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2006年05月08日(月)



 今日へギョンさんが横田さん夫妻の写真を持っている写真を見て目頭が熱くなった。拉致被害者の写真展に行きました。

 行方不明になっている人たちがみんな出てきて、交流を暖めることが出来たらいいのになあ。

 めぐみさんが生きて出てきてくれたらいいのになあ。

 ある環境に育って、それとまた違った環境の人と交流すると、両者の間に立って、相互に和やかに解釈してもらう言葉がうまく出てこないこともある。両方の人に情を感じていて、片方に非難されると、
どちらにも情を持っている場合、非難された方をかばって関係が悪化することもあるかもしれないし、またこちら側に自分の置かれた立場を説明しようとしてあちら側を悪く言ってしまったということもあるだろうし、そうすると面と向かって言われるよりも悪い印象が増幅されてしまうこともある。

 例えば女の子が自分の父親の理解を超えた相手と親しくなった場合、駆け落ちしてしまったりロミオとジュリエットみたいな話もあったりしたらしいし、通常同じ国内で特に拉致などの問題がなくても、環境が異なることから受け入れられなかったりして親から遠く離れてしまったりすることがあるらしいけれども、めぐみさんのように幼くして引き離された場合は、そこで長い時を過ごして少しはそちらの人たちとも人として情交があった場合、複雑な感情になるだろうと思う。横田さん夫妻としたら信じられないという憤りの感情は抑え難いでしょうけれども、お孫さんからしたら、やはりおじいちゃまおばあちゃまに笑顔で迎えられたいだろうな。

 自分が子供と別れる時に、父にこの場合別れて暮らすより他にないと言われたけれども、そういうことってよくあることなのかな、と他人事のように感じる。
 実際別れた子供の家族と直接言葉を交わそうとすると、単にごく素朴な疑問などを投げかけられるだけでも非常に心身をえぐられるような痛みを伴うことがあった。私などは出産の経験があるのだからそんな苦痛などは何でもないことなのではないかと思うのだが、出産の痛みはどんなに苦しくても報われそうな痛みだ。しかしながら人格を疑われることの不本意はとても孤独な痛みで、私程度のものでこんなに感じるのであるから、こんなに苦しいのに人の感情を持ち合わせていないかのように疑われることがこのように孤独なものであることを思うと、もっと酷く誤ってしまった人の孤独はもっと深いのではないかと思われるし、罪人は既にその報いを受けているというような言葉が聖書にあったかと思うが、それは本当にそうだろうという気がする。勿論罪は加害者の人格も損なわれ被害者も苦しまなければならず人と人との間を隔てるものだから、溝のあるところに何らかの橋渡しの奇跡が欲しく願われる。

 

 


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