| 2003年07月31日(木) |
形あるもの(過去の映メモつき) |
「自由の女神」 自由の女神がいるからこそ 僕は不自由でいられる
不自由であるからこそ 自由を求められる
自由を求められる不自由さを 皆は自由と呼ぶ
「女王の百年密室の感想」(紹介文より抜粋) 森博嗣著「女王の百年密室」、読破 100年後の未来の話でしたが 世界から隔離されたような 人口150人ほどの人工的な都市が舞台なので そんなに未来的な描写ではなかったです 一応ミステリなのですが そんな感じがしない独特さが この物語の面白いところでした はっきりいって深い 深いからわからない わからないからミステリ そんな物語でした お気に入りの一冊になりました
「静と動」 人形やお面を被った人を見ていると たまにぞっとすることがある それは人が様々な感情を持ち合わせているからだ つまり 自分とは違う存在に思えるから ぞっとするのだ
しかし 時に人は 自らの感情の変化に戸惑う それは変わっていく自分が 自分でないように感じるからである そんな時 人は人形に憧れ お面を被る
「起動率12%の目覚め」 立ち上がりは極めて遅い まるで様子を伺うように 始まりはいつも助走スピード
なぜ起き上がらなければいけないのか いつも思うけど きっと未練のようなものがあるからだ だから起き上がるのだ 昨日までの自分に満足していない だから起き上がるのだ
何かを思い出す 昨日までに形成された自分を 思い出す それが本当の自分か いや、疑っている暇はない そもそも疑っても意味がない
そう 何故思い出すのかを思い出した それは不安を貯めないためだ、きっと ここはどこ、私は誰 なんてならないように思い出すのだ
刻まれていく青い体験 白い衝撃 赤い空間 黄色い過去 灰色の家路 紫色の疲れ 緑色の不自然 などなど・・・
一見カラフルなものが頭の中で渦巻くけれど そのうち混ざってしまい、気がつくと真っ黒 混ざらないうちに今までのことを思い出し 僕は自分を取り戻し 不安を切り離し 何かから逃げ 安心を手に入れ 不自由に慣れ 自由を怖れ 闇に溶け込み 形が消えてしまった自分を思う
起動率12%の目覚め それは必然的なもの 急に立ち上がろうとすれば潰れてしまう 記憶が飛び 自分がわからなくなる だからいいのだ 起動率12%で
―END―
ついしん 【映メモ24】 2003年7月初旬 「めぐりあう時間たち」を劇場鑑賞。 7/6日分の日記に感想書く予定だったけど・・・ 見てよ、その日の日記。 中途半端な所で終わってるでしょ? 実は一度書いたんだけど、バグった消えた。 もう書く気しないので書きません。 たぶん。 書いたら書いたって言います。 でも、好きな雰囲気の映画でした。
【映メモ25】 2003年7月初旬 「バトル・ロワイヤル�供廚魴狆豐嫋沺� 前作より意義深いものとなっておりました。 一応<深作欣二フィルム>となっていましたが、本当は本編は息子がほぼ撮ったらしいです。
【映メモ26】 2003年7月14日 「ターミネーター3」を劇場鑑賞。 前作よりストーリー良いような気がする。 カメラワーク、アクションは前作の方が好きだけど。 詳しくは7/14の日記に。
【映メモ27】 2003年7月17日と18日 「ムーラン・ルージュ」を観た。 監督は前作の「ロミオとジュリエット」でも男と女の許されぬ愛を描いたバズ・ラーマン。 今回も、男と女の許されぬ愛を描いたものでした。 しかし、今回はミュージカル。 昔のミュージカルって好きじゃないけど、このミュージカルは良かった。
打たれても痛みすらないのは タフになったのか? 麻痺したのか? (蜃気楼/Mr.Children)
とまあ、ミスチルのそういう曲に上記のフレーズがあるわけなんですが、本当にどっちなのか?ということで迷うことが日常の中でも多々あります。 タフ、っていう言葉はプラスのイメージを、麻痺、には反対のイメージを持っています。 どんな事も、捉え方次第なのでしょうか? 捉え方次第と思っていても、嫌なことは嫌なものです。 例えば、友達と一緒に公園を歩いていたら、バナナの皮で滑ったとします。 ところで「タイタニック」でローズの婚約者が階段を猛烈な勢いで駆け下り、2人を追いかけるシーンがあります。 その一連のシーンの中、一見その婚約者は何かを踏んで滑ったように見える所がありますが、そこをよく見ると、彼は踏んだはずの物体の上の越えてスライディングしているように見えます。 話が逸れましたが、バナナを踏んで滑ったことが自分では悔しかったとしても、友達にウケた、とします。 その場合、ウケたからといって、それをプラスのこととして受け止められるでしょうか? 僕には自信がありません。 滑った拍子に『大丈夫ですか?』とタイプの女性が駆け寄ってくれたらかなりのプラス事項として受け入れられるでしょうが。
―END―
「風」 私は風 皆 風のようになりたいって 言うけれど 私は更なる風に 吹かれてみたい
それとも 皆のように 私自身に吹かれてみたい そのとき 私は私を感じられるのか
案外大変よ 風っていうものも
「むなしい」 エアータオルに 手を入れた
電源が入って いなかった
それはまるで キョンシーのジェスチャーのよう
―END―
「Time is Moneyの呪縛」 お金で時間を買うだって? 例えば飛行機に乗れば 目的地に早く着くことができる 早い分 時間を手に入れたように感じるのだろう
しかし どこにいても 何をしていても 時間は流れている
本当は皆 お金で環境を買っているのだ
一刻も早く 目的地という名の環境を 手に入れているのだ
「まとめたい」 人は飽き性であるくせに 昔の思い出 特に 自分にとって 印象深かったそれを 忘れられない
普通人は 忘れられない思い出を持ったまま 普段生活を過ごしていく
ただ 昔と今 と言うように 時の流れを意識し 比べようとするように 忘れられない思い出を 今の自分の中に浮かべ 何かと何かを比較させようとする 又、それらを関連づけようとする
本当は すべてが異なった出来事で 唯一の共通点は 同じ人間の頭に残っている 記憶のかけらである という点だけなのに
それでも人は 異なったもの同士に 共通のテーマを見出し 関連づけ そこから何かしらの意味を 見出そうとする なぜだろう?
なぜ バラバラのものを どうにか1つに まとめようとするのか? バラバラであることが嫌なのか? まとめることが面白いのか? 面白い? 果たして面白いだろうか? そうでもないことの方が多い
きっと 自分なりに 理解しようとしてるのではないか? まとまりそうなパーツ同士で何かを・・・ 例えばゾウ、とかライオンといった そんな分類のものを1つ1つ創り さらにゾウはゾウ ライオンはライオン同士でまとめて それぞれの名前のラベルが貼られた引出しに 入れているのだろう
これがゾウ あれがライオンと決めつけることによって 安心を得ようとしているのか? それなのに 当のゾウやライオンたちは 個々に名前をつけてもらいたがる 個々はバラバラになりたがる そして 自分という1つの存在さえ 1つであることに疑問を抱く
「(忘+焼)却」 私は いらなくなったものを 燃やそうと思う
でも どうやって燃やせばいいのか わからない
そもそも 何で燃やそうと思うのか
それが1番処分するのに手っ取り早いから? それとも それが燃えているのが見たいから? それとも 燃え立つ炎を見たいから?
ただ そんな願望を持つことは 燃やし方がわからないから 虚しいとしか言いようがない
「目的」 例えば カラオケボックスへ入るのは何故か?
歌が歌いたいから?
それもあるが それならどこにいたって歌える 声さえ出せるなら
本当は カラオケボックスへ入る というのは 空間を買っている ということなのである
「猫舌」 猫舌 の私は アツアツが苦手
よって サメサメした後 いただきます
ただ 初めからサメサメだと 悲しいよ 何でかな?
「ゆとり」 環境問題を常に意識している人間ほど 余裕のある者はいない
「経過と結果」 結果が重要なのではない 経過が重要なのだ
経過なんてどうでもいい 知りたいのは結果である
―END―
「人のかたち」 人は 人の形をしているから どうにか人でいられるのか きっとそうだろう
そして人形も 人のうち ただ 人と違って 操る者が明確である いや 人が人形に 操られているのかもしれない
人形が人でないなんて 誰がそう言ったのか ただ 喋らないだけ ただ 操る者がいなければ 動かないだけ
人形は思っている なぜ人は自分で動いているのかと その方が気持ちがいいからなのかと ただ 僕らから見れば よくそんな不安定であるように見えるのに 生きていられるね と彼らは思っているらしい
彼らにとっての操る者とは つまり自分達を動かす者とは 人で言うところの重力のようなものだろう (推測の域を出ないが) 人は重力がなければ そして周りに何も物体がなければ 自由に歩けない いや 無重力の空間では 歩くという行為さえ有り得ない
人形は思っている なぜ人は 無重力の空間で 無理に体を動かそうとするのかと それはまるで滑稽で どうやらピエロが観客のウケを 狙っているかのように見えるらしい 一体僕らは 誰に向かってウケを狙っているのか
「人形の視点」 操られなければ 自らの体が動かない人形にとって 人は 脅威の存在であるらしい
「光と影」 光は闇を照らし 影は光の中に落ちていく まるで 互いのバランスをとるかのように
―END―
| 2003年07月26日(土) |
物好きな友達は持つベッキーはかわいいと思う |
上のタイトルは、途中から言っている内容が変わっています。 物好きな友達は持つべき、ということを途中までは言っています。 しかし、途中からは、ベッキー(タレント)はカワイイと思う(個人的に)ということを言っています。 だからどうだというのでしょーか?
ところでどうやら物好きな人が僕の友達にいるらしく、彼はメールにて、2日前の日記に載せた詩の解説を求めてきました。 短いのでもう一度次に載せておきます。
「転換よ 永遠に」 ジュースを飲みたいときは お茶を飲み
お茶を飲みたいときには ジュースを飲む
そうすれば どちらかを飲み過ぎたとしても 自分のせいではない
それは 自分のせいである (「転換よ 永遠に」終)
その彼に、メールにて解説文を送りました。 その解説をまるごと次に載せちゃいます。
あえて解説するなら こうするしかないかな お茶を飲みたいときにお茶を ジュースを飲みたいときにジュースを飲む すると その日1日を寝る前に振りかえった時 例えばジュースを飲み過ぎたな、と思ったら それは完全に自分のせいとなる ただ 日記に書いたように常に 思ったことと逆のことをしていれば たとえば実際ジュースを飲み過ぎたな、と思っても 本来はお茶を飲みたかったわけだよね? ということは、自分の意志の弱さによってジュースを飲み過ぎてしまったことにはならなくなる (※このことを利用すると、本当はジュースが飲みたいけど飲み過ぎると体に良くない、と思っても、(僕は本当はお茶が飲みたいんだ)と自己暗示すればジュースが飲める。意志が弱くてジュースを飲んだことには、理論上ならない。ただ、精神を病む可能性あり) という意味を込めてあんな詩を書きましたなーり 単純に言えば 意志とは逆のことをすれば 結果に対して責任逃れができるのでは? ということを言いたかったのでーす でもやはり自分のせいだろうな、と思って、最後に<それは自分のせいである>と言ってるの
このことは たとえばレイプ魔が 「レイプではありません。僕はあの人を愛していました」 と無謀ないいわけを言うのにも似ている 以上、解説終わり 納得した? (解説メール、終)
―END―
ついしん ベッキーに対してかわいい、と言ったのは なにも彼女の容姿のことを言っているのではありません ご了承あれ
ついしん なんかの金融のCMで <ほのぼのレ○ク>と言っているのが どうしても <ほのぼのレイプ>と聞こえる 本当にそう言っているのでは?と思うくらいだ 紛らわしく、不謹慎なので 故意でないにしろ、あのナレーションは録り直した方がいいと思う
| 2003年07月25日(金) |
GO(明日、宝生の舞台へ) |
「伝統」 伝統は何故伝わっていくのか? 伝えることに意味はあるのか? いや 伝統そのものにそれはない ただ 伝統を受け継ぐ者の中には それがある だから皆 それを伝えようとするのだ
「罪は罰の存在によって明確になり得るか?」 すべてが自由であるということは怖い
なぜあなたは生きるのですか? という問いに答えられないように なぜ人を殺してはいけないのか? という問いにも答えられない
ただどちらの問いも発することは許されるが あとの問いにはこう聞き返すべきだろう
<ではあなたは人を殺したいのか?> <人を殺したらどうなるのかを知っているのか?>
どちらの問いにもイエスと答える人間に 果たして殺人を止められるだろうか?
止める(機会がある)のならば 腕ずくでしかそれを行う方法しかない
「リセット」 たとえ何かをリセットしても 次にリセットボタンを押したとき 以前何かをリセットしたことを思い出し やがてその内容までもが蘇る
「不自然アイランド」 自然を受け入れることは 今となっては不自然な話である 人は常に 自然から遠ざかろうとしてきたのである
ただ 自分達とは違う自然というものの中から 何か価値のあるものを見出し手に入れるという行為には 不自然さを感じない なぜだろう
「裏返り」 忘れるとか 諦めるとか そいった言葉には 何かマイナスのイメージが内包されているように思われる だが そうではない
<つづく> その3文字が表わすものこそが 僕には真のマイナス要素である
忘れない 諦めない 何かについてのそういった状態が 自分を支配するのだとしたら それは退屈なことであり そのことは 睡眠効果を増大させる効果しかあげられないだろう
もし連続ドラマのエンディングに <つづく> と表示され その回の内容が先週と比べ進展がなかったら また来週も進展がないのかもしれないと思い 次回は観ないかもしれない 映画でも同じようなシーンが続けば 退屈に思う ただ 人生の連続ドラマは そう簡単に終わらせることができない(我ながらくさいと思う、この喩は)
ただし 例外的に 同じ状態をポーズさせるのが比較的困難なケースの場合 そしてそのことが異常であると感じられる場合 それが退屈には感じられない場合がある
だから 僕は時には何かを忘れ 時には何かを諦めるだろう そうすることが時には重要であるはずだから
―END―
今日から森博嗣著、Vシリーズ第5弾「魔剣天翔」を読み始めました。 本当は文庫化されるまで読まないでおこうかなと思ったのですが、我慢しませんでした。(同シリーズ第4弾まで文庫化済み) かと言って、ノベルスを買う気にはなれず、図書館で借りました。 それでも、文庫化されたら買うでしょう。 森博嗣の本は、僕にとってはコレクションアイテムのようなものですから。
その「魔天」の始まりの方にこんな文章がありました。
ところで、私は美術品がとても好きだ。その中でも、特に絵画に興味がある。それが好ましく、あるいは美しく感じられる理由(あるいは対象)は、物体としての「絵」そのものにはない。つまり、そこに描かれているものに対する美ではありえない。もしそうならば、絵画の写真を撮れば、ほぼ自分のものになるだろう。そうではなく、絵筆を持ちキャンパスに向かっている画家の姿、その目、その手、その姿勢、その生きざまのすべてが、つまりは「美」として、彼の絵の中に焼きついているのだ。 それを私は観る。
これを読んで、僕は頷かずにはいられなかった。 ほぼ同じことを僕も常々思っていたからである。 最近の日記にも書いたが、僕は映画が好きで、自分が凄いと思った映画がスタッフロールの部分に差し掛かると、決まって監督を初めとするスタッフに敬意を表さずにはいられなくなる。 物語の内容に感動するというよりも、それを創った人達に感動するのである。 『なんでこんな凄いものを創り上げたのだろう』と、唖然とするのである。(唖然、という言葉は良い意味でも使うのだろうか?もちろん僕は良い意味でそう表現した)
ちなみにタレントの島田紳助も、某番組でこう言っていた。
『深作欣二監督の映画を観て、物語に感動した、というよりも、ようおっさんがこんな面白い笑いの要素が入った映画を撮れるなぁって、監督に対して感動したよ、物語にではなくて』
「転換よ 永遠に」 ジュースを飲みたいときは お茶を飲み
お茶を飲みたいときには ジュースを飲む
そうすれば どちらかを飲み過ぎたとしても 自分のせいではない
それは 自分のせいである
―END―
| 2003年07月23日(水) |
爆笑問題のハインリッヒの法則、発売中 |
だからどうした!という上のタイトルですね。 ただ、事実を言ったのみです。 本文とは何の関連もない事をお知らせしときます。
「溶解エキゾチック」 溶けるように 眠い まるでやっと 体が周りの空気になじんだかのよう いや 少し違う 体がようやく自分のものであるように 感じられているかのよう
ますます溶けるように 眠い 本当は 眠っているときが 真の自分なのだろうか そうならば このまま ずっと起きなくてもいいんではないのか そんなことを思う
でも 次に目が覚めたとき 今までの自分ではない自分が 現れるかもしれない そう思う瞬間にだけ 自分以外のすべてを思い出す なぜなら 思い出しておかないと 次に現れる自分が 自分でないような気がするからだ
―END―
「白い」 白い それはキャンバス 大抵画用紙は白い 何故なら 白いものは 汚れが目立つように 他の色が目立つから
白い それは色でない そんな風に思われる場合がある 本当は 白いという色なのに だから僕は 黒い画用紙を 例えば白い絵の具で 塗りつぶしてやりたい
黒い それは闇の世界 僕は黒い画用紙を 白い絵の具で塗りつぶした まるで白い絵の具は 太陽という光源であるかのよう こんなに眩い世界が広がった ただ また白いキャンバスは 様々な色によって 塗りつぶされていくだろう
「ミルク」 ミルクって何色? 白いよね 普通そう表現するよね でもさ 本当に白い? 暗い部屋で ミルク飲んでごらん 本当に白い? 本当のミルクって何色? 本当は そんなの定義できない
「黒い」 黒い それは懐かしい色 闇の中から生まれた僕ら 闇は黒い だから 黒は懐かしい色 起源的な色 僕らは真の黒さを知っている その黒さは もう忘れてしまいそう 次第に消えてしまいそう
「影」 夏 日差しが強い そんな日に 太陽に照らされた僕 そんな僕の後ろに もう1人の僕がいる やけに濃い そんなもう1人がいる 日差しが強いほど 濃い そんな自分に やけにぞっとする 本当にそれは自分なのか? あまりそう思いたくない 何故だろう? きっと 本当の自分が もしかして そっちの方だったら・・・ そう思うのが 嫌だからかもしれない
―END―
「『夢・出会い・魔性』の感想」 一般には言わずと知れない(読書家は知っているのか?森博嗣の世間の認知度のことはよく分からない)、森博嗣著のミステリである。 通称Vシリーズと呼ばれる作品群の4作目がこの度文庫化され、購入するに至った。
VシリーズのVとは、瀬在丸紅子という主人公の頭文字である。 ただ、メインキャラは他にもおり、そのシリーズではストーリー中、大抵紅子を含んだ4人が一緒に行動を共にしている。 その4人の掛け合いは面白い。 ミステリ本編よりも面白いと思う部分もある。 今回の4作目に限って言えば、ミステリの本筋はあまりミステリっぽくはなかった。 ただし、それは本来の既成概念のミステリという言葉に含まれる意と比べると、という意である。
本筋がミステリらしくない変わりに、今作では、人間という存在自体がミステリなのでは?ということが強調されていたように思う。 それがどういうことなのか? それは言葉にはし辛い。(説明することから逃げた、と捉えてもらっても間違いではない)
言葉が伝えられるものには限りがある。 それでも、この小説では、人という存在の不安定さを伝える事に成功しているように思う。 ただ思っているだけなのかもしれないが。(と疑ってみる手もある)
「忘れられない」 どうやら何事も忘れられないようである 人っていう生き物は どうでもいいことに限って
人は平均的にみれば 明らかに100年前の自分達より 身体能力が低下している
昔はとにかく余裕がなかった 多くの民は田畑を耕さなければ 生きてはいけなかった
今はそうでもない 汗水流さなくても 生きていくのに必要なものは手に入る
昔から現在に至るまでの推移を思えば 人はどうやら強制的に体を動かすことに 耐えられなくなっていることに気づく
趣味の程度に動かす分にも たかが知れている 昔に比べれば
今は情報も豊かになり 効率よく体に良い運動を行えるようになった ストレッチなんか運動とはいえないような動きである
昔に比べれば 今の人間の身体能力なんて 忘れられない思い出の欠片ようなものだ
運動するという習慣が忘れられないから 懐かしがって 趣味の程度に動こうとするんだ
―END―
ついしん 「コミュニケーション」 喋っても伝わらないことは多分にあり 喋らなければほとんど何も伝わらない ただ 伝えなくてもいいこともあるし 伝えることが良いことであるとも限らない
最近ハマっている小説が、森氏のソレである。 通称S&Mシリーズと呼ばれる作品群全10作のすべて。 短編2冊。 通称Vシリーズと呼ばれる作品群の全10作中4冊。 ノンフィクションの本2冊。 シリーズ外作品(S&MでもVでもないということ)一冊。(立ち読み) 詩集、パラパラ。(踊ったわけではない)(立ち読み)
パラパラ読んでのを除けば、もう彼の作品は19冊も読んだ。 思えば読んだものだ。 読んでいる時には気がつかない。 特に初めに読んだ「すべてがFになる」を読んだ時は、その後彼の作品をコンスタントに読み続けるなんて思いもしなかっただろう。
彼の作品は、去年の9月に読み始めた。 今まで年に10冊ほどしか読んでいなかった僕が、同じ作家の小説を1年弱の間に19冊読んだのは、よほど気に入ったからだろう。
ここ一年の間では、森作品以外に読んだ小説は、鈴木光司氏の「リング」「らせん」「ループ」三部作くらいなものである。 その三部作は、図書館で借りて読んだ。 が、森作品はすべて購入している。
鈴木氏の三部作は、特に「ループ」は壮大で、人間が誰しも今までに思った事のあるような疑問を主人公に持たせており、知的好奇心をくすぐるようなストーリーで構築されている。 まさか、「リング」を読み終えた時点では、「ループ」のエンディングはおろか、ストーリーさえ想像もつかなかった。 そして三作は、巧妙に絡まりあっていて、これ以上壮大な世界観を持つエンタテイメントは、この先なかなか現れないだろうと思う。 壮大でいて、わかりやすい、上質のエンタテイメントだった。(文学的過ぎないのが、私的には良かった)
ところで森氏の一連の作品である。 比較をするのなら、鈴木氏の作品には<生>の力強さを感じる事ができる。 が、森作品にはそれは目立っていない。 個人的には、<生>のメッセージが強く感じられる作品は好きでない。 前向きな発想は好きだが、どうも<生きろ!>と言われると、窮屈に感じるのである。 言われなくても生きてるよ!とでも自然に頭が思うのか? 人に生きろ!と言われると、自分に生きる気力があるないに関わらず、その時点で束縛されているように思うし、特に生きる気力がある人間にそれを言われると、「言う相手を間違えているんじゃないの?」と思うのではないか? よって、説教臭い映画はそんなに好きではない。 が、例外的に、チャップリンの映画は説教臭いと言われているが、「モダンタイムズ」とか「独裁者」とかは好きである。
話が逸れた。
文体も、それぞれ鈴木氏のは力強く、森氏のは軽い。 そんな印象を持った。 ただ、森氏の文章は、軽いようでいて実は軽くない。 つまり、わかりやすく言えば、読みやすく、味わい深いのである。
森氏の作品はミステリの形式が主であるが、その作品中の事件が軽くない、というよりも、主人公らの思考が複雑で軽くない、のである。 いや、事件も軽いかもしれない。 そいうより、犯人の性格が軽い、身軽である、といって方がいいのか?
森氏のミステリでは、犯人の動機を書かれていない。 というよりも、犯人自身が語らない。 言ったとしても、今までのミステリで語られるような人間関係の縺れ故に動機が生じた、ということはない。 これは、どの作品にもほぼ共通することである。 ココが、森作品の新しさであり、味わい深さのためのトリックなのである。 他にも、
また、彼の作品では、一言で言えば、<人間の思考の曖昧さ>を頻繁に表現している。 思考は連続しているものでなく、常に断片的であり、真意などは霧の中である、というような考え方が、幾度となく登場するように感じられる。 それは人間が自分のアイデンンティティを探りたがるのが証拠に、自分というものの実体が掴めないものである、ということを言っているのでは?と思う。 そんな点が、僕には魅力的であると思わせる。
反対に、彼のどのミステリ作品でも、探偵役の頭の回転は速く、推理力には頭が下がる。 まるで僕は収穫頃の稲穂のようになる そういう点(作中における探偵役の推理力)においては、思考は曖昧ではない。
―END―
| 2003年07月19日(土) |
飾らない女(過去の映メモつき) |
資産運用とかファイナンシャル・プランナーという言葉が気になる今日この頃、皆さんいかがお過ごしですか?
今日は、まとめて色んな感想を(ドラマ、ドラマ、ドラマ、バラエティ)
▼「高原へいらっしゃい」 今のところ、第3話まで放映。 次第に引き込まれていく。 ずっと見てしまうドラマ。 リゾート地に建つ新しいホテルを舞台に、人間関係を描いていくようなドラマ。 視聴者は、見守るように、自分と周りの環境を照らし合わせるようにこのドラマに吸い込まれるだろう。 ホテルの従業員として出演しているメンバー自体が個性的で、彼らの素なのか芝居なのかはわからないキャラクターが、そのままドラマの味をしてフィードバック(還元)されている気がする。
▼「Stand UP!!」 評価が低いらしい。 中学生が見るドラマだっていうことで、バカにされているらしい。 が、僕(大学生)は好きだな。 気持ちがガキなんだろうか? これも3話目で、次第に良くなっている感じ。
▼「幸福の王子」 次第に人間関係が壊れていっているので、「高原へ・・・」とは真逆な感じ。 これも3話目。 現在と過去のパートに分かれていて、主に過去の回想によって構成されている。 これからどうやって現在と過去が繋がっていくのか? そんな風に気になるつくりのストーリー運びなので、これも最後まで目が離せない。
▼「笑っていいとも!(7/16)」 テレフォンショッキングに宝生舞出演。 なごやかなムードで、良かったなー。 よく笑っていたし。 タモリもリラックスしている様で、良かった。 ほぼ、聞き手宝生、語り手タモリの形だった。 たまに宝生が答えていた。 最近思ったけれど、宝生って声がいい。 心地よい気がする。 どういう声って言えばいいのか? ちょっと変なんだな。 キーは高いんだけど、若干かすれているのかな。 1音1音が炊き立てのお米のように立っていて、聞き取り易い気もする。 どうでもいいや、細かい事は。 そういえば着ている服が良かったな、上の服。 だぼっとしていて、青くて。 あの服いいな。 グレイトマザーっていう雰囲気があった、あの服に身を包んだ彼女は。 明日の増刊号でも見ーよっと♪
最近、しっかり見ているバラエティは「爆笑問題のススメ」だけなことに気づく。
―END―
ついしん 凶悪犯罪の低年齢化が異常であるかのように言われているけど、低年齢だからこそ、そういう事件は起り易いのではないか?
ついしん2 以下の映メモに<詳しくは・・・>となっていますが、嘘です。 面倒になったので、詳しい事はどこにも書いていません。 映メモ23の答えも書いてません。 ご了承あれ。 ひとこと言えば、5本の中に、悪い映画はなかったよーん。 得に「学校�供廚牢僂茲Α�
【映画一口メモ19】 2003年6月15、16日 「学校�供廚魎僂拭� 詳しくは近日中に。
【映画一口メモ20】 2003年6月19日 「女優霊」を観た。 詳しくは近日中に。
【映画一口メモ21】 2003年6月21日 「ブギーナイツ」を観た。 詳しくは近日中に。
【映画一口メモ22】 2003年6月22日、23日 「ゴースト ニューヨークの幻」を観た。 詳しくは近日中に。
【映画一口メモ23】 2003年6月26日、27日 「実録 ヒットマン〜妻 その愛〜」を観た。 いわゆるヤクザもの。 普段、ヤクザものは手にしない。 なぜ、コレを観たのか? 答えはCMの・・・いや、近日中に日記本編にて発表。
| 2003年07月18日(金) |
神の手を持ったような錯覚 I Have The Illusion Like My Hands is God Hands |
とある回転寿司店に行った。 何皿か取り、すっかり夢中になって頬張っている最中、母が何やら僕に言っている。 どうやら水槽のようなものから魚をすくっているらしい。 回転している寿司に囲めれるようにある空間の一部に、その水槽はあった。 すくっていると言っても、金魚すくいとはわけが違う。 大きな網で、はねる魚を慎重にまな板へと運ぶ職人の姿があった。 僕がその店にいる間、計2回、同じ職人が魚をすくい、運ぶ姿を見た。 その人は、2回とも、その行為を妙に顔をほころばせながら行っていた。 何がそんなに嬉しいのだろう? そう僕は思った。
それについて母に意見を求めると、彼女はこう言った。 それは、照れ笑いだろう、と。 自分の運命を知ってか知らずか、まるで最後に生命の力を誇示するかのようにはねる魚を、うまく運びたいけれどそううまくは行かない状況を誤魔化すように照れているのかもしれない。 母の意見はもっともだ。
しかし、僕はこう思った。 もしかして、彼は、自分が命あるものの運命を左右できる立場にあることを実感し、身震いを起しているかのように笑っているのではないか、と。 つまり、自分が神にでもなったつもりになり、そんな立場に興奮し、笑っているのか?と思ったわけである。
今思えば、きっと母の意見の方が事実に近いのだろう。 僕の考えは、とても単純でありがちで、形にはまっているように思う。 人より圧倒的に力の弱い魚の生命を、人間が奪う。 それが神懸かり的なことのようには思えない。 人が神の存在を意識する時は、自分が操られているように思う瞬間だろう。
そう考えると、寿司職人である彼が魚の存在に手を下すこと自体、自然な行為である。 神になったような気なんてしないだろう。 そうでなく、彼はすでにその瞬間、神になっているのではないか? 彼自身が神である場合、神を意識することは難しいように思う。 神に<なったつもり>になっているのでなく、<なっている>のだとしたら・・・ 『自分が神だなんて、信じられないよ。神のくせにはねる魚をスムーズに運ぶことさえままならないなんて』 彼はそう呟いて、照れ笑いをしていたのかもしれない。 ―END―
ついしん 「何故人は夢を見るの?」 何故人は夢を見るんだと思う? 本当は見ているんではないのだよ 夢も現実の一部なんだよ そもそも現実って何? 睡眠中の脳の活動が現実でないなんてどうして言えるの? そして何故夢が現実のように思えないのか? それは訓練が足りないからだよ 何事も訓練訓練 努力は実るっていうじゃない? 本当は嘘だけどさ それでも訓練していれば 夢だって現実のようになるよ
夢に生きるのって案外いいんじゃない? 環境にもいいしさ どういうことかって? だって人間が動くからさ その分地球って壊れていくんだよ 環境を守るって言っててさ 車に乗って通勤通学なんて 矛盾していると思わない? そもそも人間なんてそういう生き物だけどさ
だいたいさ 体動かして 身を危険に晒して 痛みを伴って生きるのって そんなにいいことかな? 痛みがあるからこその生? 苦労かあるから楽? そんなのさ 金持ちよりも貧乏の方がいいって言うのと同じくらい どうかしてると思わない?
どう? 夢に生きるのも悪くないって思わない? きっとさ 夢に生きるようになると 体の中で要らない部分が出てくるかもしれない それがそのうちなくなっていってね それって進化だと思わない? 必要ないからなくなる つまり合理化でしょ?
あれ? 足がなくなるから動かなくなるのかな? どっちだろう? ある代から突然 足がなくなったら それは辛いだろうな 進化って 必要に迫られてなるものなのかな? 進化って 辛いものなのかな?
話がややこしくなってきたけど 要は 環境の事とか 進化の事とか どうでもいいんだよね 本当は 自分のやりたいようにやりたいし 自分の生き易いように行動したいし(もしくは行動しないようにしたいし) ちょっとさ 夢に生きるのも悪くないかなって そう思っただけ
今ってさ みんな自由に物事を考える暇なんてない時代じゃない? 何かに囚われてさ 何かの為に考えてさ ばかみたいじゃない? たまにはいいけどさ ずっとそうじゃ辛くない? もっとね 自分が自分になれる時間がさ あってもいいんじゃない? そう思うわけ だから 夢に生きるのも いいんじゃないかな? そう思うわけ
「しはい」 システム・ハウスを否定し 反逆のデザイナと呼ばれ 一度見た夢をさ迷う男
「多重人格の正常」 皆さん、自分のなかにはいくつもの人格があると思いませんか? 時と場合によって、状況によって、それが変わっていること、ありませんか? 僕は、人は皆、多重人格であると思います。 しかし、それを認めたくないと思ってしまうと、本当の多重人格による障害が起きてしまうような気がします。 自分が多重人格である事を拒めば、それぞれの人格は単一の体の中で、1人の人間として存在しようとするのではないでしょうか? そうならない為には、人は皆多重人格であると認識した方がいいのではないでしょうか?
「歪んでいる」 歪んだ僕から見れば 歪んでいない君は歪んで見えるよ
歪んだ僕から見れば 歪んでいるあなたは歪んでいないように見えるよ
誰が僕を歪ませた? きっと君がいるから歪んでいるんだろう
でも感謝しているよ 君がいなければ僕は歪んでいられない 僕は歪んでいたいんだ
歪んでいるのが僕なんだ そしてあなたなんだ
でも歪んでいないよう見えるよ 僕から見たあなたは
「歌を理解」 その歌を理解するには それを歌えばいいのか それとも聴けばいいのか
ただ その歌は 理解してもらおうなんて思っていない
理解しようなんて 何で思うんだろう?
理解することで 何が得られるのだろう?
理解したつもりになって 理解したよって言えば 理解したことになるのだろうか?
「宝生」 宝生舞のロングヘア それは 昔話に出てくる 足の速い男 あいつが足首につけている 足枷のようなもの
あまりにも美しいから あまりにも目立つから ロングヘアにしているんだ
そうしないと みんなが嫌がって 孤独になっちゃうから ロングヘアにしているんだ
―END―
| 2003年07月16日(水) |
思考停止を促す色彩の洪水はまさに眠りに着く瞬間を体感させる装置のよう |
栄の某書店にて「半透明人間と闇の帝王」を発見!! 地元の書店でも、何故かサブカル本やタレント本が置いてある所で発見! 売れるといいですね。
「大西秀明」 今日、某デパートにて開催された、大西秀明=ジミー大西展に足を運んだ。 老若男女とは、まさにこの会場に訪れている人々を指すような状況であった。 世代を超えた魅力が、絵という表現某体にはあるのか。
大学生か、専門学生風の男2人が、しきりに感心していた。 『これは凄いな、ここまでいってたら凄い』 そう呪文のように何度も言う1人の男は、相方にこう言っていた。 『これ(ジミー大西のある絵を指して)はちゃんと顔ってわかるもん。お前のは顔じゃないからな』 このセリフで推測できるのは、きっと2人も絵を描いているのだろうということ。
また、おばさんの団体が多かった。 あるおばさんは『芸能界やめて良かったね』。 また、別のおばさんは『色彩が凄いね』と。 そういう、どちらかというと、好意的な感想をもらすおばさんが多かった中、ある2人連れのおばさんは、両者とも、ジミー大西に対して、好意的でないような話を交わしていた。 そんなやりとりの中、聞こえてきたセリフがある。 『画家ってものはもっと苦労して考えるもんでしょ』 つまり、タッチがどの絵も似ていて、(確かに似ている)つまらないとでも言いたいのではないか?と推測される。 まぁどういう意見をそのおばさん等が持とうがいい。 問題は、お金を出して鑑賞している他人に対して、もうちょっと配慮してもらいたいのである。 せっかくこっちは感動に浸っているのに、側でそんなこと言われたら、テンションが下がるのである。 映画館のように、鑑賞中は会話禁止、というのはやり過ぎかもしれないが、気に入らないのなら、少なくとも黙っていてほしいものだ。
具体的な感想を。 まず、やはり注目するのは水彩画の色彩がまばゆい点で、絵によっては頭を殴られたような気分にさせられた。 これは誰にも手の届かない領域を行っているな、という感触が在った。(絵に関して全くの無知であるけれど) 特に、細かく色分けが成されている絵は素晴らしい。 凄い! 天才だ、と言いたくなる。 やはり凄いなーと。 感動なのである。 何だろう、上半身の細胞が疼いているような気にもなったな。 ちなみに彼の絵は、抽象画である。
それにしても、こんなに色彩感覚が強烈な作品は、あまり海外にもないのではないか? 世界に誇れると思う、彼の絵は。
一つ気になるのは、さきほどのおばさんの文句ではないが、ちょっと絵のパターンにバリエーションがないかな、という点。 しかし、ここ5、6年の作品群が展示されている中で、それほど変化がないのは自然なことだろう。 苦悩し、不自然に自分のタッチを変える必要もないだろう、と私的には思う。 またこうも考えられる。 彼の絵は独特過ぎて、一枚一枚描かれているものが違うのに、強烈な色彩に惑わされて似たような絵であると錯覚してしまう恐れがあるかもしれない。 しかし、よーく観ればわかる。 次の絵を見れば、さっき描かれていた世界と違う世界がその絵に広がっている事を。 つまり、見かけに惑わされるな、ということである。 彼独特の強烈な色彩の使い方は特徴でもあり、フェイクでもある。 従って、初め色彩に目を奪われるんだけど、やがてそこに広がっている世界の豊かさに改めて驚くという二重構造となっているのである。
まだ、彼の画家人生は始まったばかりだ。 今後、タッチも変わっていくかもしれない。 ただ、今の段階でこれだけのものを創造し得た彼という存在に、僕は畏敬の念を示さずにはいられない。
数日前、NHKで彼のドキュメンタリーを観た。 僕は途中、感極まって、泣いた。 僕は、最近頻繁に泣くが、悲しくて泣いた覚えはない。 きまって、作品に感動して泣く。 それはいい映画を観たり、TVのドキュメンタリーを観た時が主である。 厳密に言うと、人が頑張っている姿に泣けるのではない。 誰も他人には創れないだろうと推測できるモノを創った人に、泣けるのだ。
最近の映画では「モンスターズ・インク」(CGアニメ)で泣いた。 今思えば、何故か、そのストーリーやCGに泣いた、というよりも、こんな作品を創り出した監督を初めとするスタッフを思って泣いたのだ。 最近タイニニックを見直した時も思った。 こんな凄いものを創り出したジェームズキャメロンは凄いな、と。
先ほどから凄い、とか感動した、という表現しかしていない自分に呆れているが、とにかく、夏なのに一足早く芸術の良さを感じる今日この頃です。
最後に好きな小説の一説を。(以前もココに抜粋したような・・・)
人生は厳しい、しかし芸術は楽しい!
―END―
ついしん ジミー大西サイン会が行われていたが、先着順であったため、遅くに行った僕はソレに参加できなかった。 指定のグッズ購入者に、サイン会の整理券が配られたらしいのだが、展示物の鑑賞をするよりも先に、指定グッズを買っておくべきだったかな?と悔やむ。 悪あがきな発想だ。 でも、生のジミーちゃんを見た。 彼は、立っていると背の低さが目立ち、ゴリラのような風体の人なのだが、会場で椅子に座っていたその姿は、とっても大柄に見え、立派だった。 ずっとニコニコしていて、ずっとサインしていて、カメラにもニコニコしていて、このままずっと彼はココにいるのでは?という気がした。
明日、「いいとも!」のテレフォンショッキングに、宝生出演だって、ハハハハハ・・・
今日、薔薇憂鬱彦著「半透明人間と闇の帝王」が発売!! 誰、薔薇何とか彦って?という人は、書店にて本の帯を見たれし!
というわけで、早速書店に顔を出したら、なんと、どこにもその本がない。 2店舗で探したが、なかった。 どういうことじゃーい。
―END―
ついしん 真の客観が神の目線であるのなら 客観的に僕などどうだっていい存在なのだろう
ついしん2 医者は何故人を生かそうとするのか? それは金の為? きっと神になったつもりになれるのが心地良いのだろう
ついしん3 僕が<車>という文字を書いたから その紙には<車>という文字が書かれている もしその字を僕が書かなかったら 未だにその紙は真っ白であったろう 白い紙には何の保証もないし <車>という文字の書かれた紙には それが書かれている以上の保証はない では<車>と書かれた紙には 何の保証があるのか? 僕の目に映る限りにおいて <車>と書かれた紙は存在するという保証がある ただ僕がその紙にその文字を書いたという記憶もある それには保証はない
| 2003年07月14日(月) |
ダダンダンダダンッ・・・ |
「T3」観ました。 あのラスト、良いね、意外性があって。(ん、そうでもないって?僕は騙されました) キャメロンの呪縛は、この作品を良い方向へと導いた模様。 そりゃーね、インパクトは「T2」に勝てないよ、そりゃね。 「T2」は、あの時代にあのVFXだったからこそ、あのインパクトが可能であったわけで・・・。 でも、好きだな、今回のストーリー。 未来は刻一刻と、定まることがない。 そんなことを暗示した良作でした。 観た人には、そのことがわかってもらえるハズ。
ターミネーターシリーズは、マトリックスシリーズに似ている点がある。 それは、<未来は変わる>というテーマが、コンピュータ対人類の図式を取って語られているという点である。 では、どちらがよりリアルか?という点に絞れば、僕はTシリーズの方だと思う。 Mシリーズは、仮想空間の存在が重要であり、それが映画の魅力でもある。 しかし、なぜわざわざコンピュータ側は、人間に仮想空間を見せる必要があるのか? わざわざ見せることに、メリットはあるのか?そして、そのことのリスクはないのか? コンピュータ対人類の対決の様子を視覚的に具体化し、迫力のあるものにしているのが、Tシリーズであると言える。 そのダイナミズムは、Mシリーズにはない。 僕は、Tシリーズの方を買う。
ところで話はがらりと変わって。 近所の風景を車の窓越しに見ると、丁度中学生の帰宅時間のようだった。 数人の女子中学生が、僕の乗る車の進行方向と同じ方へと、自転車を走らせていた。 そこで1つ思ったことがある。
いまだにこの辺りの女子中学生は、スカートの丈の尺が、スカートらしさに貢献している。 家の母は、今の女子高生のスカートは腹巻きか?と言っていたことを思い出し、自然とそう思った。 それに対し、近所の女子中学生は、今も昔もせいぜい短くても膝が覗くかどうか、といったところ。 しかし、同じ様に膝が覗く程度の丈にしている子の中でも、より、背が高い子の方が、スカートが短い様に見えるという錯覚をご存知だろうか? 身長が長い子は、相対的に足も長く、そうでない子に対して、自然と膝下の長さが長い。 よって、仮に全員が、膝がやっと覗く程度の丈にしていたとしても、背の高い子は、スカートの下から見える足の長さが目立つのだ。 つまり、なんだろう・・・男は、身長が高く、膝上丈のスカートをはいている女性の足に、囚われの身になってしまうのである、ということが言いたい。(特に膝小僧が見えるかどうか、という程度の場合が良い)
―END―
| 2003年07月13日(日) |
私式 My Thinking |
不平等=自由
―END―
ついしん 森博嗣著、Vシリーズ第4弾の文庫バージョンがそろそろ発売。 その名は「夢・出逢い・魔性」。 これって「夢で会いましょう」というフレーズをわざと分解したのだろうか? それにしても「夢で会いましょう」って、どっかで聞いたことあるんだけど、思い出せず。 そして、英語のタイトルは「You May Die in My Show」。 これを発音すると、下手な日本語を話す外人風に・・・。
| 2003年07月11日(金) |
雷は空飛ぶ食いしん坊の腹ぺこサイン |
ところで、インターネット上に書物内の一文を抜粋することは、著作権侵害に値するのだろうか? きっとしないことを祈る。 明らかに、抜粋されたものと、一冊の本の内容は、別物ではないか? しかし、今度は抜粋は、どこまでが許されるのか?という問題に直面する。 8割の抜粋は抜粋は抜粋でも抜粋らしくない。 あとは、個人の良心に期待するしかない。(本一冊の内容を伝えきらないというマナーを持つという意味で)
「ジレンマ」 現実と夢の間には 叶えられない現実がある
「サインの跡」 空に浮かぶ灰色のサイン 一面に広がって 地を這う万物は空気に溶け込んで それは雨が降るサイン
やがて雨が降り 空と地の間には 雨粒が敷き詰められている(←誤字脱字個所、訂正しました) まるで餓えた野獣が 自らのテリトリーを誇示するかのように
脇役に回った灰色のサイン 今はもう 主役を雨に委ねてる 灰色のサイン
今はもう 記憶の中に宿る 灰色のサイン
少し懐かしく 少しいとおしい あれほど嫌だったサインなのに あれほど嫌だったQちゃんなのに
「不安の制御装置」 行動しなければ 何も 痛みを覚えなくて済む
誰が 痛みを 覚えたいというのだろう?
ただ 僕は 遠くへ行きたいだけ
「人間灰皿」 彼に (灰皿ってどこにある?) と聞いたら 彼は 自分の手をお椀のように形作り 目線をそこに落し 次に僕の目を見据えた
僕は (何を考えているんだ!) と彼に言い 灰皿を探しに 足底をがむしゃらに床へ這わせ とにかく彼から離れようとした
そうして彼の手は 灰皿にならなかった
「人でない人」 僕は人でない と言った人にだけ 人でない瞬間が訪れる
随分勇気のある人だ
「うろこ」 うろこ それは反逆のデザイン
それは 最後の抵抗の証
これを剥ぐのなら もう自らの意志など無意味
うろこを持つものは そう思っている
「朝の顔たたき」 朝 ぼんやりと 周りの背景を僕と繋げようとする そうしないと 世界が 逃げ出してしまう
朝 起きてまず 顔をチトチトと手先にて確認
そして次に 同じ手先でベッドの感触を確認
そうやってつながる 世界と僕は
まずは 朝の顔たたきが肝心
そうしないとつながらない 世界と僕は
「僕と服か 僕と服とで僕か」 なんで裸で生まれてくるのか? 小さくか弱い彼らにこそ 服は与えられるべきなのではないか?
それにしても 自分の裸の姿なんて 風呂に入る前に鏡の前で見るくらいで 他に見る機会なんてないから どうもそれが自分の姿であるなんて思えない
人は服によって印象が変わる この服を着ている自分も自分で あの服を着ている自分も自分で おまけに裸の自分も自分なのだとしたら 一体いくつの自分があるのだろうか?
しかし一つ言えることがある いくつもの自分がいることで 人は自分に飽きないのだ 一つの自分しかいないとしたら どんなにつまらないだろう? つまらなかったら生きてる意味なんてないよ
じゃあいくつもの自分がいるから生きているのか それとも生きていたいからいくつもの自分をつくるのか それは僕にもわからない
―END―
「突如の変化」 最近フジテレビの字幕(歌番組の歌詞など)が大きくなっています。 そんな突如起った変化には、違和感を覚えるものです。
タモリのサングラス、かつお役の声優さん、どちらも変わった当初は違和感を覚えたものでした。
ところで、普段あるある大辞典で見かけるくらいの堺正章が、お正月の隠し芸の番組で芸を披露する様は、違和感を通り越し、感動を覚えます。
学生が夏休み明けに図るイメージチェンジのような変化には失敗例も多いですが、いざ、という時にタイミング良く変化・・・というより変身できる人はカッコイイものですよね。
というわけで、様々な突如の変化についてのコラムでした。
「仲間由紀恵」 某トーク番組に、女優の仲間が出演。 すでに確立されたポジションにいて、今をときめく女優がその番組に出るのは珍しい。
そこで彼女の語ったエピソードにこんなものがあった。
高校生時、修学旅行で万里の長城に行き、急な階段を登っていると、自分の前を行く女生徒のパンツが丸見えだったという。 皆服装は制服であり、スカートの丈は規定内であったらしい。(いかにも沖縄の高校生らしい) それでも見えるということは、よほど急な勾配なのだろうと推測できる。
仲間は、(ということは私のも下から見えているのか?)と思い、気になって景色を見下ろすように後ろを振り返ると、下で他の旅行者の中の何者かがカメラを回していたという。
ということは、そのカメラを回していた旅行者にとっては、2つの絶景を同時にレンズに収めていたことになる。 なんて羨ましく、そして希有な景色だったことだろうか?
ただし、おもいっきり犯罪だ。 せいぜい網膜という名のレンズに焼き付けるしか術はないだろう。(でも不可抗力だったと言い切れば・・・)
―END―
ついしん 私的一昔前女性ボーカル曲ベスト3
・なごり雪/イルカ ・喝采/ちあきなおみ ・恋人よ/五輪真弓
ついしん2 私的桑田圭祐(字合ってる?)ボーカル曲ベスト5+α
・勝手に・・・ ・チャコの・・・ ・みんなの・・・ ・祭り・・・ ・エロティカ・・・ ・涙の海で・・・
森博嗣著の「魔的」という詩集を部分的に立ち読みした。 装丁も良く、手に入れたいけど今は無理。
最近「ループ」を読んでいる。 なかなか進まない。 状況描写を読むのが苦手。
今日第2回オンエアの連ドラ、「幸福の王子」、良い。 回想型のストーリー。 本木扮するキャラが、どういう経緯で<幸福の王子>となっていくのか?
水曜日の「いいとも!」は大抵録っていて、ざっと夜中流し見をした。 あるコーナーに板尾登場。 映画や舞台の宣伝を兼ねていた。 多方面で活躍しているらしい。 そして案外背が高いことに気づく。 相変わらず面白いオーラを放つ。 相変わらず目に輝きがない。
―END―
ついしん ポテトチップスを最近好んで食べていたが、そろそろ飽きてきた。
「イフ」 もしも、友人が子供が授かったとする。 そして僕が友人に会いに、彼の自宅へ行くとする。 その時、幼い子供が家の中を歩きまわっているとする。 僕は、その子供に対してどう対応すればいいのか?
僕は、友人に会いにきたわけである。 その子供に会いにきたわけではない。 もちろん、『こんにちわ』とは言うだろう。 そして相手が無反応だったら悲しいだろう。
しかし、その子供に興味がないくせに、敢えて興味があるかのような素振りを見せ、色々と話し掛ける、ということをしたくない。 それをやったとすると、きっと僕は心の中で自分を冷めた目で見てしまうだろう。 そして、そんな素振りを見せることは、子供に対しても失礼でもあるのではないか? 少し考えすぎか?
ただ、状況によって、自分と友人の間に違う人が入ってくることはあるだろう。 そんな時、臨機応変にその場の空気を盛り上げたい、とも思う。 ただ、それが友人の幼い子供の場合、難しいだろう。 でも、話し掛けられたら、是非話を聞いてあげたいとは思う。
一体どんな妄想なんだ、コレは。
―END―
くっそぉぉっ!!!!! さっきこの日の日記分に熱くある映画について刻んだのにバグって消えてしまった。 腹たつなぁ。 書き直しかよ。 今夜中の1時半だよ。 書き直しは辛いな。 明日もう一回描き直そうかな、この下に。 せっかく自分の想いを纏め上げたのに。 くやしい。 それではこれ以降は、明日以降に必ず書くのでそのつもりで。 と、ここまでは明日絶対書き直すんだ、という決意の現われです。 まぁ、思い出しながら、というよりも、若干内容は変わるかもなぁ。 はぁぁ。 どういうことなんだ。 希にあるからな、こういうこと。 せっかくいい感じにまとめたと思ったのに。 返せ、時間を! と、愚痴はこの辺りにしときます。
映画「めぐりあう時間たち」について ―たゆたう布に包まれる心地よさを感じて
この映画には、3人の主役級女優が登場する。 大抵、主役級が複数登場する映画は、失敗するものである。 エネルギー配分の問題だろうか? 希に化学反応を起し、うまくいく場合もあるが、大抵はそうでない。 しかし、この映画はその心配はない。 何故か? それは、この映画は違う時代を生きる3人の人生を平行に描いたものだからである。 同じシーンでバッティングすることがないので、各女優は、それぞれの輝きを他の女優に奪われることがなかった。 その点が、この映画の成功点としてまず挙げられる。
ではこの映画には何が描かれているのか? ざっと流れを追ってみたい。
本日最終回であったドラマ「僕の魔法使い」の1コマでのこと。 ある夫婦は苦難の末、1人の子供を授かった。 そして夫は妻のことをこう呼んだ。
『お母さん』
すると妻こと、るみたんはこう返した。
『やーだ』 『え?』 『みったん(夫)のお母さんじゃないもん。一生るみたんって呼んでくんなくちゃやーだ』 (しばしの間) 『るみたん』 『みったん♪』
僕はこのやりとりを聞いて、今、夫婦間では子供ができても名前で呼び合うことが当たり前になってきているのか?と思った。 少なくとも、そういう風潮にあるのかもしれない。 6/29と7/4の日記で僕自身が考えていたことは、マイノリティな発想ではないのかもしれない。
―END―
ついしん 経験がものをいうかもしれないし、そうでないかもしれない
ついしん2 今年の夏映画は、続編だらけ。(「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」、「バトル・ロワイヤル�供廖◆屮拭璽潺諭璽拭治魁廖◆嵳戮訛臍楮裟� THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」など)
ついしん3 トラウマ、共稼ぎ、などの言葉には、マイナスのイメージがあるが、どちらも既に、使われ始めた頃に比べると、そうでもなくなってきたように思う。 (トラウマは誰にも多かれ少なかれあるだろうし、共稼ぎは当たり前になってきた)
たまに・・・あ、ついしん4 たまに、ドラエもんかな?と思ってしまう。 正しくは、ドラえもん。
ついしん5 一番好きなドラえもんの道具は、亜空間コネクターだ。
ビバ、スタンダップ!! (※スタンダップ:「Stand UP!!」のこと。7/4〜毎週金曜TBS系列にて放映のエロコメドラマ。ちなみにエロコメとは、エロいコメディの略。いい感じに鈴木杏がブサイクです。二宮くん、サイコー♪ちなみに二宮とは、ジャニーズグループの嵐のメンバー。) はぁぁ、もう今日の日記はこれ以上書く気しないっス。 まぁちょっとばかし、ついしんとして書こうかなー。
ところで、今回(初回)のスタンダップでは、2回のパンチラシーンがあった。(って、書かないんじゃなかったのか・・・) 2回とも、同じ子のものである。 一体どんなシーンかと言うと、その子は女子高生で、校内で大きな態度をとっている女子グループのリーダーである。 主人公らの男子グループの誰かが気にくわないと、そのリーダーは相手に手で変な構えを取りながら足を大袈裟なほどゆっくりと交互させ近づいていく。 そして間合いが取れた瞬間、回し蹴りを相手にお見舞いするのである。 2回とも、蹴り上げた瞬間が正面からのショットだったので、その部分がパンチラしていたのだ。 ちなみに2回とも水玉模様だった。 そのシーンはパンチラするから、という以外にも、そのリーダー独特の一連の攻撃の動きが面白いという点でもみどころだ。 今回(初回)に登場したこの攻撃シーン、果たして毎回あるのだろうか? そういった部分も次回注目しようと思う。 他にもプールで授業する女子らを男共が覗くシーンがあったが、そこではなかなか程よいスクール水着に身を纏った女子らが登場していた。 これも必見。 さすがエロコメ。
―END―
ついしん 昨日は佐藤浩一フェアだった。 小説の「らせん」を読み終え、改めて映画版を見直した。 ソレの主人公は佐藤。 設定が大部分で変わっており、ストーリィのテンポが悪い。 そして説得力に欠ける。 90分じゃ無理っしょ。 私的には中谷嬢が目立っていた点はオッケー。 それにしても何で蘇った貞子も見た目中谷なの?
その後、「光源は、ソレが照らす対象物の色を明確には・・・」でなく、「高原へいらっしゃい」という連ドラを見たが、そこにも佐藤がメインで出演。 「らせん」のキャラと、情けなさが共通しているな、と思った。 情けなくて、迷いながらも何とか解決を試みるキャラ・・・ 彼が、迷うキャラを迷いなく演じられる俳優であることは間違いない。
ついしん2 「ループ」に登場する家族の両親が、互いに名前で呼び合っているのが面白かった。 僕の6/29の日記で、家族間の呼び方に触れたが、僕は、両親が互いを呼ぶ時の呼び名を、子供に合わせるのはオカシイと思っている。 両親には互いに名前で呼び合うことを推奨したい。 つまり、配偶者同士は互いを名前で呼びましょう。 次に、自分にとっての母が、自分にとっての祖母を呼ぶ時はどうすればいいのか? 素直にお母さん、と言うのは今更無理な場合も多いのか。 また、目下の人間に対しては名前で呼べば済む。 総合的に言えば、各自が自分からの視点で、相手の呼び名を言った方がいいと思う。 混乱するって? 声で分かるだろう。 子供に合わせるっていうことは、子供が家族の中心であるという錯覚を生み、また、子供を侮辱した考えでもあるように思う。
ついしん3 【私のシューズはトカゲのしっぽ】 解説:僕のシューズは、紐がなく、ファスナーもなく、足を中にねじ込めば、それでおしまいのタイプのものである。 というわけで、若干後ろ側にある足を前に運ぶ時、その足のかかと部が浮いてしまう。 でも、気にならない程度のことである。 それどころか、それにはあるメリットがある。 街中でかかとを踏まれても、簡単に素足が靴から離れるので、そのまま靴を犠牲にして何食わぬ顔をしてスタスタと歩いてしまえる。 それは、マリオがヨッシーを犠牲にして穴に落ちそうになっても助かるのと同じ様なものである。 かかとを踏んだ相手の足元には僕のシューズの片方が残る。 そして僕は片足素足。 相手は面食らい、びっくりするだろう。 つまりかかとを踏んでくる相手に衝撃を与える機能が僕のシューズにはあるのだ。 そんな機能を兼ね備えている靴なので、私のシューズは・・・なのである。 ただし、靴の代償は自分持ちで。
| 2003年07月03日(木) |
ラブ・オブ・ストーリィ |
今日も相変わらず何やら書きます。 いつも思うんですが、いくつかの話を書く場合、それぞれの頭が分かりやすい様にするにはどうすればいいでしょう? 「」の中にタイトルを書くと、文中の会話文と区別が付きにくいので困ります。 とにかく目立つように >>> とか ▼▼▼ とか ● の後にタイトルを書いたりもしますが、それにも飽きました。 ということで、今日は A BB CCC の後にタイトルを付けようかと思います。
A:霊媒師と依頼者 僕の中では、生活するというのは、念じることと同義である。
よく霊媒師をTVで観て「インチキだ」と思うが、それがインチキであることは、誰もが知っていることだろう。 きっと依頼主も知っていると思う。 つまり、ああいう儀式というのは、朝の情報番組の占いと同じものなんだろう。
占いが好きでも嫌いでも、「あなたの運勢は・・・」と言われると、気になる人は多いのではないか? そして気にならないという人でも、それに変わる信仰が、自分の中に形作られているのではないか?
人は、何かを信じて生活しているように思う。 しかし、何かを信じ、念じることが自分の中にあっても、それを周りの人に喋ることはあまりない。
僕は、TVで霊媒師と依頼者を観ると、そこに自分の精神世界をダブらせることがある。 そして、何やら気恥ずかしい思いをする。 見透かされているような・・・ソレが公開されているような気になる。
誰しも、心の中に霊媒師と依頼者を飼っているのではないか?
BB:恐怖のシーン 今、鈴木光司著「らせん」を読んでいる。 それで思い出したが、映画「リング」で一番怖かったシーンは、私的には、松嶋菜々子演じる母親が、例のビデオテープの映像を見ている息子を発見してしまう部分だった。 無性に怖かった。 貞子が画面から這うシーンより怖かった。 母親のショックが伝わってきた。 恐怖の対象そのものよりも、その対象に巻き込まれた息子の方が怖いのは、それだけあの母親が、息子を愛するキャラだったからだろうか?
CCC:空飛ぶボタン 人の心が読めてしまう主人公が悲劇に見舞われながらも、やがてその能力に救われていく話って面白いかな、と、エスパー魔美のワンエピソードを見直して思った。 その「雪の降る街を」っていう話、知ってますか?
TVでそれを見た時、強くいいなと思った。 それは、魔美の父の恋愛の回想で進む話である。 その思い出を、魔美は父から読み取ってしまう。 思い出の中の父は、今は妻である女性に一目ボレしたが、なかなか気持ちを伝えられなかった。 そんな中、その女性が明日、見合い話が来て郷里に帰る、という話が舞い込んできた。 そして次の日、思い出の中の父は、その女性が現れるだろう場所に待っていたが、時間が過ぎても一向に現れなかった。 ついに諦めようとした瞬間・・・なんとスーツのボタンが進行歩行とは違う方向へ飛んでいき、その女性の足元に落ちた。 それは、現在にいる魔美の念によるものだった。 魔美は、自分の存在をかけて、父と母の出会いをサポートしたのだった。 そしてラスト、部屋の一室に父と母と魔美の三人がいる俯瞰のショット。
今と過去の結びつきがしっかりしていて、美しい話である。 そんな話を改めて見直し、先に言った話を思いついた。
―END―
| 2003年07月02日(水) |
どうしようもなく無秩序な存在 |
ふと、自分に子供ができたらどうなのか?という妄想を、彼女いない暦=年齢な私はしてしまいました。 子供によって違うとは思いますが、何やら不可解な質問などを幼少の頃にはするのでしょか?
どうして人を殺してはいけないの?
そんなこと言われたら驚くでしょう。 では何て言えばいいのか?
理屈じゃないんだよ、と言えばいいのか? 罰の概念を教えるべきか? それとも問い返すべきか?
なんでだと思う? お前はそれがいいと思う?
しかし、何にしろ、物心が付いていない間には、人はもちろん、そして命あるものをむやみに殺してはいけないことを強く言っておくべきだろう。
虫は殺していいのになぜ犬は駄目なのか?
いや、そんなルールはない。 そして虫は殺していい、と誰が言ったのか? きっと、誰も言っていない。 しかし、僕は昨日、洋間に出現した蟻の集団をテイッシュで潰しに潰した。
結局、自分を守るために、人は人を殺さないのだろう。 そして歩道を歩き、行きたいところへ行きたいから守りたいのだろう。 自分が壊れたくないから、そうするのだろう。 そういうことを、子供はいつ実感するのだろう? 僕はいつしたのだろう?
子供の頃、本気で刑務所へ行くことを覚悟して人を殺そうと思ったことなどない。 それは幸せだと思う。 なぜそう思わなかったのか? というより、そんなことを思う暇がなかった。 毎日の疑問を解決するのに必死だった。 そうやって、今の僕になった。
そう、子供がこんな質問をしたとしよう。
なぜ人を殺しちゃいけないの?
そんなことより、皆と遊びなさい。 皆が忙しいのなら、面白いことを自分で探しなさい。
そう言って、僕は彼の背中から視線を逸らさないでいたい。 少なくとも物心がつくまでは。 それは、自分の為でもある。
余談だが、人を殺さないということは、人類の知恵によって回避されるだろう。 今後、21世紀を境に、文明と共に知恵も発達していくことになればいいと思う。 そうすれば、かつてない世紀として歴史に名を残すかもしれない。 文明と知恵の融合に期待せずにはいられない。 どちらも、人類の繁栄をもってして成されることだと思うと、多くの人がそちらの方へ向かって行きそうで頼もしい。 しかし、人を殺さないことが知恵だと思わない人間にとっては、何を言っても聞かないだろう。 そういう人間と戦うことは、至難の技だ。 果たして、共存に向かう道はあるのか?
―END―
| 2003年07月01日(火) |
やっぱり競泳用のパッツンパッツン(パックンマックンではない)感がいいね♪ |
さて皆さん、昨晩は歯を磨きましたか? 僕はしてません。 ではさっそく、今日は2テーマでいきたいと思います。
テーマ1「二極化」 あのさ、何で女の人の水着って下の部分がかなりの鋭角なんだろう? もっと短パンが増えてもいいと思うんだけど。
僕はもし自分に彼女がいたら(ということは今いない)、下が短パンっぽいのをはいてほしい。 で、他の女性はハイレグ着てようがなんだろうがいいけれど。 むしろ短パンの人が増えたら真似されてる感じして嫌だろう。 でも、次第に僕と同じ考えを持つ男が増えて、彼女には短パンを着せるのが流行ったとする。 と、皆、下が短パン風の女性でビーチは埋められる。 それでは目の保養になりゃしないじゃないか!(いや、本当はハイレグなぞは目の毒のような気もする。慣れれば問題ないけど。でも慣れたら目の保養にならないじゃないか。どっちにしろハイレグが目の保養にはなり得ない。) まぁとにかくビーチの風景がそれじゃあ単調でつまらない、ってことで、人間そくりの女性ロボットに水着を着せて歩かせることを、地元の人達は考えた。
やがて、ビーチでは人間の女性は短パン水着、ロボットの女性がビキニやハイレグなどを着ているようになった。 すると、ある日、ささいなきっかけで、互いに人間とロボットの女性間で敵対心が生まれた。 怖くなった人間の男共はビーチから逃げ出した。 そして本格的に女性間の乱闘が始まった。 これを海岸戦争という。
テーマ2「ムンクの叫び」 皆さん、一度はこのタイトルを聞いたことがあるでしょう。 有名な絵画のタイトルですよね。 でも、実はこういうタイトルの絵ではないらしいですね。 本当は『叫び』で、ムンクは画家の名前だということを今日知ったのですが、皆さんはそれを知っていましたか? 映画のタイトルで言うなら『フェリーニの道』とか、『ヒッチコックの暗殺者』とか、『チャップリンのキッド』もそうで、それらも本来なら『道』、『暗殺者』、『キッド』で良いわけです。 そういうのは紛らわしいのでやめて欲しいです。 まだ、作者が有名なら分かりますが、ムンクって画家はそれほど有名じゃないでしょ?(有名?) というわけで、てっきりタイトルの一部かと思ってしまった僕でした。
―END―
ついしん あぁ、もうね、テレビはBS観れなきゃ意味ない時代かもね。 地上波ツライね。 7/5にBS日テレでやる「ドラマブック〜恋のエチュード〜」に宝生舞が出演するのに観れないね。 残念ね。
ついしん2 『捲れる鱗』というタイトルの絵を描きたい。
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