こういう連鎖は建設的な気がするので、TKSK君に触発された日記を書いてみよう。
歴史は実学である。 それは僕が高校のときから実感していることだ。 歴史とは何か? それは今現在が、どうしてこのような状態にあるかの原因をたどるための一つの方法である。 それはつまり物理学が宇宙の成立を追及することと同義である。
歴史とは現在、そして未来を見るためにある。 過去からの変遷を調査し思考することによって、未来に向かう自らの態度を思考することが可能となるからである。 つまり温故知新である。 さらに言うならば、歴史とは事象を連結させる行為である。 世界に無数に散らばる個々の事象を、歴史と言う名の時系列でもって連結させ、そこに新たな概念を見出す。 歴史を学ぶ事で、「温故知新」と「歴史」という二つの事象の間に意味のある連結が生まれる。 そのような連結が無数に生まれるうち、不意に新たな概念が生まれる。 そうやって社会は発展してきたはずだ。
しかし、それはすべからく学問が目指すところであるはずだ。 過去から現在へ向かう知識の蓄積を体系化することにより、そのままでは個々にバラバラで無意味な事象を有意に組み合わせ、現在の問題に対処する。 すべからく学問は実学であるはずなのだ。
では、どうして義務教育を無駄だと言う人たちがいるのだろうか? 簡単に言えば、普遍的な真理に触れていないからだ。 因数分解も現代文の読解も英語の長文も、全ては通底する一つの能力、すなわち論理的思考によって攻略されるはずである。 確かに学校のペーパーテストではある程度の記憶力を要求されるが、それ以上に論理的思考を身に付ければ気付くことが出来るはずだ。 全てが繋がっていることに。 だから、義務教育に何一つ無駄な事などない。 教育が無駄なのではなく、教育を無駄にしているだけだ。
義務教育期間中に全ての教科を勤勉に学び、論理的思考をきちんと身に付ければ、社会に出てからも、すぐに社会を理解する事が出来るだろう。 それこそがまさに高水準で汎用的な労働者である。 そういった学生を育てることが、日本の経済を将来的に渡って支えるに必要なことだと思うのだが。
と、そのレールからドロップアウトした僕が言ってみる。
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