�蠧�記
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ゆうべは何時に寝たのか。旦那さんが帰ってきたのは覚えているんだけど、 起きられなかった。
今朝も旦那さんが仕事に出かける時機嫌が悪そうだったが、起きられなかった。
旦那さんは確かに辛抱していると思う私に。でも、なかなか私は旦那さんの期待に 応えられない。
そんなに大きな期待はしてませんよって旦那さんは言ったことがあるけど、でも、私にこうであって欲しいというものはある。だからそれが満たされないと機嫌が悪くなるのだ。旦那さんも疲れているからだ。
私がちょっと旦那さんの期待に応えると、とても喜ぶ。それは自然なことだと思う。旦那さんは神様でも仏様でもなくて、旦那さんだから。
でも、例えば、旦那さんが喜ぶような料理を出した後に、喜ぶのはいいが、やっぱりおかあちゃんじゃなくちゃだめだ、ということで、よろしく、とか言うのは、不愉快だ。ただ黙って喜んでいればかわいいが。結局おだてて家事をやらせようという気持ちが透けて見える。こういうことを不愉快に感じていて、心から愛せないと いうのはわがままだろうか。折角しんどい気持ちを引き立てて夫を愛そうとしているのに、随分失礼な態度だと思ったのだ。で、こういう、お互いくたびれていて出てしまう失礼さっていろいろある。旦那さんからも私が自分に対して失礼だと感じるところはあるみたいだ。失礼な、と言うことがある。でも、私には自分がどう失礼だったのか理解できない。どう失礼だったのか、知りたいと思う。今度聞いてみよう。失礼な、っていつか旦那様おっしゃったことございますけど、私はどういうふうに失礼だったの?って。でもそういわれても以前そんなふうに怒った時の感情なんてうまく説明できないだろう、パパさんには。同様に彼も私を妻として愛しているのであって、何も私に失礼なことなどしていないと思うだろう。当然の願いを口にしただけなのだ。ママが作ったご飯は美味しいって。だってパパさんは本当に 働いて疲れて帰ってくるんだから。ママが元気で働いてくれることはただ自然な感情として嬉しいのだ。それを私は不愉快なのではない。これからも元気でやってね、よろしくって。よろしく、というのが余計だと思う。要するに、『やらせ』を不愉快に思う感情なのだ。この感情はわがままですか?会社の上司なんかでも、こんなふうな言い方することあるんじゃないかと思う。ほっとした感情が出てしまうのだ。いろいろ心配したりした後だから。いろいろと都合があるものね。 でもね。このままじゃ困る。なんとかしなくちゃ、ということで、思うように働いてくれない部下などをうまく働かせるノウハウなどを勉強してうまくやろうとしても、やはり、やらせよう、という意識がいやらしく見えてしまうことってあるね。 馬鹿だったらいいんだけど、馬鹿じゃないから困っちゃう、とかって旦那さんが ぼやくのは、私にこういうところでカチンと不機嫌になったりするところがある からかもしれない。でもこれも理解できない感情ではないんじゃないかと思う。 つまり旦那さんはあたしを愛しているんじゃなくてただ惰性だろう、とか、そういう時期なんですね。おいおい、そんな子供みたいなこと言わないでよ、って 旦那さんはげっそりするだろう。
前の夫にしても、例えば外食に連れて行く時に、美味しいものを食べさせないと 美味いものは作れないというからな、などと言いながら食べさせる。つまり美味しいものを作ってくれよ、と暗に要求しているのだが、ここに自己愛がにじみ出ていることに本人は恥とも思わないのだろうか?どうして、ただ美味しいものを妻に 食べさせてやりたい、というだけの気持ちで食べさせられないのだろうか。つい 願いが要求のようににじみ出てしまう。美味しいもの食べさせたいと思っているに 決まっているじゃないか。こういう言い方は苛めだ、と思ったりする。たぶん彼には妻の内助の功の上に立って為したい善行がいろいろあったのだろう。それを私は 助けられなかったということだ。
彼の優しいパパさんは、彼がガンの奥さまが入院した時に3日に一度は見舞いにいったくらいであいつも男だなと息子に感心したという話だが、私の父は毎日欠かさず母を見舞ったので、3日に一度くらいでは私は感心もできない。こんな私みたいな女の旦那さんは気の毒だと思われるだろうが、私はそういう自分の方が気の毒な女だと思う。3日に一度のお見舞いに感動できる人よりも気の毒だ。夫が毎日見舞ってくれないと不満だなんて不幸だ。そんなことは私の旦那さんには無理だろうから。 私の父が不治の病になった母を毎日見舞わずにはいられなかったのは、それだけ母が全身全霊で父を愛してきたことに対する当たり前の反応であって、それは人と 比べられないものなのだ。 親は親。私は私だ。
こう(つまり結婚して子供もできた)なってしまった以上元気にやってくれないと困るという、旦那さんとしては『当然』の願いなんだ。現実だよ、生活だよ、という声だ。それを要求される時、私はとても不愉快になる。そんなことは言われなくてもわかっているわい!!と腹が立つのだ。私がそうしたくないとでも思っているのだろうか。私は元気になりたいのだ!旦那さんの願いくらい朝飯前に片付けて、自分ができたらいいなと思う仕事もしてみたい。
理解しあう、とか、与え合う、とかいう世界には、やはり程遠いのだ。
愛されるよりは愛することを、与えられるよりも与えることを私が求めますように、という祈りがあった。このお祈りをしてみるしかないかな、などと思う。
突き詰めてみると怖いことって隣り合わせだ。娘が誰だって死と隣り合わせだけれどなどとわかったようなことを言っていたけれど、突き詰めてみれば確かにそうだ。
だから心置きなく家族や隣人を愛せよと。なんでこんなにくたびれ果てているあたしが愛さなくちゃいけないのよ、と神様に問う。全知全能だか何だか知らないけれど、神も仏も酷いと思う。娘の父親は神様だけを酷いと言ったけど、神だけじゃない。仏様も酷い。お釈迦様だって酷い人だと思える節が多々見られる。慈悲深い御仏もただ穏やかに静に微笑んで。
情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈か。それからなんだっけ。智に働けば 角が立つ。とかくこの世は住みにくい。そうだねえ。
で、住みにくい世を住みやすく、とて、何が生まれるの?芸術か。
秋ですね。
ところで、呼び方って暮らしの雰囲気を醸し出す。
私はどうして息子の父親を旦那さんとかパパさんとか呼ぶのか?旦那さんというと なんだかお寺さんを思い出すし、パパさんというと、教会かも、などと思う。パパという呼び方には、例えば援助交際のパパさんのイメージがふとしたりもする。 お金を貢いでくれる存在とか。つまりなんと言っても妻にとって、妻じゃなくても、女にとって、というわけでもないかな、生活力のないものにとって、つまり疲れているものにとって、お金を運んできてくれる存在はあり難いのであって、そこにどうしてパパという呼称がつくのか?
お金自体がいやらしい存在なのではない。お金を汚い物だという意識も最近は 全体に薄れていると思うが。
つまり苦労して得たお金とかものを、大事に思う人にあげている。思わなければ あげたくないだろう。男の子が貢ぐということは、その男の子がその女性を大事に しているということ。だと思うから、私は旦那さんをとてもあり難く思うのだけれど。
息子が一人前の社会人になって妻子を養っていけるかと思うと、とても気が遠く なる。大変なことだと思う。でも、当たり前のことだったんじゃないの?昔はね。 女子と小人は養いがたし、って言われたんですよね。おんなこどもを養っていくのは大変だって。
養っていこうと思わなくても、助け合っていくという考え方はある。 共稼ぎの夫婦とかだと、助け合って暮らしているのだと思う。
兄嫁たちは兄のことを名前で呼んでいたと思う。
どうして私は旦那さんを名前で呼ばないのだろうか。
例えば旦那さんには幼なじみがあって、その友達にはかわいい呼び名がついている。親しいもの同士が呼び合う呼び名。
そういう人が私にはいない。どうしても、さん付けにしてしまう。距離を持って しまうのだ。たとえ友達がちゃんづけで呼んでくれても。
旦那さんは子供の父親だから、彼が私をおかあちゃんと呼ぶのをを私は嫌いじゃない。亡くなった父も母のことをおかあちゃんと言っていたような気がするから。
しかし、よそのお父さんでは、例えば、奥さんのことを、かあさん、と呼ぶ場合も あると思う。
で、パパさんが私を、かあさん、と呼んだ場合のことを想像すると、なんだか 慄然とする。なんだか、改まってしまうような気がする。
例えば、私は兄のことを子供の頃おにいちゃんと読んでいたが、今は名前で @@さん、と呼んだりする。これは距離を持とうとしているわけだが。つまり 妹だと思って気安く説教してくれるな、そのくらいのことは私は十分わかっているのだみたいな態度になるのだ。 けっこう久しぶりに会ったときなどに、私がおにいちゃんと呼んだりすると、 何となく喜ばれたような気もする。でも血を分けた兄弟でも親子でも夫婦でもお互いのことなんて全然わかっていないのだ。それ以前に自分自身のことがわかって いなかったりする。
この日記を書いているうちに、パパさんが、ゴーヤチャンプルを食べた後で、これからもよろしく、と言ったことにぐっとプレッシャーを感じた気持ちは消えてしまった。 やっぱり私が神経質な部分が出ちゃったのだろう。
運動して帰ってきて、ああ疲れた、というような快い疲れとはちょっと違った、精神的な疲れがとれていないから、要求されると神経質になるのかな。 元気のないものに元気になってくれと言うのはしんどいのだって、精神科や鬱病 患者の中では常識なんだけどな。たぶんパパさんは私が元気そうになってきたので油断しちゃったんだな。
こうして読み返してみると、随分私って酷いなと思う。
どうしてこれからも元気にご飯作って欲しいといわれるのが不愉快なのか。 元気ならばこんなことなんでもないことなのに。愛していれば?
愛情がないのかな。そんなことないと私は思う。
明日何をしてあげるとは約束できない。
でも今日、いま、旦那さんを大事に思っている。感謝している。たぶん愛している。これは本当。旦那さんが私や子供を大事にしてきたことも本当だと思う。 旦那さんにはここしかないのだ。旦那さんは私を頼りにしている。
なんだか大袈裟な大仰なこと言ってるみたいだな。でもいいや。思っちゃったんだから仕方が無い。日記は思ったことを書くところだよね。
愛なんて言葉は無い方が楽だったりするのだけど。
さて、新聞は資源ごみに出したけど。
本を処分するか。
夫婦の相互理解って外国語より難しい瞬間がある。違っているから惹かれたというのに。
自分自身の反応に驚いたりするんだから、核融合みたいなものじゃないかな。
結婚に限らず、同居とか、共存って大変だと思うのは、自分の感性で思いやりを持っているつもりでも、相手がそれを理解してくれなければしかたが無いということだ。
だから少なくとも、自分は自分なりに理解したいと思う。状況を。そうしてどう考えているか理解しているか認識しているかを伝えたいと思う。これは言葉だけで 伝わるものじゃないけど。
ふと我に帰って。
今晩は三つ葉と椎茸と溶き卵のおつゆだ。それから何にしよう? 蕎麦にしようかな。
それから、サトイモの煮っ転がしとか。イカリングとさといも。これも、売っているお惣菜じゃなくて。自分で炊く。
毎朝愛妻弁当とか作っている人もあるんだなあ。さすがだと思うが、比べても仕方が無い。私は私だ。でも、できたら作りたいな。毎朝早く起きてお弁当作って仕事してって忙しく生活している人もあるんだ。すごいなあと思う。
餃子も作りたくなってきた。今日餃子作れるかな。ちょっと自信ないけど。
いつかもうちょっと元気になったら作ろう。
狂気というのは確かに不幸な感じがしますね。割と世の中には平気で狂気が まかり通っていたりすることがある。平気かどうかはさておき。小説よりも奇妙な現実が。こんなのあり?っていうようなことが。小説にしても諸般の事情で名前など変えてあるからフィクションですとか言っているが、やはりけっこう実際に いろいろなことがあるから小説になるのだと思う。
そんなものにどうして夢中になるか、というようなことが少なくない。昔から いろいろな狂気はあるのだと思うが。いけないとかやめたほうがいいとか言われていることにひかれたりすることがある。一般に、悪いことはいわない、それは やめた方がいいと言われることというのは、焼きもちで言っているのでもなんでもなく、本当にやめたほうが本人のためだからいけないと言っているのだけれど、自分で経験してみないと気が済まないということがある。で、経験してこりゃあまずいということが自分でわかり始めた頃には、自分ではどうしようもないところに きていたりする。
しかも子供ができて一人前に感情や人格ができていたりすると、もうごまかしようもないところへ追い詰められる。
私自身の心身のバランスも怖いことがあるけれど。とりあえず、うちの旦那さんは私に暴力を振るったりしたことはほとんどないから、私自身がマイペースで主婦業に励めばいいのだ。
で、最近友達と言うのは老若男女を問いたくない気がしているけれど、疎遠になっている同性の友人とか幼なじみなどとたまには懐かしく語り合ったりもしてみたい。
一体結婚といったものは、結婚に限らず、前もって賢く考えてできるものなのか?やってみなければわからないことってあると思う。理不尽な境遇に置かれているような気がして嘆いても好転するわけでもない。
でももし私が夫を愛しているならば、もし夫が私に耐えられなくなったら、潔く 一人になる覚悟は持っていたい。
やはり私は多少情緒不安定なのではないかと思う。これは努力で治ることなのだろうか?よくわからない。
今晩はビーフシチューを作りたいと思って買い物に出かけたが、一通り野菜などを 買ってルウの場所に行くと、クリームシチューとカレーのルウは何十種類というかんじであるが、デミグラスソースのシチューのルウはひとつも見つからない。ハッシュドビーフのルウを買ったので、それから、薄切り肉と角切り肉と両方欲しく なってしまったので、出来たものはハヤシライスのビーフシチューもどきみたいで 大成功という気はしない。
え?イカリングとさといもの煮物じゃなかったの?
料理の本を見たら、シチューにしたくなっちゃったの。
気が変わりやすいんだなあ。
大丈夫、落ち着いたからこんな料理なんかのことであれこれ思うのよ。
でも思わない?失礼ね。私のことが信じられないの?って言いたかった。
そういえばいつか焼き鳥のお店でパートしていたとき、のん兵衛みたいな でも人の良さそうな赤ら顔の雇われおやじさんとおしゃべりしていて、どういう話の成り行きだったか忘れたが、そのおやじさんが私に、あたしが信じられないの? って旦那に言ってやれ、とおっしゃったことを思い出した。
それで今思い出すのは、娘の父親と婚約した時、彼は一時的に東京に戻る私に 浮気しないでね、と言ったことだ。私はびっくりした。だって私の母は父の浮気で苦しんだ経験などなかったし、なしに亡くなったし、私は自分が浮気ができるようなタイプだとはちっとも考えていなかった。そういうこととは無縁の世界で育ってきたのだ。きっとそれは彼もわかっていたのだ。俺の信じていたお前じゃなかった のかな。あなたの信じていた私だったのに。
15年20年近くたって、やっと思う。 私はどうして彼に、あたしが信じられないの?って言ってやれなかったんだろうと。人の心を縛ることはできないからな、と彼は言った。なんとしょったセリフだろう。おままごとのようだ。
私ほど誠実な女ってあまりいないのに。それなのにまた壊れること傷つくことを恐れて自信が持てなかった。
シチューやハヤシライスは書いてあるとおりにシンプルに作るのが一番だ。肩のこらない暮らしがしたい。
なんだか眠っている時もいろいろあれこれと考えていたようなきがする。 何か模索している時なのだ。
将来を不安に感じたりするのはいやだ。何でもこい、という気持ちでいたいと 思う。
やっぱりこれは袋小路かな。
お洒落大好きっていう主婦ってチャーミングだなと思う。私も少し変わるつもりで、お洒落に夢中になってみてもいいと思う。それが旦那さんのためならば。
そういえば母は娘時代もんぺだったけど、決してお洒落が嫌いではなかったと 思う。私にももっとお洒落な娘になって欲しかっただろう。ガンで手術した後も、拾った命だからお洒落しようと思って、などと言っていた。子供の頃デパートなどに買い物に行っても、私はすぐに人に酔ってしまって買い物を母と一緒にきゃっきゃと楽しむことができずに、すぐに帰ろう帰ろう、と言って母はつまらなかっただろうけど。私だってお洒落が嫌いなわけじゃないのだ。息子が買い物に疲れて帰ろうと言い出したりするが、私もそうだったんだよなあ。
チェック1、2,3、4,5,6,7,8、
シチューもどきハヤシライスは今ひとつのできだが、子供は一応一皿食べたから、 食べられる。勿論私も食べた。
でも家の中で子供と2人で始終顔をつき合わせているのはいやだ。またできれば 外に仕事に出られたらいいと思うけど、性格的に無理かな。
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