躓きの石を見つけた。
たまたま本屋で衝動的に購入した「萌える男」本田透 著(存在論敵、郵便的を買ったついでだったのだが)を読んで、僕が今まさに躓いている石を見つけた。 見つけてしまえばこっちのものだ。 避けることも出来るし、蹴飛ばすこともできる。 そして、それを拾い上げることもできる。 (まぁ、それが大きすぎれば僕はどうしようもなく、ぶつかり続けるだけなのだが)
この中で著者は吉本隆明を引用して自己幻想、対幻想、共同幻想という言葉を使う。 つまりは僕の躓きは自己幻想から出られないことにあるのだ。 最近の現実的な僕の行動の順序としては共同幻想→対幻想であると考えられる。 これらはいずれも失敗に終わろうとしている。 そして、最終的に向かうのが自己幻想による自己救済である。 とすると「MsYs」に登場する翠は、僕の自己幻想が生み出した自己救済のための「萌えキャラ」なのである。 年の割りに幼い容姿。 無口で無干渉、無関心に見えて全てを理解し受け入れてくれる存在。 まさに不安定な自我と希薄な存在理由を共済するために光臨した神である。
観念的な思考に理解を示し、見守り、時に助言を与えてくれる。 そんな仲間であり、かつ恋愛の対象ともなりえる完璧な先輩。 それが雨宮さんであり、彼女の存在によって神の国はさらに完璧に補完される。
これらの自己幻想はある程度の成功を収めていると言える。 確実に僕は癒されている。
さて、ここからは話を戻し、どうして実生活において僕は共同幻想、対幻想の構築に失敗したのかを考察してみたい。 まずは共同幻想についてであるが、これは単純に僕が理想とする幻想を共有できる環境になかった、という事であろう。 ここで責任の所在を追及する事はつまり本田氏の言うところの一元論、あるいは単純な二項対立に陥るだけであるために考慮しない。 環境とは僕個人の対人関係におけるスキルや抱く理想の明確性などの個人的要因(もちろん、グループの成員それぞれにもある)やグループに課せられた制約、形態など様々である。 ここは詳細な議論を繰り広げる場ではないために書き殴るが、結論としてはその場に相応しい共同幻想を用意できなかった、ということに尽きるであろう。 共同幻想とは、つまり他者と幻想を共有することであるから、他者と共有できる幻想でなければ、それは共同幻想とはなり得ない。 その自明をコントロール出来なかったが故の躓きである。
続いて対幻想に話を移そう。 おそらく生涯を通じて僕は自己幻想による癒しにだけは成功してきた感がある。 そのため、次の段階として対幻想があり、それに対する試みは大学時代を通じで行われてきた。 もちろん、その試みは未消化のままいまだ僕の中に溜まっているわけだが。 (おそらく、共同幻想への挑戦が上手くいかない原因もこの未消化に基礎を置いているような気もするが) さて、この対幻想を論じるにあたって僕は母子関係を追想してみる。 「萌える男」においても再三、家族関係について論じられているが、やはり他者との一対一の関係を考えるにはまず母子関係に遡るのが重要かと思うのだ。
まず、僕は幼いころの母親との交流の記憶があまりない。 それは育児放置を受けてきたというわけではなく、鮮明な記憶があまりないという意味である。 そういう意味で僕の母子関係は希薄だったのかもしれない。 だが、これは古い記憶に関することなので定かではない。 ともかく、僕と母親の関係は常に僕が抱えている「問題」にまつわることで起こる。 僕は次男で、兄との二人兄弟。 兄は小さい頃から活発で外で遊ぶのが大好きな子供だったようだ。 また勉強が嫌いで、中学はさぼりっぱなし。 高校は行くところがないと言われたらしい。 つまり、僕とは対極的な幼少時代を送っている。 というか、そんな兄を見て僕は対極的な「手のかからない子」として育ってきた感がある。 だから、基本的な母子関係が希薄なのだ。 僕は手のかからない子供で一人遊びが上手く、放っておいても自分でなんとかした。 しかし、僕は時折「手のかかる子」だった。 小学生のころは喘息、おねしょがなかなか治らないといった問題を抱えていた。 けれどそれ以外、普段はいたって普通の子供だった。 しかし、時折そういった形で何かが噴出していた。 そういえば指しゃぶりも当分続けていたような気がする。 これをパターン抽出すると、 普段は手のかからない子供で関係性は希薄だが、一定以上溜まるとそれを問題行動として噴出して強引な関係性を求める、 という行動パターンとして認識できそうだ。 もしかすると僕が中庸を求める深層もここに根が伸びている可能性もあるが、それはまた別の機会があれば検討することにして先に進む。
このパターンは今現在も強力に駆動していると思われる。 書いている最中に感じたのだが、これは碇シンジの行動パターンによく似ているのでは?と思った。 やはり同じ問題を抱えていたためにシンパシーを感じたのか。 さて、「萌える男」のなかで少しだけ触れられているのだが、エヴァは二次元の「萌え」を否定して三次元の「現実」への回帰を主張したためにオタクのトラウマになったと本田氏は主張する。 それが事実なら、僕はまさにそのトラウマを「現実」へ向かうことで解消しようとして躓いたことになる。 僕が常に異性と関係を持とうとする時は「問題」を抱えている場面である。 僕は「問題」を抱えている場面でしか異性と関係を持とうとしない。 しかも強引である。 もちろん、それは暴力的な強引さではなく、心理的なプロセス面の強引さである。 よって、形容詞は「ストーカーっぽい」である。 おそらく、それが僕が抱える根本的な問題なのであろう。 身近な女性にアプローチしてはキモがられるのも、出会い系に手を出して高い確率でリストカッターを引き当てるのも、おそらくそれで説明できる。 常に正常な状態で異性と接触できない。 正常なときには異性を必要としないのだから当然である。 あるいはそれを反転して相手に求める。
だから僕は絶対を志向し、思考し、嗜好する。 これを支えられるのは見返りを求めない絶対的な純愛でなければならないからだ。 keyの作品を毛嫌いしながらMsYsを書いてしまう根拠がここにある。 現実をしっているが故に、そうせざるをえないのだ。 絶対的な純愛を「愛される」という面から描いたのが「MsYs」であり、「愛する」という面から描いたのが「彗星の生まれたとき」であり、次回作として構想している騎士が登場するファンタジー作品であろう。 (騎士と主が結ぶ主従関係の根拠を忠誠と信頼に置こうとしている) そうなると僕が書く作品には文学性が宿ってしまうのだが、それを断言するにはまだまだ詳細な検討が足りない。 (ここにも「愛される」を補完したのちに「愛する」へ向かうというベクトルが見えるが、それが実現するかはまだわからない)
それはともかく、 これらが今の僕が抱える他者との関係における問題である。 躓きの石は見えた。 しかし、これはどうやら地中深くまで埋もれた大きな岩のようである。 それでも僕はこれから目を逸らしたくないし、どうにかしようと思っている。 幸い、僕には自己幻想による自己救済に関して高い能力があるように思えるし、それを助けるシステムが消費社会の端っこで踏ん張っている。 大塚英志や本田透のような人たちががんばっているうちは、僕もどうにか足を踏み外さずに生きていきたいと切に願う。 そしていつの日か、彼らのように「萌え」を生み出すことによって自己救済の手助けを出来るようになればと願う。
そう言えば高校生のときはカウンセラーに憧れていたが、今も本質的には変わっていないのだなと感じる。 僕は癒されたいし、そして、その手助けをしたい。 そう言う場を守るために僕はこの業界に身を置くべきなのだろうと思う。
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