始まっちゃったね。 - 2001年10月08日(月) 何がって、空爆。 どう転んでもやるとは思ってましたがね。 『神』とか、『正義』とかいう言葉がジェノサイドの合図になるなんて、きっと神様もびっくり。と、無宗教国家の安全圏にいる平和ボケした私は思ったり。 神様って、『居る』モンじゃんじゃなくて、『在る』モンでしょ?人間の為に。…って、コレ前も日記で書いた気がするな。 『神の名のもとに戦え』って何だよ、とやはり無宗教の私は思うのでした。 何言ってんだかサッパリ解んないんだもの。神は戦いを嫌うモンなんじゃないかと思ってる人は結構居るはずだ。少なくとも、断片的にそんな感じで教わったような気がする。無宗教国家の人間でも『諍いはイカン』と思えるのに、どうして宗教国家が戦争を大肯定できるのか、世界七不思議少なくともトップ3には入っちゃいますね。 神様(どの宗教に拠らず)の持つ倫理とか道徳とかは大好きですが、こーいう風なのは…血を流して闘いに応用されるのは、もう『神』じゃないんじゃないの? とっても嫌な気分ですね。 私にとって神とは、『とても都合のいい存在』だ。 友人との宗教観(どこの宗教だかは一切知りませんが)に悩んだ私の実兄が、私にこの質問をしてきたとき、私が少しも迷わずキッパリ答えた言葉です。 だって本当にそうなんだもん。何を怨んで良いのか解らない苦しみや哀しみの真っ只中(失えない人を亡くしてしまったときとかね)で、都合よく怨む対象。 或いは、この人に出逢えて良かったと、ほんの日常にふと、何かに感謝したいとき、感謝する対象。あとは、断片的な倫理と道徳の応用。 それ以上のものには絶対ならないから、私は宗教にはハマらないんだろうなあと思う。自分が本当に困っているとき、実体のない『神』に縋ろうと思わないから。縋るなら、やっぱり実体があって、私のことを思ってくれてる、愛する友人さ。 この、私にとっての『友人』の価値観が、宗教国家にとっっては『神』に代わるのか?でもなんか違う気がするぞ。ってゆうか絶対違う(笑) 同じ社会通念が通用するのは、100年が限界なのだそうだ。それを超えると、もはや『過去』であり、その社会通念は100年後の子孫たちには理解されない。 同民族でそれなんだから、異民族はもっとだろうな。共感を得ようってのが間違いなんだろう。それぞれの国で、それぞれの社会通念の中で、それぞれのカテゴリ−で生きてる。 いくら理解しようとしても、『常識』が違う。 そんな、『常識』が違う国同士の間に、共感を持って関与するってことは絶対できないんでしょう。100年前までは、腰に大型ナイフ刺してる人たちがうろついて当たり前の国だったんだもんね、ココも。今やったら銃刀法違反だ(笑) 『常識』が違う国同士の間で、『どうしても譲れないもの』を譲らせるために殺し合う。『常識』を譲ることなんか絶対無理だ。国ごと洗脳でもしない限りは。 それを多分解っていながら、アタマ同士は安全圏でコマをぶつけ合う。 古来、ソレは世の常識のようだけども、そんな『常識』がまかり通っていることに、軽く虚脱感。 私はどっちも支持できない。『許す』ことがとても難しく、同じ苦痛を与えたいと思う事も解るし、でも、『まんまと乗せられて宗教戦争か!?』と思う気持ちもホントだし。宗教戦争なんかバカバカしいとも思うし、でも当事者が大マジメだという事も何となくだけど解る。 どっちが正しいのかねぇ。どっちか正しいのかねぇ。 歴史は勝者が作ることも、世の習いだ。 今回のことは、どう記載されるのか、10年後あたりが気になるところだ。 あぁ、虚脱感…。 -
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