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命は授かりものなんですよね。
どんなに頑張っても私が自分で自分の寿命を伸ばしたりすることはできない。子供だけじゃない。私の命だって授かりもの、私のものじゃないんだ。 死ぬかもしれないと感じて心細くなって孤独な死を恐れたりするようになったのはある意味自分の弱さ醜さ情けなさ無力さをありのままに感じられるようになったということ?
何ておっしゃる方だったか、禅宗、臨済宗だったかのお寺さんは、自立していなくていいのだとおっしゃった。何ていうご本だったっけ、自灯明? そうですよねそうですよね、と嬉しくなった。だって家族やグループでなら 自給自足も目指せるかもしれないけれど、自分ひとりで生きている人なんて 今まで一人も拝見したことがないもの。
イエス様は親兄弟を捨ててついてくるのでなければ駄目だとおっしゃったし、親鸞さんも先祖供養のために念仏申したことなど一度もないとおっしゃったけれども、これって私には自立しろと言われているような感じ。 親鸞さんは9歳で得度。お山で随分苦行なさったのだろうが、その時にお世話になった師もあったろうが、法然様に騙されているとしても構わないという程念仏の教え一つで往生された。法然上人も幼くして得度せざるを得なかったんですもんね。
私は49歳になってもまだ得度もできないし、洗礼も受けていない。9歳の頃と言えば、伯母の家族に世話になって富士山の五合目まで車に乗せてもらった程度だ。
小学校低学年の頃か、そうだ、父方の祖母が脳血栓で倒れて口が利けなくなって同居して母が介護を始めた頃か、ある時母は突然目を三角にして、お前は神様を馬鹿にしているよ!と怒ったのだが、これは眠っている時に突然猫が落ちてきて顔を引っかかれた時や、突然近所の男の子にものも言わずに石を投げつけられた時と同じくらいに、心臓が縮まる出来事だった。
私はその頃、怖い夢を見ないようにして下さいと神様にお祈りしてからでないと眠れなかった。実に大真面目なお祈りで、断じて神様を馬鹿にしたことなどなかったのだが、言いがかりをつけてくるのは見ず知らずの他人よりも肉親の方が多いかもしれない。
私自身辛いこの世に、子供を送り出しても構わないと思ったのは、ただただ出産というものに一縷の望みを抱いていたからに他ならない。私は子供の世話が好きというわけでもなかったが、泣いていた生まれたての娘を初めて抱いた時、私の腕の中で泣き止んでくれたのが嬉しかったという、ただそれだけのことで、祖母や母のように3,4人くらい生みたいと思ったりしたのだ。
しかし確かに女子供は養いがたいものに違いない。16歳から突然4人の子持ちになってさらに4人生まなければならなかった祖母は生まれた時には既に常時戦争の世の中。戦争に負けて世間の目が冷たくなったって何の申し開きも できやしない。母が疎開もせずにせっせとミシンで下駄の鼻緒作りなどの内職をして姉弟と助け合えたのは、飢饉で貧困家庭の娘が売られたり口減らしをされたりするよりはずっと恵まれていることだった。不景気になれば兵隊か身売りだろう。百年の間にはお金の価値なんてのもてんで乱高下で当てにならない。祖母が娘の嫁入り支度にしこしこと貯金していたお金なんか霧散だ。母が積み立てていた年金もその前に死んでしまえば後妻さんへの心づけだ。
アメリカにも貧しくて不景気で仕事もなく兵士に志願して外国に飛ばされて命を落としたり帰国しても社会復帰できなっている若者が少なくないと言うが、職業軍人もある。私の生まれる前に亡くなってしまった母方の祖父は軍人だったというが、太平洋戦争後まだ何年か生きている。外国に勝たなければ、人を殺さなければ、大勢の愛する人の死に目に遭わなければ、わが子にも先立たれなければ、暮らしが成り立っていかなかったのか。私が小さい頃お会いした事のある自衛隊の落下傘のおじちゃんという人がとても精悍な男前のお兄さんだったが、私は逢えなかった祖父の往年の写真も優しそうで男らしい精悍な感じの壮年だった。年寄りには見えないまっすぐな姿勢だった。台湾征伐がどうのこうの高砂族がどうのこうのと父や祖母が口走ったことがあったが、私が10代の頃は、軍人のおじいちゃんよりも音楽家のおじいちゃんの方がかっこいい気がするような日本になっていた。他所の国で大砲をぶっぱなしたり人殺ししたりおまけに大負けして責任者が戦争犯罪裁判にかけられたりするなんて、私の親戚は軍人です、なんて恥ずかしくて大きな声でなんて言えない。でも戦争の批判をしても母は絶対私に負けていなかった。きっと素敵で優しかったお義兄さんが頭に弾丸の貫通したヘルメットなんぞだけを残して散ってしまったりしたのだから、母もたまたま珍しく日本の弾がB29に当たったりした時には大喜びの愛国少女だったのだ。母に言わせれば外国の政治家がとっても意地が悪かったのだ。
しかしながら、私は高校生の頃だったか、英語学校のアメリカ人の英語教師につたないスピーチをほめられて、おいおい泣いてしまった。 褒められること、努力を認められる事に慣れていなかったんだ。四年生の大学に受かったって女の私は褒められなかった。祖母の内孫である同い年の従兄弟が同じ大学に受からなかったからといって祖母のお覚えはめでたくなかった。だけど祖母の葬儀の時、彼もいい伴侶に巡り合えたことが感じられるような昔のままの善良そうなおじさんになっていた。というのは、御髪がうちのお父さんの減り方に似ていた。だから彼も妻子にも気苦労があるかもしれないが、私はお会いしたことのない彼の奥さんもさほど不幸せではないような気がする。
何があっても女の子は素直で明るいのが一番だと母は言ったけれど、私は伯父の葬儀の時に従妹たちがおいおいと泣けているのが羨ましかった。何故私の夫はゆっくり泣かせてくれなかったのか。私が母親だから?私は彼の愚痴をみんな聞いてあげたじゃないか。彼のお父さまの愚痴だって聞いてあげたじゃないか。彼のお母様が泣いていた時もそっとしておいたではないか。それなのに他所に嫁いだ若い母親は親の死を悲しむ事もできないのか。親兄弟を捨てて嫁いできたのだから?
私は初孫に生まれたい。そして今度は親兄弟の言うことに騙されたりしないで、誰にも騙されたりしないで、自分を貶めたり犠牲にしたりしないで、自分の大事なものは自分で守る。自分を傷つけるものを安易に許したりしない。信用したりしない。それなのに私の大事な自分も子供も私のものではないんだ。私はボケて忘れたふりをするしか道が無い。私にはお金を運んでくる才能なんてないんだから。食べ物が欲しければ、お金が欲しければ、目をつぶらなければならないことがある。持っているものは持っていることを思い煩い、持っていないものは持っていないことを思い煩う。持ち家がないのがどうだというの?故郷がないのがどうだというの?明日のことは明日が思い煩う。今は雨露を凌げる。屋根の下で眠りたいがために不法侵入したりせずに済んでいる。
たまたまどういう成り行きでかクリスチャンの教会に入ってしまった時には周りの女性が聖水で手を清めたのを見て真似して、他の人が切っている十字を真似して十字を切った。神社では拍手。お寺では合掌。回教徒にはサラ −ムアラーの思し召しのまま。でも私に何が望めるのか。
強情で暗いと言われても私にはどうしようもない。強情で暗い人を好きになる。怒っている人を好きになる。素直で明るい人が空虚に見える。でも素直で明るいのは私じゃないか。
明るいのが取り柄だと思っていたらその明るさが疲れると男の子に言われてショックだった素直そうな女の子。彼女も早くに弟さんを亡くしたけど、ご両親のためにきっと悲しみに暮れていられなかったのかな。気を引き立てて努めて明るくふるまわなければいけなかったのかな。その健気さを理解して助けてくれる人に出会えたかな。
私にとって母の底抜けの笑顔は憧れだった。もんぺだろうが何だろうが 生き生きとした表情は野の百合だった。お見合い写真よりも私が生まれてからの母の方が百倍も美しかった。だから私は自分が生まれたことを後悔したりしない。
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