群青

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0812
2008年09月01日(月)




 クローゼットから取り出したダウンジャケットは、まるで別の人間が着ていたもののようで、これを羽織り街中を歩いていた季節を上手く思い出すことができない。今年も単独で富士山に臨んだ。去年、熾烈な風雨で登頂を断念した折、来年こそはと心に誓っていた。今回は須走口から登り、三時間後に頂上に立っていた。さらに一時間かけて火口の周囲を回る。風がやむとそこは驚くほどに静かで、強い太陽の光が岩と砂の山肌を蹂躙していた。もう何年前になるのか定かですらないが、登山家のWさんと話をした。滑落する仲間を目の当たりにした当時のWさんの気持ちはどれほどのものだったろうか。孤独を気取ったところで、僕は彼の絶望に届かない。静けさに倦んで、イヤホンを押しあてるとシャッフルされた楽曲の中からシガー・ロスが流れ出した。目をつむると音楽に吹き流されるような心持ちがした。

 遠雷を眺めている。稲光が毛細血管のように浮き上がるたび、まるで世界に亀裂が走るようで、その静かな狂騒が僕を捉えた。Mさんは食べることを拒否してこの世から去った。Pさんはいまだに目覚めない。メンテナンスに行ったきり、帰って来なくなってしまった。「(自意識過剰という名の)仲間だ」と言われたことが思い出される。僕はこれからも仲間であり続けますよ。きっと。


 『水風呂にみずみちたれば……。僕らもそういう頃があったんだよな。
 浴槽の、縁近くまで張ってある冷たい水に手を差し入れるだろう。そう
 するとその張りつめた水の質感は、何というか、指をはじくだろう。抵
 抗感があるだろう。そういう抵抗をなだめすかすようにして、その張り
 つめた「物質」の中に、少しずつ少しずつ躯を沈めてゆく。とうとう全
 身が水の中にとっぷりと浸りこむ。縮み上がるほど冷たいんだけど、そ
 のままじっと我慢しているうちに、躯がだんだん水に馴染んでくる。ち
 ょうど今日みたいな生暖かい風が吹きつけてきてさ。下半身を掠め取ら
 れるような不安な気持ち……。でも、どこかその不安の感覚そのものを
 愉しんでいるような、へんな心地良さ……』





 サプライズバースデー。温かい光に照らされて、大好きな人達の輪郭が浮かび上がる。祝いの対象が誰なのか悟るまでに間があったのは僕が臆病だからか。いつもの斜視も影を潜めて、ただただ唖然呆然とするしかなかった。人の優しさはまだ少し怖い。頃合いを見計らって表に出ると丁度良い塩梅に大文字と舟形の送り火が見られた。花火に接したときの浮き足立った感じとは違う、静かに心がさざめき立つ感覚を不思議に思った。他の建物にも同様な人の群れが見え、その眼差しは一様に優しくて、人と人の間を優しさが伝播する様子を目の当たりにしたかのように思えた。きっと、見つめている間だけは、生死の別なく今この時を共有できているのだろう。部屋に戻ってUちゃんと遊ぶ。以前、人の顔を見るなり泣き出して、手のつけようのなかったUちゃんが別人のように穏やかだった。そればかりか、言語化以前の音声をためつすがめつしている様子は微笑ましく、その愛らしさが一層目尻を下げさせた。

 翌日、エレファントファクトリーコーヒーへ行く。クンパルシータからそれほど離れていないところにゆっくりと腰を落ち着けられる場所が見付かったのは、まるで帳尻合わせのようで、なるほど物事はそんなふうにできているのかと思った。


 『それでは今こうして故郷に戻り、この国で何百年も前から街の片隅に
 生きる細君が慈しんできたようなささやかな庭に向かい合い、雑木が無
 造作に植わっている傍らに小さな池が切られ、その淀んだ水面には朽ち
 葉が浮かび、それを囲むようにして大小の石が雑然と転がっているさま
 に目を遊ばせ、草むらからリリリ、リリリと聞こえてくる秋の虫の音色
 に耳を澄ましているとなぜか心が安らいでくるというのは、これはつま
 りある種の敗北なのだろうか。しかしたとえ敗北だとしてもこれはその
 せいで歯ぎしりするような思いに駆られるということはない種類の敗北
 なのだと有紀子は思った』





 「Nさん」呼び掛ける声は風にかき消される。別れたくないばかりに、時間を引き延ばして彼をつなぎ止めようとしていた。そうして結局切り出すタイミングを彼に委ねてしまった。「必死すぎたんだよ」そうだね、確かにそんなときもあった。Nさん、僕は


 『さよならだけが
  人生ならば
  また来る春は何だろう
  はるかなはるかな地の果てに
  咲いている野の百合何だろう

  さよならだけが
  人生ならば
  めぐりあう日は何だろう
  やさしいやさしい夕焼けと
  ふたりの愛はなんだろう

  さよならだけが
  人生ならば
  建てたわが家は何だろう
  さみしいさみしい平原に
  ともす灯りは何だろう

  さよならだけが
  人生ならば
  人生なんか いりません』


 『僕らは離ればなれ たまに会っても話題がない
  いっしょにいたいけれど とにかく時間がたりない
  人がいないとこに行こう 休みがとれたら
  いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった
  暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ
  それぞれ二人忙しく汗かいて

  すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
  君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける

  なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
  それでも君を思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る
  朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける 』





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早稲田松竹で
フランシス・フォード・コッポラ「地獄の黙示録 特別完全版」
TOHOシネマズで
デイブ・フィローニ「スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ」

山田かまち美術館で「『これが、かまちだ!』山田かまち代表作品展」
川村記念美術館で「コレクション展示 川村記念美術館
『絵画の森』レンブラント、印象派、現代の巨匠たち」
伊勢丹府中店で「人間国宝 三代 徳田八十吉展」

フランク・ロイド・ライト【ヨドコウ迎賓館】
野口孫市、日高胖【中之島図書館】
重森三玲【重森三玲庭園美術館】
アントニン・レーモンド【群馬音楽センター】
隈研吾【高崎駐車場】





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松浦寿輝「もののたはむれ」
松浦理英子「葬儀の日」
東野圭吾「容疑者Xの献身」
古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」
トマス・ピンチョン「ヴァインランド」

読了。







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