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2010年03月02日(火) レッドクリフと三国志

慢性閉塞性肺疾患
読み方:まんせいへいそくせいはいしっかん
【英】:Chronic obstructive lung disease,COPD


たばこの煙など毒素の吸入により免疫反応が続いた結果、破壊された組織と増えたたんなどによる気道閉鎖がおこりやすい状態。
 たばこの煙を代表とする吸入された毒素によって、免疫反応が引き起こされ、その結果増えているたんなど排出物による気道の閉鎖がおこりやすい状態です。
 たんを伴うせき、息切れが何年にもわたって続き、息を吐く時間がのび、ぜいぜいするという症状があります。ひどい場合には、体重減少・やせ、気胸、心不全や呼吸不全を伴います。
 長い経過を経て至る状態でありそもそも気道や肺胞などの組織が破壊されてしまっていること、またたんなどによる気道の閉塞そのもの、とから、肺炎などへの進行へつながりやすく、また階段や坂道をのぼるといった、ちょっとした日常生活での運動でも息切れが出てきます。重症の場合には、携帯用酸素ボンベなどを用いて、酸素を補充する必要があります。

 私の心肺機能はへなちょこだけど、たいして重症じゃないな。ひどい場合には体重減少、やせってところが違う。違う。改善の余地はある。

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 ゆうべ『レッドクリフ赤壁』の録画を見て、とても面白かった。三国志の物語についてはほとんど全く知らなかったので、検索してみた。

 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』(陳寿による史書)が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。byうぃきぺぢあ

 レッドクリフは三国志演義(羅貫中による小説)的なのかもしれないな。
でも確かに面白い。

 呉宇森(ジョン・ウー)John Woo 香港

 梁 朝偉トニーレオン  Liáng Cháowěi



 建安13年(208年)冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉��を降し、長江を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍周瑜の部将黄蓋の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。

 

史実の劉備 若き日

 父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。

 家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。

 諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。

 
 208年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見を入れて開戦を決断した。孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより、曹操の水軍を大いに破り、江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。

 

 魏 曹操

 蜀 劉備 諸葛亮

 呉 孫権 周瑜


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 今思ったのだが、どうしてchronic obstructive lung deseaseがCOPDなのだろう?略だとしたら、COLDではないだろうか?だとしたら、ただの風邪?
いや、風邪は万病の元?

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 2010年は、作曲家フレデリック・ショパンの生誕200年

まだ200年しか経っていないのか。と言っても、1810年って19世紀の初頭。フランス革命からいくらも経っていない。 






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