日々是迷々之記
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2005年09月23日(金) 人生がもうひとつあれば

私はバイクが結構好きで、23歳くらいで免許を取ってからちょこちょこと色々なところに出かけている。大阪を起点に北は新潟、福井、長野、あたりまで。九州、四国はキャンプツーリングで全県回っている。

と、こんなことを書いていると、私がとてもバイク乗りとして「イケてる」ような感じがするが、実際はそうでもない。どころか、今のバイクではUターンもできない。街中を走っていると信号で原付に抜かれたりする。正直言ってものすごくヘタクソで遅いんである。

先日、うちの相方、友達と一緒に六甲山という所にバイクで走りに行った。それは日が沈んでからで、街灯もなんもないところで私は普通に走っているのが必死。コーナーリングがどうとか、ライン取りがどうとか、そういう問題ではなかった。挙げ句の果てに道を間違え、気が付くと六甲山から抜けてしまっていた。(相方、友人は速いので、とっくに先に行っていた。)

それで心配されたりすると、微妙に落ち込んでしまった。別に免許取り立てでもないし、若ギャルでもないのに遅いのは実はかなりダサいんではないかということに気が付いたのである。

それからは色んな人に意見を聞いて自分なりに考えをまとめてみた。第一に速く走ろうと思う心が私にはないこと。そして速く走ることが楽しいと思ってないことが分かった。うちの相方は典型的な無謀な若者だったので、今でもコーナーリングで脳内麻薬(ドーパミン)が出まくったりするらしい。私はもちろんそんなものは出ない。「あ、コーナーだ。」と思うだけである。

そのくせ、ツーリングに行ってUターンさせられなくてもたもたしたり、コーナー3つでミラーから消える(相方談)のはやっぱり嫌なんである。

どうにか人並みにはうまくなりたいもんである。が、ある意味それはバイクの競技的な部分になってしまうので、そんな甘いもんではないらしい。負けることをくやしいと思い、速くスマートに走ることを気持ちいいと思い、突き詰めてゆく気持ちを持つことが必要らしい。つまりどのスポーツも一緒なのだ。

私はこういう部分が非常に欠けている。誰かに負けてもくやしくないのだ。道路を走っていて煽られてもすぐに抜かさせるし、学生時代から一番になろうと思って勉強をしたことはなく、あくまで自分の中の到達度を高めることを目標にしていた。親は私のそういうところにいらいらしており、「やればできるねんから。」とコントのギャグみたいなことを真面目に言っていた。

もし、私が自分の中にもう一人の自分を持つことができるのなら、何事も闘争心、やる気、克己心をもって取り組むような人間になりたい。何でもやるなら高い目標をもって取り組める人。そんな人になりたい。

って、世の中のほとんどの人はそうなんだろうなぁ。趣味に精力を使い果たして心地よい疲労のようなものを感じるのだろう。私のように、大きなバイクで高速に乗れば3時間くらいで着くようなところまで、わざわざカブで7時間もかけて行って、「あー楽しかったなぁ。」などと思うのは、やっぱり変わっているらしいし、誰もそんなことはしたがらない。

いつのまにこんなに「ぼやーん」とした人間になってしまったのだろう。人生のどっかに分岐点のようなものがあったのだろうか。

うーん。よく分からない。33年間も生きてきたのに。


nao-zo |MAIL

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