Sun Set Days
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2001年08月31日(金) 「ワインビーフ」考察

 先日、夏休みに北海道を旅行していた後輩夫婦がおみやげに「ワインビーフ」をくれた。いわゆるビーフジャーキーみたいなやつだ。名前の通り、ワイン味。
 そして、昨日の夜ああこれ食べよう、でもお酒飲まないしな……と思いつつパッケージを見ていると、ちゃんと特色が書かれていた。そういうのを読むのは好きなのでどれどれと読んでみる。

○ワインビーフの特色○

「ワインビーフ」は、新鮮で良質な十勝牛の肉を主原料に天然の香辛料を加えて乾燥し、まろやかな風味とソフトな舌触りに仕上げております。」

 へぇー、なるほど、おいしそうだ。新鮮な十勝牛ってところにとりわけ興味をそそられる。

「その上低カロリーで高タンパクな「ワインビーフ」は、」

 ふむふむ、カロリーも低いんだ、高そうに見えるのに、それなら女の人も安心だ。

「オードブルに、ワインや洋酒のおつまみに、ゴルフコンペの参加賞やハイキング・登山のお供に、またお子様の健康のためにも最適です。」

 ……

 ……

 やけに具体的だよ。
 オードブルやワインのおつまみと言うのはよくわかる。もともとビーフジャーキーだし。
 ただ、ゴルフコンペの参加賞っていうのがすごい、賞まで限定している。
 確かに、2等とかでもらっても困るサイズではあるけれど。
 また、登山のお供にっていうのも、冷静に考えてみるとちょっとすごい。
 山頂に上り、気持ちのよい風を浴びながら食べる「ワインビーフ」。
 眼下に広がる景色もより素晴らしく見えること間違いなし。


―――――――――

 そのパッケージには、他にもいろいろと書かれている。
 とくに注目できるのがご当地の歳時記と銘打って季節ごとの観光イベントをイラスト付きで紹介しているところだ。
 さすが北海道土産。
 帰った後にも思い出に浸らせてもらえるというわけだ。気に入った人はリピーターになるだろうし。
 どれどれとそれも読んでみる。


 春 まきばの家オープン

「まきばの家で「ワインと牛肉、ビーフソーセージ、いも団子」等がバカウケ。コテージ村で家族や仲間とワイワイやるのが楽しそう。大きなモンゴルテント・パオで仲間たちと遊牧民の気分を味わってみませんか。夜には満天の星空が歓迎してくれるはずです。」

 そうか。いまはいも団子がバカウケだったのかと、北海道の地味なブームを知ってしまい思わずせつなくなる。バカウケってまだ死語じゃなかったんだ……
 いも団子。
 トウモロコシとか、牛乳とか、他にもいろいろあったと思うのだけれど、どうしていも団子をセレクトしてしまったのだろう。
 そして大きなモンゴルテント・パオの登場にいたっては、もうこれがどこの国の名産なのかさえもわからない。いくら仲間たちと遊牧民の気分を味わっていようと、彼らがいるのは紛れもなく日本、疑いようもない北海道なのだ。
 もうこの時点で「ワインビーフ」は僕の心をとらえて離さないのだけれど、とどめの一撃がちゃんとまっていた。

 夏 ○○○夏まつり

「メインストリートの交通をしゃ断してのビッグイベント。ちびっこフェスティバルと仮装盆踊りが見どころ。」

 文章は普通の夏まつりの紹介なんだけれど、そこに挿入されているイラストが、153キロの直球。


 イラストの説明


 提灯がぶら下がっている。
 その明かりの下で楽しそうに踊っている仮装をしている人たち。
 両手を挙げているスーパーマンの仮装をしている女性、
 フラダンスのようなポーズをとっているフランケンシュタインの仮装をしている男性、
 (それは真夏のはずなのに)黒いマントをまとって、ドラキュラの仮装をしている男性、
 その三人の前で無邪気に笑顔を見せている金太郎の仮装をしている子供。
 4人とも、まるで何者かに操られているかのような笑顔で一心に踊っている。


 そういうイラストが(やけにリアルな筆致で)描かれているのだ。
 一瞬、本気でこの町に行こうかと思った。
 仮装盆踊り。
 いろいろな意味で、忘れられない夜になりそうだ。

 さすがはお土産界の松坂大輔とも異名をとる「ワインビーフ」。
 153キロの直球だ。
 デットボールだけど。

 味はなかなかいけました。
 ワインの味がそれほど強くはなくて。カロリーも低いし。
 このページを読んでいるゴルフコンペ主催者のみなさまに、ぜひおすすめします。
 参加賞でどうでしょう?


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 お知らせ

 来年の夏休みは決まりです。


2001年08月29日(水) 『白い犬とワルツを』

 子供の頃、よく都内の満員電車の映像なんかを見るにつけ、東京は大変だと思っていた。あんなすし詰め状態の電車に乗るのなんて、かわいそうだと。
 もちろん、いまでは自分も満員電車に乗ることがたまにはあるわけだけれど、疲れているときには一度終点まで戻ってから帰るとか、できるだけそういう工夫をするようにしている。一人暮らしなので急いで帰らなければならない理由はないし、ぎゅうぎゅうで揺られて帰るよりは、席を確保して読書なり睡眠なりをしていきたい、というのが正直なところなのだ。
 安土敏という評論家の計算によると、サラリーマンが40年間働くと、週休2日で1年間に50週働き、1日片道1時間電車に揺られて通勤するとすれば、一生のうちの8年と5ヶ月を電車の中で過ごすことになるのだという。
 8年と5ヶ月!
 それって結構な時間だ。片道1時間なんて、都内に通勤する人にとってみればおそらくそう珍しくもない数字なのだろうし。
 それだけに、電車の中で過ごす時間がとても重要になってくる。
 ただ、ぎゅうぎゅう押されているだけの8年間と考えると、まるで何かの拷問のようだ。

 そこで、その時間を有効に活用するために、人は車内で様々なことをしている。
 たいていの人は、音楽を聴いていることが多い(僕もよく聴いている)。
 スペースを取らないし、ボリュームをそう大きくさえしなければ周囲に迷惑だってそれほどかけることはない。
 本を読んでいる人も多い。みなさん、結構上手に満員の中でも文庫本や、ハードカバーの本を読んでいたりする。
 何かの資格の勉強らしきことをしている人も多い。参考書を読んでいる人たち。
 そういうのを見ていると、こういう移動時間を有効に活用しているのだなあと感心してしまう。
 眠っている人ももちろん多い。
 朝はまだ寝たりない分を、夜は仕事の疲れを少しでも早く癒すために、移動時間と睡眠時間を重ねているのだ。
 それだって当然のことだ。ただぎゅうぎゅう押されているよりは、睡眠をとるほうが身体にとってもはるかに効率はいい。

 ただ、
 眠っている人が起きる瞬間というのは結構面白かったりするのも事実だ。
 はっ! と気づいて、慌ててホームに駆け下りる人がいれば、
 はっ! と気づいて、慌ててホームに駆け下りて、あっ! と気づいて、再び電車に飛び乗る人もいる。
 そういうときには非常にはずかしい。
 もちろん、誰も笑ったりはしないのだが、なんとなく周囲にやっちゃったね……という空気が漂ってしまう。
 言葉を交わしてもいないのに、誰もがその人の身に振りかかった出来事を類推することができるのだ。
 わかりますよー、とか思いつつ。
 他にも、シャガールの作品ばりの姿勢で隣の人に寄りかかるサラリーマンとか、
 半目を開けて眠っている人とか、
 それが白目になっている人とか、
 いろんな人がいて面白かったり(ある意味恐かったり)する。

 もちろん、白目の人からは離れるけど。

 それにしても、8年と5ヶ月だ。
 いろいろ考えてしまう数字ではある。


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 昨日は久しぶりに渋谷で飲んでいて、3時間半くらい喋っていた(ビール2杯、その後はグレープフルーツジュース)。
 Q―Frontの前のスクランブル交差点は相変わらずの人の多さで、ネオンの多さやその他すべての雑多な環境や雑踏に、いつものことながら驚いていた。
 そんなときにはよくこんなことを思う。
 それは、自分が日常を送っているときにも、この街は毎晩眠らない場所であり続けているのだということ。
 その一方では、たとえば日本海岸の小さな町では、ただ静かに海風が海岸道路の街灯に吹き付けているのかもしれないということ。
 そんなふうに思うときには、ほんとうに世界は広いと思う。
 渋谷の街も、地方の海辺の町も、どちらもが紛れもない現実で、自分とは遠く離れていて、だからこそどうしてか親密なものであるような気がしてしまう。自分が訪れたことのあるすべての場所が、同じように夜になっていたり、朝をむかえていたりするのを想像してみるのだ。
 そこではもちろんこれからも会うことのない人がそれぞれの生活を送っているのだ。
 そういうのを想像するのはとても楽しいし、安心することができる。
 ゆっくり眠ることさえできる(たんじゅんだけれど)。


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『白い犬とワルツを』を読み終わった。テリー・ケイという作家の作品で、新潮文庫。
 よかった。読み終わった後で、しばらく黙り込んでしまうくらいに。
 裏表紙には、こう説明されている。


「長年連れ添った妻に先立たれ、自らも病に侵された老人サムは、暖かい子供たちの思いやりに感謝しながらも一人で余生を生き抜こうとする。妻の死後、どこからともなく現れた白い犬と寄り添うようにして。犬は、サム以外の人間の前にはなかなか姿を見せず、声も立てない――真実の愛の姿を美しく爽やかに描いて、痛いほどの感動を与える大人の童話。あなたには白い犬が見えますか?」


 ここには(結果として)永遠に続いた愛の姿があるし、いまではもう失われつつあるような大地に足のついた生活がある。
 サムは特別な人物じゃない。けれども、誰もがそうだし、誰だってこういう奇跡(のようなもの)に出会う可能性があるのだ。
 等身大で、自分のスピードで人生を歩くこと。
 妻や、家族を愛し、幸せを願うこと。
 サムは本当に素敵な人で、サムの書いている日記も本当に素晴らしい。
 こういう物語を読むと、見えないけれど確かにいるものの存在が、必要な時はきっとあるのだろうと信じることができてしまう。
 そして、何かを信じさせてくれるような物語が、ほんとうの物語なのだと素直に信じることができる。


2001年08月27日(月) 初冬の散歩

 僕には密かなお気に入りの場所があって、でもまだそこを訪れたことはない。
 と書くとなんだか禅問答のようなのだけれど、ようは電車の窓から見て気に入っているのだけれど、まだ一度も行ったことがない場所があるというだけのことだ。
 その場所は、二子玉川。
 電車の窓から大きな川が見えると、いつも意味もなく気持ちが昂ぶる。
 本を読んでいても音楽を聴いていても、あるいは混雑に巻き込まれていびつな姿勢になっていても、二子玉川だけは見たいと思う。
 僕はもともとこちら(関東)の人間ではないので、あの川が正確には二子玉川というのか玉川というのか、それとも多摩川なのかは実はいまだによくわからないのだけれど、それでも電車の窓から見えるあの川はいい、しかもかなりいい、と思う。
 じゃあなんで行かないんだよという話になるのだけれど、なんとなく、行くとしたら初冬と決めてしまっているのだ。
 僕は基本的に幼い人間なので、往々にして自分のなかに縛りを設けることが多い。たとえば、○○までどこそこには行かないとか、そういうやつ。そうすることによって、実際にそこを訪れたときにより感動できてしまえたりするのだ。
 だから、個人的には初冬の、それこそ初雪が降りそうなくらい寒い朝に、まだ暗いうちに電車に乗って、二子玉川駅で下りて、あの川べりを散歩したいと地味に強く思う。そのときにはたぶん秋物のコートを着ていて、近くのコンビニで缶コーヒー(ホット)を買って、それをカイロ代わりにゆっくりと散歩したい。
 そこには当然犬の散歩をしている人がいるだろうし、ジョギングをしている人がいるだろうし、もしかしたら釣りをしている人もいるかもしれない。もしかしたら街灯の明かりもまだついているかもしれない。そんな人たちを見やりながら、時間を気にせずに(なぜなら休日だから)、てくてく歩き続けたい。
 あー、想像しただけで、散歩したくなってしまう。
 でも、もちろんいまはまだ夏の終わりだから、それはまだまだ先の話だ。
 そして秋も深まる頃、おそらくは会社の帰り道に、「あ」とか思う夜があるのだ。
 冬の匂いがする夜が。
 そうしたら、決行。


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 Today's Music

「Evolution」  Boyz �� Men


2001年08月26日(日) 夏の夜の花火

 この日記サービスは無料なので当然広告がついてくる。
 広告収入を得ることによってユーザーの負担を無料にしているのだから、それはよいことだと素直に思う。
 そして、広告自体はおそらくは何種類かがランダムに表示されることになっていて、毎回異なる広告が見られるようになっている。
 つまり、ごく稀に内容と広告とが不思議な関連性を持っていたりすることもありえるのだ。
 ということで、
 23日の日記「台風の夜と、台風の朝」を見ているときに、アデランスのバナー広告が表示されていた人はビンゴです。
 僕的には。

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 もうすぐ夏が終わり、週明け以降仕事が加速度的に忙しくなっていく現在、おそらく今年はもう海には行けないなと思う。
 今年は一度だけ海に行ってきた。
 逗子。
 逗子に実家のある後輩のところに泊りがけで、同僚たちと行ってきたのだ。
 当日は、海と山と焼肉を楽しみ、夏を満喫する。
 そして、夏に海といえばやはり花火だ。
 砂浜で行う花火ほど、夏を感じさせるイベントはない。

 ということで、5人で夜11時くらいに歩いて5分ほどのところにある砂浜まで繰り出した。
 事前に、コンビニで様々な花火が入っているセットを買ってある。
 まず、後輩の一人が袋の中から打ち上げ花火を取り出す。セットの中でも一番大きなやつで、まずは景気よくということなのだろう。
「いいねぇー」と僕ら。
「さぁ、やりますよー」と後輩。しゃがんで、ライターから導火線に火をつけている。火がつくまでもどかしいのは、いつの花火も同じだ。
「……なぁ、ひとつ訊いていいか?」と僕ら(少し怪訝そうに)。
「なんすか?」と後輩(最高の笑顔で)。
「……それって、手で持つやつだっけ?」(かなり、腰を引いて)

 夏の夜の花火。暗闇の中に輝く火花。そして、


 すべての花火を手で持つ後輩……


 もちろん、ロケット花火大戦争になったのは言うまでもありません。


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お知らせ

Text Sun Set は、線香花火を推奨しています。


2001年08月25日(土) 『流通は進化する』

 伊藤元重著『流通は進化する〜日本経済の明日を読む〜』(中公新書)読了。
 流通の時事的な側面に触れつつも概略を述べている本というのは結構出版されていて、たとえば今年読んだものの中にも『流通激震!』(日本実業出版社)という本があったし、懐かしいところではやっぱり中公新書の『顧客社会』も同じような路線の本だった。
 この本の場合は、流通を見れば経済がわかるという前提に立ち、四つの側面「流通の歴史(時間軸)」「都市部と郊外」「縦の流れ(メーカー、問屋、小売)」そして「技術革新(インターネット)」から現状認識を行っている。
 非常に読みやすい文章で、納得できる例示も多く、理解しやすい内容。あとがきで「新書ということもあり、単行本として出された前の二冊よりは、長期間読んでもらえるような内容になるように意識した。」と書かれている通り、原理原則的な内容が多数織り込まれていて、流通について知りたいという向きには面白いんじゃないかと思う。

 興味深い点は多数あったのだけれど、ひとつを挙げるとしたら、以下の部分。
 トイザらスがある市に出店を表明するという噂があったときに、地元の玩具店の経営者がテレビのインタビューに答えたときの内容と、それをテレビで見ていた著者の教えている学生の意見の部分。
 以下引用です(……部分省略)。

「イギリスを見てごらんなさい。トイザらスが出てきて、イギリスの玩具店の半分以上が潰れてしまった。だから、(……)の玩具店も半分ぐらい潰れるだろう。自分たちは何も悪いことはしていない。地元の消費者のために一生懸命、いままで商売してきて、誠実にこれまでやってきたのに、大資本の論理でトイザらスが出てくると、こちらは勝てるはずがない。トイザらスのほうが、大きな駐車場があるし、品揃えはいいし、値段は安い。こんな理不尽なことが許されていいだろうか」

「先生、あの理屈はおかしいですね。もしトイザらスが出てこなければ、あの地元の玩具店は非常に高い、品揃えの悪い商品を、駐車場もないような不便な店で地元の消費者に押しつけて、消費者から搾取して生き残れるということをいっているようですね」

 その部分で問題となっているのは、消費者の立場から流通業の姿を考えたときに、旧来の流通業でいいのかどうかということなのだけれど、大資本ばかりを優遇して既存の中小企業ないがしろにするわけにはいかないから、どうしたって緩やかでなだらかな変化をたどらざるを得ないところが難しい部分なんだと思う。

 ただ、日本の流通がこれから2005年くらいまでの間にさらなる激震のなかに放り込まれてしまうということだけはほぼ間違いのないことで、そのときもいまと同じようなスピードの変化しかできないようであれば国際競争の中では「負け組」に入ってしまうはずだ。もちろん、それは避けたいことだけれど、「負け組」にならないためには、その過程で厳しい部分(大規模の倒産とか失業とか)というのは出てこざるを得ないような気がする。もちろん、最後に残っているのは「消費者の立場」というのをよりつきつめている企業になってくるとは思うのだけれど。
 日本の場合は、系列問屋やリベートなど、本書で「暗黒大陸」という形容がされているように、流通業の仕組み、システム化に関してはまだまだこれからの部分が多い。だからこそ、たとえばユニクロのようなチェーンメリットを最大限に活かすことができるようなシステムを構築することが一人勝ちに繋がってくるのだろうし(最近発表した出店数の下方修正で株価が下がってはいるけれど、圧倒的に強いことには変わりがない)。そして、そういう企業が増えていかなければならないのだろうし。

 状況的な部分で言えば、幕張地区にはカルフールやコストコと言った世界の小売業ランキング(※1)のなかでも上位に属している企業が進出しているし、雑誌なんかでは世界No.1流通業「Wal-Mart」がついに来年上陸するといった噂めいたものが書かれていたりもする。外資系流通業っていまはまだ少数派でしかないけれど、数の論理で短期間に市場を席巻するということも決して不可能なことではないのだ。そうなったときには、いくら小売業がドメスティックな産業ではあるにしても、従来の企業が将来を保証されるわけではないから、本格的な競争時代に突入するのかなと考えてしまう(聞くところによると、「カルフール」はあんまりお客が入っていないようだけれど)。

 僕は流通業に従事しているし、ずっと興味があったから大学3年生のときからずっと「日経流通新聞」をとってもいたのだけれど、当時に成長企業と呼ばれていた企業でいま現在まったく鳴かず飛ばずのところも多く、また当時は全然無名だったのに、一躍時の企業になってしまったところも多い。いずれにしても、それだけ変化が激しい業界なんだなとは実感する。その激しさが国内だけのものから、ようやく国際的なものへと変化するだけのことなのかもしれないけれど。
 もちろん、変化の激しい業界であるということ自体は、とても楽しいことではあるのだけれど。
 


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※1:世界小売業ランキング(1998年)では、売上高ではカルフール第8位(304億ドル)、コストコ第20位(238億ドル)、ダイエー第21位(221億ドル)。第1位のウォルマートにいたっては、1376億ドルにも及ぶ(←半端じゃない)。
『グローバル・リテイラー』東洋経済新報社より。


2001年08月24日(金) 『江國香織とっておき作品集』

今週は日曜日に出勤することになっているので、今日がかわりの休日。
正午に徒歩10分のところにあるスーパーマーケットに買物に行く。
そのスーパーマーケットは3階建てで、3階には書店が入っている。
全国チェーンの書店なので、新刊なんかはちゃんと揃っていて、そこで何冊かの本と雑誌を買う。
ついでにパンや牛乳やハムも買う。
(ちなみに、牛乳は雪印の「毎日骨太MBP」。以前某雑誌で開発秘話を読んで以来気に入っているのだ)

昼ごはんを食べた後で、早速買ってきた本のうちの一冊『江國香織とっておき作品集』を読みはじめる。
ずっと気になっていた幻の処女小説『409ラドクリフ』に、いままで単行本未収録だった中篇、そして妹や父親の江國香織についての文章などを集めたタイトル通りの本だ。
ミュージシャンがたまに発売するレアトラック集によく似ている。ファンにはたまらないというやつ。

個人的によかったのは、

409ラドクリフの扉の写真(線路のやつ)
『夢日記』江國�昌�
『香織の記録』江國滋

の三つ。不思議と江國さんの周辺ばかり。
写真は色合いといい構図といいとにかく単純に好みだったし、
『夢日記』は江國さん本人のおもしろさを、妹さんの視点から見ているのがおかしくて(←これはすごいおもしろいです)、
『香織の記録』にいたっては、もうやられた! という感じ。こんなふうに記録を残してくれる父親なんて、それこそ国宝級だよとか思う。
どちらも、基本的には江國さんがまだ作家でもなんでもなかった時代について書かれているものだけれど、やっぱりなるべくしてなったのだなと実感する。

はじめての人にはおすすめできないけれど(すすめるのなら、他の小説を勧めるし)繰り返しになってしまうのだけれど、ファンにはこういうのってたまらないのだろうなと思う(実際、『409ラドクリフ』が読める! というだけで驚きだったし)。
タイトルは、どうにかならなかったのかなと少しだけ思ったりもするのだけれど。


2001年08月23日(木) 台風の夜と、台風の朝

昔から、台風になると心が浮き立つという人たちがいる。もちろん、不謹慎だということは充分わかっているつもりなのだけれど、どうしようもないくらいに心が惹かれてしまう人たち。
彼や彼女はこう思う。

いつもと同じ街なのに世界の終わりのような街を見よう、
生暖かい風にくるまれてどんどん歩き続けよう、
子供の頃風に飛ばされてしまって、そのまま世界中を旅していたはずの帽子を見つけよう、

ということで、午前3時の街に繰り出しました。
もちろん、そこはそれなりに閑静な住宅街。
のん気に出歩いている人なんて誰もいません。
もしこれが世界の終わりなら、もうすでに僕は逃げ遅れています。
コンビニの明かりだけは普段と変わりなく周囲を照らし出していて、なんとなく安心して、ゆっくりと歩きはじめる。
車もたまに思い出したようにしか通らない。
風が強くて、散歩用のビニール傘は両手じゃないととてもおさえきれない。
一瞬、関口宏の顔が浮かぶが、気にしないことにする。

いつものコースをふた周りくらい縮小してゆっくりと歩く。
雨は降ってはいるけれどどちらかと言うと小降りに近く、ただ風の音と強さだけは半端じゃない。
傘とか、カバンとか、他にもいろいろなものが飛ばされてしまいそうだ。
一瞬、小林稔侍の顔が浮かぶが、気にしないことにする。

歩いているうちに、妙にテンションが高くなってくる。
もちろん、時間が時間だったし絶対に怪しいのだけれど(警察がいたら職務質問だってされてしまうだろうし)、
それでもこんな台風のちかづいている午前3時に散歩ができることなんかもうないかもしれない、という気持ちのほうが勝ってしまっていたのだ。
そういうところは本当にまだまだ子供だ。
とりわけ強い一陣の風が吹きつけてきて思わず目をぎゅうととじる。
一瞬、神田正輝の顔が浮かぶが、気にしないことにする。

いつもと同じ道路なのに、いつもより歩くのに時間がかかる。
少しずつ前に進むたびに、少しずつ後ろに引き戻されるような。
傘を横にして風をふせぐようにすると、不思議と雨があまり降りかからない。雨も横殴りに降っているので、傘は上にするより横向きにしたほうがよいのだ。
ほんとうに、ほんとうに風が強くて、いろんなものを飛ばされそうだ。
一瞬、加山雄三の顔が浮かぶが、気にしないことにする。

部屋に帰ってくると、もう午前四時近かった。
窓の外では、びゅうびゅうと風の吹きすさぶ音が聴こえているのだけれど、部屋の中に戻ってくるとそれもまた別の世界の出来事のように遠くなってしまう。
部屋のドアを閉めて鍵を回すだけで、いろんなことをとりあえずおわりにできてしまう。
単純な性質。
なんとなく充足感があって、聞茶を少し飲んでから眠った。


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今日は明日引っ越してしまう同僚を含めて、4人でご飯を食べに行ってきた。
最後ということで、ステーキを食べに行く(何かあると、すぐにニクになるのだ)。
結構ボリュームがあることで有名な店で、途中で全員がおなかいっぱいになってしまう。
いろんな話をしたのだけれど、そのほとんどが今日でお別れだという雰囲気が感じられないようなごく当たり前の話ばかり。
ディズニーシーに行きたいよねとか、
いままでに見た不思議な夢、恐い夢の話とか、
話題作が目白押しだった夏の映画で、何を観に行ったのかという話とか(ちなみに、僕は『ハムナプトラ2』と『A.I.』と『猿の惑星』を観た)。

気のおけない人たちとの他愛もない会話って、ほんとうに肩に力が入らない。
その日あったごくありふれた出来事を、ただそのまま伝えることができるというのはいいよなあと思う。

そういう同僚が転勤していってしまうのは寂しいものがあるのだけれど、別れはつきものだからしょうがない。
またきっとすぐに会えるはずだしね(願望だけど)。


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お知らせ

200も踏まずに済みました(ありがとうございます)。


2001年08月21日(火) 夕食��

 今日は半年に一度行う業務のために、電車で40分ほどかかる部署に行ってきた。
 久しぶりに小田急線に乗る。
 8:30から21:30まで働いて、帰りは後輩に車で迎えに来てもらって、そのまま3人でサイゼリアに寄って夕食をとった。
 サイゼリアというのは、イタリア料理のファミリーレストランで、今では結構各地に進出していると思う。低価格でヘルシーなイタリア料理を提供しようという、最近のバリューを伴った価格破壊の実践企業のひとつだ。
 そのサイゼリアの新しい店舗では天井にいくつかの複製画が描かれているのだけれど、そのうちのひとつが、ラファエロの「ANGELS」になっている。これは江國香織の小説『なつのひかり』の単行本の表紙に使われているものとまったく同じ。
 だから、僕はいつもサイゼリアでその絵を見上げるたびに、『なつのひかり』のことを思い出してしまう。少し、風変わりな空気に支配されているこの小説は、エピソードを転換するときにつかわれる主人公の「〜〜の話をしよう。」というフレーズが印象的で、題名の通り夏に、しかもとびきり暑い夏に読むのがいいんじゃないかと思うような物語だ。
 今年は、残暑も随分暑いようなので、これからでもまだまだ間に合うだろうし。


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 お知らせ

 Text Sun Set は、「ウィルスの話をしよう」ではじまるメールをお断りしています。


2001年08月20日(月) お酒には弱いのです。

 今日は後輩たちの送別会だった。
 職場の近くの居酒屋で開催された、まったくしんみりしない笑いっぱなしの送別会。
 別れには涙がつきものだとかいう場合もあるとは思うけれど、もう一生会えなくなるわけでもないのだし、とりあえず一緒に働いていた時期の最後に笑いあって別れるというのはある意味素敵なことだと思う。僕の所属している部署は一人以外全員20代で、年齢が近いせいかかなり仲がよかったりもして。

 ただ……

 みんな腹を抱えて笑い続けているのはちょっとどうなんだろうと思いはしたけれど。
 はたから見ると、笑い茸を間違って食してしまったうっかり者集団という様子に見えなくもなくて……


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 ということで、今日は珍しく少しお酒を飲んでいます。
 2杯。
 お酒に弱い僕にとって2杯というのはすでに限界で、3杯を越えると間違いなくトイレに直行です。
 そして、僕はお酒の席で羽目を外すことだけは絶対にしたくないと思ったりしているので、そこでアルコールはストップして、ウーロン茶なんかを飲み続けていました。
 みんなは、「一度記憶なくしてみろよ」とか、「あれはあれで何ていうのかなぁ、ちょっとしたトリップだよな」などと、まるで新興宗教の勧誘のようにぶち壊れてしまうことを推奨するのですが、いままで散々人格が崩壊してしまった人たちを見、介抱してきた僕にとっては、どうにもその一線を越えることはできないような気がするのです。

 たとえば……

「俺はカリスマなんだよ、カリスマ」と、己のスター性を延々と語り続ける男や、
 バーのビリヤード台の横でいきなりバック転をかましたあげく失敗し、周りの人間を困惑の渦に巻き込む男、
 怪電波でも浴びてしまったのか同じ話をエンドレスでリピートし続ける男に、
 気がつくと一人野球拳でなぜか全敗している男

 などなど推挙に暇がないほど、数々の漢たちを見てきました。
 ある意味、ふっきれてるよなあと思いつつも、自分も同じ夢に向かって走れるほど子供じゃありません。
 家庭はありませんが、守るべきものはあるのです。


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 さっき帰ってきてカウンタを見てみると、なんと100を越えていました。
 おかげで100を自ら踏むことはなくなり、非常に感謝しています。
 と言うか、正直とても驚いたり嬉しかったり。
 ホームページを開設している人っておそらく最初の頃ってそういうのがすごく嬉しいんだと思うのです。
 自分のページを見知らぬ人が訪れてくれて、足跡を残してくれて(Bbsとかメールとか)。
 とりあえず、ありがとうございます。
 もしよかったら、これからも気が向いたら覗いてみてくださいね。


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 お知らせ

 Text Sun Set は、一気飲みに反対しています。



2001年08月19日(日) 部屋のなかの星

 今日は夏休み最後の日なので掃除をする。
 きちんとして明日からの仕事に備えましょうというやつだ。
 立ち上げたばかりのホームページのために、雑誌やら、プリントアウトしたFTPのなんとかとか、そんなものがテーブルの上や下ににたくさん散らばっていたのだ。
 雑誌とかいちいち読み直すので、掃除はいつもあんまり捗らない。

 とりあえず一段落して16時頃一度ホームページをチェックしてみる。
 はじめたばっかりなので、結構気になるのだ。
 お、カウンターが回ってると思う。
 一瞬ウィルスが頭をかすめたが、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせる(大丈夫でした)。
 そして、Topページから、何気なく日記のページにとんでみる。

 このEnpitu(エンピツ)というレンタル日記サービスのページには、ちゃんと独自のカウンタがついていて、自分の日記がどれだけ閲覧されているのかということが書き手にわかるようになっている。カウンタの数字が変化しているということは、見知らぬ誰かが閲覧してくれたということで、それがはげみとなるわけだ。
 カウンタがなければ反応がわからないわけだから、深い井戸の底から誰かを呼び続けているようなものとさえ言えるかもしれない。
 とにかく、カウンタはありがたいなあと思って見てみると、



 100


 キリ番でした。



 いや、もちろん個人的にはキリ番とかそういうのはあんまり好きなほうじゃないのだ。よく様々なページでキリ番Getの方には自作の詩をプレゼント、とかイラストをプレゼントとかやっているけれど、ああいうのは上手な人がやるからいいのであって、ドラえもんを書いただけで「何コレ? ウチュウジン?」とか言われて幼稚園児でも見るかのような目で見られる僕のイラストをプレゼントしても、その行為自体が嫌がらせになってしまう。
 けれど、やっぱり自分でキリのよい番号を踏んでしまうと、ちょっとだけ切なくなってしまうのも事実。
 ホームページの方に戻ってみる。
 カウンターは60番台。
 気をつけなければ……
 何日後になるかわからないけれど、こちらも自分で100を踏まないようにしなければ……
 一瞬、いやな想像が浮かぶ。

     :
     :
     :

「Text Sun Set」キリ番ゲットコーナー!!

 ここでは、キリ番Getしてくれた人にSun Setオリジナルのイラスト(or)ポエムをプレゼントしちゃいます!
 さて、キリ番ゲッターの方々は。。。


 100番  Sun Set
 200番  Sun Set
 300番  Sun Set
 400番  Sun Set
 500番  Sun Set
 600番  Sun Set



(…………)


(…………)


 よくない。こんな想像はよくないよ……。
 ということで、Text Sun Setでは、管理人がキリ番を踏むことがないくらいのご訪問をお待ちしております。
 

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 昨日読了した『コンセント』の最初の方に、衰弱死した老人の部屋の天井に無数の蛍光シールがはってあり、それが夜になると星のように発光するというエピソードがあった。
 そのとき、思い出していたのが、はじめて一人暮らしをした部屋のことだった。
 僕は大学時代にはじめて一人暮らしをしたのだけれど、その部屋の天井にも、やっぱり星の形を模した蛍光シールが貼られていたのだ。
 もちろん、僕は自分の前の住人が誰だったかなんて知らないし、前の住人も些細なこと過ぎて片付けずに引き払ってしまったのだと思う。
 そして、僕の部屋のそれは無数のというわけではなくて、北斗七星と北極星と、カシオペア座だった。
 夜、明かりを消して布団をかぶると、しばらくの間だけその星の光が見えた。しばらくすると、目がなれてしまうのか光は見えなくなってしまう。
 毎日いちいちそれを見るわけではなかったけれど、たまに目に入るとなんとなくぼんやりと光が消えるまでそれを眺めた。

 そして、『コンセント』のそのエピソードを読むまで、その部屋の星のことなんて、完全に忘れていた。
 記憶というのは不思議なものだと思う。それまで何年間も思い出さなかったことを、あるひとつのきっかけから、どんどん思い出させてしまうのだから。僕はそのとき、その天井の星のエピソードに絡めて、当時のいくつかのことも思い出した。もちろん、すぐにまた本に戻ったのだけれど。
 ずっと後に読み返したらそのことを思い出せるように、日記に書いておくことにする。
 日記って、そういう意味ではとても便利だ。


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2001年08月18日(土) 『コンセント』

 ホームページの話。
 今朝(というか深夜)ようやくホームページを公開し、結構嬉しくなったというのは昨晩の日記に書いた。
 で、二時間ほど後にもう一度自分のページを見てみると、深夜であるにも関わらずカウンターが回っている。
 これは嬉しかった。まだリンクページもつくっていなかったから、いったいどこから来てくれたんだろうと一人で小躍りする。
 これがインターネットかあと、まるで田舎の中学生のように鼻息が荒くなる。
 そして、はたと思い立ちウェブメールのページを開いてみる。もしかしたら、ホームページを見てくれた見知らぬ人が感想のメールをくれているかもしれない(←深夜で思考力が低下している)。そう思って、クリックを続ける。

 ―新着メールが1通届いています―

 おお! 僕は普通のやりとりはプロバイダメールを使用しているので、ウェブメールはほとんどチェックしていないし、まずメールがくることもない。それなので、思わず顔がほころんでしまう。さっそくかぁ。見知らぬ人とのコミュニケーション、それもインターネットの醍醐味だねとか思う。
 そして、さらにクリック、



 題名なし 添付ファイル(22kbyte)




 ウィルスじゃん、これ……

 一気に肩の力が抜ける。それなりに苦労して、時間をかけてつくったのに、最初の訪問者がウィルスとは……
 そのメールをウェブ上のゴミ箱から削除しながら、とりあえずは、人間の訪問者に来てもらうことからスタートだなと、やたらと低レベルな決意を新たにする。
 その後、ちゃんと人間の訪問者がきてくれました。ありがとうasaさん……


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 昨日空港や電車のなかで半分ほど読み進めていた『コンセント』(田口ランディ)を読了。
 心理学からオカルト、はてはシャーマンにいたるまで、様々な要素が凝縮されていて引き込まれるように読み進めはしたのだけれど、個人的にはツボにははまらなかった。書店で三部作と銘打たれているような似たような装丁の本があと二冊あったけれど、どうしようかなと思う。面白くないわけじゃないんだけど、苦手。そういう系統。どうやら僕は現代小説に関しては、(ごく少数の例外を除いて)淡々とした日々を描いているようなものの方が好きらしい。

 僕は自分の買った本を読むときには、気に入った文章のあるページの上隅を小さく折るようにしている。そして、全部を読み終わってから折り目のあるページをぱらぱらとめくって、どの部分に惹かれたのかをもう一度見るようにしているのだ(よく読書術等の本で紹介されているやり方)。それで、今回一番印象に残ったのは、この部分だった。

「世界はパラレルに存在している。どこかで、誰かが世界を支えている。何らかの役割を担って。いや、違うのかもしれない。誰もがどこかの世界に属し、何らかの力を発揮して、それぞれに世界を支えているのかもしれない。ある者はお金で世界を支え、またある者は魂を送ることで神話的世界を支えているのだ。
 私はいったい、どういう世界でどんな役割を果たすために存在しているのだろう。」(208ページ)

 自分がなんのために存在しているのかという問いは幾度となく繰り返されてきたもので、明確な答えなんかあるわけもない。時間をかけて、それぞれの人が自分なりの答えを見つけていくものなのだろうし。もしかしたら、最後までそれがわからないままかもしれないし。ただ、作中にもシャーマンが登場していたけれど、何か大きなものに生かされていると感じるような瞬間であるとか、そういう大いなる存在のようなものに確信を抱くことができることも(場合によっては)あるのだろうなとは思う。そしてそういうふうに思ってしまったら、世界のなかでの役割に気付かされたりすることもあるのだろう。僕がそんなふうに思わないのは、周波数がただずれているからだけなのかもしれなくて、チューニングを合わせた刹那に様々なものが見えるようになるのかもしれないし。
 ただ、もしそういうものがあるとしたら、少なくともいまのチューニングは自分で行っているわけだから変える気もないのだけれど。無理くりでも、いま目の前の現実にしがみついてしまうような気がする。そういうのを、選んでしまうのだと思う。


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2001年08月17日(金) ホーム・ページ完成!

 毎年年のはじめに目標めいたものをたてるのだけれど、今年の目標のひとつは「ホーム・ページ作成」にしていた。
 それでも、上半期は仕事が忙しくてそれどころじゃないことは容易に予想できたので、完成目標は無理せず夏の終わりに設定する。
 初夏くらいからは仕事が落ち着いてくるだろうから、一気に作成することも出来るだろうと踏んでいたのだ(←甘い)。
 けれども、HTMLを勉強する時間まではなさそうだったし、何よりも難しそうだったので(簡単だよと言う人は多いのだけれど、どうも)、ヨドバシカメラで「ホーム・ページ・ビルダー6」を買ってきて、いつでも準備OKの状態にはしておく。HTMLがわからなくてもホームページをつくることができるなんて便利だと、しみじみとする(すぐしみじみとしてしまうのだ)。
 そして、つくるからにはコンテンツも考えなければと合間の時間を見つけて少しずつつくりはじめる。
 タイトルは「Text Sun Set」に決めていたので、名前に引きずられるようにして文章中心のページにしようとは思っていた。
 読書感想とか、日記とか、そういうよくあるやつだ。
 でも、それだけなら寂しいなと思ったときに、99年6月から00年12月まで在籍していた部署での、出張生活についてまとめようと思ったのだ。
 僕はその一年半の間、勤めている会社の新しい店舗の立ち上げを担当する部署に在籍していて、年間250日以上全国各地を出張していた。そして、その時期のことは自分で忘れてしまわないためにも、文章としてまとめようとは考えていた(文章を書くことはすきだったし、残しておかないとその自分にとって大切な時期のことを忘れてしまうとも思ったし)。だったら、それをそのままコンテンツにすればいいじゃないかと、はたと思い至ったのだった。コンテンツにするという目的があれば、先延ばしにすることもなくなるし。
 それが、結構時間がかかった。
 もちろん、本格的に手をつけ始めたのは7月に入ってからだったせいもあるのだけれど、一年半の間にかなりの街を訪れていて、そのそれぞれの街での記憶に残っている出来事を記していくということで、必然的に分量が増えていってしまったのだった。結局、気がつくと3週間で原稿用紙にして200枚くらいの分量を書いていた。自分の体験したことや思っていたことを書いているわけだから創造する大変さがない分早かったのだと思うのだけれど、それでも書き記した分量には自分でも驚いた。けれども、あとで自分がその時期のことを思い出すためにも、かたちにすることが出来てよかったとは思う。そしてそれを公開するわけだから、その文章のどこかが誰かに少しでも引っかかるものがあれば嬉しいものがあるし。
 他には、せっかくだからと昔書いた小説もコンテンツに加えることにする。
 あとは、個人の趣味のページなのだからと、自分の好きなものを集めたページもつくることにする。
 ホームページはつくった後の方が大変だという言葉を思い出し、その二つのページは少しずつ更新するページとして、小出しにしていくことにする。

 そして、ついさっきなんとか形にしたものを、サーバーにアップしたのだった。
 今週日曜日まで夏休み中で、その間にアップできないとずるずると先延ばしになってしまいそうだったので、見切り発車でしてしまったようなところはあるのだけれど。
 いずれにしても、ブラウザで自分のページが表示されたときには、単純に嬉しかった。
 あとは自分のペースで、のんびり気長にやっていこうと思う。

 もしよかったら、覗いて、書き込みでもしてみてください。


2001年08月15日(水) アンテナの名前

 今日は久しぶりにお酒を三杯飲んだ。
 学生時代の友人たちと久しぶりに会ってきたのだ。
 最初、その内の一人の女の子とカラオケに行き、その後合流。
 すすきので飲んだのだけれど、7時前に店に入り、11時過ぎまでずっと話していた。
 そんなに時間が経っていることに驚き、積もる話があったのだなと実感する。
 一人とは、2年間会っていなかったし。
 結婚して姓が変わった友人のことを、どう呼んでいいものか少しだけ考える。
 そして、久しぶりでも、すぐに先週も会っていたかのように話しはじめることができるというのは、やっぱり嬉しかったりする。
 楽しかった。

 すすきのには、お盆のせいなのかいつものことなのかたくさんの人たちがいて、大声なんかも飛び交っていた。
 結構涼しい風が吹いていて、札幌駅まで歩いてく。
 札幌駅周辺には工事中が目立っていた(大丸が進出してくるのだ)。駅構内は意外と閑散としていて、23時台の列車も結構空いていた。東急の終電間際と比べると全然違う。札幌が都会と言っても、そういうところはやっぱり違うのだろう。
 最寄の駅で降りて、家までの道路を歩いて帰る。小学生だった頃から何度も歩いた坂道からは、遠くに大きな電塔が見える。それには巨大なパラボナアンテナのようなものが五つついていて、小さかった頃はそれぞれのアンテナに名前を付けていた。おそらく、時間がたくさんあったのだ。通学時間は、わけのわからない想像の宝庫だった。いまでも他愛のないことについつい惹かれてしまう性質だけれど、それはやっぱり小さかった頃に培われてしまったものと思われる。
 不思議とそのアンテナを見るといまでもそれぞれの名前をちゃんと覚えていて、やや酔っ払い気味の頭の中で、順番に名前を反芻してみる。あれから何年も経ってしまった。いまでもなんとか楽しくやっている。もしかしたら無理矢理そう思おうとしているのかもしれないけれど、そんなのは結局気の持ちようだから、無理矢理でもそう思えればいいのだ。そうしたら、その言葉や思い込みにつられるようにして楽しくなってくるものだし。
 言葉って、そういうものだし。

 今日の購入CD:「Jagged Little Thrill」Jagged Edge。タワーレコードPIVOT店で購入。


2001年08月14日(火) お盆

 今日は祖母の家と親戚の家に行く。
 今年はかなりお盆っぽいお盆を過ごしていると自画自賛。
 久しぶりに会う祖母はまだまだ元気で、やっぱり安心する。
 子供の頃は、夏休みや冬休み中ずっと祖母の家に泊まっていた年もあったほどで、おばあちゃん子なのだ。
 僕が生まれたばかりの頃に亡くなった祖父のことは覚えていないのだけれど、待望の男の子(母親は姉妹なのだ)にとても喜んでいて可愛がってくれていたという話はいままでに何度も繰り返し聞かされている。そのせいか、仏壇にある写真の表情しか思い浮かべることができなくても、祖父のことはとても好きなんだと思う。
 来年のお盆は来ることができないかもしれないから、その分も手を合わせておく。

 それから家族と親戚で居酒屋へ。他の親戚の名前がたくさん出てきても「?」の連続で、いちいちその人がどういう親戚なのかを確認する始末。札幌を離れてもう9年くらいになるからほとんど接点のない親戚が多いのはわかっていたけれど、この年になってもわからないのは問題かもと思う。法事なんかの要所要所で会ってはいるのだけれど、それ以外会わない人と言うのはなかなか覚えることもできないし。

 最後に親戚の家へ。そこで、親戚の知り合いが作ったという焼き物に一目惚れして譲ってもらう。
 同じような柄のお皿が2枚と、湯のみをひとつ。
 麻紐もたくさんあったので、少し分けてもらう。
 部屋に帰ったら、少し模様替えをしようと思っているので、それに使う予定。

 夜、親戚の家からの帰り道に、札幌はやっぱり住みやすいのだろうなと改めて思う。
 道路幅は広いし、都会なので生活にさしあたっての不便はないだろうし、さらに言えばよく言われるように自然もちゃんと残っているし。
 僕はもう戻ることはほとんどないような気もするけれど、生まれ育った街だし、やっぱりいいよなと思ってしまったのだった。

 明日は、ひさしぶりの友人たちと遊ぶ予定。


2001年08月13日(月) 知床、オンネトウ、富良野

 昨晩の展望風呂は、窓一面に蛾が張り付いていた。
 夕方入ったときには砂浜に沿って続く網走の街並みが見えてよい感じだったのだけれど、深夜のそれはとてもグロテスクで、街明かりは湯気に隠れてしまっていた。気持ち悪いので、あまり窓の外は見ないようにする。
 
 ただ、0時を過ぎた後に、ニュースでやっていた流星群の見える夜だという情報を信じて部屋を暗くして窓に張り付いていたら、流星を4つ発見。流れ星ってうまれてはじめて見た。かなり感動する。
 ただ、あんな速さじゃ願い事は絶対に三回も言えない。
 
 4つ目の流星のあとは、しばらく待っても流れないので、待ち疲れて眠ってしまった。


 旅行2日目は、早朝の出発。
 網走を出て、まずは知床へ向かう。
 子供の頃に訪れたことがあったのだけれど、久しぶりに見る知床はやはりすごい、の一言。
 最果てという言葉がしっくりくるような、山また山の雄大さ。知床に魅せられて夏の間をその地で過ごす人の話を聞いたりするけれど、そういう魅力のようなものがあることにも、思わず納得させられてしまう。天気もよく、知床峠の展望台からは、雲海の先、遥か遠くのほうに突き出ている山まで見ることができた。

 その後、阿寒湖を経由してオンネトウへ。
 これは4キロ四方の小さな湖で、ガイドブックにも意外と載っていなかったりする穴場的なところ。
 アイヌ語で「老いた沼」という意味なのだけれど、水がとても澄みきっており、湖底に沈む枯木もとてもクリアに見ることができる。遠くの方は日差しを反射しながらも青く輝き、冬季にはきっととてもうつくしい光景になるはず(実際には、冬季には通行止めになってしまうため、見ることができない)。
 人の手の入るところから離れれば離れるほど、澄みきっていくというのはやや皮肉的かもしれない。

 そして最後の目的地の富良野へ。
 目指すのは、「五郎の石の家」。ドラマ「北の国から」で、田中邦衛演じる五郎さんが石を積み上げてつくっていたあの家だ。
 ちゃんとそこは観光名所になっていて、夕方近かったにも関わらず結構な数の観光客が訪れていた。みんな「北の国から」好きなんだねと家族で言い合う。
 もちろん、石の家自体はこれからも撮影に使われるので近づくことはできないようになっている。
 石の家を一望できる場所に小ぢんまりとした展望台が作られており、そこから眺めるだけになっているのだ。観光客はその展望台の上から、五郎の石の家を背景に記念写真を撮ることができるようになっている。家の隣には風力発電のための風車もちゃんとあって、ドラマの中の様々なシーンが蘇ってくる。
 若い旅行者のグループが、あの有名すぎるテーマソングを口ずさんで周囲の笑いをさそっていたけれど、「北の国から」は大好きだったから、そのロケ地を見ることができたのは素直に嬉しかった。
 そして驚いたのが、9月から石の家がロケに使われますという掲示と、一緒に書かれていた2002年に放映予定の最新作のタイトル。

「北の国から 02 遺言」

 遺言!!
 これはもう、やっぱり、五郎さんが死んでしまうってことなのだろうか……そう言えば、前作でも重要人物が一人死んでしまったし。
 うーん、とても気になるけれど、たぶん今回も号泣させられるのだけれど、まずは楽しみに完成を待っていよう。
 少なくとも、いまはまだ未見の「北の国から」があるという状態ではあるわけだし。

 札幌に帰ってきたのは21時を過ぎていた。今日一日の走行距離は600キロ強。二日で、1000キロ。慌しい旅にはなってしまったけれど、家族水入らずの旅行って久しぶりだったし、楽しかった。

 明日は墓参りだ。


2001年08月12日(日) 網走

 今日の日記は網走のホテルから。
 帰省ついでに家族旅行に同行しているのだ。
 実家では子供のときから毎年夏休みになると旅行に出ていたのだけれど、大学生になってから僕の参加率が一挙に低下していた。大学4年間では一度しか行かなかったし(他の家族は行っていた)、社会人になってからは、休日が合わなかったせいもあってやっぱり一度も参加しなかった(他の家族はやっぱり行っていた)。けれども、今年は社会人になってはじめてお盆に休みがもらえて、家族とも休みがあったから、ぜひにということで参加したのだ。
 行き先は網走。
 午前中のうちに札幌を出て、旭川と北見を経由して網走へ向かう。天都山から雄大な景色を眺めたり(今日は全道的に快晴)、そこでしか売っていないという「流氷ソフト」クリームを食べたりして(ミント味)、海辺に建っているホテルへ到着する。
 ホテルは本当に海の目の前で、オホーツク海の先には知床連山が見えていた。夕方家族と一緒に砂浜にでて、僕は持参していたデジタルカメラで夕暮れの写真をとりまくる。右手の網走の街明かりが少しずつ増えてきて、あっという間にフラッシュをたかないと写真が写せないくらいに暗くなってしまう。夕方が終わって暗くなってしまうと砂浜からは人気がなくなり、デジカメのバッテリーもなくなってしまった。
 ホテルの最上階には定番の展望大浴場があったし、魚介類中心の料理も美味しかった。家族全員で旅行に行くなんてもう二度とないのかもしれないし、まだ旅行は終わっていないけれど、家族との旅行は気兼ねがないし、かつ気楽なところがとてものんびりできる。

 そして、今回の旅行には父親と僕の二人がノートパソコン持参で、そういうのを見ているともう小学生じゃないんだなと思う。家族はいま大浴場に行っていたり、疲れて眠っていたりしている。

 そうそう、砂浜にいてふと思い出したのが吉本ばななの『サンクチュアリ』。この小説は、主人公の大学生(確か智明君)が、春先の砂浜でわんわん泣いている女の人に出会うところからはじまるのだ。二人はその後東京で再会して物語が動きはじめるのだけれど、その小説を読んだときには、その春の海のイメージがやけに鮮烈に残ってしまっていたのだ。
 窓の下の砂浜には、もちろん泣き女はいないはずなのだけれど、イメージの中の砂浜には結構似ているかもしれない。そして、確かに夜の、こんな世界の果てのような砂浜で出会ったら、それは特別な出来事のように思えてしまうものなのだろう。
 
 さてと、もう一度お風呂に行ってこよう。


2001年08月11日(土) 『停電の夜に』

 午前中に、友人からの電話で起こされる。
 夏休み中に会う約束をしているので、その日時の確認と世間話。
 仲間内にアメリカに留学している女の子がいて、その子から「明日が卒業式」だというメールが来たという話になる。
 同じようなメールは僕にもきていて、院に進むのでまだしばらく向こうにいることになると書かれていた。
 元気そうで何より。

 社会に出て今年で5年が過ぎて、当時の友人たちが結婚したり子供が生まれたりしているのは、ある意味当たり前のことにしても、やっぱり不思議なことのような気がしてしまう。それはたぶん自分が学生だった頃と(基本的には)変わっていないような気がするからなのだろう。思い返してみれば、中学生のときに高校生は大人に見えていて、ただ自分が高校生になってみたらただの子供でしかなかった。大学生だってそうだったし、大きく変わるのかなと思ったりした社会人だって、同じようなものだった。
 もちろん、実際には様々な仕事を覚えてきたし、いまでは中堅めいたことすらしていたりもするのだけれど、ものの感じ方や考え方に関して言えば、学生だった頃とそんなに変わっているとは思えない。三つ子の魂百までなんていう言葉を持ち出すまでもなく、人のもともと持っている傾向はそんなに変わらないのだろうなと思う。
 もしかしたら、それは僕がただ単に子供なだけなのかもしれないけれど。
 
 今日は久しぶりに『停電の夜に』を読み返す。
 新潮クレスト・ブックスの一冊で、新人作家のデビュー短編集でありながらピュリツァー賞文学部門受賞の快挙を成し遂げたといういわくつきの作品集。
 昨年買って読んでいたのだけれど、当時は慌しい暮らしをしていて(昨年は8月中旬からクリスマス過ぎまで2日しか自分の部屋に帰らずに、出張生活を続けていた)、いつかゆっくりできるようになったら読み返したいと思っていたのだ。
 このジュンパ・ラヒリというインド系の作家の作品には、奇をてらった設定はなくて、あくまでも日常の中で物語が語られる。共通しているのはインド系の人物が登場するといったことくらいだけれど、それだって何かしらのアピールのためにというわけではない。ただ、普通の人たちとして彼ら/彼女らの日常が切り取られているのだ。
 一番すきなのは、表題作でもある『停電の夜に』。
 生まれるはずだった子供の死産からしっくりいかなくなってしまったインド系の若い夫婦が、数日続くという停電の夜毎に、お互いの秘密をひとつずつ打ち明けるというもの。ロウソクを灯したキッチンや階段で、薄い闇の中で、二人はそれまで言うことができなかった秘密を打ち明けていく。そうすることによって、すれ違っていた二人の距離が、再び近づいていくのだろうか……というわずか30ページ弱の短編なのだけれど、その結末の後には、しばらくいろいろと考えてしまった。自分だったら、どうするだろうとか。良い短編は人生の真実を見せてくれる云々という言葉を何かの本で読んだことがあるけれど、本当にそんなふうに思えてしまう。誇張もお涙頂戴もない、人生の真実というか、実際の人生もそんな感じだと思えるような。

 それにしても、短編でも、びっくりするくらい短くても、長編とは違った意味で感動する作品は多いよなあと思う。違った意味というのは、ワンエピソードに焦点が当てられている点とか、現実の風景からひとつのイメージだけを切り取っているようなところ。長編では、現実の風景にいくつものイメージを油絵のように塗りたくっているようなところが魅力。濃いのも薄いのも、どちらにもそれぞれの味がある。
 そして、そう思えると読んだことのない作家の短編集を読むのが楽しみになる。たとえば、今年読んだものでは『体の贈り物』はとてもよかったし、これは昨年だけれど同じクレスト・ブックスの『巡礼者たち』も地に足のついた描写に引き込まれた。
 のんびり気ままに読書できる夏休み。これはこれでとても幸せだ。
 


2001年08月10日(金) 夏休み+『魔女』

 はじめまして。ハンドル・ネームはSun Setです。
 この日記は、日々の出来事を中心に据えつつ、本と映画と音楽についてのメモのようなものにしていこうと考えています。
 日記なのだからできるだけ毎日書こうとは思いますが、リアルな生活の方が優先なのは当たり前なので自分のペースで更新していけたら、という感じです。
 好きな作家は村上春樹、江國香織、ジョン・アーヴィング。
 好きな映画監督はクシシェトフ・キェシロフスキ、フランソワ・トリュフォー、ラッセ・ハルストレム。
 好きなミュージシャンは、ジャネット・ジャクソン、Chara、トッド・ラングレンetc...

 以上、よろしくお願いします。


 さて、今日から10日間の夏休み。実家に帰省するために夕方の羽田空港へ。
 お盆時期ということもあって空港内はひどい混雑で、電光掲示板にも「満席」の文字が連なっていた。今回はJASだったのだけれど(マイレージにはあまりこだわっていないので毎回異なる航空会社だったりする)、新千歳空港行きの飛行機は座席毎にパーソナルモニターがついているタイプだった。以前に、国内線で初めてとしきりにアピールしていたやつだ。羽田⇔新千歳間はドル箱路線だから、そういった機体が優先的に回されるのだろう。
 モニターでは、音楽番組と映画紹介番組を見る。
 音楽番組はビデオクリップを、映画紹介は予告編を流すスタイルのそれぞれ30分程の番組。
 ビデオクリップのひとつでは三人祭が踊っていたのだけれど、僕はモーニング娘。のメンバーを全部言うことができなかったりする(2人、顔はわかるけれど名前がわからない)。それは僕がほとんどテレビを見ないからなのか、年齢(26歳)のせいなのかは微妙になってきたよなと思う。
 映画紹介では『ドリブン』が意外に面白そうに思えてしまう。スタローンというのが個人的にはかなりの危険信号を発しているのだけれど、市街地でF1レースをやってしまうような無謀な映像と、たたみかけるように繰り返されるクラッシュが、もしかしたら当たりなのかもと思わせてしまうのだ。けれども、予告編って本当にうまいから要注意ではあるのだけれど。最近では『猿の惑星』の予告編に惹かれるものがあって、実際に観に行ってみたら見事にやられてしまったし……。
 ウディ・アレンの『おいしい生活』は、ぜひ見てみたいとチェック。

 空港からの帰りの列車(北海道では電車と呼ばない)で樋口有介の『魔女』を読み終える。
 就職浪人中の「ぼく」が主人公の、青春ミステリー。
 帯から引用すると、

「広也はただ今就職浪人中。ネコのぬいぐるみで一躍有名になってしまった母親と、野心的なTVレポーターの姉、売れっ子の造園家である年上の恋人の尻に敷かれて、モラトリアムな日々を送っている。だが、スクープを狙う姉から、ある女性ソーシャルワーカーの焼死事件を極秘に調べるように命令され、彼の平穏な毎日は一変する。被害者安彦千秋は、広也が昔つきあっていた彼女だったのだ――。
足跡をたどるうち、浮かび上がってきた彼女の素顔とは?」

 今作が20作目の書き下ろし長編と書かれているのだけれど、思わず驚かされてしまう。もうそんなに、という感じだ。それほど爆発的な知名度があるわけでもないのに(周りでは知っている人はまずいない)そんなに出版点数が多いということは、やっぱり固定的なファンがついているということなのだろう。ただ、考えてみるといままでに樋口有介の作品を15冊以上は読んでいるから、確かにそのくらいにはなるのかもしれない。
 樋口有介は高校生のときに『ぼくと、ぼくらの夏』を読んで以来のファンで、新作を見つけるたびに楽しみにして読んでいる作家の一人だ。僕は基本的にはミステリーや推理小説はほとんど読まないので、例外的に手にとってしまうのは、樋口有介の作品群の主人公が魅力的だからなんだと思う。実際、よく評されているのが「ワンパターン」ということであって、推理のプロットはそれほど入り組んだものではなく、いつものようなキャラクターが、いつものようなペース、いつものようなパターンで事件を解決していくというものが多かったりする。けれども、ファンの方から言うと、いわゆるワンパターン、つまりいつもの樋口節に触れたいから新作に手を伸ばすのだし、今回だって樋口節を堪能させてもらった。
 言ってしまえば、『魔女』は『風少女』と『夏の口紅』という過去の作品のリミックスのような作品だった(3作品とも読むと、その奇妙な相似形に驚いてしまう)。それでも、主人公とヒロインの会話には、どうしたってついついにやりとさせられてしまうし、いままでの主人公よりも頑固さが少し柔らかくなっているところも悪くない。
 ちなみに、表紙の絵は人によっては書店でちょっと手に取りずらいかもしれないけれど。

 駅に着いて、久しぶりの地元の光景を眺める。半年や一年ぶりに帰省するたびに、どこかしら変化しているところがあって、(当たり前のことではあるのだけれど)時間が確実に流れているのだなとしみじみ思ってしまう。一週間分の荷物を詰め込んだキャリー・バックをがらがらと引きながら、昔よく歩いた道路を通って家まで帰った。


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