2005年11月25日(金) |
架け橋としての日記。 |
前回に引き続き「萌える男」を参照するが、この中で著者は「萌え」とは観念的な次元での新たな人間関係を模索する思考実験として機能する可能性を秘めている、という事に触れている。 たった一人が抱いている観念は妄想でしかないが、その幻想が多くの人々に共有されるようになれば、それは新たな現実として作用し始める、ということらしい。 つまり様々な「萌え」の形を参照することによって、一元的な恋愛の呪縛から逃れられる可能性を示唆しているわけだ。 もちろん、一歩間違えば単なる異性、対人関係からの逃避し堕落したひきこもりを量産するだけだが。 しかし、ここには真に"新たな"人間関係の形態を模索することを可能にするシステムが存在している。
観念から現実としての行動へのフィードバックを、おそらく僕は試みてきたのだろうと思う。 僕が機会があるごとに垣間見せる傍若無人な振る舞いや荒唐無稽な発言は、思考実験からフィードバックされた新たな試みなのだ。 むしろ、観念的な思考を現実的に機能する行動へと適応するために思考実験を行う、と言った方が正しいだろう。 ここで言う思考実験とはつまり、新たな観念を現実へと適応させるための方法を模索(思考)し、それを試みる(実験)という運動である。 もちろん、試みであるから全てが成功するはずはないし、実際に躓くことの方が多い。 そして、思考は試みの結果からフィードバックを受け、思考が変化することによって試みもまた変化する。 それはあたかも無限円環のように見えるが、しかしそれは螺旋構造であり、常に変化の連続となる。 螺旋が円に収束するとき、思考は停止しているのだ。
つまり、僕の発言や態度が変わり続けることはつまり、僕の思考が常に螺旋を描き続けている証拠でもある。 ここで言う態度とはもちろん機嫌のことではない。 (まぁ、僕個人、機嫌がコロコロと変わりやすい人間であることは自覚しているが) この態度とは人生態度のことである。 あるいはキリンのセリフを借用すれば「スタイル」であろう。 僕は個人的にポーズとスタイルを対で使うことがある。 ポーズとは格好を装うことである。 スタイルとはスタンスにも近く、「そう在ろうとする意志」と言える。 つまり、問題なのは意志の有無であって、ポーズには意志が無く、意志があることによってスタイルは生まれる。
さて、かなり話が脱線してしまったので、強引に表題へと話題を移そう。 架け橋としての日記。 僕は今になって、やっとこの日記の役割を理解し始めているようだ。 かつて「アクチュアルな問題系とイマージュの問題系は非ユークリッド幾何学的に交わるのである」と評されたこの日記。 この日記は交差点なのだ。 つまり、これは思考と行動の架け橋と言えるだろう。 観念的、概念的な思考と現実が出会う場であり、つまり思考と実験が出会う場であり、僕はここで得られた回答でもって躓いた現実に再び挑む。 せめて、最低限でも現実に挑む上で自己(思考)と世界(現実)のせめぎ合いを経ようと言う、これが僕のスタイルなのだ。 もちろん、僕のこのスタイルが現実に上手く折り合いを付けられていない部分が多いことは認める。 それでも、この日記が不定期ながらいまだ続いている事実を持って、僕だけは僕を称えようと思う。
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