Sun Set Days
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| 2002年03月09日(土) |
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』+『ロード・オブ・ザ・リング』 |
今日のDaysは、昨日書いたものと、今日書いたものを合わせて。
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つい5分ほど前に、昨日のDaysで書いたように、江國香織の最新刊『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』を読み終えた。 ということで、いまこの文章は新幹線の座席から書いている。今日はひかりかこだまの自由席ならいつでも乗ることができる切符をもって、いつものように新横浜から新幹線に乗り込んだ。 僕は煙草を吸わないので、禁煙車両の2号車に乗り込む。駅に着いたときに一番早くやってくる電車がこだまで、ひかりかこだまかと言われたらもちろんひかりのほうがよかったのだけれど(ひかりのほうが停車駅がすくない)、それでもこだまに乗り込んだ。各駅停車のこだまに。
最初の車内販売でホットコーヒーを買って(300円)、本のページをめくるたびに、ときどき本から顔を上げて窓の外を見るたびに、どうしてかのぞみやひかりに乗っているときとは違った景色が広がっている、あるいは続いているように見えてしまって不思議な感じがしていた。 ただ、のぞみもこだまも同じ線路の上を走っているはずなので、これは乗り込んでいる自分の心持なのだろうなと思う。各駅に停まる分、景色がより記憶に定着するような形で目に入るような気がするのだ。どうしてか。
あるいは、不思議な気がするのは、昼過ぎまでいつもの仕事場で仕事をしていて、午後早くの新幹線に乗ったせいかもしれないとも思う。普段は、ほとんど始発に近い朝か、あるいは終電に近い夜にばかり新幹線に乗っているので、午後の景色が新鮮に見えるのだ。 窓の外は本当によく晴れていて、緑は冬の終わりであるにも関わらず乾いた感じに色濃く、掛川の手前くらいの段々畑には、雲の影が落ちているのが見えている。 本当に空が高い。 雲ひとつない、というわけではないけれど、それでもほとんど雲がない。 こういうときには、誰でもそうだろうけれど、やっぱり途中の駅で新幹線を降りてしまって、駅前をぶらぶらとただ歩きたくなる。しかも、さっきからキーボードを打ちながら、窓の外をちらちらと見ているのだけれど、いかにも気持ちのよい散歩ができそうな道路が、あるいは町が「気持ちいいよ。散歩にぴったりだよ」って誘いかけてくるような感じなのだ。そういう町並みがたくさん見えるのだ。 窓の外に広がるそれらの町は、そこが見知らぬ町であるということだけでも十分魅力的なのに(よく知らない、っていうことはその場所の魅力を高めるものだし)、3月初旬の快晴の空の下ではなおさら魅力的に見える。そして、いま、新幹線は掛川を出たばかり。窓の外には乾いた水田が広がっている。幾つかの建設途中のマンションや、道路の拡張工事のためのトラックの姿も見える。 比較的真新しい住宅が続いている。そしておそらくは高速道路なのだろう、遠くに高架も見えている。
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『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』は、江國香織初の書き下ろしの短編集ということなのだけれど、そこには本当に短い話が、全部で10編収められている。 個人的に好きなのは『動物園』と『サマーブランケット』と表題作でもある『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』の3編。これは、僕が個人的にいつも信じている「30%」説に照らし合わせると、よい短編集、あるいはお気に入りになる可能性の高い短編集ということになる。
(いま、浜松駅に到着)
「30%」説というのは、主にCDアルバムに用いているのだけれど、たとえばそれが全10曲収録されているアルバムだったとしたら、3曲好きな曲があれば、そのアルバムは何度も聴き返してしまうような、お気に入りになりえるということだ。いままで、何枚かのアルバムを買ってきたのだけれど、個人的にはだいたいこの「30%」説が当てはまっている。世の中には1曲しか好きな曲がないというアルバムも意外と多かったりもするのだけれど、そういうときにはその1曲だけをMDに録音したりするのでアルバム自体はそれほど何度も聴き返さないことになる。けれども、1枚のアルバムのなかに3曲好きな曲があると、アルバム自体を繰り返し聴くようになるのだ。
もちろん、それはごくごく個人的な考えでしかないのだけれど、そういう意味で言えば、今回の短編集はよかったのかもしれない。
特に、『動物園』がよかった。これはおそらくは複雑な理由のために一緒に暮らしていない親子(父親が別に暮らしていて、母親と息子が一緒に暮らしている)が雨の動物園を見て回るというだけの話なのだけれど、雨の動物園のつめたい空気や、あるいは樹(いつき)という名前の子供の言葉やしぐさ、そういうものが世界のありようをちょうどよいピントで映し出しているような気がする。 好きなのは、たとえばこういうところ、
空はどんよりと重たく、ちゃかちゃかした店先のすべてが濡れていて、灰色とうす茶色の混ざったような町の空気は、じんと寂しい匂いがした。 「寒いね」 私の言葉は半ばひとりごとのようなものだったのに、樹は律儀に顔を上げ、私の表情を確かめるみたいに、 「寒いねえ」 と答えた。(121ページ)
動物園に向かうゆるい坂をのぼりながら、他の子供を見ると樹が緊張するのがわかった。私の指を握る手に力がこもり、わずかに唇をひらいて、他の子供をじっと見るのだ。幼稚園に通わせていないせいかもしれない。 動物園は可笑しいほどすいていた。閑散というより荒涼としている。 「どうする? 最初にしまうまを見る? それとも順路どおりにいってみる?」 樹は真面目な顔で考え、 「順路どおりに見る」 と、こたえた。(122ページ)
聖はすぐここに来ると言った。ここで待ち合わせよう、と。一時間半後にしまうまの檻の前で、と言ったら横から樹が、白熊の前の方がいいよ、と、言った。どうしてだかわからない。でもともかくそういうことにした。一時間半後に白熊の檻の前で。(127ページ)
「パパ、新幹線見たい?」 ナマケモノの檻の前で、うしろを振り向いて樹がふいに言った。 「新幹線?」 夫は訊き返し、樹は迷彩柄のリュックサックから、新幹線の玩具をだしてみせた。 誰も何も言わなかった。動物園に来るのになぜ新幹線を持ってきているのかはまともな人間にはわかりようがないし、いきなりそんなものを見せられても、意見の言いようがないのだ、勿論。(130-131ページ)
(豊橋に到着。ホームの向こう側の小さなビルの上に、やけに大きなデジタル時計がのっかっているのが見えています)
江國香織はいくつかのことについてとびきり上手いと思うのだけれど、子供について書くこともそのとくに上手いところのひとつだと思う。 けれども、たとえば『ホリー・ガーデン』や『なつのひかり』などの頃と比べると、最近の小説ではディテールの描き方が少なくなってきているような気がする。それはもちろん悪いという意味ではなくて、文章がどんどん簡潔になっていくのは間にあるたくみな比喩や表現が際立って見えたりするのでいいとは思うのだけれど、個人的にはそれでもディテールを書き込んでいた頃の方も捨てがたいよなと思う。好きな作家の新刊って、本当にいつも開く前に期待と不安がマーブル模様のように広がってしまっておかしい。同時代の作家だけあって、変わり続けていくところを見ていくことができるのだけれど、その変わり様に一喜一憂してしまうのだ。一方的に。 やれやれ。
そして、あとがきの最初にはこう書かれている。
短編小説を書きたい、と思い立ちました。いろんな生活、いろんな人生、いろんな人々。とりどりで、不可解で。
短編小説って、確かにおもしろいよなと思う。そしてそれらが一冊にまとまった短編集は、1冊の本のなかに、様々な生活が広がっているわけだし。
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ここからは、大阪のビジネスホテルの部屋で書いている。今日の夜は、この1週間ほど大阪に入っているメンバーと打ち合わせをしていた。 21時からついさっき、0時過ぎまで。 明日にはまた新横浜まで帰るのだけれど、電話やメールでは望んでいるようにできないコミュニケーションは確かにあるよなと思う。
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ここからは、9日の帰りの新幹線で書いている。いまはお昼。 昨夜は、上の部分を書いていたら、そのまま眠ってしまった。
今日は休日で、移動日でもある。 せっかくの休日だということで、ホテルを早く出て、大阪で『ロード・オブ・ザ・リング』を観てから帰ることにした。新横浜に帰ってから映画を観に行くと、お昼過ぎになってしまうのでものすごく混んでいるのじゃないかと思ったのだ。 それで、前日の夜にコンビニで関西版のぴあをチェックして、梅田駅近くで『ロード・オブ・ザ・リング』を上映している映画館を調べておいたのだ。 梅田ピカデリー。 東梅田駅に近い松竹ビルの10階。 しかし、そんな目論見を持っていたのだけれど、午前9時からの回を観るつもりで、8時45分にそのビルに着いたときには、すでにチケット売り場で係員が立ち見であることを叫んでいた。 一瞬、かなり考えたのだけれど、結局そのまま立ち見で観て行くことにした。ぜひ観たい映画だったし、重い荷物をコインロッカーに預けてきたのだ。それを考えると、ここで帰るともったいないよなあと思って。それに、帰りに新幹線で座ることができるわけだし。 それで、結局立ち見。後ろの柵にもたれかかかって、映画がはじまるのを待った。
映画は面白かった。というか、美しかった。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーで育った世代でもあるので、リアルに描かれたファンタジーの世界には目を奪われてしまった。緑の草原も、鬱蒼とした深い森も、切り立った渓谷も、すべてがある種の想像力を刺激するものばかりで、そういう光景の中を旅するホビットたちに思わず見惚れてしまう。 また、戦いのシーンでも、モンスターの動きがリアルで、魔法使いの魔法や、オーガの動きはあんな感じなのだ、と思えるのは新鮮なことだった。
映画は最初から3部作ということがわかっていたので、ある意味唐突なエンディングにも納得がいったのだけれど、面白かったのは、映画が終了するや否や、周囲の人たちの数人が「もう終わりなん?」というようなことを言い始めたこと。結構館内がざわついていた。 これは、もう最初から3部作全部観る気でいないと、拍子抜けするかも。 ただ、次から次へと訪れるピンチの連続に、本当にロールプレイングゲームのような雰囲気を感じてみたり。 もちろん、この作品がすべてのロールプレイングゲームの元祖なのだろうけど。
そして、技術の進歩はこれからも、映像化が無理だというような世界を、形にしていくのだろうなと思った。 そういった技術がないときにも、たとえばトールキン(原作者)の頭の中には、ああいう(あるいはあれ以上の)世界が広がっていたと思うと人の想像力に感服してしまうのだけれど。
3時間と長い映画だけれど、立ち見をしていても全然疲れないくらい引き込まれてしまった。
帰りの新幹線の中で、行きと同じ方向の窓側の席に座っているので、昨日見た幾つかの景色を再び見ることができている。見覚えのあるビルや、見覚えのあるような看板、そういったものをどんどん通り越していくのはおもしろいと思う。
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お知らせ
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』って、よいタイトルだと思います。
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