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2002年07月13日(土) 知らなかった世界を知ること

社会の中というか、人の心の中には確かに偏見はある。それらの偏見は信念かあるいは憎悪の塊の域にまでかなり頑固に渦巻いているものだということを、ロミオとジュリエットの物語を読んだ私は少女の頃に二人の家の人たちの感情を馬鹿らしく感じたけれども、実際にこの日本の現代社会の中にも大真面目にあるものなのだということを勉強させてもらったことがある。それはとてもはたから笑うことなどできない大真面目なものなのだ。ある人から見れば、この人とあの人がお互いにどうしても好きになれないというようなことはとても残念なことだけれど、当人同士はそれを問題にすることすらくそ面白くもない苦虫だ。
傷ついている人は自分の中の傷やそれに触れられることによって感じてしまう恨みや憎しみのような感情に耐えられない。直視できない。血肉をえぐられるような苦痛というものを自ら持続することは自然ではない。苦痛は一時の物として忘れたいものだ。酷い誤解や、あるいは、否定できない軽蔑の感情、あるいは、
思いがけない不愉快な屈辱、自分一人の力では拭いきれない、親から代々受けてきたような確執の感情は、ありのままの自分を正しく理解してもらえるかどうか信じられないような人間関係の中では、笑うのも悪い気がすることがある。勿論いつもいつもそういう状態というわけではないからこそ面倒なものなのだ。そういったことから開放される時がある。そういうことがあるからこそ、生きていられるのだ。誰だって
血の通った人間で、そして自分を正しく好意的に理解してもらいたい願いを持っていると思う。疲れているときには労わってもらいたい。またその時の自分に適合した雰囲気で労わってもらえると、とても自然に感謝の念が湧いて来るが、ずれると辛くなってしまったりする。嫌悪の感情をあまり直視しないできたタイプの
人間には、自分の受けた屈辱を直視してそれを憤るという行為は苦痛だし、骨肉の争いも苦痛でしかない。何とでも思ってくれと土俵をおりてしまったり。
立ちたいと思っていたわけでもない役になるはめになってしまったり。自分以外の
人が犯した間違いのために蒙る不本意さとか。親の因果が子に報いなんて許せない。親は親。子は子だと思う。
しかしどじで身勝手な子供だった私がこんなに子供のことで心配性になるのも滑稽な現実だ。
人はどうしようもない現実に挫折すると、沈潜して無垢だった自分を探したりする。

いや、ちがうなー。偏見じゃないな。間違いだな。アー頭痛い。久しぶりにチャットしたら、少しまた眼球が痛い。でも、地球の裏側と交信できるのってやっぱり
面白かったりする。チャット初心者っていいなあ。

さて、もう7月半ばか。ええと、お中元???

まともってなんなんだろうなあとあらためてまた思う。人は生まれながらにして
自由平等博愛、とフランス革命の理想は謳われたらしいが、日本は自由主義社会で
資本主義国家でしたっけ。
何に資本を投じるかな。








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