日々是迷々之記
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前の日記に書いた仕事に就き、働きはじめて一週間。それなりに忙しく、雑念の少ない日々だった。しかし、今晩その静寂を破るがごとく電話がかかってきた。
かけてきたのは母親の妹さん。奈良県在住のTさん60歳前くらいだ。先日見舞いに行ったら、母親が哀れな顔をして、「お金がないからテレビを見れない…。」としょんぼりしていたとのこと。病院のテレビはカード式で、700円でカードを買い、それをテレビに挿入すると4日間見ることが出来るようになっている。余りにも可哀想なので3万円置いてきたとのこと。
そして、一撃。「なおちゃん、あんた、自分だけ幸せになろうとしたってあかんで。親の恩を忘れたらあかんで。」とのことだった。
「自分だけ幸せに。」なんて思ったことはないのだが、はたから見ると私はそんな人間に見えるのだろう。母親が寝たきりで入院しているのに、見舞いもろくに行かず、放置された母親はお金がなくテレビも見れない。そんな状態にしている私が傲慢に映るのだろう。
反論はしなかった。確かに私は幸せになりたいと思っている。私の回りの友人や家族など、私のことを肯定している人がみんな幸せになればいいと思っている。逆に、邪魔する人に関心はない。母親はこの場合「邪魔する人」の方に入るのが事実である。
「自分だけ幸せに。」なりたがっていたのは母親であり、そのために私や妹を持ち駒のように動かしてきた。思い通りの学校に有無を言わさず入れ、お金を徴収し、小銭を数えて小さな幸せに浸ってきたではないか。それが今帰ってきているだけではないのだろうか。親に捨てられることと、テレビを見れないことのどっちが不幸かよく考えてほしいものである。
私は母親に会うと鬱が入ること、実際に話をしても仕事を辞めて家で面倒を見てくれとか言われるだけでうっとうしいから見舞いには行かないと正直に言った。するとおばちゃんは、自分のところの息子夫婦、娘夫婦がどれだけよくしてくれて、どれだけ幸せか語るのだった。そりゃ普通の親子関係ならそれでいいのだろうが、うちは違うのだ。なんでそれを理解しないのだろう。
別にばちが当たろうが、地獄に堕ちようが、私は母親の思い通り(ダンナと離婚して、母親を引き取り、家で面倒を見つつ、仕事をする)になる気はない。大体、ダンナか母親かどっちか選ばなければいけないという状況が異常な気がする。しかし、実際はそれしかないのである。母親はダンナが気に入らず、未だに「アンタはあの男に騙されている。お母さんが言ってあげるから。」とか言っているし。妹には「大阪に帰ってきて、お母さんと一緒にスナックをやろう。」としつこく言っていた。
腹が立つから病院に行って母親とおばちゃんの目の前で灯油をかぶって焼身自殺でもしてやろうかと思ったがバカバカしーからやめた。そんなことしても今度は妹に私の任務が回るだけで、まさしく「自分の幸せだけを考えている。」状態になってしまう。
今は堰になってわるいものが回りに流れ出さないようにするのが私の仕事かなと思う。「柳に枝折れなし。」と精神科の先生が言ってくれたし。うわべだけはおばちゃんに感謝しているふりをして、適当にやりすごそうと思う。ありがとうございます、すみません、至りませんでした…。それだけ言ってればいいんだし。
私の回りの人たち、幸せになってください。
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