Sun Set Days
DiaryINDEX|past|will
| 2003年12月15日(月) |
『号泣する準備はできていた』+精神的な雨漏り |
『号泣する準備はできていた』読了。江國香織。新潮社。 発売した頃にAmazon.co.jpで購入して手元にはあったのだけれど、なかなか読むことができずにようやく今日手にとることができた。 リアルタイムで新作を読むことができる作家の場合、その作家の変化と読者である自分の変化のことを考えるとときどき哀しくなってしまう。ある作家が好きになりファンになるということは、どこか友情や愛情に似ているようなところがある。その作家の作る世界や視点に共感を持ったり、心奮わせられたり、あるいはものすごく愛おしく感じたりするのだ。そして、友情も愛情も永遠ではないので、いつか気がつくと軌道を外れた人工衛星みたいに随分と遠いところまで離れていってしまう。それは作家の方が変化したからなのか、読者の方が変わってしまったからなのかはよくわからない。たぶんそのどちらでもあるのだと思う。 江國香織は大好きな作家の一人だ。2冊目に読んだ『ホリー・ガーデン』にノックアウトされて以来、もう随分と長い間読み続けている。もちろんすべての作品が好きなわけではないけれど、いつもうまいなあと思うし、いくつかの作品にはかなりやられてしまった。
けれども、ここ数年の作品を読んでいると、昔ほどシンクロできないような気がする。やっぱり相変わらずおもしろく読むことは出来るのだけれど、それでもどこか別の部屋で行われていること、というような印象を抱いてしまう。 それは、描かれている人物たちの年齢層がずれてしまってきているからなのかもしれない。性別によるものなのかもしれない。あるいは、以前よりも少しずつ増えてきているブルジョア的な環境設定になじめないところがあるからなのかもしれない。あるいは、登場人物たちがナイーブな感受性の強い時期を通り抜けて、より強くタフになっているからなのかもしれない。 いずれにしても、どこか別の部屋で行われている興味深いけれど、それほど感情移入することができない世界というような感覚がどこかにあるのだ。そんなのはただ単純に僕が年をとっただけなのかもしれないけれど。
もちろん、感情移入できることがすばらしい物語に必要な条件というわけではないし、実際にこの短編集も魅力的なものだと思う。相変わらず文章はうまいし印象的な比喩が用いられているし、鮮明なイメージが浮かぶような細部の表現があるし、登場人物たちは満たされていながらもどこかに損なわれている部分があるし。ただ、リアルタイムで新作を読み続けていくことのできる作家の場合には、自分の中の温度のようなものが変化していくことも当たり前のこととして受け入れていかなければならないということはやっぱり少しだけ哀しく思える。 けれども、この短編集の中でも恋愛感情がなくなってしまった登場人物たちが繰り返し描かれているように、作家と読者の関係にもそのような部分は多かれ少なかれあるのだ。あるいは、段々と疎遠になってしまった友人とでもいうような。
ただ、以前とは異なる心持ちであったとしても、かつては本当に心の底から熱中し、感情を揺り動かされていたのだ。それはとても素晴らしいことで、いまでも一過性のものだけではない影響を残している、本当に得難いことだったと思う。軌道が一度でも重なり合ったということは、まるで奇跡のように素晴らしいことだったのだとも思うのだ。 また、作家の中には、いつまでも友情関係が継続するような場合も、一度だけで疎遠になってしまうケースもあって、そういうのもまた現実だしおもしろいことなのだろうなと思う。
ちなみに、この短編集で個人的によかったのは、強くこれというものはなかったのだけれど、『こまつま』と『熱帯夜』。
―――――――――
この本の中に雨漏りが出てくる部分があるのだけれど、それを読んでいたときにそうか、雨漏りかと思った。 最近は、精神的な雨漏りのような状態だったのかもしれないなと。そして、そのページはバスの中で読んでいたのだけれど、ページを手繰る手をとめて、しばらく精神的な雨漏りについて考えていた。
天井から水が漏れて、雨漏りとして床に落ちる。被害を防ぐために下にボウルや洗面器などを置く。それで一時的にしのぐことはできる。けれども、抜本的な解決にはならない。抜本的な解決のためには、業者を呼んで、ちゃんと修理しないとならない。雨漏りのよいところは、問題となっている箇所がわかっていることだ。どの部分を修理すればいいのかは(少なくとも表面上は)わかる。天井裏にのぼってみたらもうとんでもないことになっていることが明らかになるかもしれないけれど、そのときはもっと全面的かつ徹底的に修理すればいい。
忙しさや(まあもちろん、ものすごく忙しいというわけでは全然ないのだけれど)、他にもいろいろなことが重なって、この一年くらいなんとなく余裕がなくなっていたように思う。もちろん、日々は楽しく暮らしているし、それなりに穏やかでそれなりに慌しい。それでも、うまく消化できない部分が少しずつ精神的な天井裏に蓄積して、積もっていたように思う。そして、目に見えない部分では押さえきれなくなったところから、水はちょっとずつそれこそ雨漏りのような形で床を濡らし始めてきたのだ。もちろん、すぐに応急処置をする。元来、応急処置的なことは得意なわけだし。けれども、ある日気がつくと精神的な部屋の床中に様々な形をした入れ物がたくさんの雨漏りを受けて水を貯めていることに気がついてしまったとしたらどうだろう。そして、その状況(つまりは、床に雨漏りを受けるボウルが常にあるということ)を当たり前のものとして感じているようになっていたとしたら、それはもうやっぱり重症だと言わざるを得ない。
もちろん、他人が絡むことにはどうしようもないこともあるけれど、こと自分自身だけに関係することであるなら、どんなにひどい状態になってしまったとしても、修理することはできる。それこそ、精神的な修理工を呼んで、精神的な大工事を敢行して、どうにかしてしまうことができるだろう。もちろん一度にはできなくても、何回かに分けて修繕修復をすればいい。大丈夫だと、根拠もなく思うこともできる。
けれども、しばらくの間、精神的な雨漏りの状態のままで、応急処置だけでやり過ごしていたのだなと思うと、なんだか情けないような、まだまだダメだなあと痛感してしまう。もちろんまだまだ精神的には子供だけれど、もうそんなことを言っていられる年でもないのだ。年相応という言葉が実は抽象的なものなのだということには以前から気がついていたけれど、それでもイメージに近いところにまではもっていかないとならない。
―――――――――
今日は休日で、久しぶりにゆっくりと眠った。 起きてから、洗濯機を回しながら、後輩のレポートの添削(追加分)をして、会社に顔を出してそれを届けてくる。 それから、電車に乗って桜木町に行き、ワールドポーターズやクィーンズイーストで買い物をする。一風堂でラーメンも食べる。 マフラーを買った。グレーと濃いグリーンの混ざったような色のやつ。 バスや電車の中、そして帰ってきてからの部屋の中で『号泣する準備はできていた』を読む。 部屋の中で音楽を聴きながら紅茶を飲みながらDaysを書く。
今日外を歩きながら、今年ももうあと半月なのだなと思っていた。風はつめたくて、歩いていると随分と身体が冷えてしまった。 いまの部屋に引っ越してきて1年が過ぎて、一通り季節が過ぎたのだと思うとなんだか不思議な気がした。けれども、ちゃんと一年分の季節の記憶があって、春や夏や秋のことも思い出すことができる。どの季節もなんだかんだいって好きなのだけれど、それでも冬がくると冬が好きなのだと思う。それはとても都合がよいことだけれど、目の前の季節を好きだと感じられることは、悪くないことだとも思う。
―――――――――
お知らせ
帰り道を歩いていると、クリスマスのネオンが明滅している家やマンションの部屋が多いのです。もうじきクリスマスですね。
|