで、今回は何をしようかって、いま見てきたばかりの出店を思い出しながら紙に書いてシュミレーションをしたりした。妹とあーだこーだ他愛もないことを喋ったりする。あのくじは外せないねとか。普段は結構喧嘩とかもしているのに、お祭りの時には仲がよくなるのだ。2人とも単純だから。
そして、僕らはメインでもある土曜日の夜バージョンを待つ。 やっぱり祖母が腕によりをふるってくれた夕食を食べると(そこでもお腹いっぱい食べてお祭りでも食べ物を買うのだから、まったくやれやれだと思う)、いよいよ出発だ。そのときには母親や叔母たちも祖母の家にやってきていたりするので、誰と行くのかは毎年異なっている。
夜のお祭りって、どうしてあんなに心震えるのだろうと思う。 もちろん、それはまだ子供だったからということはできる。子供の頃って、そういうのが本当にどうしようもないくらいに、身体の芯から「うおーっ」って叫びだしたくなるくらいに嬉しかったのは事実だし。でも、数時間前と同じ道路を歩いて、視界にお祭りのエリアが見えたときの感動は、やっぱりなかなかに大きなものだったのだ。毎年、かならず。 僕らは今度は長い道のりの果てに町を見つけたキャラバンのように、嬉々としてお祭りのエリアに入る。 そこでは、日常は遠ざかり、赤とオレンジと黄色の暖色が周囲を淡く激しく照り染上げている。祭囃子がどこからか聴こえ、たくさんの笑い声とときたまの叫び声。とても日中と同じ場所とは思えないくらいに雰囲気が変わっている。 浴衣姿の女の子に、地元の同じ年くらいの男の子たちのグループ。年配の人たちから、赤ん坊まで。 たくさんの人で、狭い路地はぎゅうぎゅうになっていた。 僕はそこは地元ではなかったから、知り合いはいなかった。 それでも、親しいいつものお祭りだった。 僕は大体おこづかいの半分くらいを、毎年その夜に使った。 くじ引きをやって(いい商品が当たったことって一度もない)、わたあめを食べて、スマートボールをやった。 ヨーヨーをすくって、金魚もすくった。 3度ほど、ボヨンボヨンってやっているうちにヨーヨーが手元のゴムから外れて、そのままアスファルトに撃沈したことがある。 「ええっ!?」って、毎回驚いた。そんなに強くやっていたのかい……って。 金魚すくいは、巾着のような透明なビニールが好きだった。金魚にとって見れば踏んだり蹴ったりだろうけど、あの口の部分がきゅっとしめられた透明なビニールの中に金魚が一匹入っていて、そのビニールの中の水ごと淡く明かりに照らされているのを見たりすると、お祭り感が(個人的には)かなり高まった。 わたあめは中に入っているのは全部同じ味なのに、袋に描かれている絵に真剣に悩むのだ。別に袋をとっておくわけでもないのに。 ガンダムじゃなきゃだめだとか。
そして1時間から2時間弱で、引率の大人が疲れてくるので帰ることになる。 そのときは何度も後ろ髪を引かれた。 何度も何度も振り返っては、明るい場所が遠ざかっていくのを見ていた。 それでも、手元にある戦利品の数々(よく考えるとたいしたものはないのだけれど)を見ると、どうにも嬉しさがこみ上げてくるのだった。
祖母の家に戻ってからは、その日手に入れた物で遊んだり、金魚を玄関にある丸い水槽に入れたりした。 興奮はなかなか冷めやらなかった。 そしていつもはしゃぎすぎたのか、結構早い時間に眠ってしまった。
翌日の日曜日には、2度ほどお祭りに行った。そして週末が終わるのだった。 祖母の家から帰るときには、来年まであと1年もあるのかって毎年思った。 1年後は、当時の僕にとってはあまりにも遠い未来のように感じられた。
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中学生になってからは、その町が僕らの住んでいる場所から1時間くらいで行くことができるところだったこともあって、友人たちと出かけるようになっていた。友人は夕方に列車で帰っていくのだけれど、僕はそのまま祖母の家に行った。夜になると、今度は祖母たちとでかけた。 あんまりにも興がのった年には、友人は日曜日にもまた列車に乗ってやってきたりした。ある年の友人は、自転車でやってきた。あらためて考えるとすごい。たぶん2時間以上かかったはずだ。 その町のお祭りは当時なぜか僕らの地元のそれうよりも規模が大きかったから(町としては小さいのに)、友人にとっても面白かったのかもしれない。 ある年には針金細工の輪ゴム鉄砲の出店のお兄ちゃんと仲良くなって、店番をまかせてもらったりした。 友人と一緒に格好いい輪ゴム鉄砲を買ってうかれていたことをよく覚えている(それはかなり手の込んだ代物だった。けれども、その輪ゴム鉄砲の出店は、その年1年しか訪れなかった。翌年姿が見えなくて、がっかりした記憶がある)。
高校生になってからは、また別の仲の良い友人と出かけた。 よく考えると、高校生になってからも行っていたのなんて、本当に個人的にお祭りが好きだったのだと、刷り込まれてしまっていたのだなと思う。 高校生の時には、なぜか同じ高校の女の子2人もそのお祭りに来ていて、そこでばったりあって、一緒に見て回ったりした。 4人でお祭りの写真も撮ったのだけれど(なぜか)、いつの間にかそれもどこかへなくなってしまった。
お祭りのことを思い出すと、たぶんいま思い返すよりももっとずっと興奮していただろう当時の自分のことを考えてしまう。 年齢と共に、お祭りに対する情熱のようなものは、ゆっくりと(でも確実に)形を変えてしまった。 いまでももちろんお祭りを見ると、心のどこかが騒ぐ。 けれども、それはどこか感傷的な意味合いを持っているのだ。 かりに楽しむことができたとしても(もちろん楽しむことはできる)、それは当時の爆発的なそれとはたぶん異なってしまっている。 もちろん、そんなことは当たり前のことかもしれない。 たとえば感受性のようなものは、年齢を重ねる度に、あるいは精神的に影響度の高い出来事を経るたびに、少しずつ磨耗していく。 そうしなければあまりにも傷ついてしまうから。それは人間の自衛手段のひとつだと思うし。 でも、ときどき思う。 忘れてしまうことのなかに、あるいは忘れてしまいつつあるもののなかに、もしかしたらこれからの自分の人生にとって非常に大切なものが含まれているんじゃないかって。 子供の心を失わないとかそういう意味ではなくて、楽しいことや悲しいことをそのままの重さで感じることができたことを、頭で考えるよりも早く感情で受け取っていたようなことを忘れないことは、むしろこれからの30代や40代に根本的に必要なものなのかもしれないと思うのだ。 うまく言えない。 いつまでも子供のままでいるのはずるいと思うけれど(大人が子供のままなら本当の子供が不幸になってしまうと思うし)、感情はもっとずっとシンプルであるべきだっていうことは、忘れないようにしようとは思う。 それこそ、昔お祭りを心待ちにしていたようなときの気持ちを。
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お知らせ
お祭りによくあるカタヌキって、一度も最後まで成功したことがない。 悔しくて失敗したやつを食べても、おいしくないし。
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