Sun Set Days
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2004年05月27日(木) モノレール

 出張からは、26日の深夜に帰ってきた。羽田空港からモノレールとJRを乗り継いで東京から新幹線に乗り、最寄の駅に着いたのが23時30分頃。それからなんとなく駅周辺を少し歩いて(今後のために、遅くまで開いている店が駅周辺にないかなと探してしまったのだ)、タクシーに乗って部屋に帰った。
 出張では、久しぶりに飛行機に乗った。もちろん、機内誌を持ち帰ってくる。機内誌の記事には結構読み応えのあるものが多く、また綺麗な写真を使っているものが少なくないので、ついつい見入ってしまうのだ。
 また、移動の時間が長かったこともあって本を2冊読み終える。行きは『コーチングの技術』(ヒューマンバリュー著。オーエス出版社)で、帰りが『やがて哀しき外国語』(村上春樹。講談社)だ。行きは個人的に若い社員の「教育」が昨今のテーマだけあって以前読んだ本を引っ張り出して再読してみたもので、帰りは行きで仕事系の本を読んだのだから帰りは楽しみのための読書をしようとこれもまた再読で引っ張り出してきたものを読んだ。後者に関してはこれが3回目の通読で、村上春樹のエッセイは読みやすくその文体やトーンに浸れるだけでやっぱりいいよなあとあらためて思う。


 また、印象に残ったのはモノレールだ。
 行きは昼過ぎまで仕事をして、15時過ぎに会社を出た。そして、夕方の飛行機に乗るために羽田空港に向かった。その途中でモノレールに乗り換えた。窓側の席に座り、本の続きを読んでいる途中にふと顔を上げた刹那、なんだか妙に見入ってしまった。
 そこには、東京の湾岸の下町的な光景が広がっていた。あまり水質が綺麗とは言えない濁った川縁に建つ古い団地に、いくつかの流通センターや工場。汐留付近などとは異なり年数の経ったビルのたくさんの窓と、そこで働く人たち。それらの林立するビルの影から時々見える夕方の東京タワー。気温が高かったこともあって、外の景色はどこか退廃的で、すべてがゆっくりと進行しているように見えた。
 はじめて飛行機に乗って東京に来たときにも、モノレールの窓からの景色は同じようなイメージを与えてきた。その後何度か飛行機に乗る機会が増えた時期にも、やはり同じように感じることがあった。そして、久しぶりにモノレールに乗った今週にもやっぱりそんなふうに思えたのだ。空気がいくつもの分厚い層をなして、それがゆっくりと周囲を覆い尽くしていくような、そんな鈍重な気配がうごめいていくような感覚があった。
 横浜に住んでいたときには京急を使っていたから、モノレールに乗ったのは確かに随分と久しぶりだった。だからこそ、その同じ感覚が新鮮だったし、印象的に感じられたのだと思う。それから本を一度閉じてしばらくの間窓の外を見ていたのだけれど、昔ぼんやりと想像したことのある光景を思い出した。
 それは、川縁にある古いマンションに住んでいる高校生の少女がいて、川と団地の間にあるちょっとした緑地のベンチに座っているというイメージだ。その隣には同じマンションに住んでいる男の幼馴染みが座っていて、いろいろな言葉を交わしているのだというものだ。それこそ【Fragments】の断片のような、ある種の物語の一部を切り取ったようなイメージ。実際にそんな光景を見たことはないのだけれど、それでも窓の外の流れていく小さなベンチに、そういう人たちがいることもあるのではないかと勝手に想像してしまうのだ。
 印象的な光景はきっと人によって違う。ある人にとって胸をつかまれるような象徴的な景色も、他の人にとっては何の感慨も呼び起こさない。そんなことは当たり前のことだ。そんな中で、個人的にはモノレールの窓から見える景色の一部になぜだか妙に心を惹かれてしまう。物語のようなものを紡ぎ出したくなるくらいには、深くてなかなか消えない余韻のような印象を残す。
 そういう景色が自分の中に少しずつたまっていく。すべてをすぐに思い出せるわけではなくて、ふいに思い出されたりするものも少なくないけれど、それでも印象的な風景が少しずつストックされていく。それらが時間をかけて溶け合いながら、まったく別の風景になったり、自分にとっては象徴的な何かを持つ風景になったりするのだ。
 そんな風景が増えていくことが人生のある種の側面を満たしていく。そして個人的には、それは嫌なことでは全然なくて、むしろ風景が蓄積されていくことを求めているような感じさえする。


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 お知らせ

『やがて〜』を読むと、時事的な部分が懐かしく不思議な感じがします。


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