潔 ノ 森

2006年07月31日(月)

覚書
日本の植生図鑑〈�機喊肯� 中西哲・大場達之・武田義明・服部保 共著 より

群落と環境要因
 群落をとらえる上で、重要な手がかりになる相観や種類組成に影響を与えていると思われる環境要因には、次のようなものがある。

1 気候的要因
 温度・熱……気温、地熱など
 光……太陽光、宇宙線
 大気……大気の組成、風など
 火……野火
 水……降雨量、降雪量、霧

2 土地的要因
 地史……大陸移動、地殻変動、火山、造山活動、氷河作用
 地質・地形……断層、微地形、方位、傾斜
 土壌……土壌の深さ、物理性、化学性

3 生物的要因
 人間……除草、火入れ、伐採、開拓、植林など
 植物……せり合い、共生、寄生
 動物……採食、踏み付け


 このようないろいろな環境要因が作用して、ある立地に特有の群落が作られているのである。ここでよく理解しておかなければならないことが2つある。
 1つは、それぞれの要因が個々、別々に群落に作用しているわけではないということである。例えば、立地の傾斜の方位は、気温や太陽光、ひいては、土壌中の水分に影響を与えるというように、相互に関連しあって、群落の性質に直接的・間接的に作用を及ぼしている。
 もう1つは、すべての要因が、群落の成立に同じような強さや力で作用しているものではないということである。ある群落を取り上げ、環境要因との関係をたんねんに解析していくと、決定的な影響をおよぼしているのは、せいぜい1〜2の要因でしかないことがわかる。このような決定的な要因を、制限要因という。



2006年07月30日(日)

外房にて




2006年07月29日(土)

昨日、久しぶりに「となりのトトロ」を見ました。
改めてこの映画の主題は「潜在自然植生」と確信しました。

トトロ(鎮守の森)からドングリをもらい、庭に植える。
そして芽が出たかとおもうと、10年を1秒に短縮したかのような成長をみせ、キノコ雲状の巨樹となる。
希望と絶望とがせめぎあい、心がくしゃくしゃになりました。

樹を、樹を植えつづけようとおもいます。



2006年07月28日(金)


ルリタマアザミ



2006年07月27日(木)


ヤワタソウ (Peltoboykinia tellimoides)



2006年07月26日(水)


アゲハ



2006年07月25日(火)






2006年07月24日(月)


コンポスター
西側の日光がほとんど当らない場所に設置しています。その奥は粗大ゴミ置き場だったのを去年ムリヤリ整理して植栽スペースにしました。早速イノコズチがワサワサ生えてきています。
さて、来年はここに何を植えようか…。



2006年07月23日(日)


谷中のお寺にて



2006年07月22日(土)


フウラン(ラン科)Neofinetia falcata

関東南部以西〜沖縄にかけて自生する着生蘭で、シイ類の樹上を好むそうです。常緑広葉樹の森が極端に消滅した現在、野生の姿は殆ど消えてしまいました。
一昨日庭に植えたスダジイの実生苗が大きくなったらこの株を着生させたい、そんな気の長い目標をもっています。



2006年07月21日(金)


マンリョウの花



2006年07月20日(木)


フウチソウ、ツワブキ、オオバギボウシの寄せ植え



2006年07月19日(水)

ヤブカンゾウ

(画像削除)

咲き進むと花弁が少なくなって、印象がずいぶん変わります。



2006年07月18日(火)


風蘭








■ 覚書
(緑環境と植生学 鎮守の森を地球の森に 宮脇 昭 著 より)

第五章 緑の二十一世紀は可能か

四 生き延びるためのアジェンダ

 現在をより豊かに、便利で享楽的に生きるだけなら、今までの経済中心主義で十分であろう。明日を生きのびるために、限られた国土、限られた地球号の上で、誰を舞台監督にし、何を主役として生きるのか、真剣に選択する時代である。
 文明の歴史が語る事実は、人は進歩し発展することを目指しながら、いずれの文明もいったん頂点を極めるとすぐに下降線を辿りはじめ、結局、滅亡、興亡を繰り返してきた。生物は個体でも集団でも、成長曲線はS字カーブを描く。世界文明も、個人生活も、長い自然との対決の歴史を終えて、今、最も恵まれた状態、生物の成長曲線S字の頂点に達した。多くの個人も集団も、S字の頂点から下降する曲がり角に立っている。
 そこでは三つの可能性しか残されていない。昔はよかったといって、回顧すること。夢よもう一度という態度である。しかし、個人も集団も、あと戻り、もう一度過去の歴史を繰り返すことは不可能である。
 第二は保守的な態度である。よくいわれることだが、今のままでよいではないか、と考えることである。現状維持といってもよい。しかし、この選択は、われわれ自らに自転車をこぎつづけることを強いることになる。こぐのを止めればすぐに倒れてしまう。われわれは何としても、明日に向かってさらに発展を続ける必要がある。
 それには人類文明の興亡の歴史に学び、先人の失敗の轍を踏まないことである。これは総論では正しい。しかし、現実には個人も社会も政治も経済も、どれほど失敗しても懲りずに、結局、先人の轍を踏んで再び破滅の歴史を辿ってきたのが、人類の歴史というものではなかったか。
 われわれはもはや批評家、評論家の立場だけにとどまることは許されまい。いくら話を繰り返し、どのような決議をし、何を紙上に記し、どんなテレビドラマを放映し、どんな情報を流しても、それだけではゼロに等しい。緊急かつ確実に実行すべきことは、この瞬間から明日に向けて、一人ひとりがその立場、力に応じて、それぞれの場所で、舞台監督、主役になりきり、積極的に自ら額に汗し、大地に鍬を入れて、おのれの生存の基盤を築き、未来を切り拓く努力を惜しまないことである。
 こうして第三の道は、おのずと定まってくる。幸いにも、日本列島の明日を拓く脚本は基本的に完成している。緑豊かな環境創造のために、脚本となる間違いのない生態学的な植生図は、すでに手許にある。これを科学的な脚本として、すぐにも実現に移すことが、求められている。
 二〇〇〇年このかた、日本人が新しく町や村を築く場合に必ず行ってきた鎮守の森に象徴される「ふるさとの森づくり」の手法がある。このノウハウを基礎に、まず足元から地域に広げ、素手で大地に触れ、緑の日本列島の創造に取りかかるべきである。
 今、日本国内、また国際状況も厳しい。厳しければ厳しいほど、われわれが生き延びるための基本戦略とするべき最も確実な方法は、命と環境と文化を守る、人間生存環境課題の克服にある。環境問題が後追い対策や保全のみの時代は終わりを告げた。現状からよりよい環境を積極的に回復し、修復し、創造する。そういう時代が到来している。
 日本人は、長い文明発展の歴史の中でも、土地本来の緑の自然環境と意識的か、否か、結果的には共生して現在に至った稀な民族である。われわれの祖先は、長い時間をかけて、鎮守の森に象徴されるふるさとの森をつくり、遺し、守ってきた。そうした面からみれば、日本の戦後の発展は、祖先が創造したふるさとの森を母胎に、潜在的なエネルギーの貯蔵庫として劇的な発展を遂げることができたことになる。
 しかし、そのふるさとの森が危機に瀕している現在、日本人の長い間の生き方をもう一度見直してみよう。そこに先達たちが、一方で自然を開発し、集落、村、町、都市、水田をつくってきた歴史が見えてくる。しかし同時に、日本人が必ず「ふるさとの木によるふるさとの森」、世界に誇る鎮守の森をつくり、育ててきた歴史が重なってくる。
 日本人の歴史とは、この伝統的な文化と地域固有の緑の自然とが共生した歴史であった。最近国際的にも提唱されているこの共生の歴史を基礎に、生命集団と環境との総合科学であるエコロジー、植生生態学の知見を総合し、未来を創造するために、本物の地球環境を足もとから回復し、修復し、さらに新しく創造する。
 幸い、北は北海道から、南は熱帯のボルネオのビンツル、アマゾンのベレン、チリのコンセプションに至る各所で、「ふるさとの木によるふるさとの森」づくりに成功している。その数は世界各地、六百数十ヵ所に上っている。この生態学的な知見とノウハウを生かして行えば、生きた実績を日本各地から地球全体へ広げていくことが可能となる。



2006年07月17日(月)


「頭隠して尻隠さず」
デラウェアの中でお昼寝中 (スズメガ)



2006年07月16日(日)


ナガサキアゲハの産卵
本来は九州と四国に分布する国内最大級のアゲハチョウの仲間ですが、温暖化の影響でしょう、千葉県まで北上しています。
オスはまるで別種のように青みがかった黒の単色で、ずっと「カラスアゲハが来た!」と勘違いして喜んでいました。
美しく珍しい蝶を見られるようになったことは嬉しい反面、ここまできたかと恐しくもなります。



2006年07月15日(土)


藤 ‘黒竜' (狂い咲き)



2006年07月14日(金)


グラジオラス園芸種





■ 覚書
(緑環境と植生学 鎮守の森を地球の森に 宮脇 昭 著 第二章 世界と日本の植生を比べる より)

二 日本列島の自然とヨーロッパの自然

 今日われわれがスペインなどで現地植生調査をすると、階段状のテラスの斜面にだけわずかに低木樹林が残り、ヒツジ、とくにヤギの放牧などが行われているが、遠くから見れば、ちょうど日本で最近好んで作られている、芝生に単木がまばらに植えられている都市公園のように見える。それを彼らは公園景観と呼んでいる。「公園景観」とは、家畜の過放牧、火入れなどにより、森が破壊された荒野状態に付けられた名であることは、ヨーロッパではよく知られている。一方わが国では明治以降、芝生公園が導入されるまでは、鎮守の森に囲まれた境内などを憩いの場、お祭り広場として使ってきた。

 日本ではかつて天領や、群雄割拠していた各地方の大名たちがもっていた樹林を借景にしていた町人たちが、自分の身近に緑がほしいために、その領地から小さなケヤキやツバキ、マツなどを持ち帰った。しかしあまり大きくなると目立つので、いかに大きくしないで長持ちさせようかと腐心した。これが、ある面では日本文化の一つとして世界的に評価されている盆栽、庭園(箱庭)手法である。このような盆栽、庭園的な細かい緑、緑地は、周りに借景として見事な森があるときには素晴らしい文化であり、私たちの生活をとりまく自然を濃縮した一つの形として、精神的にも楽しませてくれる。
 しかし、現在のように周囲がいわゆる都市砂漠、産業砂漠化している大都市周辺で、今最も重要なことは、盆栽的手法にこだわり、単に美化運動の延長としていわゆる飾りだけの緑化を行ったり芝生公園をつくることだけではあるまい。

 有機物は一度燃焼したら空気に還元されてしまい、それをつくるのはまだ人間の科学技術では不可能であるため、ドイツの各州では条例などによって落葉、枯れ草などの有機物を焼却するのを禁じている。
 事実、生きている緑の植物が、太陽の光エネルギーを受け、光合成によって時間をかけてつくる以外には、十分に有機物をつくる手段はない。このかけがえのない地球資源の有機物が、十把一絡げの対応によって、いわゆる産業廃棄物として簡単に焼却されている日本の現状は、われわれ生態学者の努力も足りないが、日本の行政や法律づくりの無知を世界にさらしているといえる。



2006年07月13日(木)


オニユリ (Lilium lancifolium)





■ 覚書
(緑環境と植生学 鎮守の森を地球の森に 宮脇 昭 著 第一章 文明と緑の日本列島 より)

一 自然の森

 かつて、人類が自然に与える影響が素朴で極めて限られていた時代には、むしろ、自然の森は人間活動の邪魔でさえあった。人類文明発展の歴史を見るときに、そのほとんどは、かつて森や樹林で覆われていた森林帯やその周辺域に発展している。長い時間をかけて森と対決し、火や斧や家畜の過放牧によって破壊しながら、集落、村、町、都市を発達させ、地域に根ざした固有の文化も築いてきた。しかし、人類文明四〇〇〇年から六〇〇〇年の歴史を見ると、森を破壊したときに文明は滅び、都市も強大な帝国も消滅した。地中海地方の古い文明帯を見ても、かつて栄華をきわめた都市の周りは、現在では半砂漠化しているところがほとんどである。

四 雑草から覗ける森の姿

 日本の水田雑草92種類中ウリカワとコナギを除いた90種と、現在生育している畑の雑草302種類中ネザサ類を除いたほとんどすべての種類は帰化植物である。すなわち日本の農耕地、路傍に生育している、いわゆる雑草は各種の穀物などとともに、アジア各地、また遠くヨーロッパ、中央アジア、比較的最近では南北アメリカやアフリカ、オーストラリアから入ってきた、世界中をさまよっている広布種、コスモポリタン種である。

 昭和26(1951)年から雑草生態学を研究してきた私にとって、雑草こそ最も興味深い。森林の更新には数百年もかかるが、夏の雑草は、畑でも水田でも二〜三週間で芽を出し、生育し、花を咲かせ、実を実らせて一生涯、ワンサイクルが終る。このように生育の期間が極めて短くダイナミックに生を営む雑草は、人間がせっせと草を取るからこそ、その水田や畑の主として持続的に生育できる。



2006年07月12日(水)

■ 覚書
(江戸のガーデニング 青木宏一郎 著 より)

植物の美しさは、植物自体にもあるが、その美しさを感じる人の心、美しいと思う心が重要である。今や、世の中全体が刺激過剰になって、感動することが少なく、草花を見ても何も感じない人が増えている。それでも無心になって植物を見ていれば、たとえ雑草であっても、それぞれの個性や人をひきつける魅力を感じとることはできる。植物を育てることによって、逆に植物を見て色々なことを感じとることができる豊かな感性を育てる。いや育ててもらっていることに気がつかなければならない。つまり、植物は人の心を癒し、美しいものを素直に美しいと感じる心を育ててくれる。
 ただし、自分はいいことをしていると自負するのはよいが、植物が意のままになると思ってはならない。育てさせてもらっているというくらいの謙虚な気持ちが必要である。できるかぎりの世話をしたら、後は自然の力にゆだねるより仕方がない。その意味では、江戸の園芸に携わっていた人々には、人間の力の限界を知った上で、天の力、時の運にゆだねるといった非常に謙虚な一面を持っていたのではないか。これは、現代でもぜひそうあってほしいことである。



2006年07月11日(火)


ゼフィランサス・カリナータ(Zephyranthes carinata = Z. grandiflora)
ハブランサス・ブラキアンドルス(Habranthus brachyandrus)を通販で購入して咲かせたものです。(品種違い)



2006年07月10日(月)

スズメガの幼虫

(画像削除)

イヌツゲの葉を食べているので、コエビガラスズメだとおもいます。



2006年07月09日(日)

ハナイカダの果実

(画像削除)

食べてみると、ほろ苦い甘さで美味しいです。
売っている果物には殆どエグ味、渋味、苦味がないので、それを感知する神経が呼び起こされ、舌が喜んでいる気がしました。(ソメイヨシノの果実も同じ理由で好きです)
種子は噛み砕かないよう掌に出し、直ぐに蒔きました。



2006年07月08日(土)

RHSJイベントに参加@池袋
講師:田淵誠也氏
■ 世界のスミレ科について

苗の交換会にて、ムサシアブミの実生苗を提供。
頂いた苗は
□ ヤブレガサ
□ ヨメナ(斑入り)





ねぶた囃子の演奏@上野精養軒



2006年07月07日(金)

入谷朝顔まつりへ


入谷鬼子母神境内にて浮世絵購入



2006年07月06日(木)

永田町の国立国会図書館を、はじめて利用しました。

いきなり図書課第一別室という狭い部屋に案内されたので、「危険分子の香りのする輩は隔離されるのか」とおもい一瞬身構えたのですが、書物の種類によって閲覧室が異なっていることが分かりました(アホ)。
その部屋の閲覧者はボクをいれて2人だけ、しかも途中から完全に1人ぼっちに…。
3人に監視されながらの調べものはけっこう辛いものがありましたが、発想を変えて「貸し切り」とおもえるようになる(あつかましいにもほどがある)と、楽しくなってあっという間に時間は過ぎて行きました。







■ 覚書

『日本植生誌』 より

住んでいる場所(千葉県市川市の某所)の潜在自然植生

□ イノデ‐タブノキ群集

・タブノキ
・ケヤキ
・エノキ
・シロダモ
・ヤブツバキ
・アオキ
・ヒサカキ
・ムラサキシキブ
・シュロ
・ヤツデ
・ネズミモチ
・トベラ
・マサキ
・テイカカズラ
・ヤブコウジ
・キヅタ
・カブダチジャノヒゲ
・ヤブラン
・ビナンカズラ
・キチジョウソウ
シダ類
・イノデ
・アスカイノデ
・アイアスカイノデ
・オクマワラビ
・ベニシダ
・イヌワラビ
・ミゾシダ
・オオバノイノモトソウ
・イワガネソウ
・クマワラビ
・ヤマイタチシダ



2006年07月05日(水)

■ 覚書
(植物と人間 生物社会のバランス 宮脇 昭 著 �� 開発と保存 より)

2、植物と人間

よりよく生きるために

 現在ほど多様で、そして人間と共存共死の、不可分な関係にある緑の自然を理解し、確保する英知がすべての人たちに望まれるときは、かつて人類の歴史には一度もおとずれたことがなかった。
 我々日本人は限られたこの島国で長い間にわたって、意識していたか否かは別として結果的には郷土の森に象徴される本物の自然と共存して、現在の発展をかちえた、この日本民族にとって、明日の発展の民族の潜在エネルギーの貯蔵庫として、また世界の全人類の生存の基礎としてじゅうぶんな緑の自然域の確保が、もっともさしせまった課題である。山岳地帯や海岸、湖沼、湿原など、日本のすぐれた景観地だけでなく、われわれの日常生活している都市新交通施設やさらに新産業立地工場の中や周辺にこそ、日常生活している住宅街の中にこそ、失われた緑の回復が強く要求される。よりよく生きるための、また健全な社会の発展のすべての基盤は、人間の本質的な共存者、自然の緑の必要性をみんなが共通に理解し、まず生きている緑の積極的な環境創造確保からはじまる。




2006年07月04日(火)

■ 覚書
(植物と人間 生物社会のバランス 宮脇 昭 著 �舷∧�と人間環境 より)

1、空間的秩序――マント群落とソデ群落――

共通性と相違性

 自然は多様である。自然界の一員としての人間も、人間の考え方や意識も、画一的であってはならない。もとより、そのおかれた環境、立場、生き方によって多様であることがのぞましい。ただ、本質的には、生命体としての共通の生き方の基盤の上で、多様な生き方、考え方をもつべきであろう。

現象と本質

 二つの見方や対象を比較する場合に、まったく異なった結論や反対意見がでるのは、ちがった点にのみこだわっているからである場合が多い。われわれが、自然やそれと人間との関係を考える場合に、もっとも重要なことは、まず客観的な自然の見方をしているか、正しく自然を理解しているかどうかにある。自然の見方で注意しなければならないことは、ちがい=相違点=は誰でも容易に気づき理解されやすく、より本質的な共通点についての理解には、一般に、かなりの時間や実験、観察または経験が必要であるということである。



2006年07月03日(月)

ヤブカンゾウ

(画像削除)

新芽は勿論、花も天ぷらにして食べられるそうです。
一日花で、どうせ翌日は別の花しか咲いていません。そう考えれば摘むことも惜しくはないでしょう。



2006年07月02日(日)

■ 覚書
(植物と人間 生物社会のバランス 宮脇 昭 著 �型∪犬反祐屬領鮖� より)

3、日本とアジアの自然と人間

アジア、ヨーロッパの世界二大文明は緑の自然を食って発達した

 また中国大陸の照葉樹林帯の北限に近い付近では、ヨーロッパのネアンデルタール原人に対応する北京原人が発掘されている。遠い原人時代のことは考慮に入れないとしても、ヨーロッパ文明より古い歴史をもつ中国大陸の自然植生――照葉樹林も、中国四、〇〇〇年の文明の歴史の代償として、ほとんど平地から消え失せているという。
 このことは、現在の急速な物理、化学的な技術文明とは、比較にならないほどはるかにゆるやかに、漸新的に進行した過去の文明も、長い時間の流れの間に、文明発達の代償としてかれらを育てた自然林を食いつぶしてしまっていることを明瞭に示している。ヨーロッパでもアジアでもほぼおなじ常緑広葉樹林帯に発達した世界の二大文明は、その発生地周辺の自然の緑を、破壊しつくしてしまっている。

日本民族を育てた照葉樹林

 日本や中国の文化が照葉樹林文化といわれるほど、日本民族は、飛鳥遺跡で代表される歴史の誕生時代から現在まで、常緑広葉樹林域にしがみついている。その反面、今もっとも本質的な自然の改変、緑の消滅が心配されるのは、ツバキの花が咲いている、このヤブツバキクラス域である。
 最近(※)の夏緑広葉樹林の大規模な伐採、針葉樹のいっせい植林施業や高山の山頂近くまで観光道路をつけて、緑の失われた生活域からわずかに残されている自然の緑の中に、本能的に逃げこもうとする大量のレジャー客を運ぶ観光道路や施設の建設、さらに大量の来訪者は、残されているわが国の最後の自然域までも急速に変形しようとしている。

世界の植生と人類文明

 現在の世界文明の中心地で、人口の集中している大都市のある地域は、日本、中国などの照葉樹林域とイタリア、フランスの硬葉樹林域の一部をあわせた、常緑広葉樹林域およびドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、アメリカの東部などのミズナラ、ブナ類を主とする夏緑広葉樹林域にかぎられている。
 このようにみてくると、広い地球上で人類が持続的に文明をきずき、存続させ得る地域の植生域は、きわめてかぎられていることがわかる。すなわち自然植生を指標とした人間の生活に、もっとも適した植生域は北半球にかぎられている。しかも大陸の東側では、北緯23〜45度の付近まで、西側では40〜58度付近の海洋側にかぎられている。
 自然植生と人間生活、とくに持続的に文明を発展させ得る可能性を地球的観点から比較・検討すると、わが国の大部分はもっともめぐまれた自然植生域にある(日本の植生図参照)。いっぽうわれわれが日本から逃げ出しても、アフリカにも、南アメリカにも、日本とおなじ程度の人間生活、文明発展を支え得るような自然植生域は見当たらない。
 もしわれわれが国土の自然要因、とくに緑の自然植生との共存の原則に立って、慎重に利用したならば、限られた日本の国土の自然は、日本民族のかけがえのない将来への発展の基盤として、われわれの健全な生存を保証するばかりでなく、輝かしい未来を約束してくれることであろう。

※ この本は1967年に出版されました。



2006年07月01日(土)

■ 覚書
(植物と人間 生物社会のバランス 宮脇 昭 著 �擬�然とは何か より)


1、植物と人間の戦い

生物社会の危機

 生物社会の最大の危機は、路傍の雑草群落でもバッタやノネズミの集団でも、かれらのもっとも生活しやすい環境条件が形成され、ある期間持続している間に、爆発的に個体数が増加してしまい、その集団あるいは社会が絶対的に優占し、発達しすぎたときである。植物社会ではそのような場合、その群落がつくりだした新しい植物環境に適応しきれないで他の群落におきかえられてしまう(遷移の項参照)。しかし、「人間は動物とは別である。思考力があり、器具を考案し、使うことができる。まして、ものも言わない植物などと比較するのは、まことに失礼な発想だ」と怒り、反論できる間はまだよい。そういう人たちはかれらの祖先が食べ残した生存の基盤――緑の自然――の遺産の上に何とか当分生きてゆける人たちである。

2、自然と人間か、自然の中の人間か

人間が生きのびるための自然保護

 では何のために自然保護が最近叫ばれているのだろうか。この自然保護提唱者の中にも、自然の構成要員である人間の多様性が自由に表現されていて面白い。様々な思想や立場の人たちが、いろいろな体験や観点から自然保護や動物愛護をとなえている。花が美しいから、鳥が可愛いから、裏山がけずられるから、海岸や湖が埋め立てられるから等々、そのよびかけの直接の原因はまったく多様である。しかし、かれらが意識するしないにかかわらず、かれらの叫びの底流には、生物としての生活の基盤が失われていくことに対する生きものとしての本能的な危機感が流れている。
 およそロマンチックな自然の愛護などにまったく無縁な私までが、あえてこの問題に警鐘を鳴らすのも、現代の人間の生活域の最低限の自然の確保は、もはや花のためでも、鳥のためでもなく、まさにわれわれ人間が何とか破滅しないでよりよく生きのびてゆくのに必要なためである。ささやかな生態学、植物社会学という専門分野のせまい研究をとおして、生物のそして人間とその自然環境との多様なかかわりあいから、人類の将来が一般の人たちより幾分早く予見できるからにすぎない。

3、生物圏――その量と役割――

生物圏の中の人間

 「人類のもっとも愚かなことは、自然や生活環境を破壊して衰退し、滅亡した他の民族の過ちや失敗の例を決して学ぼうとはしない。自分たちも悲劇の奈落に陥るまではおなじ失敗を何回も繰り返す」(デモル・1960)。


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