Sun Set Days
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2001年12月19日(水) 世界の果て

 地球は丸いわけだから、厳密な意味で言えば世界の果ては存在しないということになる。
 たとえば、途方もないくらいの燃料を積んだ飛行機で地球をある方向に向かって進んだとしたら、いつか同じ場所に戻ってくるわけだし。

 それでも、「世界の果て」について、誰もがある種のイメージを持っているように思う。
 僕も個人的に、世界の果てについてのいくつかのイメージを持っているし。

 たとえばそこは明るい日差しに包まれているような場所なのだろうかとか、
 荒涼とした冷たい風の吹きすさぶ場所なのだろうかとか、
 そういうことをたまに考えたりもする。

 いまのTop写真を撮った場所も、偶然から見つけた個人的な「世界の果て」のひとつだ。
 デジタルカメラの小さな四角の中と、実際に目の前に広がっている同じ光景を見ながら、こういう光景が世界の果てなのかもしれないって思っていたことをいまでもよく覚えている。
 実際には、写真の右の方には、海を挟んで小さな島が見えていたから、そこが果てというわけではなくてさらに先はあったのだけれど。
 それでも、その風がやけに強かった午後、その砂浜は世界の果てのように見えた。

 その砂浜に着いたとき、車を停める場所がなくて、砂浜に下りるための坂道の脇に車を停めてもらった。
 なだらかな坂道の行き着いたところ――砂浜の入り口――には自動販売機があって、ただそれは壊れていてもう使うことのできないものだった。
 喉が渇いていたのに、小銭まで用意したのに、まるでその自動販売機は一生を俗世間から離れて生きた芸術家の作り出した奇怪なオブジェのように、ただ砂嵐のような風に吹かれていた。あるいは、すでに動けなくなってしまったおじいさんのようでもあった。このまま何年かしたら、完全に砂にまみれて埋もれてしまうのかもしれないって思えた。
 
 砂浜に降りると、砂はどこまでも白く、海は随分と透明だった。
 僕は手にしていたデジタルカメラで何枚も写真を撮っていたから、一緒にいた人はもしかしたら呆れていたのかもしれない。

 砂浜って、不思議なところだ。
 足跡が緩やかに残るのに、しばらくするとその足跡は風でかき消されてしまう。
 それは何もかも受け入れているようにも見えるし、何もかも拒絶しているようにも見える。
 そしてどう見られようときっと構わないのだという感じがする。
 繰り返し寄せては返す波。
 砂の混じった風に時折目をつむりながら、いつか死ぬときにはこういう場所でむかえたいよなと、なんとなく思う。
 そして死ぬ前だなんて縁起でもないかなと慌てて打ち消す。
 でも一度抱いてしまったそういう一瞬のイメージは、いつまでも長く残る。
 それはたぶんどうしようもない。

 写真を撮り終わった後一度海に近づいて、片手を入れてみた。
 冷たいような生ぬるいような。
 ふと顔をあげると、不穏な感じのする雲は、随分と重く低く垂れ込めていた。

 数十分後にその小さな島を離れた後には(大きな橋を渡ると島から出ることができた)、ちゃんとコンビニでジュースを買った。
 喉の渇きは癒さなくてはいけないし、休日が終わったら働かなくてはいけない(その日は休日だった。翌日には仕事が待っていた)。

 それでも、車がその長い橋を渡っている間、助手席の窓から遠ざかる島を見つめながら、ほんの少しだけ、あのままあの場所に、世界の果てのようなあの場所に、ずっといることができたらと思っていた。

 毎日、砂浜に小さな椅子を置いて、ぼんやりと向こう側の小さな島を見つめながら暮らすのだ。
 一瞬、そういう毎日を想像してしまった。
 写真を撮ってもいいし、絵を描いてもいい。
 長い長い物語を綴ってもいい。

 あの場所で暮らすこと。
 冷たい風と、流れる砂と、繰り返す波と一緒に人生を送ること。
 叶わない憧れはときに随分と甘く、手に入らないものはそれだけに魅力的に映る。

 まあ、でも、と思う。
 僕は自分が選んでいる場所で、自分が選んだように生きているわけだし、それはそれでやっぱり魅力的だ。
 自分のいる場所から逃れたいと思っている人は不幸だというようなことを、クンデラもどこかで書いていたし。

 ……もちろん、これはただの言葉かもしれないけれど、「逃れる」ことと「歩き出す」こととは同じ場所から離れることでも、随分と意味合いが違う。
 同じことを示すためにも、何種類もの言葉があるのってまっとうなことだと、よく思う。
 自分が選んだ場所にいて、そこからさらに選んだ場所に向かって歩き出すことができるのがいい。

 そういうふうにしていくのがいい。


―――――――――

 あの砂浜の入り口にあった自動販売機は、いまこの時間も冷たい夜風に吹かれているのだろうか?
 朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、ずっと同じ場所でただ砂を浴び続けているのだろうか?
 壊れてしまった自動販売機には、風の音は、異国の言葉のように響くのだろうか?

 僕はよく物を擬人化する。
 すべてのものの中に霊が宿るということを素直に信じているわけではないけれど、それがありえないことだとは思えないのだ。
 だったら、と思う。

 あの、おじいさんのような自動販売機が、ある日突然、ブルンって音とともにふたたび動き出すこともあるのかもしれない。むしろそういう瞬間があって欲しい。
 あかるくて乾いた午後の奇跡が起こってほしい。
 でも僕が訪れたときには、その自動販売機はまだただの役目を終えた箱のように見えるだけだった。
 その瞬間を迎えるためには、まだ随分と長い――永遠とも見まがうような――時間が必要なのかもしれない。

 もしそこがほんとうに世界の果てなら、そんな不思議なことが起こっても、決しておかしなことではないのだ。


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