amatelasuの日記

2003年01月19日(日) これからの社会では。

これからの社会、個々人に要求されてくるのは哲学だと思う。

哲学なき科学は人間から「人間とはどうあるべきか?」という問いを剥奪した。人は何者かであろうと思考する。人はその思考の方向へと吸い寄せられてゆく。ならば、何者であるかも思考しなければどうなるだろうか。その答えも既に現代社会に出現している。

昨日、家庭教師先の子に話をした。何も考えていない人は意外に多い、と。T中さんともそんな話をした。多くの人が考えるという行為を忘れて久しいのだ。何も考えず、ただ楽しいことを"したい"だけ。それは思考ではなく欲望。欲望に頭脳が揺り動かされているに過ぎない。

人間行動学科の先生は言う。現代のテクノロジーが目指してきたもの、それはオートメーションだと。工場は徹底して単純労働への分業と機械化を目指し、作業はマニュアル化され自動化された。たとえば人は何も"考えなくても"歩くことが出来る。それは「歩く」という行為がその人の中で自動化されているからだ。これを応用して職場のオートメーション化は勧められてきた。単純で自動化された作業を人はミスしない。作業効率は上がり、製品のコストは下がる。そして、人は仕事の場面でさえ考えることを剥奪されてゆく。

おそらく、このまま行けば社会は二度と変容しなくなる。どこまで広がり続け、どこまでも均質化してゆく。哲学のない社会では壁はない。あらゆる事象に区別を付けるのは人の思考である。人がAとBは違うと"考える"からAとBは違うのだ。何も考えなければAとBの区別は生まれない。こうして世界は均質化してゆく。囲いを与えられなくなった事象たちが、なんの規制もなく広がり続ける世界に向けて拡散してゆくだけの世界。誰も考えない=制御しない世界。

人々が目指したオートメーションはついに本当にオートンメーションとなる。究極の自動装置=自然となる。そして、それは人の手を離れる。だが、何も考えない人々はそれにさえ気づかない。まさに全てのプロセスが自動化されている。

ボクはそれでは面白くない。だから考える。進行する自動化に抗い、世界を少しでも望む方向に変えるために。

携帯電話の技術は、既に顧客の満足を満たしている。家庭教師先の子とを話をしていて、形態はとりあえずカメラがあってメールが出来てダウンロードとか出来たらどこのメーカーでもいい。後は考慮するのは使い勝手くらいだという。つまり、技術は飽和した。

車でも同じだ。RGOの大田は言った。何だって出来る世の中になった。技術的にはマーチにGT-Rのエンジンを載せる事だって出来る。その中で自分は何をするか、ってことが大切だと。

技術は発展した。何でも出来る。ならば、その世界でお前は何をするのだ?その問いかけに答えられなければ、待っているのは世界への拡散。だから哲学が必要なのだ。ただ拡散してゆくだけでは何も生まれない。世界は広がった。その無秩序な広がりの中に新たな秩序を構築することによって始めて、新しい何かが生まれてくるのだ。

だからもし、新しい何かをその手にしたいのなら、哲学を持って世界と戦わなければならない。

別に欲望に身を任せてもかまわない。ボクがそれを選ばなかっただけの話で終わるのだから。現代は欲望に身を任せ、欲望を消費し続けても生きてゆける世界になっているから、それも選択肢の一つだろう。ボクもそれをあえて選択している時もある。

だが、それだけで終わるのが嫌だからボクは考える。ここで勘違いしてはならないのは、哲学と信念は全く対極に位置しているという事だ。哲学は思考であり、思惟を含むにしても論理と社会からの影響を抜きには成立しない。一方、信念はただ嗜好のみで成立する。それは欲望と同義になる危険を含んでいる。

これから社会で必要となるのは「何を作るか?」ではなく、それを「どう使うか」=それを使って「何をするか?」である。そこで必要になるのが計算ではなく考える作業である。ただひたすら「楽しいこと」をする=「消費」するのではなく、「生産」=「考える」事が必要なのだ。


ま、いち大学生が日記で書けるのはこんな程度のレベルでしょう。どうっすか?たまにはまぢめな事も書いてみますよ?


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