日々是迷々之記
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2005年10月18日(火) 人と人とが支えあう?

支えあっているから「人」なのです!というドラマが昔あったが、一方的に支えさせられている場合、どうなんだろうか?そんなことを今日思った。

母親の入院している病院に行ったのである。月に一度の支払いの日。請求書が母親のベッド脇のテーブルに置かれているので行かなければしょうがないんである。私を見るや、訳の分からないことを言い出す。家に帰るから、とか、どうしょもなく妄想的な言葉。鼻から栄養を摂取しているので、入れ歯の必要もなくなり、ふがふがしながらしゃべる。65歳だが、80過ぎくらいの感じだ。森光子は85歳らしいが、うちの母親とは比べるのも失礼なほどだ。

適当に相づちをうって、請求書を探し出し、会計に行く。すると保険証が今月末までだから、新しいのを持ってこいという。忘れていた。住民票をこの病院に移していいかと訊いてみると、転院の可能性があるからだめだと言われた。ということは、我が家に移すか、今のままで私が逐一役所に出向くかのどちらかである。

我が家に移すことだけはしたくない。「死んでも帰ってくるな。出てゆけ。」と言われて結婚した以上、形だけでも同居するなどあり得ない。本人はボケてるので都合の悪いことは忘れたふりでも何でもできるわけだが、私の心の中にはがっしりと遺恨が根を下ろしている。

大体、あの人の保険証がどうなろうと私には関係がない。保険がきかない→10割負担→当たり前だが払えない、となるだけで、私は一つも困らないのだ。携帯電話を解約して、黙って引っ越してしまえば縁は切れてしまうだろう。でも、実際そんなこともできない。病院側もそれを知っているのか、親戚の名前、連絡先など何件か書かされた。姥捨山にさせられたらいい迷惑だろうし。

というわけであの人は私の善意だけに頼って生きている。ただ機械のように。ベッドの上で看護士さんに寝返りを打たせてもらい、時間が来たら鼻から栄養を入れられ、夜が来ると眠る。それの繰り返し。平均寿命を全うするとしたらこれが後20年続く。

合法的に死んだふり、というのができないかなと思う。常々あの親は「最大の親不孝は子供が親より先に死ぬことだ。」と言っていた。ということは、私が死んでしまえば最大の親不孝ができることになる。といっても私は死ぬ気がないので、看護婦さんに「娘さん、亡くなったらしいですよ。自殺です。」と一言耳打ちしてもらえばいいのだ。それで私が現れなければ信用するだろう。

が、しかしこれも私のことを娘だと思っていれば成立する話で、ただの金づると思っていればさほど落胆もしないだろう。「お母さんのことは誰が面倒見てくれるの!」と元気な頃ならヒステリックに叫ぶだろう。

というわけで私の憤りをあの人が理解することはないだろう。私はあの人が生きている限り、こういった日常と鬱病とつきあっていくことだろう。淡々と。人生はテレビドラマではない。愚にもつかない毎日が続くことが日常なのだ。


nao-zo |MAIL

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