恋愛はこの日記にとって避けて通れない問題なので、気分が乗っている今のうちに書いておくべきだろうと思う。
それはともかく、僕はどうしてこんなにも苛立っていたのかと考えた。 思い上がっていたのは確かだろう。 コミケ営業に行って、この業界の中心にいる人たちに会った。 他店のバイトや社員の人。 ユニゾンシフトの社員はほとんど知り合いだと言っていた首都圏の店舗でバイトしてる人。 西又葵とは仲がいいから挨拶に行かないとと言っていた営業課の人。 店長兼エリアマネージャーであちこちを飛び回ってる社員の人。 東浩紀とも話をした。 ああ、そう言えばニトロプラスのジョイマックスさんとも話をしてきた。 純粋に楽しかったし、得るものも多かったと思う。 やる気になった。 そして、やれる気になった。
そう言えばコミケ営業の前にはOB会があった。 久しぶりに沢山の人と話をしたし、話をしなかった人もいたし、出来なかった人もいたし、してもらえなかった人もいた。 結局、OB会を挟んで前後の15日ほど休みなしで色々なことをした。 特に営業から帰ってきてからは、自分でも気付いていたが、かなりハイな状態になっていた。 色々な刺激を受けて色々な部分が活性化していたのだ。 その間は日課のオナニーもしていなかったと思う。 僕は冷静になるよりも、むしろそれに乗じたいと思っていた。 やれるうちにやっておきたいと思ったのだ。 それがつまり僕の焦りだったのだと思う。 その高揚がいずれ失墜することはわかっていた。 ランナーズハイの状態がいつまでも続くとは思っていなかった。 だから、それが続いているうちに何かをやっておきたかった。 この一年間、それなりに何か得たものを発揮したかった。 ただ、それは明確なビジョンとして在るわけでもなく、上手く周りに伝える術を僕は持っているわけでもなかった。
さて、これらがつまり僕の苛立ちの因果なのだろうと思うが、これを表題の恋愛に繋げてみる。 つまり、僕の抱える問題として、恋愛に限らず伝えることの困難が常に付きまとっているように感じているのだ。 それは伝える術が拙いという他にも、伝えるべきか判断がつかないということもしばしば起こる。
僕は深層で他者に対して対等の関係を求める。 なので、あまり言葉を返してくれないと、こちらもそれ以上は言葉を発することが出来なくなることが多い。 そうなると関係はどこにも発展しない。 そして、「僕はここまで開示したのだから、あなたもここまで開示して」と無意識に求めている。 それを明確に言語化して相手に伝える、という手段もあるのかもしれないが、とにかく僕はそれを暗に求める。 僕は相手の反応なしには他者に働きかけることが出来ない人間なのだ。 返答が予測されないメッセージを投げかける勇気が無い。 メッセージが必ず相手に届くと確信が持てる時しか安心してメッセージを投げられない。 これはつまり郵便的不安に怯えているということなのかしら?
とりあえず、小難しい考察はそれくらいにして、もっと有り体な言い方で書いていこうと思う。 つまり僕は他人の気持ちを確かめるのが怖いのだ。 他に何が怖いかと言うと、他人が自分のことをどう思っているのかわからないこととかだ。 自分がした事を相手がどう感じるかわからいことも怖い。 相手の気持ちがわからないのが怖くて、でもそれを確かめることも怖い。 つまり、それはシンジ君の問題そのままなのだが、それがどうしても克服できない。 例えばシンジ君にはエヴァに乗ると言う使命があった。 それがある以上、いくら最終回で上手くごまかそうとも詭弁に過ぎないのだ。 だから劇場版の最後であのセリフが必要なのだ。 つまり、今の僕で言えばバイトやシナリオを書く、あるいはバイクに乗るという点では他人を恐れる必要はない。 「ここにいてもいい理由」がそこにはある。 でも、他者との純粋な触れ合いに「ここにいてもいい理由」が介在する余地は無い。 例えばコミケ営業に行って初めて会った人。 それは仕事上の出会いなので互いに理由がある。 例えばOB会で初めてあった女の子。 それはサークルという共通のカテゴリーがある。 現に一時間以上を二人きりで電車に乗っていたが、サークルの話題を入り口にできたおかげで話が途切れることはなかった。 では、何も重ならない他者との接触、理由の無い純粋な出会いに遭遇したときに僕はどうすればいいのだろうか? 例えば僕のことを「気持ち悪い」と思っている人とコミュニケートするには? そこまで思っていなくとも、僕に対して無関心な人とコミュニケートするには?
通常、何も重ならない人とは友達にはならない。 趣味や仕事、そういった諸々のなかで何か一つでも重なる部分があると、人はそこに共同幻想を抱き繋がろうとする。 共同幻想なしに他人と向き合えて初めて個人として立てると思うのだが、僕にはまだそこまでの強さは無いし、多くの人たちにそんな意識は無い。 何も重なる部分の無い人、あるいはこちらが一方的に重なると思っていただけで、その人にしてみれば重なりたくないと思っている人を前にして、僕は途方に暮れるのだ。 それは縁がなかったのだから、仕方ないじゃないかと言うだろう。 例えば僕がその人に好意を抱いていたら? 僕は対等の関係を求める。 好意を抱く相手には好意を求める。 これは理論ではない。感情だ。 繰り返す、これは理論ではない。 僕は好意を求めるが、それは返ってこない。 好意が返ってこない以上、それ以上の好意を向けることが出来ない。 しかし、僕は好意を抱いている。 好意を投げかけたいが、好意が返ってこないことがわかっているので、それは投げられない。
しかも、厄介なことに僕はすぐに人を好きになる。 それは男女を問わないのだが、男女を問わないので余計に問題になるのだが。 おそらくは無意識に好意の交換を求めているのだろう。 好意を向ければ好意が返ってくると少しでも期待できる相手であれば、僕はすぐにその人を好きになる。 そうでなくとも僕はどうしても自分の周囲にいる人たちを嫌いになれない。 何かあるとすぐに情が移る。 こちらに情がわいたところで、相手も同じかと言えばそうではないので、その落差に一人で勝手に悩むわけだが。 大学時代の僕の傍若無人な振る舞いはその裏返しだ。 こちらに情がわいているので、自分も許されると思ってしまう。 もちろん許されることを確認して安心しているという面もあるが。
とりあえず収集がつかなくなってきたのでそろそろ区切りたいのだが、9月の1日と2日に書いた日記に対して自己弁護したい。 これ以上の弁明は本当に好き勝手で傍若無人な振る舞いになってしまうと思うのだが、それでも機会として今は吐き出しておくべき時だろうと思うので、いちおう書き連ねておく。
僕は7月8日の日記でこう書いた。
----------------------------------- 僕がこの日記を始めたとき、具体的に氏名を挙げられるような明確な対象があった。 当時、僕の周りに居た人たちが読むことを意識して僕は日記を書いていた。 それは今でも同じだけれど、これを読む人たちがいて、どれだけ好き勝手書いているように見えても、ここにある言葉は全て僕の中で吟味されて選ばれた言葉なのだ。 読み手に対するメッセージとして機能するように、自分が書きたい言葉と相手が理解できるであろう言葉がいつもせめぎ合っている。 -----------------------------------
その結果があの他人の事情など一切考慮しない暴言なのだ。 あの時の僕はあのように書かざるを得なかったのだと思う、とだけはたとえ自己弁護でも記しておきたかった。 僕の言葉はしばしば限界を探っている。 M田君ならわかると思うが、僕が「出来る出来ない」の話をするとき、僕が言う「出来る出来ない」のラインは限りなく限界に近い。 僕の言葉は時折、限界に迫ろうという覚悟を持っている。 しかし、それは言葉であり、現実の僕はそれを実現できないかもしれない。 言葉が限界に近ければ近いほど、僕はそれを実現できない可能性が高まる。 いや、現実の僕は言葉からはほど遠いところにいるだろう。 だからこそ、この日記だけは可能な限りギリギリの境界線上に立ち続けたいという覚悟を持って書いている。 だから、あのような暴言であろうとも書くべきだと判断したときには書く。 僕はその判断をきちんと自分の意思で下すことが責任だと思っているのだ。 だから、あれは誰が悪いわけでもなく、僕が僕の意思で発言したのだ、と責任の所在を明確にしておいたつもりだ。
のめり込めばのめり込むほど、近づいてくる人が増えると同時に離れていく人も増えてくる。 それでも僕は周りの人を好きになる。 好きになるから嫌いにもなる。 でも、それを上手く伝えることは出来ない。
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