最近感じている焦燥感について、何かヒントを得ようと思って去年の夏ごろの日記を読み返してみて驚いた。
自分で言うのもなんだが、酷すぎる。 驚くほど自分を見失って暴走しているのが良くわかる。 今見ればすぐにわかる事なのに、何であの時わからなかったのかと思うが、だからこそ見失っていると形容するわけだが。
でも、日記に対するスタンスは真摯だったのだな、と読み取ることが出来たのは良かった。 たぶん、あの時の自分もあんな事を書きたかったわけじゃないのだ。 あれが単なる憂さ晴らしでしかない事もわかっていて、わかっていたからこそ、あえてあんな日記を書いたのだろう。 この日記は僕の「真実」を刻みつけようと、常に自尊心と戦い続けている。 全てを曝け出すことは自尊心が邪魔をするから、だから常に全てを曝け出し続けているわけではない。
でも、あの時は、どうしようもない焦燥と暴走の吐露を、理性でもって止めるべきではないと判断したのだ。 幼稚だろうと、他者を傷つけるかもしれなくても、わけのわからない感情が募る焦りを刻み付けたかった。 誰に迷惑をかけても、因果応報になっても、吐露すべきだと思った。 当時の日記にも確かにそんな覚悟が記されている。 感情を書きなぐりながらも、そんなのはダメだと思っていて、でも正しい答えがわからなくて、あれを書くしかなかった。 あれを書くことが、してはならない事だとわかっていた。 その感情が存在している以上、書かなければならないという想いもあった。 その二つがせめぎ合った結果があそこに記されている。
今でもあの頃の自分を肯定するわけにはいかない。 けれど、事実と真実は受け入れていかなければならない。 わけもわからず書きなぐった日記は、過去の自分が放ったそれなりの覚悟を込めた言葉は、こうして未来の自分に届いたようだ。
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