Sun Set Days
DiaryINDEXpastwill


2004年06月24日(木) 『思いわずらうことなく愉しく生きよ』+夏の気配

『思いわずらうことなく愉しく生きよ』読了。江國香織著。光文社。
 光文社の女性ファッション誌「VERY」に約2年に渡って連載されていた長編小説。帯に書かれている文章を引用すると、


 結婚して7年の麻子、結婚はしないけれど同棲中の治子、恋愛なんて信じていない育子。のびやかで凛とした三姉妹の物語。


 となっている。
 姉妹たちや彼女たちの周囲の何人かの人物の視線で語られる三人称の物語で、いままでの作品で言うと『薔薇の木、枇杷の木、檸檬の木』に近い作品だと個人的には思う。登場人物たちの環境であるとか、周辺にある小物であるとか、そういったものが近いような気がするのだ。
 相変わらず文章は読みやすく、今回はある種のストーリー性のようなものもあって、どんどん読み進めることができてしまう。けれど、だからといって登場人物の誰かに感情移入することができるのかというと、これはやっぱり少し難しい感じがする。そんなところも、『薔薇の木〜』に似ているような気がする。
 最近の江國さんの小説を読んでいると、より現実感のようなものに忠実になっているように感じられてしまう。たとえば、初期の作品群に顕著なある種の孤独感を抱えた登場人物たちは、いまでもやっぱり何らかの形で登場してきている。けれども、かつてはよりその人物の方にフォーカスが当てられていたものが、最近ではより社会性の部分にまで明かりが広がっているというか、客観的に語られるようになってきているように思うのだ。
 たとえば、以前なら孤独な時間の中に閉じこもっている登場人物がいて、その心情をめぐる物語に終始していたものが、その登場人物の置かれている立場のようなものにまで言及されるようになったということのような気がする。自分の世界と外界という呼び方をするのなら、外界の側にも重心を預けるようになっているという感じだ。
 そうすることで、人物の置かれている現実が見えるようになって、そこにはある種触れられたくないような部分があったり、現実を人物の主観で歪めてしまっているのだということがわかってしまったりして、読み手のほうはちょっと戸惑ってしまう。けれども、それは決して甘い読後感ではないのだけれど、リアリティのある分――感情移入ができるできないはおいておくとして――読み応えはあると思う。それが好みかどうかはおいておいて。
 もう少し言うと、たとえば少々風変わりな三女の育子は、個性的で魅力的なやさしさについて語られているのだけれど、それと同時に、世間とうまく馴染むことができないでいる部分が客観的に読者には感じられるようになる。この子は本当にいい子だけれど、いわゆる世間では“変わった”人だということがわかるのだ。その部分の見せ方のドライさのようなものが、近年の作品にはより目立って現れてきているという感じがする。作者が主要登場人物たちの誰とも、一定の距離をしっかりと意識的に保っているかのような。近づけすぎもせず、遠ざけるわけでもなく。

 また、男性陣の描かれ方も最近は現実感のようなものに忠実だ。ほとんどすべての男たちが女性たちよりも幼く、愚鈍で、いい加減で、それでも随分と愛しい存在であるように書かれている。そこにもやっぱりある種の一定の距離がちゃんとあって、最近では睦月や中野君や、深町君のように、ある種ファンタジーな側面を持った理想的な男の子たちは登場してこなくなってしまった。それをもちろん成熟と呼ぶことはできるのだけれど、個人的にはちょっと残念な気がする。

 でもまあ、いずれにしても随分と現実的な物語だ。文章は読みやすく、情景は思い浮かび、登場人物たちには等しい距離でまなざしが注がれている。なんだかんだ言っても江國さんの創り出す物語に触れていると、その世界から離れるのがもったいなく思える“感じ”は相変わらずではあるのだけれど。


―――――――――

 ひさしぶりにTop写真更新。
 この写真はいつも通勤の途中に歩いている通りのものなのだけれど、休日の今日の午後、ちょっと会社に顔を出しに行く途中にデジタルカメラでぱちりと撮った(ちなみに、会社はちょっとのつもりが5時間くらいいてしまった。最近は「趣味は仕事です」の人みたいだ)。
 だいたい曜日によって異なるのだけれど6時台から7時台にこの通りを歩いているのだけれど、いつもいつも(雨の日でさえも)随分と気持ちのよい通りだ。「マイナスイオン通り」と個人的には勝手に名付けているのだけれど、実際には感じのよい名前がつけられていて、この通りが近くにあるだけでも、いま住んでいる場所周辺を気に入ってしまうのには充分だといつも思う。
 写真自体はお昼くらいのものなので日が高くなってしまった後だけれど、早朝に歩いていると涼しげな風がまだ吹いていたりして、また誰も通りを歩いていなかったりもして、そんな中をてくてくと歩いていると一日の始まりとしてはかなりスムーズなもののように思えてしまう。

 この町に暮らすようになって、生活の中で「緑色」を目にする機会が本当に随分と増えた。それだけこの町が地方だということもあるのだけれど、いままで暮らしていた横浜と比べるとやっぱり圧倒的に緑の量が多い。
 そして、そういう場所にいることは、とても気持ちの落ち着くことだ。
 通りから少し路地に入って歩いていくと、新興住宅地の合間の一角に、唐突に水田が広がっていたりするのだ。そういうのを見ると(毎朝見ているのだけれど)、水田の横を通り過ぎていく間、思わずずうっとその表面に見入ってしまう。水田の水はそれほど透明でもないのだけれど周囲の光景を反射させて映し出していて、隣に建っている真新しい新築住宅を映し出していたりするのだ。その光景を見るまで、水田の水が周囲の景色を映し出すなんてことはわからなかった。けれども、いまは毎朝そういう光景を見て、水田の中に雲が浮かんでいるのを嬉しく思いつつ見ていたりするのだ。
 また、水田では目を凝らすとアメンボのような虫がいたりするし、たくさんの木を植えている家の塀から飛び出した枝から蓑虫が垂れ下がっていたり(蓑虫を見たのなんて本当に久しぶりだ!)と、なんだか新鮮だったりする。
 車が来たら、とぼんやりと思う。車が来たら、もっと町外れまでドライブすることができるし、そこではもっとしばらくの間遠ざかっていたような光景に近づけることができるだろう。そんなふうに思って、楽しみにはやる気持ちを抑えているのだ。

 また、最近では休日のたびに会社にいっていて、後輩たちには「見ない日はないですね」とか言われたりもしているのだけれど、それだけいまは仕事を面白く思える時期なのでまあいいかなとも思っている。今月末(か来月はじめ)には車も納車されるので、そうしたら少しずつ休みは顔を出さなくなるだろうし。
 そして、最近は随分と真夏のように暑く、朝起きて洗濯機を回して干して出掛けると、夜に帰ってくる頃には完全に乾いている。そういうのもいちいちが嬉しくなってしまう。
 いずれにしても、最近は随分と丁寧に、きちんと日々を過ごしているような気がする。もちろんそれは気がするだけで錯覚だとも思うのだけれど(食生活はあんまり丁寧ではないので……)、それでもそんなふうに錯覚できるだけでも幸せなことだと思う。


―――――――――

 一昨日、昨日と同じ後輩と一緒にご飯を食べに行った。車で帰りを送ってもらうついでに(考えてみると、この数年、本当にたくさんの人に送ってもらっている)。
 一昨日は豆腐などをメインにした内装のお洒落な感じの和食レストランに行き、昨日はハンバーグレストランに行った。それぞれおいしく、特に和食レストランなんかは、間接照明を効かせた趣味のよい内装で、たくさんの人で賑わっていた。ハンバーグレストランもボリューム感があって、やっぱりおいしかった。
 そして、いろいろな話をしていたのだけれど、4つ年下のその後輩(男)は、随分と結婚願望が強くて、次に付き合う人とはすぐに結婚したいというようなことを話していた。家庭であるとか、家庭的なものに憧れを抱いているのだ。
 話を聞きながら、○○さんはないんですか? とか訊かれながら、自分があんまりそういうことを考えていないことにやっぱり変わっているのだろうかと思ってしまう。今年ようやく30歳になるし、世間的にはもういい年齢なのだけれど、相手がいないということもあるけれど、焦りのようなものがないのだ。不思議なことに。そういうのって縁とかタイミングだと思っているのでなるようになるだろうなと思っているのだ。
 もちろん、もしということを考えたりすることはある。たとえば、昔の恋人とそのまま結婚していたとしたら今頃は子供がいて普通にお父さんをしていたりするのだろうかというようなことだ。そういうのって、誰でもたまには考えたりするような気はする。結婚願望の強かった5歳年下の恋人とか、同じ年だった恋人だとか、なんとなく思い返して考えてみたりするのだけれど、そういうのってすぐに終わってしまう。いずれにせよもしだし、そういうことで感傷的になるのはちょっと違うかなと思うからだ。だから、その子たちが幸せな家庭を築いているのだろうなとか思って想像は終わりにしてしまう。
 これは満足していることで、満足していたらいけないのだろうなとも思っているのだけれど、基本的に一人で楽しく過ごしていて、幸せだと思っているところが困ってしまうことなのかもしれない。


―――――――――

 お知らせ

 Euro2004もいよいよ準々決勝です(そればっかり)。


Sun Set |MAILHomePage

My追加