神の宿る細部と宿らない細部がある。 「神の宿らない細部はただの細部だ」と、あの豚なら言ってくれるだろう。 つまり、神の宿らない細部はただの細部で小事に囚われては大事を逃すのだ。
そして、最も忌避すべき事は大事が見えないからと言って小事に目を向けることである。 つまり、何が大事かわからないから、とりあえず見えることに拘泥してみる、というのは愚行であると言わざるを得ない。 もちろん、自覚的にそこに浸かるのなら問題はない。 しかし、そこに選択が存在しないなら、それは自由な行為ではないし、もはやそれは人である必要さえない。 自分には大事が見えていないという自覚とともに小事と戯れるなら、そこには人としての遊戯が存在するだろう。
大事に関わる小事は確かにある。 だが、大事に関わらない小事もある。 では、何が重要なのか? それは大事の先に見える神である。 大事や、あるいはそれに繋がる小事が重要なのは、その行為の先に神が想像されているからだ。 神が見出されていなければ、どの大事も小事も意味など持たない。 神無き行為には遊戯しかない。 さて、あなたの見ている神とはいったい何なのか? さぁ、あなたは神を前に問うことが出来るだろうか?
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