日々是迷々之記
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「せっかく○○したったのに…。」こういう恩着せがましい物の言い方が嫌いで、そういう状況にはまらないよう考えて行動してきた。
しかし、ふと思うことがある。誰か他の人たちに何かするとき、根底にあるのは「喜んで欲しい」という気持ちで、それは誰しも持つことがあるのだと思う。家族や、恋人の間だけでなく、もっと普通の仕事つきあいや、友達つきあいの中でも存在している、ごく普通の気持ちではないだろうか。
「喜んでくれると信じているから○○しよう。」そういう気持ちに何も帰ってこないときの気持ちはとても表現しずらい。オバチャンチックに、「あんたのために良かれと思ってやったったんや!」と言い切れれば少しは気持ちも晴れるとは思うのだが。
こういうときは何か今までの時間を裏切られたような気持ちになる。現在までのことを考慮に入れて、こうすれば喜んでもらえるに違いないと信じて行動を起こす。しかし、気持ちは帰ってこない。キャッチボールをしていて、いきなりそっぽを向かれてしまい、自分の投げたボールが誰にも目も向けられずに通り過ぎてゆき、ぽとりと落ちてしまう。それは私にとって悲しいことだ。
「期待しなければ、失望することもない。」というのはよく言われる言葉だ。しかし、期待に至るまでもない、経験から来る信じている気持ちが空振りになる気持ちをそういう言葉では説明できないと思う。それとも私以外の人たちは、他者によって気持ちを動かされることもなく、淡々と生きているのだろうか。
ダンナさんと電話で話してみた。あの人はそう言う場合は怒ることはあれども、落ち込むことはないと言った。「気ぃ悪い。」「今までのはなんやってん。」そういう言葉で気持ちを表していた。
落ち込もうが、怒ろうが、心の中にマイナスなのは変わりない。マイナスな気持ちに感染して、他に悪影響を与えてしまわないようにココロに言い聞かせよう。
あと何十年生きるかは分からないけれど、いろいろな人と出会って、楽しいこともつまんないこともたくさんあるだろう。でも、「気持ちの温度差」が人づきあいの1つの基準になるんだなぁと最近思う。
さぁ、もう寝てしまおう。明日の朝日は私たちの上に射すのだ。
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