Sun Set Days
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| 2002年01月24日(木) |
やわらかい半透明の線をたどって |
今日は渋谷で5人で飲み(と言っても、僕はノンアルコールしか飲まなかったのだけれど)。 帰りの東急線ではやっぱりころされるくらいのぎゅうぎゅう詰めのなかに放り込まれたのだけれど(つーぶーさーれーるー)、車内換気のために誰かがちょっとだけ開けてくれた窓からの風が唯一のオアシスのようだったよ。
ハチ公口の駅の壁や入り口の脇には、いつも待ち合わせ風の人たちがものすごい数いるのだけれど、あれだけの人が誰かと約束をしているのだと思うとちょっとすごいよなあとため息をついてしまう。 そしてその光景を見ていて思ったのは、もし誰かと約束を交わしたら、その言葉が終わった刹那自分とその相手との間にうっすらと青や赤の半透明の線が伸びはじめるとしたら、世界は数え切れないほどのたくさんの線で結ばれるのだろうなということ。 その線は、まるで寄り添う影のように約束が果たされるまでお互いがどこにいても続いてるのだ。ちゃんと相手まで続いているので、たどっていけばたどり着くこともできる。 そして約束が果たされるたびに、その線は微細な粒子となってはじけてかき消える。 続いている線はきっとか細かったり太かったりして、ほとんど目には見えなくて、たとえば月の光に照らされたときにだけ淡く輝いて浮かび上がると想像してみる。
だから、人は、月夜の晩には自分からたくさんの方向に無数に伸びている様々な色の半透明の線を見やりながら、自分がいかにたくさんの「約束」によって生かされているのかを理解するようになるのかもしれない。 長い夜をかけて、こっちの線はあの人との、あっちの線はあの人との約束だって、繰り返し確認するのだ。 そして、もし本当にそういう線が存在していているのなら、深く愛し合った恋人同士は、たくさんの「約束」を交わし続けることだろう。 そうすることによって、自分が相手と離れていても繋がっていると感じることができるだろうから。 夜にある方向に向かって伸びている何本もの線を見るときに、自分の愛する人がどの方向にいるのかを確かめることが出来るわけだし、その線をたどっていけば会うこともできるわけだし。
けれども、もしかしたらそう簡単にはいかないかもしれない。 たくさんの線はときに人にやわらかく巻きつき、その歩みを遅くする。 数え切れないほどの「約束」が自分たちを縛りつけ、会うことを妨げる。 そういう可能性もないとは言い切れないし。 「約束」はある種の「契約」でもあるわけで、それを果たすのは簡単なようで簡単じゃないことも多いのだし。
いずれにしても、そういう想像をして、あらためてハチ公前のたくさんの待ち合わせ風の人たちを見て、彼や彼女たちの足元から、青や赤や黄色や緑の、半透明の線が伸びているのをイメージしてみる。たくさんの線はハチ公前のスクランブル交差点も超えて、複雑に絡み合い交差し合い、もつれ合って淡い月の光に照らされて、けばけばしいネオンによって隠されている。
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お知らせ
今日のDaysの文章を書き終わった後、Coccoの『焼け野が原』のビデオクリップを思い出しました。なぜか。
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