普段、“生きているということ”を自分がどれだけ意識しているかと言えば、まずほとんど考えていないと言っていい。嬉しいとか悲しいとか忙しいとか楽だとか、涙とか笑いとか怒りとか喜びだとか、それぞれがすべて“生”の上に成り立つ感情だったりすることを、俺達は日常まず忘れている。
仕事上で付き合いのあった建設業者の営業マンが、今朝、亡くなった。 交通事故らしい。
今月の上旬にとある契約を俺と一緒にまとめた営業マンで、先週の金曜日に今日のアポイントの確認の電話をしたばかりだった。今日も、そのアポイントの一時間ほど前に俺は彼の携帯電話に時間確認の電話を入れたのだが、留守電になってしまい、俺は一言二言のメッセージを残した。しかし、その頃には彼はもう――。 聞けば、彼は32才。どう見ても俺より年上という風体だったし、なにかこう話しぶりや仕事ぶりに貫禄すら感じる、かなりバイタリティのあるバリバリの営業マンタイプの男だった。子供も二人いる、と彼の上司にあたる人に聞かされた。 契約がまとまった後、俺は彼の尽力に感謝し、「お店がオープンしたら、一席設けましょう」と言うと、彼は右手の小指をそっと付き出し、「コレがいるところがいいスね」と、いたずらっ子のような笑顔を見せて自分の営業車に乗り込んだ。
仕事上の付き合いしかなかったと言えばそれまでだが、それでもつい最近まで一緒に仕事をした人がもう二度と俺の目の前には現れない、というのはショックだ。突然、神様に選ばれてしまった彼は、今、何を想う。
俺達は生きている。これは何にも勝る奇跡だ。 俺達は生きている。生きている。
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