Sun Set Days
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中学生の頃、毎年恒例だった家族での夏休みのキャンプのときに、ある海辺の町の砂浜にテントを張ったことがある。 日本海側にいくつもあるような小さな海水浴場で、それでも意外と多くのテントが張られていた。 海の家があって、砂浜のすぐ先は海岸道路になっていた。 その日はよく晴れた日で、午後に砂浜に到着してテントを張ってから、僕は泳いだり、少し離れたところで父親が釣りをしているのを見ていたりした。そして、途中で退屈になってしまったのか散歩をすることにした。 小さなコンクリートの階段を登って、海岸道路をまっすぐに歩いた。 くたびれて一部が錆び付いてひしゃげたガードレールがあって、困ったように傾いたバス停があって、比較的新しい小ぢんまりとしたホテルがあった。 ガードレールの内側の歩道は細くて、アスファルトは薄い灰色をしていた。ひどく暑くて、そのアスファルトが熱を持っていることがわかる。そんな午後だ。
歴史のありそうな蕎麦屋があって、けれどもそこは休日だった。 駄菓子屋があって、店先では水中眼鏡や浮き輪が売られていた。 結構歩いた後で振り返ってみると、基本的にはまっすぐな道路がずっと続いているのが見えていた。 信号の青が太陽の光のせいで薄く淡く点灯しているのが見えている。
自分の普段いる場所から遠く離れた場所に行くことができるという意味で、はじめて見る場所を訪れることができるという意味で、旅はきっと必要なものだと思う。 そして以前にも書いたことがあるけれど、それぞれの場所にいったときに、ときどきというか結構しばしば、僕は自分がもしその町で育ったとしたらどうだったのだろうと思う。 僕は実際には札幌で生まれて基本的には札幌で子供時代を過ごして、おかしくもそれなりに充実した時間を経てきている。 けれど、だからこそ違う場所だったら、どういうふうになっていたのだろうと思うのは面白かったりする。 別に深く考えるわけではなくて、旅先の小さな町の歩道のうえを、自転車で走り抜けていくような映像を想像するようなものなのだけれど。
あるいは、好きで小説を書くとき、僕が想像するのはこれまで訪れてきたたくさんの場所の光景であったり、そういういくつかの光景が記憶の中で混ざり合ったような想像の光景であったりする。 そして、登場人物たちがその光景の中にいる映像のようなものを自分の中に思い浮かべてみる。 すると、まるでビデオカメラのPLAYボタンを押したときのように、その人物たちが動き出すのだ。 僕はそれをまるで映画館の座席に座っているように、遠くから、ある場合には俯瞰的な場所から眺めている。 ときどき、その距離は遠く声や動きがよくわからなくなるときがあり、ときには、随分と近づくことができて、言葉や仕草が鮮明にわかるようなときがある。
それなので、小さかった頃からいくつもの場所を見てきたこと、自分の中に光景のストックがされていっていることはただ単純によかったと思う。 もちろん、そのほとんどすべての光景のことは普段は思い出すこともしない。 けれども、それはどこかへ消えてしまったわけではないので、思い出そうとしてみることで、それらの光景を再びたどることができるのだ。
それはたとえば、中学生だった頃のキャンプのときに一度だけ訪れたことのある町であったり、あるいは転勤をしていく中で短い期間ではあっても暮らした場所かもしれない(転勤も、見方によっては長い旅のようなものだ)。 いずれにしても、ほとんどの場合ある種の記憶と分かち難く結びついた風景があって、それが記憶の検索をしてみることで、自分の中の忘れていたような場所から発掘されたりする。 14歳のときの夏、19歳のときの冬、たとえばそういうふうにノートに書いて、その年の出来事を書いてみてもいいかもしれない。 そうしたら、それに付随して幾つかの記憶と、風景がきっと蘇ってくる。
そして、そういう光景がたくさんあることで、たくさんの場所でPLAYのボタンを、押すことができるようになるかもしれない。
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お知らせ
21時過ぎに仕事が終わり、夕食としてお好み焼きを食べに行きました。 おいしかったです。
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