Sun Set Days
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2002年01月31日(木) SEMINAR

 月曜日から、3泊4日で流通業のコンサルタントの開催するセミナーに参加してきた。
 様々な企業(もちろん、流通やフードサービス業とか)から501名が参加し、かなり密度の濃い時間を過ごすことが出来た。
 僕の勤めている会社からも業務命令(というよりも社員教育の一貫)として何人も参加したのだけれど、久しぶりに再会した同期と熱く語ってみたり。
 また、ホテルは4人1部屋だったのだけれど、他社の人と同じ部屋になるように配置されており、そこで話をすることができたのも大きなプラスだった。
 なかなか他社の人の混みいった話を聞くことはないので、そういう意味でももちろん得がたい時間だったと思う。

 そしてこの3日間は、連日6時起床午前2時就寝の睡眠4時間。
 セミナー自体は9時から19時まで何項目も開催されるのだけれど(チェーンの原則とか組織論とか、効率数値の見方とか)、セミナー中に考査が合計3つあることもあって、夕食をとりお風呂に入った後は(具体的に言うと21時から深夜2時までは)、考査の勉強ということになる。考査は朝一番に行われるので、起きてから身支度を整えた後も朝食の時間まで1時間ほど勉強するし。同期のメンバーともども栄養ドリンクに頼った数日間だった。ありがとう、アリナミンVという感じ(しかも今回は、ちょっと高い300円弱するやつにしてみたり)。
 そして、睡眠時間が少なくても何とかなる体でよかったと久しぶりに実感してみたりして。

 今春で入社丸5年になるこの時期にこういう話を聞くことが出来たのは本当に大きなことだったと思う。やけに分厚いテキストも、帰ってきてそれきりにしないで、自分なりに消化していきたいし。
 それから、そのコンサルは流通業の中ではかなり有名な人で、話にはとんでもない説得力があり、なにより面白かった。日本のチェーンの歴史を引っ張ってきた人で、昨年の文藝春秋(何月号かは忘れた)の記事「日本のカリスマ」10人にも名前が挙がっていたし。

 様々な考え方を学んで、たくさんの本を読んで、いろいろな人と話すことで、視野が広がればいいなと思った4日間だった。
 そして、本来の職務の方は、一時停止していた4日分、なかなかに面白いことになっているようなのだけれど。
 さてさて!


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 ということで、ここ数日Daysを更新することが出来ないでいたのは、パソコンを使用できない環境にいたからだったりする。
 一部では、Sun Setさんがついにあのスペースオペラ『こちらどすこい共和国村役場』の準備に入ったと噂されていたのだけれど、もちろんそういうわけではなくて。
 と言うか、スペースオペラなの? 『こちらどすこい共和国村役場』。

 スペースオペラと言えば、田中芳樹の『銀河英雄伝説』を中学生のときに読んで以来、何かあるたびに「各個撃破」という言葉をよく使っているような気がする今日この頃。
 そして、個人的にはやっぱり定番だけれどヤン・ウェンリーが一番好きなキャラクター。
 それから、確か昨年に新装版が出た同じ作者の『アップフェルラント物語』もすごい好きだった。少年少女の冒険物語。ああいうのって、読んでいてすごくわくわくする。そういうのも(個人的には)すごく大切。

 そういえば、上記のセミナー期間中、午前2時頃にハミガキして翌日のYシャツやネクタイなんかの準備をしてから、布団を頭までかぶって、ウォークマンでジャネットを1曲か2曲聴いていた。
 部屋に他に3人いるので、音が漏れたりしないようボリュームを小さくして。
 聴きながら、なんだか子供が隠れてラジオを聴いているみたいだと思っていた。
 そして、小学校高学年の頃のごく一時期、小型のラジオをやっぱり布団をかぶって聴いていたときがあったのを思い出した(僕はいままでの人生であまりラジオを聴いてこなかったのだけれど、自分でラジオをはじめて聴いたのがちょうどそのくらいの時期だった。友人に面白いラジオがあるよって言われて、それで聴いてみたのだ)。
 そのときも、やっぱり布団を頭までかぶって、ボリュームを絞って聴いていたのだけれど、そのまま眠ってしまっていた。
 で、朝起きたらちょうどスピーカーのところを枕のようにして眠っていたらしく、右頬が小さな丸い跡でいっぱいになっていた。
 それはもちろん冷静に考えてみたら、スピーカーの無数の穴が押し付けられてついてしまっただけなのだけれど、当時の僕は本気で、(もしかしたらこれは最近テレビでやっているエイズってやつになってしまったんじゃないか……)って心配していた。
 小学生くらいの頃って、本当に他愛のないことでいちいち思い悩んだりうかれていたりするような気がするのだけれど、いま思うとまったくやれやれだ。

 それにしても、当時はたくさんあったはずのそういう心配事は、一体どんな風にして少なくなっていったのだろう?
 年とともに神経が図太くなってきているということなのだろうか?
 それとも、たくさんの心配が杞憂に終わって心配無用だったという経験を繰り返してきたからなのだろうか?
 少しは学習している?

 いずれにしても、当時エイズなんじゃないか……って憔悴するくらいに心配していたのはちょっとやばいね……と思うのだけれど。


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 人間、疲れているとしょうもないことを考える。
 いつも考えているでしょうって言われたりしたらちょっとだけせつなくなるのだけれど、今日駅で同僚と別れ、違う路線に乗り換えた後1人でぼんやりと考えていたのは、言葉って濁音や半濁音をつけたらイメージが激変するよなあということ。
 たとえば「野菜」を例に当てはめてみると、


 トマト→ドマド

 キュウリ→ギュウリ

 キャベツ→キャペツ

 ナスビ→ナスピ


 特に、半濁音がつくとなんだかユーモラス。キャペツって、味薄そうだけど。
 でも、ドアの前に立って、何だか考え事をしているように見える人が実はそういうことを考えているのなんて、まったくもってやれやれだと思う。
 もし車内にテレパシー使いのエスパーがいたりして考えを読まれていたら、穴があったら入りたくなるくらい恥ずかしいのだろうな、これは。


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 お知らせ

 セミナー会場のホテルには露天風呂があって、夕食の後に同期たちと入ったのだけれど、今度はプライベートでのんびり温泉に行きたいとしみじみ思った。
 温泉っていいですよね。


2002年01月27日(日) サイト名考察+ネロボ

 サイト名って結構重要だ。
 名は体をあらわすという言葉どおり、訪れる人たちはサイト名からそこがどんなサイトなのかを判断していく。
 ネットの世界には様々なサイトが乱立しているから、名前を見て興味を持てなそうなもの、あるいは趣味嗜好と合わなそうなものであれば、容赦なくブラウザの「戻る」ボタンや、「ホーム」マークをクリックされてしまう。

 もちろん、そういうわけでこの「Text Sun Set」という名前も、それなりに考えてつけたものだ。
 Sun Setというハンドルネームを使っていてText主体なので安易につけたのだろうと思われているのだけれど、実際には幾つかの候補の名から吟味に吟味を重ねて決めたものなのだ。

 そして、今日は結局は採用されることなく陽の目を見なかったサイト名を紹介したいと思う。

 Topページを見て、そういう名前だった可能性もあるんだ……と思ってもらえたら、それらの名前も少しはうかばれるかもしれない。



 � �Sun Set Web」

 これは結構スタンダードだ。自分のハンドルネームに、インターネットっぽい単語「Web」をつけたもの。ボツにした理由は、イメージとしてはわからなくもないけれど、あんまり具体的じゃないため。何のサイトかわからないようなタイトルはできれば避けようと思っていた。


 �◆崕伉ゥ丱鵐競ぁ�

 コンテンツのひとつでもある「500 days」にちなんで。ボツにした理由は、言わずもがな。


 ��「Sexy Sun Set」

 検索で引っかかるかなと思って……おいおい。


 �ぁ�Sun Setさんのプリン大好き!!」

 プリンが好きなため。ボツにした理由は、プリンのコンテンツがなかったため(致命的)。


 �ァ岼詭邁畔�壊」

 サザエさんネタが多いため。あまりにショッキングなタイトルなので自粛。


 �Α崙虔�行からの手紙」

 もしくは「鍋の国から 01' 初鍋」。テイストが異なっていたため見送り。


 �А屬海舛蕕匹垢海ざο孫饌写鮠譟�

 どすこい共和国村役場で日々起こる騒動をユーモラスかつコミカルに描いた……って趣旨が違うよ。


 �─崘沙� Sun Set ウッフーン」

 やっぱり、検索で引っかかるかなって……


 ��「あこがれ☆夢ポエム」

 世の中には、自作ポエムを公開しているページが多かったので。しかしポエムのコンテンツがなかったため、却下。


 ��「皇帝ペンギンたちが空を飛ぶ日」

 何のページだかわからないため。でも結構お気に入り。


 とまあ、結構な候補があったのだ。
 もし、これで人気投票をして、「鍋奉行からの手紙」とかが1位になったりしたらやだな。

 でも、ネットサーフィンをしていると、結構かっこいいタイトルからしょうもないものまで見ていても飽きなかったりする。
 そして、管理人のハンドル・ネームも、あっさり系(本名を崩したようなやつ)から凝っているもの(結構難しい漢字を使っているやつ)までいろいろある。
 いずれにしても、「Text Sun Set」はシンプルでわかりやすいので、個人的にはこれに決めてよかったと思う。


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 ネットの世界には「ネカマ」という人たちがいる。
 本当の性別を偽って掲示板やチャットを行っている人たち。
 理由は防衛のためだったりいたずら心だったりするようなのだけれど、結構な数がいるみたいで、そういうことからのトラブルも絶えないみたいだ。
 僕はやり方がよくわからないことと顔文字を使わないようにしているという2つの理由からチャットをやったことがないので、そういうケースをダイレクトに目の当たりにしたことがほとんどないのだけれど、あのかなり面白かった映画『ハル』でも、ホシが最初は男のふりをしてチャットに参加していた。
 実際にもたくさんいるのだろうなと思う。

 ただ、今日はネカマをもう一歩進めた新しい形を紹介してみたいと思う。

「ネロボ」だ。

 ネットロボット。ネットの世界でだけ、人類ではなくロボットだと偽るのだ。そうすることで、自分とは別のキャラクターでチャットなんかに参加することが出来るようになる。
 以下は、素の自分では恥ずかしくてチャットに参加できなかった僕が「ネロボ」として初チャットしたときのログだ。
 これを読んで、チャットに二の足を踏んでいたあなたも、ぜひチャレンジしてみては? と思う。


―チャットへ合流―

 A君:はは。それはすごいねー>C美

 B夫:最高だね

 ネロボ:ハジメマシテ!

 A君:はじめまして>ネロボ

 C美:はじめまして>ネロボ

 ネロボ:ネンリョウタリナイ……Yo!!

 B夫:何いってんの>ネロボ

 C美:おもしろいね

 A君:ちょっと変わってんね

 ネロボ:ミサイルハッシャ!!

 B夫:……?

 ネロボ:プシュー、ピポペパ……エンジントラブル! エンジントラブル!

 C美:アタシちょっとこわいからもうオチるね

 A君:おれもオチるよ

 ネロボ:ブブブ……ボキョンボキョン、ブロロ……コワレル、ダッシュツ! ダッシュツ!

 B夫:オチるよ……

 ネロボ:ボガーン!! ボガーン!!



 ……とまあ、ものすごくスムーズにとけこんでいるし、みんなに笑顔で受け入れられている。
 チャットの世界では、今年前半は「ネロボ」旋風が吹き荒れると思うのだけれど、どうだろう?


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 サイゼリアってイタリアンのファミリーレストランがある。ここ数年店舗を急拡大していて、ミラノ風ドリアが280円だったり500円前後のパスタメニューが豊富だったりとお買い得なことでも人気がある。
 サイゼリアは様々なメニューを自社工場で作っていたりするのだけれど、健康によいイタリア料理をリーズナブルな価格で提供することによって食生活を豊かにしたいというようなことがメニューに書かれている。
 ファミレスのメニューって、そんなふうにその企業の持つポリシーなんかが書かれていることが多いのでつい見てしまう。

 僕のいま住んでいる部屋から歩いて10分くらいのところに、昨年24時間営業のサイゼリアがオープンして、それ以来たまに行っている。しかも夜中に行くことが多くって、午前3時や4時に本やノートやペンをカバンに入れて、まるで試験前の学生のような雰囲気で訪れるのだ。
 そんなときは、普通の軽いメニューを食べた後でドリンクバーで長居するのだけれど(休日の前日に利用することが多い)、後から「タラリーノ」も追加で頼む。
「タラリーノ」はメニューによれば「エキストラバージンオリーブ油入りのヘルシーな固いパンです」とのことで、価格も100円くらいで結構いける。
 ファミレスに長居するときにはつい飲み物ばっかり飲み続けてしまうので、そんなときに何か食べるものとしてはちょうどよい感じなのだ。
 固いパンで、歯ごたえがいい感じ。とても乾いているのだけれど、飲み物と一緒に食べれば全然OKだし。

 意外とオススメです。今度サイゼリアに行かれることがあったら、ぜひどうぞ。

 そしてファミレスと言えば、意外と1人で入らないという人が多い。僕はそういうのはあんまり気にしないので、よく1人で行ってくる。基本的には1人行動が好きなのだ。
 読みかけの本や、手帳、あるいはノート、そういったものを持って、結構長い時間を過ごすことが多い。
 いい気分転換にもなるし。


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 お知らせ

 これでTopページに戻ったら、タイトルが「Sexy Sun Set」になっていたりして(ならないならない)。
 来週からこの時間は、「どすこい共和国村役場」がスタートします。お楽しみに!!(しないしない)


2002年01月26日(土) 『message』

 昨年末から、自分の中でPizzicate熱が再発中。
 最近は、部屋の外(つまりウォークマン)ではJanetを、部屋の中ではPizzicateを聴いていることが多い。
 とりわけ、よく聴いているのが『Bosa Nova 2001』という、かなり昔のアルバム。
 何枚か持っているPizzicateのアルバムの中でも、一番よく聴いたアルバムだったのだけれど、やっぱりあらためて聴き返してみるといいのだ。
 キャッチーな曲もせつない曲も、それらのバランスがとてもよくて。


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 写真の中でもとりわけ好きなのは、風景写真だと思う。
 それも様々な種類の風景。
 街ばかりでも郊外ばかりでも何かが足りない気がするし、自然の風景ばかりでもやっぱり何かが欠けているような気がする。
 そのそれぞれがある種のバランスで危うい均衡を保っているようなものが好きなのかもしれない。
 たぶんいろいろな風景をみたいのだ。
 それはもしかしたらただのわがまま、あるいは贅沢なお願いというやつなのかもしれないけれど。
(もちろん、以前書いたように人物もある程度は欲しいなとも思うし)

 最近、ずっと購入しようかしまいか迷っていた写真集『message』(平凡社)をついに購入してしまった。
 もう新進とも呼ぶことが出来なくなってきたかもしれないくらいにたくさんの写真集を出している佐内正史の、風景ばかりを集めた写真集だ。

 この写真集の中に収められている風景は、ごくごく当たり前のように身の回りに広がっているようなものが多い。
 団地の並ぶ細い路地や、線路沿いの駐車場、午後の陽だまりの中にある公園、あるいはマンションかビルといった高い場所から撮ったと思われるような街の風景。そういう写真は、等身大の世界をそのまま切り取って映し出しているように見える。じっと眺めていると、吹き抜けていく風の音や(写真によっては)雑多なざわめきが聞こえてくるような気がする。
 そして、それらの風景は別段とりたてて絵になるような美しいものではないかわりに、たまにあまりにリアルすぎて、現実の風景のたくましい美しさのようなものを際立たせている。地に足の着いたリアリティのようなものを。
 
 個人的には、写真集ってそこに収められている写真が自分の中のどこかをやわらかくあるいは激しく響くように打つかどうかということに尽きるので、そういう意味で言えば、この写真集のなかには何枚かそういう写真が確実にあって、だからこそ何度か迷った挙句購入してしまったのだ。僕はそんなにたくさんの写真集を持っているわけではないけれど(おいそれと買えないような値段のものも多いし)、この写真集は部屋においておきたいって、ふと気が向いたときにぱらぱらとめくりたいって、そう思ってしまったのだった。
 そして今日は気がつくとかなりぼんやりと、かなり長い時間この写真集を眺めていた。
 壁に背中を預けて、ベッドの中で座りながら(あるいはうつぶせになりながら)めくっていたのだけれど、横に紙を用意して、気が向いたときにはその写真についてのちょっとしたメモのようなものを書き付けてみたりもした。
 本当に、散歩に出て歩いていたら出会ってしまいそうな景色の写真が多くて、実際にこの光景はいまでも都内のどこかにはちゃんとあるのだよなと思ったり。


 そして、自分でも好きで写真を撮ることがあるわけだけれど、やっぱりそんなときには風景写真を撮ってしまう。
 実際に自分が日々を過ごしている中で、たまにどうしようもないくらいに惹かれてしまう風景に出会ってしまうことってあって、そういうときにシャッターを押すのだ。
 それなので、カメラを持っていないことを後悔してみたりするようなときももちろんたくさんある。
 むしろそういうときのほうが多い。
 胸を打たれるような風景の中に身を置いているのに、そこにはカメラがないというような場合。
 たとえば、それは昨年人の車の助手席に乗って東名を渋谷方面に走っているときに広がっていた高速道路から見えた東京の夕暮れだったり、札幌に出張したときにキャリーバックを引きながら夜歩いた道の、どうしようもないくらいに冷え込んだ空気だったりする。
 そして、そういうものは記憶に残しておけばいいという考えもあるにはあるのだけれど、やっぱりたくさんのことを忘れてしまうから、経験的に言って写真に残しておく方が繰り返しそのときに立ち戻ることができるものだし。

 それから、そういう写真は基本的には自分のためのものなので、難しい技術やテクニックは必要ないといまは思っている(もちろん、技術はあるに越したことがないとも思うのだけれど、現実問題あれもこれもは覚えられないし。だからいまの心持としては、もしそういうものを磨くのであれば、文章に関することと仕事に関することとの2つにしようって思っているのだ。そしてたとえば文章については、このDaysが練習になっている。毎日ある程度の分量の文章を書くための口実というか、きっかけとなっているように思う)。
 それなので、写真に関しては、テクニックのことは脇へ置いておいて、ただカメラを、自分の思うように向けて、世界を好きなように切り取るだけのことだ。
 それはもちろん技術的にはつたない写真かもしれないけれど、自分のためなので全然問題ないし。

 それでも、面白いよなと思うのは、たとえば同じ景気を見ても、10人いたら10通りの世界の切り取り方、周波数の合わせ方があるということ。
 遠景として撮る人もいたら、ある物に焦点をあわせる人もいるはずで、そのそれぞれに個性のようなものが隠しようもなく現れてくる。
 そういう意味では写真は正直なのだろうし。
 そして、写真を1枚撮るのでもそんなに違うのだろうから、なるほどコミュニケーションは難しいよなとか、思ってみたりもする。


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 吉本ばななの公式ホームページってあったんですね。
 知らなかった……

 http://www.yoshimotobanana.com/index.html

 というところ。
 面白かったのは、吉本ばななが入れ墨をしているというところで、それが右の太ももに「バナナ」、左肩に「オバケのQ太郎」なのだということ。
 うーん。

 そして、3月に最新書き下ろし小説「虹」が幻冬社より出版されるということ。
 楽しみ。


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 お知らせ

 来月に上映される『オーシャンズ11』。配役が豪華ですねえ。
 僕の部署の面々は、半分以上あれは観に行くと言っているのです。


2002年01月25日(金) 法則

 ――ニュースリリース――


 本日、鈴木法則研究所(神奈川県横浜市)では、新しい法則の研究結果を発表いたしました。
 マニアックな調査に定評のある鈴法研のメンバーが半年をかけて調査した法則になります。
 ぜひ、今回の研究結果を今後の皆様方の研究にお役立てください。

 今回は、「ドラマやマンガでよく見かけるのに、実際にはなかなか見られないシチュエーションの法則� 銑ァ廚任后�


 <法則� �

 幼なじみの窓が向かい合っている法則

 <解説>

 友達以上恋人未満な幼なじみの2人(中学生〜高校生)の部屋は、約8割の確率で窓同士が向かい合っています。
 そして、窓からお互いの部屋を行き来したりしているのですが、あるきっかけ(片方が誰かに告白される等)によって、お互いを異性と意識するようになります。
 他にも、テスト前には部屋の明かりがついているのを見て、頑張ろうって励まされたりしています。
 もちろん、2人は小さな子供の頃に、一緒にお風呂に入ったことがあったりもします。


 <法則�◆�

 親の再婚で憧れの人と兄妹になる法則

 <解説>

 憧れの人にいつまでも告白できずにいると、親同士が再婚してしまい、兄妹になってしまいます。
 また、同じ家で暮らし始めるようになると、新たに2つの法則�ゞ�然着替えているところを見られてしまう、�⊃討�旅行に行ってしまい2人きりで夜を過ごさなければならなくなってしまうというお約束も付随してきます。


 <法則��>

 死んだと思っていた仲間が非科学的な理屈で生き返ってしまう法則

 <解説>

 正義のために戦っている度合いが高ければ高いほど、敵との戦いで命を落としたはずの仲間は、やがて生き返ってきます。
 彼らは主人公がピンチになると蘇ってくるのですが、まず前の週の最後のコマではシルエットのみが登場します。
 そして、「こ、こいつはまさか…!?」というわざとらしいキャプションをつけられたりしています。
 もちろん、仲間が生き返ってしまう理由は抽象的かつ曖昧で、あまり厳密には言及されません。
 人気のあるキャラクターは、3度ほど死に、3度ほど生き返ります。


 <法則�ぁ�

 春になるとまた同じ学年になっている法則

 <解説>

 人気が高ければ高い程、春になるとなぜか昨年と同じ学年でスタートしています。
 そして誰も、そのことには深く触れません。
 そんなわけで、カ○オもワ○メも、の○太も、永遠の小学生です。


 <法則�ァ�

 給料袋を、なぜかなくしてしまうの法則(でも見つかるの法則)

 <解説>

 最近は給料が銀行振り込みになったこともあり見られなくなってきましたが、以前封筒で給料をもらっていた時代には、必ずと言っていいほど給料袋をなくしてしまうときがありました。そしてひと悶着あった後、必ず最後には見つかるのでした。

 以上、「ドラマやマンガでよく見かけるのに、実際にはなかなか見られないシチュエーションの法則� 銑ァ廚任靴拭�


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「私生活は誰の場合もぎくしゃくしている。映画のほうがずっと調和のとれた世界だ。映画はよどみなく進む。映画には死んだ時間がない。映画は列車のようなものだ。ノン・ストップで失踪する夜行列車のようなものだ。」

 この台詞はフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーのものなのだけれど、個人的にはキェシロフスキと並んでものすごく好きな監督の一人。
 それなので、『アメリ』の中で、主人公アメリが映画館で映画を見ている人たちの顔を見るのが好きというシーンで、スクリーンに上映されていた映画がトリュフォーの『突然、炎のごとく』だったのは個人的にはとても嬉しかった。
 ジュールとジムという主人公の2人が、ジャンヌ・モロー演じるヒロイン、カトリーヌと追いかけっこをしている有名なシーン。

 よくそういうのって、監督のオマージュなのだろうなと思う。
 たとえば、そのトリュフォーも、自らの作品『アメリカの夜』のなかで、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』をオマージュとして用いていたように。

 そして、そういうオマージュを見つけるたびに、たくさんの作品や物語が直接的な意味でなしに、つながっているのだなと思う。


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 お知らせ

『突然、炎のごとく』も『アメリカの夜』も、おもしろいのです。


2002年01月24日(木) やわらかい半透明の線をたどって

 今日は渋谷で5人で飲み(と言っても、僕はノンアルコールしか飲まなかったのだけれど)。
 帰りの東急線ではやっぱりころされるくらいのぎゅうぎゅう詰めのなかに放り込まれたのだけれど(つーぶーさーれーるー)、車内換気のために誰かがちょっとだけ開けてくれた窓からの風が唯一のオアシスのようだったよ。

 ハチ公口の駅の壁や入り口の脇には、いつも待ち合わせ風の人たちがものすごい数いるのだけれど、あれだけの人が誰かと約束をしているのだと思うとちょっとすごいよなあとため息をついてしまう。
 そしてその光景を見ていて思ったのは、もし誰かと約束を交わしたら、その言葉が終わった刹那自分とその相手との間にうっすらと青や赤の半透明の線が伸びはじめるとしたら、世界は数え切れないほどのたくさんの線で結ばれるのだろうなということ。
 その線は、まるで寄り添う影のように約束が果たされるまでお互いがどこにいても続いてるのだ。ちゃんと相手まで続いているので、たどっていけばたどり着くこともできる。
 そして約束が果たされるたびに、その線は微細な粒子となってはじけてかき消える。
 続いている線はきっとか細かったり太かったりして、ほとんど目には見えなくて、たとえば月の光に照らされたときにだけ淡く輝いて浮かび上がると想像してみる。

 だから、人は、月夜の晩には自分からたくさんの方向に無数に伸びている様々な色の半透明の線を見やりながら、自分がいかにたくさんの「約束」によって生かされているのかを理解するようになるのかもしれない。
 長い夜をかけて、こっちの線はあの人との、あっちの線はあの人との約束だって、繰り返し確認するのだ。
 
 そして、もし本当にそういう線が存在していているのなら、深く愛し合った恋人同士は、たくさんの「約束」を交わし続けることだろう。
 そうすることによって、自分が相手と離れていても繋がっていると感じることができるだろうから。
 夜にある方向に向かって伸びている何本もの線を見るときに、自分の愛する人がどの方向にいるのかを確かめることが出来るわけだし、その線をたどっていけば会うこともできるわけだし。

 けれども、もしかしたらそう簡単にはいかないかもしれない。
 たくさんの線はときに人にやわらかく巻きつき、その歩みを遅くする。
 数え切れないほどの「約束」が自分たちを縛りつけ、会うことを妨げる。
 そういう可能性もないとは言い切れないし。
 「約束」はある種の「契約」でもあるわけで、それを果たすのは簡単なようで簡単じゃないことも多いのだし。

 いずれにしても、そういう想像をして、あらためてハチ公前のたくさんの待ち合わせ風の人たちを見て、彼や彼女たちの足元から、青や赤や黄色や緑の、半透明の線が伸びているのをイメージしてみる。たくさんの線はハチ公前のスクランブル交差点も超えて、複雑に絡み合い交差し合い、もつれ合って淡い月の光に照らされて、けばけばしいネオンによって隠されている。


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 お知らせ

 今日のDaysの文章を書き終わった後、Coccoの『焼け野が原』のビデオクリップを思い出しました。なぜか。


2002年01月23日(水) バス

 高校時代を通じて、僕は中学生のときに通っていた塾のアルバイトをしていた。
 と言っても高校生だったから教えているわけではなく(教えるのは大学生以上だった)、雑用中心のアルバイトだった。
 本当に雑用で、印刷され積み上げられた用紙をテキストにまとめて綴じこんだり、ダイレクトメールを準備したり、テキストを綴じこんだり、テキストを綴じこんだり、いろいろ。
 数人で一緒にやっていて話しながら作業できて、慣れ親しんだ講師陣とも世間話をしたりと、楽しいアルバイトだった。

 僕はそのアルバイト先までバスで1時間くらいかけて行っていた。中学生の頃実際に通っていた教室は当然自宅の近くにあったのだけれど、アルバイト先はその塾の札幌本部があるところだったので、それだけの距離が生じてしまっていたのだ。往復約2時間。もちろん、それは決して近い距離ではないけれど、それでも僕はわりかし楽しんで通っていた。友人と喋っていることも、窓から外の景色を見ることも、本を読むことも、そして音楽を聴くことも、1時間では十分にできたわけだし。
 そして、そのアルバイトは時期によってはかなり頻繁にあったのだけれど、基本的には単発扱いだったので、給料が日払いというのもよかった。時給はそんなに高くはなくて(元生徒にアルバイトの声をかけたメリットのひとつだったのだろう。たぶん)600円くらいだったと思うのだけれど、1日2400円+交通費は、週に4回通ったりした場合1万円を超えるので、結構いいアルバイトだった。

 その本部の入っていた5階建てくらいの小さなビルに行くためには最寄のバス停で降りたあとに10分ほど歩くのだけれど、その道中も楽しかった。
 基本的に、よく知らない場所を歩くのは好きだったのだ。
 そこは僕の地元とは区も違ったから、新鮮だったし。

 帰りは20時を過ぎることが多かった。また同じようにバス停にまで戻って、1時間に2本くらいしか来ないバスを待つ。
 バス停は国道5号線に面していたのだけれど、その時間でも車通りは多くて、よくぼんやりと眺めていた。
 夏は半袖シャツが夜にはちょっと寒くて、冬はコートのポケットのなかに手を入れて。
 よく考えてみると、ぼんやりとバスを待っているときに、信号で停まっていたり、通り過ぎたりする車のドライバーがシートベルトをしているかどうかを見る遊び(遊びなのか?)は、その頃はじめたのだし。

 そんなに波乱万丈な人生というわけではないので、劇的な出来事はないのだけれど、そのかわりにそういう些細な時間をたくさん覚えている。
 視界の先にバスを見つけたときに「やっときた」とよく思っていたこととか、後ろの席が空いているときにはいつも「ラッキー」と思っていたこと。
 そして席に着くたびに、夜のバスってどうして過去の時間を残しているみたいに感じられるのだろうって思ったことも。
 これは後に千葉市に住むようになって、比較的バスを利用する機会が多かった一時期にもやっぱり思っていた。
 夜のバスは、どうしてか時間の流れ方が異なっているような気がするのだ。たとえば、扉が開いたときに、もう逢えないはずの人が乗ってきてもおかしくはないようなイメージ。その人には話しかけても声が届かないのだ。でも見える。同じバスに乗っていることだけはわかる、というような。
 どうしてそんなふうに考えてしまうのか、思えてしまうのかはわからないのだけれど、それでもそんなことを、高校生のときにも、社会人になってからも思っていた。

 帰りのバスももちろんそれなりの時間乗っている。
 そのときには疲れているので、僕はよくチェックポイントを心の中で作っていた。
 琴似本通が一つ目。
 宮の沢が二つ目。
 正確な距離なんかはないのだけれど、それでもチェックポイントのバスの停留所が来るたびに、あとどれくらいで着くと心の中で確認していた。
 そして、夜のバスには通り過ぎるバス停もあって(つまり、降りる人も立っている人もいないバス停)、そういうのが多ければ多いほど「今日は当たりだ」と思っていた。

 手稲の某バス停で僕はいつも降りたのだけれど、こういうところは本当に子供だったなと思うのだけれど、次降りますボタンはいつもすぐに押している方だった。
 大体、一つ前のバス停になったときくらいから準備していて、女性のテープの声で次のバス停を告げる声が響くと同時に、ピンポーンって押していた。
 ボタンを押すとスイッチが紫色に輝くので、それを見て「よし」とか思って、何が「よし」なんだか。

 僕はいまではバスにほとんど乗らないし、たまに乗るときにも次降りますボタンをせっかちに押したりはしない。
 当時は17歳で、いまが27歳だということもあるのかもしれないけれど。
 それでも、いまでもごくごくたまに夜にバスに乗ると、当時の幼かった頃の気持ちを少しだけ思い出してしまう。
 遠いところまできてしまったなとか、あらためて思う。


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 今日は現在唯一見ているテレビ番組「プリティ・ガール」を見た。第3話。
 稲森いずみ扮する主人公「花」はちょっとアメリが入っているようなキャラクターなのだけれど(魅力的)、発言の最後によく「〜のだ」を多用している。
 僕はたまたまなのかもしれないけれど、実生活で語尾に「〜のだ」をつける女の子に出会ったことがないのだけれど、現実にいたら似合う似合わないの前に、ちょっと突っ込みたくなってたまらないかもしれない。

 でも、もしかしたら、これは僕がよく知らないだけで、世の中には「〜のだ」を語尾につける女の子がたくさんいるのかもしれない。

 たとえば……(ぽわぽわぽわ……)、


「お腹が減ったのだ」

「眠いのだ」

「はらたいらさんに3000点なのだ」

「赤の宿泊券なのだ」

「イタリアンが食べたいのだ」


 ……うーん。
 もちろん、言葉の言い回しなんて個人の自由なのでどうでもいいと言えばいいのだけれど。
 でも、よく考えてみたら変な語尾を実際に使っている人や、口癖的なものっていくらでもあるような気がする。
 まあ、いずれにしても、本人のキャラクターに似合っていればいいのだろうな。


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 お知らせ

 冬はバス通学でした。
 札幌では、冬に自転車に乗る奇特な人はいません。


2002年01月22日(火) 新しいバック

 風邪は直りました。
 メールやBbsで気遣っていただいた方々、ありがとうございました。
 ホームページをはじめた頃に比べると、最近はメールをいただくことが多くなってきて感謝です。
 返事は、すぐ返せるときもあれば遅れてしまうときもあるのですが、しばしお待ちを。


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 バックを買った。仕事用のバック。
 LAGASHAというメーカーの、比較的(というか結構)大き目のやつ。
 僕はこのメーカーが好きで、いままで使っていたカバンもLAGASHAのやつだった。DIMEなんかのビジネスバック特集にはたまに名前が出てくるメーカーで、主にパソコン用のバックを作っている。
 僕はバックをかなり酷使するので、どうしたってすぐに壊れてしまうようなやわなやつではもたないのだ。
 その点LAGASHAのバックはこちらの期待に十分応えてくれるくらい頑丈なので、重宝する。
 今回も結構どれにしようか迷ったのだけれど、結局迷ったときには最初にいいなと思ったやつにしようということで、LAGASHAに落ち着いたというわけだ。

 バックについていたタグには、「旅の達人。LAGASHA」と書かれていて、そのバックの特徴が列記されている。

■機能的に配置されたポケット。本体は軽さと強さを合せ持つパラシュートクロス。
■荷物を保護するウレタンパッド。防水性を考えたPVCの底パーツと底鋲。
■肩への負担や、力のかかる方向を考えたショルダーストラップ。

 そして、バックが開かれた絵が描かれていて、それぞれの部位に線が引かれ詳細が説明されている。

・別にしたい荷物を固定するフラップ式の仕切り。
・書類などすぐ取り出したい荷物を収納するアオリ式ポケット。
・グリップ性を考慮したレザーグリップ。
・口開きを防止しフラップを固定するストラップ。
・中にペン差し&ベタポケット。
・アオリポケットの中に着脱式のブリーフケース。
・荷物の落下を防ぐ中マチ。

 なんだか、ここまで書いてみると、本当にいい買い物をしたなあという気になってくる(のせられやすいな)。でも、作りがしっかりしている感じがして、よさそうなのだ。もちが。
 ちなみに、僕が買ったのは「2〜3泊の比較的書類の多い出張に最適です。」と書かれているタイプで、最初にも書いたけれど実際かなり大き目だ。
 これは今年の前半はやっぱり出張が多いことが確定しているからそれに併せてという考えだったりもする。
 それに、小さめでデザインのいいバックはたくさんあるのだけれど、結局ぎゅうぎゅうに詰め込んでしまったらせっかくのデザインがいびつになってしまう。
 けれど、最初からある程度大き目でお気に入りのデザインであれば、たくさん荷物を入れてもお気に入りの形をキープしたままでいることもできるわけだし。
 大は小を兼ねるというのを盲目的に信じているわけではないけれど、基本的に、実用ありきで、その上にお気に入りの形がバランスよく備わっていれば嬉しくなるわけだし。

 それにしても、バックとか靴とか、そういうのって新しいものを頻繁に購入するわけではないから(今回もメインのバックは3年ぶりの買い替えだったし)、買ったときにはなんだか浮かれてしまう。
 意味もなくポケットを開けてみたり。このポケットに似合うノートが欲しいなとか、本末転倒なことを考え出したりしてしまったり。

 さて、これから使い込んでいこう。


―――――――――

 人はその生涯で一体いくつのバックを持つのだろう。
 記憶にあるところでは、ランドセルから数えてみても、結構な数になるような気がする(覚えていないものの方が多いけれど)。
 また、同じようにいくつの帽子をかぶるのだろうとか、いくつの手袋をつけるのだろうとも思う。
 そんなふうに考えてみると、結構興味深いような気がする。
 日本鞄協会とか日本帽子協会というのがあって(何にだって協会はあるのだ)、平均的日本人の一生涯に購入するバックや帽子の数を算出していないだろうか?
 アンケート結果なんかをもとに。
 ないか。


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 お知らせ

 LAGASHAのHPです。

 http://www.lagasha.com/


2002年01月20日(日) 「ニュース&ニュース」+メッセージ+微熱

(テンポの早い音楽)

(CGでタイトル「ニュース&ニュース」が流れてくる)


 男性キャスター:こんばんは。時代の風をどこよりも早く歪めて察知する情報番組「ニュース&ニュース」。本日もスタートです。

 女性アナウンサー:こんばんは。首都圏は日中春めいた陽気に誘われた一日でしたが、今日もたくさんのニュースが起こっています。

 男性キャスター:それでは、まずは最初のニュースから。


「スクープ!! お魚くわえたサザエさん発見される!!」


 20日午前4時頃、4丁目の公園付近で、お魚をくわえたサザエさんが発見されました。
 30分の睨み合いの末ようやく警察に保護されたサザエさん(28)は、「お魚をくわえたドラネコを追いかけていたら、いつの間にか自分が魚をくわえていて……」と極度の混乱状態に陥っており、安静になるのをまって取調べが再開される予定です。


 男性キャスター:おそろしい事件ですね……

 女性アナウンサー:ええ、まったくです。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことですね。

 男性キャスター:引き続き、次のニュースにまいりましょう。


「衝撃!! 一休さん虎に食べられる!!」


 20日午後2時頃、将軍様に呼ばれていた一休さんが、猛獣である虎に食べられました。
 将軍様に出された屏風の中の虎を生け捕ってみせよとの無理難題に、舌につけた指を坊主頭にこすりつけて何やら唸っていた一休さん(8)が、「それでは、まずはこの屏風から虎を出してください」と言ったところ、別に用意されていた本物の虎(ベンガル虎)が放たれ、抵抗するのも空しく食べられてしまったとのことです。
 一休さんは急遽病院に運ばれましたが、「危ない橋は渡るべからず……チーン」と言い残したそうです。


 男性キャスター:またもやおそろしい事件ですね……

 女性アナウンサー:ええ、まったくです。策士策に溺れるとはまさにこのことですね。

 男性キャスター:引き続き、次のニュースです。おっ? 臨時ニュースが入ったようですね。国立陸上競技場にいる佐藤さーん?


 画面変わる。


「はい! 佐藤です。私はいま、国立競技場の前にいます。
 ただいま、100m走の世界新記録が塗り替えられました!!
 スイスのクララ選手が、見事にワールド・レコードの壁を破りました!!
 観客席にいる親友のハイジさんに話を聞いてみましょう。
 ご友人の偉業を目の当たりにされて、どうですか?」

「クララが走った!!」

「すごいスピードでしたね」

「クララが走った!!」

「どんな言葉をかけてあげたいですか?」

「クララが走った!!」

「……じゃ、じゃあ、もう1人の友人であるペーターさんに訊いてみましょう。どうですか? クララさんの記録を目の当たりにして?」

「オレ、そういうむずかしいことはよくわからねえんだ。でもさぁ、クララもうちのヤギの乳飲んでっからさ」

「そ、そうですか……以上、国立陸上競技場から佐藤がお伝えしました!!」


 男性キャスター:世界新記録ですね。おめでとうございますクララ選手。

 女性キャスター:念ずれば花開くとはまさにこのことですね。

 男性キャスター:それでは、次のニュースです。


「驚愕!! 実写版アンパンマン、PTA猛抗議!!」

 先週、満を持しての公開となった実写版「アンパンマン ジャムおじさんの不思議な性癖」が、全国のPTAの猛抗議にさらされています。問題となっているのは映画のクライマックスの1シーン。お腹をすかせて泣いている子供のもとに現れたアンパンマンが、「ボクの顔を食べなよ」という部分です(該当シーン映る)。その描写が凄惨かつ生々し過ぎて子供に悪影響を与えると指摘されています。また、映画の後半で、アンパンマンが賞味期限が切れているにも関わらず活動を続けているところも、大きな問題となっているようです。

 男性キャスター:リアルですね……実写版。

 女性キャスター:花の命は短いとはまさにこのことですね。賞味期限はちゃんと守ってもらいたいものです。

 男性キャスター:それでは、「ニュース&ニュース」また明日をお楽しみに。

(テンポの早い音楽)

(提供が流れる)

(CM)


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 Text Sun Set【Days】には、毎日様々なメッセージが寄せられている。
 こんなネタを待ってますというリクエストとか、最近○○ですねとか。
 今日は、代表的なものを紹介しよう。


 メッセージ��

 東京都に住む20代後半の主婦です。
 いつも楽しく拝見させてもらっています。
 以下も、ファン故の苦言だと思って聞いてください。
 もちろん、書くのにも悩んだのですが……
 最近、【Days】の嫁姑問題についての踏み込みが甘いんじゃないかと思うのです。
 うちの姑は私が作った料理よりコンビニの惣菜の方がマシだと冷たく言い放ちます。
 マザコン気味の夫は、そんな姑に反抗すらしてくれません。
 出会った時には、素敵なスポーツマンだと思ったのに……
 とにかく、もうちょっと本腰を入れて嫁姑問題に踏み込んでもらいたいのです。
 このままじゃ悔しくて夜もおちおち眠れません。
 それでは、更新楽しみにしています。


 メッセージ��

 いつもくらすのみんなとでいずをよんでいます
 ぼくは小学校2年生です
 きょうおてがみしたのは、ぼくにはいま好きな人がいるからです
 同じくらすでこの間の席がえでとなりの席になったんだ
 いとうさんって言うの
 みつあみがとてもいいかんじなんだ
 ぼくはいとうさんのことがとても好きなんです
 どれくらい好きかっていうと、ママゴンよりも好きなんです(ママゴンは勉強しろってうるさいからだいきらいだ!!)
 でもいとうさんよりコアラのマーチの方が好きです。
 それだけです。


 メッセージ��

 私は福岡に住んでいる今年還暦を迎える者ですが、いつも【Days】を楽しく拝見させてもらってゐます。
 私には孫がおりませんので、もし孫がおったらSun Setさんくらいの年齢なんだろうなと思って、こうしてキーボードを叩いている次第で候。
(私くらいの年になると、キーボードというものがまた難儀でなりませぬな)

 この間の【Days】にあった、電車に乗る者が必ず首からプラカードをぶら下げ、「OK」のカードを下げているものは年配の者に席を譲りますよという意味であるという意見。あれは全く私も膝を打つかのごとく我が意をえたりという感じじゃった。
 もちろん、全員が「NO」というプラカードを下げてゐるのであれば哀しいものがありますがな。

 何はともあれ、好評連載の「よりよい盆栽の見分け方��」、期待しておりますぞ。


 メッセージ��

 はじめましてー。
 アタシー、都内に住む16歳のジョシコウセイなわけー。
 たまにあんたの日記見てるけどー、壊れ具合って言うか、やばいよねー、あんたー、まったくさぁー。
 でもたまに、たまにだよ、ちょっとおもしろいときもあんのよねー、まあちょーたまにだけどー。ちょたまー。
 特にこの間の柳生博特集なんてちょーいかしてたね。かなりクールだったよー。
 アタシも100万円クイズハンターで育ったからー、ちょっとわかるっていうかぁー。
 ゴールデンハンマーって感じぃ?
 ま、これからもぼちぼちガンバッテねー。



 ※もちろん、こんなメッセージは来ていません。来ても困るし……。

 実際には、ちゃんと更新しようと思うようなありがたいメールやBbsの書き込みをもらっているのですが、Text Sun Setに訪れてきていただいている方に、この場を借りてお礼申し上げます。
 ありがとうございます。


―――――――――

 今日は12時〜16時頃まで打ち合わせ。某R社の営業の人といろいろと話を詰める。
 打ち合わせの後は世間話になったのだけれど、おもしろい話を聞くことができた。
 その帰り、品川にいたのでまず東海道線で横浜駅まで向かったのだけれど、その間ずっと扉の前に立って窓から外を見ていた。実は昨日から37度5分以上の熱があって、電車で本を読む気力がなかったのだ(昨日も職場にいるときに、同僚に「やばいって」と何度も言われていた。いまだってDaysを書かないで早く寝ろよという感じもするのだけれど、結構具合の悪さにも波のようなものがあって、それでちょうど大丈夫な感じになってきているのだ)。
 
 そして、ちょうど東海道線の窓から見える景色が、なんだか個人的にツボにはまるものだった。ちょうど日が暮れていこうとしているところで(随分と日が長くなっていることに気がついて驚いた)、密集した駅前の建物も、空が広く見える工場街も、そのどれもが短い時間に淡い色に変わっていこうとしていた。東海道線には本当にごくたまにしか乗らないのに、なんだか昔からよく知っているとても懐かしい景色であるように見えてしまったのだ。不覚にも。
 途中、タイヤ公園っていう名前のタイヤの遊具ばっかりの公園がものすごい勢いで遠ざかっていくのが見えて、ぼんやりとする頭で、手帳に「タイヤ公園」って書き留めておいた。世の中にはものすごく大切なことのように思うのに忘れてしまうことの方が多いから、そういうときには手帳は重宝する。後で開けば、そこには自分でも忘れていた文字が書かれていて、それを見た刹那にそれを書いたときの空気のようなものを瞬く間に再現することができるような気がするのだ。
 タイヤ公園が自分にとってどれだけ大事なのかはわからないのだけれど、それでも見たときには「あ。」って思ったのだ。
 大事かもしれないって。

 横浜から東神奈川経由で横浜線に乗り換えたときにはすでにすっかりと暗くなっていたのだけれど、やっぱり降りるべき駅のひとつ前の駅で降りてしまった。最寄駅で降りれば徒歩3分なのに、具合が悪いときに限って、そういうことをしたくなるときがあるのだ。部屋までの片道25分くらいの距離はやっぱり随分と寒かったのだけれど、もちろん途中で引き返すわけにもいかない。
 歩いている途中に後輩から携帯に電話がかかってきて、「いまどこにいるんすか?」という質問に正直に歩いていることをこたえると、「やばいっすよー、おかしいですって。風邪悪化させないでくださいよー」とか言われた。確かに早く部屋に帰ってとにかくゆっくりと眠るべきなのだということはちゃんと頭ではわかっているのに。でもときどきわざと(まるでだだっこのように)するべきことと逆のことをしてしまうときがあるのだ。
 深く考えもせずに。
 そういうやり方は、いつか健康を損なってしまったときに、きっとものすごく後悔するようなやり方なのだと思う。
 でも、そういう割り切れない部分も含めて日常や生活というのは成り立っているものでもあるし、と強引に結論づけてみる。
 きちんと割り算みたいに生きていこうとすると、どこかで割り切れなくなるのだし、とか思ってみたりする。
 
 そして、部屋に帰ってから暖かいお茶を飲みながら、グレーのタートルネックのセーターを着て防寒ばっちりで暖まりながら思ったのは、今日の景色がとりわけツボにはまるように見えたのは、やっぱり熱があったせいなのだろうなということだ。
 熱があるときには、世界はちょっとだけ子供時代のときのような心細い視点から眺めているような気がするのだ。
 結局、根本的なところはあの頃のままだっていう事実を突きつけられているような情けないような懐かしいような不思議な感じ。
 でもまあ、これはぜんぶ熱のせいだと声に出さずに思ってみる。
 熱のときって、そんなふうに妙に揺れてしまうのでおもしろい。

 ここまで書いていたときに、
 ちょうどミニコンポから流れているPizicate Fiveのアルバム(Bosa Nova 2001)から、

 カメラがちょっとぶれた もう一度
 あなたが少し揺れた もう一度
 世界が少し欠けた

 っていううたが流れてきて少しだけ驚いた。すごいタイミングだ。

 話が少しずれるのだけれど、昔からこのうたのもっと後の方の歌詞がとてもすきなのだ。

 


 まちがゆれる
 つきがかける
 まちがもえる
 あなたがてをふる




 っていうところとか(いま書き留めるために、繰り返し同じ曲を聴いてしまった)。

 でもとりあえず、今晩はDaysを書いた後でちゃんと眠ろうとは思う。
 熱を下げないことには業務に支障をきたすし。
 

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 お知らせ

 熱があるとどうも感傷的になっちゃいますね。やれやれ。
 せっかくちゃかした感じでスタートしたのに。


2002年01月19日(土) 名古屋の夜+『グリーティング』

 今日は休日だったのに、気がつくと13時から18時まで職場にいました。
 明日も仕事をしている予感でいっぱいの27歳です☆

























 ↑
 言葉の最後に☆マークをつけると、なんだかペコちゃんみたいに舌を出して「てへ」とか言っているような感じになりませんか?
 僕だけか……(敗北感)。


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 昨日は一昨日が最終日だった同僚の送別会だった。
 21時過ぎにスタート。
 0時半くらいまで飲んでいたのだけれど(僕はもちろんビール1杯)、とてもとても盛り上がった。
 10人で飲んでいたのだけれど、昔のブームの話になって、同年代が多いのでかなりネタがかぶる。
 何年生のときにビックリマンチョコレートが流行ったかから、キン肉マンやガンダムなどのアニメ、現れては消えていったジュース、おニャん子クラブ、シブガキ隊などのアイドルに、テレビドラマ「毎度お騒がせします」……
 遠い昔の、もう思い出すこともなかったような話題が、かなり連なって出てくる。
 たとえば、毎度お騒がせしますの話をしていたらCCBの話になり、CCBってココナッツボーイズの略なんだよという話になり、電子ドラムとインカムに憧れたよなーとか、そういう話になっていく。
 懐かしかったし、面白おかしく話すメンバーが数人いるので、かなり笑う。一度は、みんなして涙が出るくらい笑ったし。
 まあ、居酒屋の個室だったので、騒ぎ放題だったということもあるのだけれど。


―――――――――

 16日の話。
 その日、名古屋に日帰り出張に出ていた僕は、仕事で昔同じ部署で働いていた先輩(男)とばったり再会した。そして、本当は部屋に帰って仕事をしたかったので早く横浜に帰る予定だったのだけれど、あんまりにも久しぶりでお互いに色々と話したかったので、帰りの新幹線を遅らせて一緒にご飯を食べることにした。
 本当はミーハー丸出しでタワーズのなかのレストラン街で何か食べましょうという話になっていたのに、結局栄と名古屋駅のちょうど間くらいの路地にある、魚介類中心の居酒屋に入った。いかにも穴場的な店が結構あって、結局そういう店のひとつに入ることにしたのだ。その店はまるで隠れ家みたいな間接照明に照らされた個室がたくさんあるところで、結果としては当たり。
 店に入る前、路地から見上げると、遠くに双塔のタワーズが不穏な感じに輝いているのが見えていた。

 先輩は僕のひとつ上の期で、僕が入社2年目、先輩が3年目の頃に一緒に働いていた。味のある人で、当時は連日かなり遅くまで働いた後、よく0時過ぎにファミレスにご飯を食べに行っていた(あの頃は、人生で最もガストに行っていたと思う)。当時のメンバーにはいまだに連絡を取り合っている人が何人かいるのだけれど、その先輩とは1年半ぶりくらいに会った。

 そして、先輩は来月にも籍を入れるのだという話をしてくれた。結婚式はしないのだけれど、結婚するのだと。
 しかも、その奥さんになる人との付き合うきっかけというのが、またかなり珍しいのだ。
 ちょっとここには書けないのだけれど、その話を聞いて僕は「な、なんだかマンガみたいですね……」と言ってしまったくらい。
 先輩は、「ドラマみたいって言ってくれよ、ドラマ」と照れたように言っていたのだけれど。
 それにしてもドラマチックな話だった。そういうのって本当にあるんだ、と思ったし。

 男の人が照れたように奥さんや恋人のことを話すときには、普段そういう話をあんまりしない人であればあるほど、かわいらしく見えてしまう。と言うか、の、のろけられてる!! とか思ってみたり。
 でも本当におめでとうございますだったので、その店のお勘定は結婚祝ということでおごらせてもらった。
 君のときにはおごるよって言われたけど、もうずっと好きな人もいなくて砂漠なみに乾いてますよ、ちぇ。

 それにしても、知っている人の結婚の話を聞くたびに、もうそういうのが当たり前の年齢なんだよなと思う。学生時代の友人の赤ちゃんはいつの間にか歩けるようになっていたりするし、もう2年もすれば遊びに行ったとしたら「おじちゃん」とか呼ばれるのだろうなとか思ったりもする。「お兄さんだろう」と言い聞かせようとは思うのだけれど。
 いつも幼く見られるのでたぶん大丈夫だと思うけど、たぶん。


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 歳時記ってなんだか好きだ。
 歳時記に書かれている単語をぼんやりと眺めているだけで、日本語って美しいよなと思う。
 もちろん、外国で生まれ育った人も、自国の言葉にそういう感情を抱いているのだと思うのだけれど、自分が日本人なので僕の場合は日本語についてそう思う。そして、判官びいきのようなものなのかもしれないけれど、他の言語よりも、きっと日本語はよりそういう美しさが際立っている言葉なんじゃないかなと漠然と思う。

 僕はそういう歳時記に出てくるような言葉にそう詳しいわけではないということも、より惹かれてしまう理由の一つなんじゃないかなと思う。よくわからないのだけれど、すごく憧れてしまうのだ。そういう言葉などに。
 それなので、たとえば雨が降っている三が日に誰かと一緒に歩いているときに、「御下だね」とか言われたら、それだけでその人をまじまじと見た後で心の中で「うわ!」って思ってしまうと思う。
 単純だから。

 だから、山本容子の個人的な歳時記である『グリーティング』(講談社)も、興味深く読むことができた。
 これは、「ホテルニューオータニ大阪の広報誌”Greeting”に1993年から1999年にかけて掲載された銅版画とエッセイに季語をつけ、加筆・改稿して構成した」本なのだけれど、右側に季語についての短いエッセイ、そして左側にその季語を表現した銅版画(遠い背景に必ず城が見えている)が掲載されているのだ。
 たとえば、「春」の項では、

 水温む
 花衣
 山笑う
 風光る
 春興
 夏近し

 という言葉について触れられ、それをモチーフにした銅版画が描かれている(城はたぶん大阪城なのだと思う)。それぞれの言葉がある種のイメージや記憶を再現させるのに加えて、エッセイの内容にも面白い一文があったりする。銅版画も思わず見入ってしまう。すごく薄い本なのに1600円もするのだけれど、それこそプレゼントにも良いかもしれない(昨年の12月に出ているので、もしかしたらクリスマスプレゼントにした人も多かったかもしれない)。
 
 こういう本を読むと、いわゆる季語で表現されるような情景などに、日々の中で遠ざかっているよなと思う。
 もちろん、いまの生活で日々そういうことを感じ入ってばかりはいられないところもあると思うのだけれど、だからと言ってそういうのを思い出すことのできる瞬間まではなくさないようにしたいなとは思う。

 余裕がなくなればなくなるだけ、季節の変化を愉しみことなんかが難しくなるというのももちろんわかるのだけれど。
 それなので、Daysに書き残しておくのだと繰り返しになるのだけれどやっぱり思う。
 そういう余裕のないときに過去のDaysを読み返してみて、ある種の感じを思い出せたりすると期待しているのだ。
 そのときに、「あのときは余裕があったからだよ」とか自分で思わないようになりたいなとは願ってはいるのだけれど。


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 お知らせ・1

 今日はいま僕の所属する部署で大ブームのドラマ「プリティ・ガール」のビデオを借りたので見た。
 一気に2話。
 おもしろいー、というか、稲森いずみがかなり可愛い。
 米倉涼子がドジでネクラな役で出ているのはおいおいと思うのだけれど、それでもこういうハートフル・コメディってたんじゅんにツボだ。
 米倉涼子と長谷川京子が同じドラマに出ているなんて、なんだか不思議な感じもするのだけれど。
 昨日の飲み会でも、各メンバーが「プリティ・ガール」にはまっていることをカミング・アウトし、誰が一番いいとかそういう話をしていたり。男って、もう男の子という年齢じゃなくなっても、ときたま(?)こういう話になるのだ。
 あ、あとモーニング娘。で誰が好きかとか。
 でも、それって、日本中でものすごい数の男たちが交わしてきた話題なのだろうなと思う。
 ちなみに、僕の部署(男ばっかり10人)では、吉澤と石川となっちと加護(←これは1人だけ)の名前が挙がったのでした。

 お知らせ・2

 今日聴いているCDに「that's where you take me」という曲が入っていて、その歌詞の一部分に「you're my melody」という部分があった。なんだか、このフレーズってすごくかっこいいとか、1人でそういうことを考えたりしてしまう今日この頃。でも恋人がいたときには、そういう日々の中で思う他愛もないことをよく喋っていたような気がする。友人にはわざわざ言うようなことではないのだけれど、というレベルの日々の中でふと思うことを。
 1人のときにはそういうことを思っても伝える相手がいなくてすぐに忘れていってしまうのだけれど、いまはDaysを書いているので、そのかわりにはちゃんとなっているんだと思ってみたり。
 ささやかないくつものちょっとしたことを書き留めるということ。
 読んでくれている人がいるというのは、おもしろいなとあらためて思う。


2002年01月17日(木) JANET JACKSON ALL FOR YOU WORLD TOUR 2002

 昨晩から今日にかけて。

 16日(水)名古屋出張(日帰り)

 23:00頃:出張から帰宅
 24:00頃:就寝

 17日(木)休日

 5:00頃:起床
 5:30頃:部屋でパソコンで仕事スタート
 10:00頃:終了。職場へ。
 11:00頃:職場到着。途中、今日で異動する同僚にケーキを2個買って持っていく。限りなくベリー類が積み上げられたケーキ。自分でも食べたいくらい。朝作成していた資料の提出、打ち合わせ及び各種電話連絡他。
 12:30頃:職場を出発。
 13:30頃:有楽町で先輩(他の会社勤務。本日休日)と待ち合わせ。有楽町ソフマップ(また行ってる……)、無印良品有楽町を見て回る。
 14:30頃:銀座伊東屋を見て回る(先輩はリドの手帳を購入していた。リドはドイツ製の手帳。伊東屋での売れ筋らしくかなりたくさん置かれていた)。
 15:30頃:遅い昼食。てんぷらそば。確か卯っていう漢字が店名に使われていた店。
 16:30頃:丸の内線で後楽園着。東京ドームへ。
 17:00頃:「JANET JACKSON ALL FOR YOU WORLD TOUR 2002」入場開始。
 19:15頃:「JANET JACKSON ALL FOR YOU WORLD TOUR 2002」スタート。
 21:00頃:コンサート終了。
 21:30頃:夕食。先輩と焼き肉へ。
 0:00頃:帰宅。


―――――――――

 僕のチケット(e+のプレオーダーにて入手)は、S席アリーナだったのだけれど、会場に着いてみるとステージに向かって左側の、前から25〜26列目くらいだった。視界はかなり良好で、ステージの上に立っているジャネットの動きも目で判別することができるくらい。ステージ左側にある大型スクリーンもよく見える。
 東京ドームは人工芝が取り払われたコンサート仕様のコンクリート床になっていて、振り返ってみると外野席が広がっているのが見えた。本来であればダイヤモンドがあるはずの場所には、夥しい数のパイプ椅子が置かれている。今日だけでこの場所にいったいどれくらいの人がいるのだろうと、途方もないよなと思う。先に行われた大阪では1回で3万人を動員したとの事だったから、おそらく同じくらいか、もう少し多いくらいなのだろうなとか思う。

 僕と先輩は開場してすぐに会場内に入ったから、結構待ち時間が多かったのだけれど、それも全然苦ではなかった。
 ものすごくテンションが高くなっていたので、はじまる前にビールを飲んで――野球場でよくある紙コップのやつだったのだけれど――それだけで真っ赤になってしまう。やれやれ。

 そして、開園予定の7時を過ぎても、まだ入場している人たちが多くて、はじまる気配を見せない。
 でもいつはじまってもおかしくないのだよなと思っていたら、照明がふいに暗くなる。
「わあっ」という声は地響きのようになることを久しぶりに思い出した。全員立ち上がる。もちろん、僕も。正面と左右にあるスクリーンにジャネットの様々な写真が映し出され、大音量の前奏の中、気がつくと黒い背景のステージ中央にジャネットが立っている。
 コンサート開始だ。

 ニューアルバムが中心の選曲だった。
「彼女のダンサーになるためには、ブロードウェイ・ミュージカルよりも厳しいオーディションが行われるのは有名な話だが」と配布されていたチケット雑誌の記事にあったのだけれど、さすがにダンスがすごい。何人ものメンバーが入れ替わり立ち代り、ステージ中を踊り、飛び回り、ジャネットを目で追いたいのに他のダンサーにも目を奪われてしまう。
 あっという間に2曲が終る。 
 そして、3曲目が「ALL FOR YOU」で、会場はもう総立ちだし大声援の渦。もちろん僕もあの特徴的な前奏が流れた途端に大騒ぎする。3曲目なのに、すでに手を叩きすぎて痛い。でも叩く。
 その後、バラード系の名曲をしっとりと3曲続けた後(「COME BACK TO ME」「LET'S WAIT AWHILE」「AGAIN」)、さらに激しいダンス中心の選曲が続く。それも、ミュージカル風の演出があったり、バンド編成であったりと見る人を飽きさせない構成になっていた(もちろん大規模なコンサートにつきものの花火のような爆発もちゃんと用意されていた)。
 途中、恒例(?)の男性の観客を1人ステージに上げるコーナーでは、ステージの上で縛り付けられた観客の男性(お調子者っぽい若い男性だった)に、ジャネットが誘惑をかけるような構成になっていて、ジャネットがその男性に触れたり抱きしめたりするたびに客席から悲鳴のような声と大騒ぎする声が響いていた。
 セットにはネオンに照らされた日本語「世界を知ろう」の文字が。

 そして、最後に「I love you TOKYO!!」のメッセージとともにコンサートは終了。
 もちろん、アンコールで再度登場。
 アンコール後は3曲。

「DOESN'T REALLY MATTER」(間奏中にメンバー紹介あり)

「SOMEONE TO CALL MY LOVER」

「EVERY TIME」

 と、もう最後に名曲ばかりをたたみかけてくる。とりわけ、最後が「EVERY TIME」だったのにはやられた! という感じ。
 そして、本当の最後にもう一度「I love you TOKYO!!」とメッセージを残して、会場に向かって手を振りながらジャネットが消えていく。
 もちろん僕も手を振る。ジャネットには全然見えてなんかいなくても。

 本当に、あっという間の2時間弱だった。


―――――――――

 ジャネットのCDをはじめて買ったのは大学1年生のときで、『janet.』というアルバムだった。そして、恋に落ちるようにあっという間に惹かれ、それ以来出るアルバムはすべて購入している。大体それから8〜9年が過ぎていて、その間オリジナル・アルバムは『THE VELVET ROPE』と『ALL FOR YOU』しか発売していないけれど、それでも何度も何度も聴き返した。本当に何度も何度も。
 個人的な幾つかの思い出の情景でも、ジャネットの曲が流れていたこともあるし。
 いつだって、好きなアーティストには名前を連ねていたのだ。
 いつだって。

 そのジャネットがもちろん手は全然届かないにしても、目に入る距離にいて、歌ったり踊ったりしているのだ。
 それはもう何だかものすごく不思議な状況だった。
 ライブビデオやミュージッククリップ集のDVDも持っていて映像でも何度も見ていたのだけれど、それでも生で見るのはやっぱり違う。
 あの、ジャネットが生身で動いている、ということに、そして会場にいる3万人強の人たちが彼女の一挙手一投足に注視しているのだ、ということを考えると本当にすごいと思った。一人の人間にそこまでの魅力や能力があるなんて、まるで奇跡みたいだとか思ってみたり。

 それにしても、ステージ中央奥と左右には大型のスクリーンが設置されていたのだけれど、そこに映し出されるジャネットの表情はものすごく素敵で、オペラグラス越しには、長い髪が揺れるのさえ見ることができた。
 今日休むために、休日に仕事をしたりと結構頑張ったのだけれど、そういうのも全部OKだと思っていた。そして、今年も頑張れるし頑張ろうと、根拠もなく誓ってみたりするのだった(単純なのだ)。


―――――――――

 会場には女性が目立って多かったのだけれど、当然なのかもしれないけれど海外の人たちも多く、また一番印象的だったのは50代くらいの老夫婦がいたことだった。老夫婦は、コンサートのパンフレットを読みながら開園を待っていた。
 よい音楽は、もちろんある程度の傾向はあるにしても原則的には年齢を選ばないものなのだろうし。

 コンサートの定番のグッズは、パンフレットと、ポスターと持っていなかったDVDと、ライブのときに振ったりする闇で光るやつ(正式名称を忘れてしまった)を購入。
 Tシャツとかも何種類か売られていたのだけれど、そういうのはさすがに買わない。買っても着ないだろうし(バンダナもネックレスもつけないし)。


―――――――――

 お知らせ

 今日は、今年1年分の手拍子をしてしまったような気分。
 なんだかまだ興奮していて、ただ眠いのも事実で、でもとにかく眠る前に書いておきたかったという感じだ。
(いまは18日の2:10頃。もう寝ないと)

 おもしろかった、とても。


2002年01月15日(火) バス停たち

 たとえば、

 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が旅行をしているのだろう、とか考えてみたり。
 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人がコカ・コーラを飲んでいるのだろう、とか考えてみたり。
 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が雨やどりをしているのだろう、とか考えてみたり。

 散歩の途中に、ときどきそういうことを考える。
 もちろん、正確な数なんてわからないのだけれど、それでも世界というスケールで考えてみたら、それぞれそれなりにはいるのかもしれないとは思う。
 とりわけ、雨やどりなんかは、石畳のヨーロッパの坂道なんかをイメージしてしまって、その軒先で困ったように雨を見つめている様子なんかを想像してしまう。やまないかなー、とか思っている姿を。

 それから、

 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が頭を撫でてもらっているのだろう、とか考えてみたり。
 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が階段の途中で疲れて立ち止まっているのだろう、とか考えてみたり。
 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人がバス停の前に立って時刻を確認しているのだろう、とか考えてみたり。

 最初はただの思いつきでしかないのだけれど、どんどんいろいろと考えてしまうようになる。
 散歩の時には、そういう他愛のないことを考え始めると止まらなくなったりするときがたまにあるのだ。
 もちろん、それはただのちょっとした連想ゲームのようなものなので、途中で飽きてしまったりするのだけれど、そしてすぐに忘れてしまったりするのだけれど、今日はまだ忘れていないので書き留めておこうと思う。
 冬の散歩はいつもより早足になるので、そういう連想や想像も、いつもよりも少しだけアップテンポだ。

 今日の場合は携帯電話を持って外に出てしまったのだけれど、途中電話がかかってきて、連想ゲームは終わりになった。
 そのときは、ちょうどバス停を通り過ぎたあたりだった。
 もう終バスも終わってしまったバス停は、忘れずに飼い主を待つ犬みたいだ。
 翌朝に始発のバスがくるまで、ずっと待っているのだから。

 そのバス停の近くで立ち止まったまま電話をしていて、電話を切った後、なんとなくもう一度バス停を見る。
 それからまた連想がはじまる。
 たとえば、バス停に手と足がついていて、感情と知性を持っているとしたらという想像。
 夜もふけた頃に、たくさんのバス停たちがにょきにょきと昼間隠していた手足を伸ばし、それからある広場に向かって歩き出すのだ。
 そこにはそれぞれの会社の、それぞれのバス路線のバス停たちが集まっていて、「よう遅かったね」とか「最近便減らされたらしいじゃない」とか言い合っている。
 そして、来月のバス停スローガン(「ハトのフン害に気をつけよう」)とか、月度目標(「酔っ払いに注意!!」)とかを決めたり、酔っ払いに持っていかれた可哀想なバス停の辿った数奇な運命を描いた20分のビデオを上映したりして、またそれぞれの立ち位置に帰っていくのだ。「じゃあまた来月」とか「今日のビデオはなかなかだったね」とか言い合いながら。

 それにしても、バス停にも感情や知性があるかもしれないと想像した後にバス停を見ると、何だかちょっとだけ違ったふうに見えたりもするような気がして、おかしかったりするのだけれど。

 今日の散歩は、行きは今週中に仕事でやるべき事を頭の中でもう一度整理していて、帰りにはそういう想像をしていた。
 リラックスするためにも、いろいろと想像することは楽しいと思う。
 だからってまあ、にょきにょき歩くバス停を想像するのはどうかとも思うのだけれど。


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 明日は日帰りで名古屋出張。
 朝出発して、夜に帰ってくる。
 移動時間の長さがネックではあるのだけれど、そういうことはまた別の話。
 上司であるマネジャーは福岡に出張に行って、その後大阪を経由して週末に戻ってくるので、また数日間顔をあわせない形になる。
 携帯電話とEメールはときに随分と重宝する。それらがあれば、離れていても、顔をつき合わせていなくても、少なくとも大幅には仕事が停滞することはないわけだから。
 もちろん、リアルなコミュニケーションが一番重要だということは当たり前のことなのでいちいち再確認するまでもないけれど。
 そして新幹線に乗るときには、世の中にはいかに出張しているサラリーマンが多いのだろうと思う。
 と同時に、たまに昼間からビールを飲んでいる人を見かけたりもするのだけれど、そういうのを見ると大丈夫なのだろうか……と思ったりもする。
 大丈夫なのか?
 気持ちよさそうではあるのだけれど。


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 お知らせ

 もう2002年最初の月も折り返し地点。はやいはやい。


2002年01月14日(月) 新型「i mac」

 今日の夕方、仕事で東京駅の近くに行っていて、帰り際(午後7時頃)にまたもや有楽町ソフマップまで行ってきた。
 別に何かを買うために、というわけではなくて、新型「i mac」を見るために。
 数日前に、ネットのニュースで新型「i mac」発売のニュースが発表されていて、国内では有楽町にあるビックカメラとソフマップに先行展示がされているとも書かれていた。それでせっかく近くにいるのだから、実物をちゃんとこの目で見てみたい! と思って行ってきたのだ。

 新型「i mac」は、球を半分に切ったような土台にCPUや様々なポート類がコンパクトにまとめられていて、それが一本の支柱のようなもので薄型の液晶ディスプレイと繋がっている。液晶ディスプレイは、スタジオディスプレイに似たイメージのもので、ウリは、液晶画面自体をぐりぐり動かすことができるということらしい。全体の個人的な感想としては、サイバーパンクSF映画にでも出てきそうな、不条理感漂う未来の機械植物のような趣だ。
 以前のi macのように、とにかく「カワイイ!」というような感じではない。一瞬、間をおいて考えてしまうデザインのような気がする。判断に迷う、というような。

 ネットのニュースの写真でそういった感想を抱いていたのだけれど、実物を見ても同様の感想を抱いてしまった。新型「i mac」は入り口を入ってすぐの割と広いスペースに、透明なケースに収められて展示されていたのだけれど、何人かの人たちが物珍しそうにケースの周りに立っていて、僕も同じようにしげしげと眺めていた。係員が予約受付中のビラを配っていて、それをもらう。CPUやドライブ性能の違いなどで3モデルあって、それぞれ159,800円、189,800円、224,800円(税抜)。

 Windowsユーザーだし、購入はしないけれど、見ることができてよかったとは思う。
 でも、やっぱり初代の「i mac」の衝撃に比べるとそうでもないかなと。
 あのときは本当にすごいインパクトがあったし。
「カッコイイ!」
「カワイイ!」
「ナンダカスゴイ!」
 というように感想に必ず「!」がついてしまうようなところがあったし。

 ちなみに、携帯用音楽プレーヤーである「i pod」も展示されていたので見てきたのだけれど、これにはかなり惹かれた。最大で約1000曲も入るなんてすごいし、1000曲を常に持ち運びできるというのにはかなり魅力的なものを感じてしまう。たとえばランダム再生にしていたら、常に新鮮な曲を移動しながら聴くことができるのだ。すごい!
 まあ、価格が高いのと、Macでしか使えないのが難点なのだけれど。


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 昨年から書いている小説『N43゜』の第2稿を人に読んでもらった。
 ある程度社交辞令のようなものが入っているにしても、おもしろかったと言ってくれた。悲しい話だねとも。
 何度かここでも書いているように、『N43゜』は海辺の小さな町を舞台にした、高校生の物語なのだけれど、それと同時に実は悲しい話でもあるのだ。あかるくて悲しい話。
 原稿用紙にして約200枚で、完結しているのだけれど、またまたさらに細かく修正を加えていく予定。
 まだまだラフな感じのバージョンだと個人的には思うので、それをちゃんと形にしていこうと思う。

 ただ、マイペースでやろう。
 やらなければいけないことと、やるべきことと、やりたいこととのバランスをちゃんととって。
 
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 今日読んでいた雑誌の記事に小篠綾子さんのインタビューが載っていて、それにこういう部分があった。

 いちいちそれ言うと自慢になるから言わないけど、三人とも本当に苦労してますよ。苦労を苦労と思わない人間なんですよ。人生はね、いつも明るい人生でないといけない。苦労というのはね、絶対にみんなしてるの。「あんたの苦労なんて、そんなん苦労にならへん」と言い続けて来たから、あの子たちは苦労と思ってないんですよ、それに私はね「絶対、苦労を表に出してはいけない」「苦労しましたと言うことは人に言うな」と言ってきましたので、みんな黙っていますわ。子供たちの苦労は私一人、知っていればいいんです。

 小篠綾子さんは、ファッション・デザイナーの「コシノ3姉妹」の母親であり、自分自身でもブランドを立ち上げている88歳の女性だ。引用した言葉のように快活で前向き、明るい人柄がインタビューのはしばしから感じられ、この人のことはほとんど知らなかったのだけれど、引き込まれてしまった。
 特に、「人生はね、いつも明るい人生でないといけない。苦労というのはね、絶対にみんなしてるの。」という部分がすごい。88歳になって、そういうふうに言い切ることのできる人生というのは、素敵だなと思う。


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 お知らせ

 最近は、RootsのRcafeを結構飲んでいます。缶の形が変わっていてなぜかキャップがついているやつ。
 やや甘めですが。


2002年01月13日(日) 死語+時代劇

 元旦に書いたように、今年の目標は「一生懸命」なのだけれど、もちろん裏目標というやつもある。
 ここにはちょっと……書けない……といった感じの目標。
 そういうのが様々なジャンルに渡っていくつかあるのだ。
 でも、せっかくなので、ひとつだけ挙げると、

「死語を多用」

 もそのひとつ。
 今年一年、言葉の世界の一発屋と呼ばれる死語に様々な角度からスポットを当てて、頑張ってみようかと思うのだ。

 もちろん、ここまで読んだみなさんが心配する気持ちもわかるのだけれど(「ついにSun Setさんが禁断の領域に足を踏み入れたぞ!」)、男にはやらねばならないときがあるのだし(「か、帰ってきてね!」)。

 もちろん、死語を多用することが男のやらねばならないことなのかどうかはいつものように脇にどけておいて。

 たとえば、こんな感じ。


 ぽわぽわぽわ……(←これも死語?)








 んちゃ☆
 癒し系ホームページText Sun Set管理人のSun Setだっちゅーの。
 今日はナウなヤングにバカウケなアイテムを紹介するびょーん。
 はい、これです、たまごっち!
 なんと、この小さなおもちゃの中で、ペットを飼うことができるのだー。
 驚きなにょらー。
 チョーカワイイーよねー、マジ感激ー。ゲロかわー。
 え、もう時間? まだシースー食べてないよ。
 しょうがないなぁ、じゃあ、バハハーイ。
 





 ……


 ……


 ……


 …………やっぱり、やめとこう。この裏目標。


 一瞬、宇宙の大いなる力に操られているかと思ったし。
 と言うか、女子高生なんだか親父なんだかよくわからない口調で、地味に気色悪いし。
 やっぱり、死語にはそうなるだけの要素が多分にあったということなのだろうな……。


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 僕は時代劇が好きな子供だった。
 中学生の頃は、夕方5時からやっていた「水戸黄門」とか「大岡越前」なんかの再放送が大好きで、1時期それを見るためにその時間までに帰っていたくらいだ。
 リビングのソファーに座って、麦茶なんかを飲みながら、1時間時代劇を満喫するのだ。
 それはそれは楽しい時間だった記憶がある。
 結構枯れていた中学生だったんだなあとちょっとだけ切なくなるのだけれど。

 それはともかく、時代劇には黄金パターンとでもいうべき幾つかの基本的パターンがある。
 たとえば、水戸黄門を例に紐解いてみると、

・冒頭で八兵衛がお腹をすかせている。
・美人の娘を持つおとっつさんが、長屋で病に耽っている。
・おとっつさんは悪徳商人から借金をしていて、娘を借金のかたに捕られてしまう。
・悪徳商人と悪代官が結託している。
・娘はご隠居様一行と偶然出会う。
・意味もなく陽炎お銀が入浴している。
・45分頃印籠登場。
・シリーズ1回は黄門様のそっくりさんが登場する。
・たまに助さんか角さんのどちらかが恋に落ちる(そして失恋する)。


 もちろん、それが時代劇のシリーズのいいところだ。
 黄金パターンとでもいうべき基本パターンがあるからこそ、見ているほうも安心してみることができるる。
 これがもし、全然予測もつかないようなジェットコースターのような展開だったら、おいおいお茶を飲んでもいられない。

 しかし!
 現代は、多チャンネル時代。時代劇も、変わらなければならない。いやむしろ、保守的と呼ばれる時代劇こそ劇的に変化していく必要があるのではないだろうか。
 ということで、お節介かとは思うのだけれど、こんな水戸黄門があったらいいなというのを、以下に羅列してみたいと思う。
 もう一度上の定番の羅列を確認してから、読んでみてください。


「こんな水戸黄門が見たい」


・冒頭で八兵衛が満腹。
・おとっつさんはすこぶる元気。
・おとっつさんがもりもり働いて借金を返す。娘笑顔。
・悪徳商人と悪代官は、実は捨て猫に餌をやっている。いい奴。
・意味もなく八兵衛が入浴している。
・最初から黄門様が身分を明かしている。
・シリーズ1回は、黄門様がぎっくり腰になる。
・たまに助さんと角さんが恋に落ちる。


 ……


 ……


 これなら、デジタル放送時代にも充分対応していくことができると思うのだけれど。
 できないかな?


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 12日から新しくしたTop写真は、数日前のDaysでも少しふれていた祖母の家を訪れる途中に撮ったうちの1枚。
 駅から降りて(駅は随分と小さいのだけれど、自動改札機が導入されていて驚いた)、そのまま少し歩くとすぐに海に出ることができる。そこから海を見て、それからバックの中からデジタルカメラを取り出して、何枚か写真を撮った。自分の立っている場所から右側と左側と正面と、とにかく何枚か。

 以前のDaysで書いた灯篭流しがかつて行われていたのは、写真を撮った場所からは右手の方に続いている砂浜でだし、12月のDaysで書いたお祭りも、この海のある町で開催されていた。だから、それぞれのDaysを読んでどういう場所だろうともし思っていた方がいたら、今回のDaysの写真がその少しばかりの紹介ということになる。
 もちろん、町は様々な表情を見せるものだから、あくまでもその一つでしかないのだけれど。


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 お知らせ

 Enpituのバナー広告で、ドクター・中松のやつが出た人はぜひクリックしてみてください。
 僕はしてみたのだけれど、結構ツボでした。
 買う気はありませんが、ちょっと惹かれる……。
 あの靴の正式名称って、ああなんだ……。


2002年01月11日(金) ハードボイルドなふくびき+『ホワイト・ティース(上)』

 太郎君は、その午後上機嫌でした。
 太郎君は11歳。遊戯王とベイブレードが大好きな、わかば台小学校の4年生です。
 太郎君の手には、母親からもらった新春大売出しの福引券が握られています。
 新春年賀福引は、郊外にできた大型ショッピング・センターの影響で売上が減少しているわかば台商店街が、存亡の危機をかけて総力を結集して行っているビックイベントです。

「ふくびき!」

 太郎君は嬉しそうにそう言いながら、まるでスキップでもはじめそうな勢いで商店街までの道を歩いていきます。あんまりご機嫌なので、「ふくびきのうた」を作詞作曲してしまうほどです。


 ふくびきのうた(Fukubiki Song)     作詞・作曲 鈴木 太郎


 ふくびき ふくびき ウォゥ ウォゥ ウォゥ
 ふくびき ふくびき ウォゥ ウォゥ ウォゥ

 赤くてにくい ガラガラを
 祈りをこめて 回します

 がらがら がらがら ウォゥ ウォゥ ウォゥ
 がらがら がらがら ウォゥ ウォゥ ウォゥ

※
 I LOVE FUKUBIKI I NEED FUKUBIKI
 I WANT WHITE BALL? No! No! No!
 I WANT RED BALL? Yes! Yes! Yes!

 Fukubiki〜

(※部分繰り返し)


 ……まあ、とにかく太郎君は上機嫌です。
 がらがらまわす福引なんて、いままでテレビでしか見たことがないのです。
 それを、ついに自分でやることができるのです。
 太郎君の手には福引5回分の券が握られています。
 福引は3000円券で1回、1000円と200円の補助券も3000円分集めればもちろん1回回すことができます。
 その福引券は、商店街のオモチャ屋で太郎君へのクリスマスプレゼントを買ったときにもらったものなのですが、もちろん太郎君はそういうことはわかりません。

 太郎君は福引所の前にたどり着きました。
 赤と白の布が、おめでたい気分を盛り上げています。

「こんにちは〜」

 引き戸を右に引きながら、太郎君は元気よく挨拶をします。
 太郎君の両親は、挨拶だけはしっかりできるようにと太郎君を育て上げました。
 その結果、太郎君はどこであっても、見知らぬ人に出会っても、元気よく満面の笑顔で挨拶をすることができます。
 挨拶がちゃんとできるということが太郎君の人生を救うことになるのですが、それはまた別のお話。

「おおー、ボウズ、福引にきたのか?」

 いかにもキップのよさそうなおじちゃんが、太郎君にそう笑いかけます。

「うんっ。特賞を根こそぎ奪いにきたんだ」

 太郎君はなかなか勇ましいことを言います。子供だと思っていると、足元をすくわれそうです。

「大きく出たなボウズ。ただな、うちの商店街の福引は、そう簡単にはいかないぜ」

 おじちゃんは、そう言って太郎君の度胸を試すようににらみをきかせます。

「あらあら、この人はいつもこうだよ。こわいおじちゃんは気にしないで、こっちへいらっしゃい」

 優しそうなおばちゃんが、そう言って太郎君を福引のがらがらの前に呼び寄せます。

「うんっ」

 太郎君はふくびきのがらがらの前に立ちます。赤というよりは少し朱色がかったがらがらは、なかなかに年代物です。一説によると、わかば台商店街のがらがらは、毎朝太極拳をかかさない町内会長が骨董品屋で買ってきた物で、遣隋使が中国から持ち帰ったものであるとも言われています。確かによく見てみると、裏の方に「小野妹子」というサインが彫られています。

「いいかボウズ。お前ふくびきははじめてか?」

「うんっ、はじめてだよ! もうドキドキだよ!」

「そうか。なら、まず簡単にわかば台商店街の福引の説明からはじめなければならない」

 おじちゃんは、そう言ってゆっくりと秘密を語るように喋りだします。さっきまでの江戸っ子風の表情は影を潜め、かわりに、ハンフリー・ボガードのような渋い声にかわります。

「いいかボウズ。男にはな、回さなければならないときがある。わかるな?」

「うんっ。今日がそのときだね!」

「そうだ。今日がそのときだ。回すのはなんだ?」

「がらがら!」

「そう、がらがらだ。お前はこれから、この目の前にあるがらがらを回す。何回回せる?」

「5回だよ! すごいでしょ!」

「……5回か。難しい回数では、ある」

 おじちゃんは深刻そうな表情で太郎君の目をじっと見つめてきます。そこには暗い森の奥の、静けさをたたえた湖のように深い過去の悲しみが宿っているのですが、太郎君にはもちろんそんなことはわかりません。(このおじちゃん。ほっぺたのほくろから毛がはえてる! しかも長いぞ! すごく長い!)と声に出さずに思っています。

「このがらがらの中には、全部で7種類の色球が入っている。7種類だ。もちろん――(ここでおじちゃんは自分の言葉が周囲に溶け込むのを確認するようにゆっくりと間をおきます)――この数にも意味がある。七っていうのはな、昔から宿命的な数字なんだ。世界をめぐる七つの海、夜空に輝く北斗七星、そして――七草粥」

 うへえ! 太郎君はそう言います。

「あれしょっぱいんだもの! 僕にがてなんだ」

「――まあ、それはママに塩加減を変えてもらえばいい。問題なのはこの――がらがらの中に7種類の球が入っているということだ。そしてそれぞれの色には意味がある。いいか、意味があるんだ。それを忘れちゃいけない」

 太郎君は、早くがらがらを回したくて仕方がないのですが、おじちゃんの話はまだしばらく続きそうです。おばちゃんは横でやれやれっていうゼスチャーをしています。

「まず、白球――これは残念ながらはずれだ。ゲームオーバーだ。ママに報告したら、残念がられる。
そして、緑球――これもはずれだ。
黄球――これもはずれ」

「はずればっかしじゃん!」

「いいかボウズ。このがらがらはひとつの『世界』だ。そしてこの世界にははずれのほうが多いんだ」

「そんなことないよ!」

「それからオレンジ球――これが3等。商品は美白剤だ」

「ビハクザイ? なにそれ?」

「肌が白くなる魔法の薬だ。これは本当にすごい」

「なんだかあんまりいいものじゃないみたいだね」

「そんなことはないぞ。ほら、あの有名なアーティストのなんとかジャクソンも使っているというくらいの薬だ。とにかくもう、ものすごく白くなる。やばいくらいにな」

「ふーん」

「そして桃色――これが2等。商品は未来からきたネコ型ロボットだ」

「なにそれ?」

「こいつはすごいぞ。ポケットの中から何でも出しちまう。しかも眠るのも押し入れでいいんだ。場所もとらない。まあ、ただし、ドラ焼を食わせないといけない。1日3回だ」

「結構維持が大変だね」

「まあ、でもとにかく便利だ」

「そして、最後が赤球――1等。つまり、特賞だ」

「特賞!」

「特賞の賞品は、モーニング娘。だ」

「モーニング娘。?」

「そう。ボウズ、お前がモーニング娘。になれるんだ」

「ええっ!」

 太郎君は驚きます。自分がなっちやゴマキに混ざって歌ったり踊ったりしている姿を思い浮かべます。

「す、すごいね! 同じクラスの伊藤さんもモーニング娘。になりたいって言ってるよ!」

「そうか、じゃあ伊藤さんにも福引券をためるように伝えてあげてくれ。オーディションよりも、近道だってな」

「うんっ」

「……もちろん、当たりは一つしかない。このがらがらの中には、いま3264球入っている。その中に特賞はたった一つしかない。たった一つだ」

「難しいってことだね?」

「そうだボウズ。お前は飲み込みがはやいな。この非情な時代を生き抜くにはそうじゃないといけない。それでもやるか?」

「……ゴクッ」太郎君は息を飲み込みます。「……や、やるよ。もちろんやるよ!」

「ようし、そうだ。よく言ったヤング・ボーイ」

 おじちゃんはそう言うと太郎君の肩を叩いて、手から5回分の福引券を受け取ります。

「……ようし、5回分、ちゃんとある。ボウズ、お前の権利は5回分だ。1回たりとも多くても少なくてもいけない。5回ぴったりだ」

「……あれ?」

 ふいに太郎君が動きを止めます。

「どうしたボウズ?」

「さっき七色、って言ってたよね」

「そうだ。七色だ」

「じゃあ、まだ六色しか聞いてないよ。だって、白球でしょ、緑、黄色、オレンジ、桃、赤。ほうら、六色だ!」

「……よく気がついたな。さすがだな」

「ねえなに、教えてよ!」

 太郎君はそうせがみます。

「仕方ないな」おじちゃんはそう言います。「……カントリー娘。だ」

「え?」太郎君は一瞬動きが止まります。

「最後の茶球が出ると、カントリー娘。になれる」

「……そ、それはこわいね」太郎君は神妙な表情で言います。

「別に隠していたわけじゃないんだぜ、ボウズ。ただ言い忘れてたってだけだ。そういうこともある」

「……うん。わかったよ」

「ようし、時間だ」

 おじちゃんは腕時計をつけてもいないのに、自分の腕を見ると、そう言います。

 太郎君は、がらがらに手をかけます。重い感触があります。この中にたった一つかもしれないけれど、特賞の赤球が入っている。それが出てくる可能性は0ではないのです。

 太郎君はがらがらをゆっくりと回します。

 コトン。

 青球が小さな四角い受け皿の中を転がります。

「……あれ? 青球だよ。さっき言ってなかったよね」

「……で、出ちまった」

 おじちゃんはそう言って首をゆっくりと横に振ります。

「ね、ねえ、これなんなの? 青球だよ。どういう意味があるの?」

「……TOM CATだ」

「え? トム、何?」

「ふられ気分でロックをするんだよ」

「な、何それ?」

「とにかく、お前はTOM CATになれるんだよ。TOM CATに」


 おじちゃんはそう言うと、奥から年代物のキーボードを持ってくるのでした。


 ……。


<太郎君の初ふくびき結果>

 白球:はずれ
 白球:はずれ
 白球:はずれ
 白球:はずれ
 青球:TOM CAT


 今日のDaysは世代を選びますね。

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『ホワイト・ティース(上)』読了。ゼイディー・スミス。小竹由美子訳。新潮社。

 感想は、下巻も読み終えてから。


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 お知らせ

「雪見だいふく」発売20周年記念として、「紅白雪見だいふく」が発売されるそうです。
 中におみくじが入っていて、小吉・中吉・大吉になっているとか。
 そして、大吉の上のおみくじが、「大福」って言うようです……。
 それにしても、もう20周年になるのですね。


2002年01月10日(木) ルール

 以下は、10日付けの「日経MJ」に掲載されていたコラムの一部分。


 東京ディズニーリゾートではルール的原則をマニュアル化しており、その一つに大人にはお子様ランチを出さないという決まりがある。ある時、一組のご夫婦が自分たちの注文のほかに、子供が居ないのにお子様ランチを注文した。そこでキャスト(従業員)はお子様ランチがなぜ必要なのか、理由を尋ねる。そのご夫婦は子供とディズニーランドに行く約束をしたが、交通事故で亡くなってしまう。約束が果たせなかったことを二人は悔やみ、来園して陰膳(かげぜん)として注文したことがわかる。これを聞いてキャストはためらうことなくお子様ランチを用意した。


 これは、顧客のためになることなら、ルールを変更する権限を現場に与えている事例として紹介されていたエピソードで、お涙頂戴的な話と言われてしまうむきもあるかもしれない。けれども、記憶にある限り新聞記事を読んで泣きそうになってしまったのは3回目で、混雑する朝の電車の中で、少しだけ困ってしまった。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるけれど、それは本当にその通りだと思う。たとえば、このエピソードもO・ヘンリやカーヴァ―、あるいは浅田次郎の短編ではなく、現実に起こったことなのだ。現実の夫婦がお子様ランチを頼み、現実のキャストが注文を承った。そこには事実の持つ圧倒的な力のようなものがある。
 もちろん、僕は物語や想像力の持つ力を個人的には信じているけれど、事実はときにどうしようもないくらいの真摯さと奇矯さとで、生々しい姿を現してくるときがあるとも思う。そしてその事実は、ときに物語が遠く及ばないような大きな力を持っている。こういう話を見聞きしたときにはより強くそんなふうに思う。

 
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 お知らせ

『アメリ』の上映劇場数が、現在の11から、5月までに70程度に増えるそうです(フランスでは、全人口の14%にあたる800万人強の観客を動員)。
 首都圏では、いくつかのシネコンでも見ることができるようになるそうです。
 それはたのしみ。


2002年01月08日(火) 札幌出張終了 

 23時30分過ぎに部屋に帰ってきた(自分の部屋はやっぱり落ち着く。ちなみに、いまは9日の0時50分)。
 今日(厳密に言うともう昨日)は関東地方の暴風のために空の便が大幅に乱れていたのだけれど、僕も予約していた飛行機には乗ることができなかった。
 当初、新千歳発20時35分のJALを予約していたのだけれど、その便が大幅に遅れることとなり、結局20時10分発の飛行機に便変更になった。変更した飛行機の元々の出発時間は17時台だったから、いかに大幅に遅れていたのかということがわかる。何便かは時間の遅れのみならず完全に欠航になっていたし。

 でも、今日中に帰ってくることができてよかった。
 出張に出ていた分、明日は朝から盛り沢山に仕事が待っているので、もし欠航で明日帰りになっていたら……と考えるとラッキーだったなと思う。僕は採用のチーフをしているので、これからの時期はどうしたって忙しくなってくるのだ。

 昨日は持ち帰り仕事で遅くまで起きていて3時間くらいしか寝ていなかったので(眠たかったので昨日のDaysはとても短い)、朝に今年初栄養ドリンクを飲んだ。アリナミンV。栄養ドリンクにはいろいろあるのだけれど、飲むとやっぱり効くような気がする。できるだけ飲まないようにと思っているのだけれど、ピーク時になるとよく飲む。でもできるだけ1日1本にしたいとも思うのだけれど。
 基本的にいつも同じ物を飲むことが多いので、どれがよく効くとかはわからない。コンビニに行くとたくさんの種類が売られていて、いつもちょっとだけ圧巻ではある。

 今日は疲れていたのか、実際の飛行機が離陸する前に夢の世界に離陸していた。目覚めたらもう羽田空港上空で、席の前には目覚めたときに飲み物が欲しいときには仰ってくださいねというシールが貼られていた。読みかけの『ホワイト・ティース(上)』(現在250ページくらいまで読み進めているところ。奇妙に面白い長編小説)も、ページを開いたままで眠っていた。


―――――――――

 今回の札幌出張で驚いたのは、札幌と横浜の風景が全然異なっていること。
 横浜には雪がなくて、札幌にはそれがある。
 すでに根雪になっているから、路肩には雪が積まれ、車道には轍が続いていた。冷たい雨が降ったりした後などには、道路は凍りつき、関東仕様の革靴を履いている僕にとっては、歩くのもままならないくらいだった。
 数日間しか滞在しなかったけれど、それでも何度か雪が降るのを見ることができた。
 本当に、まるで別世界だった。

 そして「寒い」って何度も言ってしまった。
 体はもう北海道仕様じゃないんだなと思って、なんとなく寂しくなってしまったのだけれど。
 でもまあ、雪の夜の雰囲気は、やっぱりとても懐かしいものだった。


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 中学生男子��

 ……次のニュースです。
 民間調査機関によると、全国で推定5500人の中学生男子が、真冬の下校途中に「寒いって言ったら罰金ね」と言っていることが明らかになりました。そして、その内の93%は「あー、暑い暑い」とこれみよがしに言い放ち、たまに誰かが「寒い」と言うと、鬼の首を取ったように突っ込む事も併せて公表されました。
 そして、そのときの罰金は、87%の確率でうやむやになってしまうことも調査の結果明らかになっています。


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 お知らせ

 先日購入した手帳が何だか好評なのです。16�僉�16�僂寮喫�形のサイズが特に。


2002年01月07日(月) 中学生男子��

 ……次のニュースです。
 民間の調査機関によると、全国で推定8700人の中学生男子が、修学旅行2日目の夜に額に「肉」と書かれていることが明らかになりました。また、その約68%が油性マジックで書かれていたことも同時に発表されました。さらに、そのうち6%が、その事実に気付かずに朝食の大食堂に入ったことが確認されています。
 また、その6%全員が、中学校卒業までキン肉マンというあだ名になっているという調査結果が出されています(※うち1%は高校卒業までキン肉マンと呼ばれ続けた)。
 引き続き、5年後の同窓会でどのようにその話題に触れられるのかの調査を継続していく模様です。


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 お知らせ

 ……。

 


2002年01月06日(日) あらためて思うこと

 今日は正午頃実家に到着し、昼食をとってから、1人で祖母の家に出掛けてきた。
 祖母は列車で1時間もかからないところに住んでいるので、それほど時間もかからず訪れることができるのだ。
 列車がホームに着くと、駅から海まではすぐなので、とりあえず海岸に出てみた。久しぶりの海。しかも冬の日本海。味覚と同じで、子供の頃に慣れ親しんだものの影響力は大きくて、いまだに海と思い浮かべると、まずは条件反射のように日本海が思い浮かんでしまう。その、日本海。
 今日はよく晴れた一日で、ただ波は随分と荒れていた。青空の下に白い波頭が繰り返し見えていた。晴れてはいても、どことなく波が重く感じられるのは日本海に影のように寄り添う特徴かもしれない。
 バックの中に入れていたデジタルカメラを取り出して何枚か写真を撮る。よく考えてみたら、何度も訪れている場所なのに、この町で風景を写真にとどめたのははじめてだ。そうすることが必ずしもいいことではないような気がするときもあるのだけれど、(写真を撮るときには、撮らずに記憶にとどめる方がいいんじゃないのか? と思ってしまうときがある。画面を覗くことに気をとられすぎて、実際にその景色をちゃんと自分で見ることがないがしろになってしまうんじゃないのかと、そんなふうに思うのだ。そして、それはとてももったいないことのように思えてしまう)それでもシャッターの丸いボタンを何度か押す。とどめること。そうすることで、様々なことを再現することができるとも信じているわけだし。
 それから、ゆっくりと懐かしさを確認するように歩きながら祖母の家に向かった。久しぶりの道筋でも、たとえば家族と一緒に歩いているときと、1人で歩いているときとでは感じ方見え方が違ってくる。1人のときのほうが、奇妙に感傷的になってしまうのだ。駅からの道路は、ちゃんと忘れていない。間違えずに、祖母の家に向かうことができる。
 祖母は今年77歳になるのだけれど、1人で暮らしている。子供の頃から何度も訪れている川の近くの家に住んでいる。
 祖母の家に到着したのは14時半くらいで、それから18時半まで、ずっとそこにいた。
 祖母と2人きりで、ずっと話をしていた。
 より正確に言うのなら、ほとんど話を聞いていたという方が正しかったのだけれど。
 普段は家族の誰かと一緒に行くことが多かったから、社会人になってから祖母の家を1人で訪れて、こんなに長い時間話をしていたのははじめてだったと思う。
 たくさんの話を聞いた。
 僕の生まれた頃の、子供時代の、あるいは僕が生まれるよりもはるか前の話。
 現在の祖母の日々や、もう何年も名前だけしか聞いていないような親戚の話。すでにいなくなってしまった人の話。
 そこには面白い話も面白いとは言えないような話もあったのだけれど、聞いている間、祖母の家に一人で行ってこようと決めてよかったと、そう思っていた。
 それだけは間違いなく言うことができる。
 たくさんの、何度目かになる、あるいは初めて聞く話を聞きながら、何度もそんなことを思っていたのだ。

 挨拶をし、18時半を過ぎて祖母の家を出た後では、帰り道はすっかり暗くなってしまっていた。周囲は雪に覆われている。真っ白というわけではない。実際に雪景色は排気ガスのために黒く汚れている部分も多い。でも、夜になるとそういう汚れは曖昧に隠されてしまい、頼りなげに伸びる街灯の明かりが周囲を淡く照らす。線路を渡るときに遮断機が下りて、遠くに駅のホームが見える。なんだかそこは随分と遠い場所のように見える。
 実際には、一時間もかからない場所にあるのに。
 途中、小さな橋から夜の海も見える。暗く、日中よりも逆に広く見えてしまう。波はやっぱり高かった。
 駅舎の中でしばらく待った後で、ゆっくりとホームに滑り込んでくる列車に乗る。最寄駅に着いた後、それから大型店に寄って話の中で祖母が欲しいと言っていたハロゲンヒーター(扇風機みたいな形状の暖房器具)を買って、祖母の家への発送手続きをした。あんまり孫らしいことをしをていないので、そういうふうにするくらいしかできない。
 僕は遠いところに住んでいるから、帰省の折にしか会うことはできない。
 そして、「親にだけは心配かけるようなことをするんじゃないよ」と何度も繰り返して言われたので、そうしたいなとはあらためて思った。たまにしか会えない分、そのときの言葉にはある種の重みが付与されてくるのだ。
 それなので、あらためて思うことの多い1日だった。
 とても。


2002年01月05日(土) 記憶の海+『チェーンストア経営の目的と現状』

 日本には一体いくつの町があるのだろう?
 もちろん、そんなことは統計を見ればすぐにわかることだ。日本にある市町村数とか、いくらでもあるだろうし。
 たとえば、少しふざけた言い方をするのなら、世界にはきっと「統計小人」という種族がいて、昼も夜も様々な統計を取り続けているって想像してみる。小さな工房のような建物のなかで、あるいは古の図書館のような建物の中で。
 だから、困ったときには小人たちに訊けばいいのだ。そうしたら、書庫の中から、目的の統計を探し出してきてくれる。
 そういうのはいいかもしれない(小人のイメージは個人的に好きなのだ。前にもラーメンで使ったし)。
 
 話がずれてしまった。
 話がずれてしまうことに関しては、もうちょっとしたものだ(自慢にならないけど)。
 いずれにしても、その数を知ることは比較的簡単にできるはずだけれど、それは事実ではあってもどこかではただの数字でしかなかったりする。
 ここで話題にしたいのは、実際に自分で訪れることのできる街や町って、いくつくらいになるのだろう? っていうことだ。
 人生は一度きりだというのは当たり前の話。
 そして、その人生で一体いくつの町を訪れることになるのだろうって考える。
 たくさん訪れる方がいいのか、同じ場所でずっと日々を重ねていく方がいいのか、そんなことはもちろん一概には言えない。
 人によっても、環境によっても、年齢によっても違ってくるだろうし。
 でも、実際に幾つかの町を通り抜けてきたなかで個人的に思うのは、たくさんの町の記憶が自分の中に蓄積されていくことはきっとマイナスにはならないということだ。
 それはもちろん旅行でいいし、実際に住んでいたということでもいい。あるいはA地点まで向かう旅の途中で、昼食をとるために立ち寄ったということだけでもいい。
 そういう点や、あるいは短かったり長かったりする線が、自分の中に蓄積されていくということ。
 その線はまるで雨や日差しのように、記憶の海のようなものがあるとしたら、そこに向かって降り注いでいく。
 そういうのをイメージしてみる。

 凍てつく冬の鉛色の空の下にある、暗い碧色の海。
 うだるような真夏の、ピーカンで太陽も輝いている透明な海。

 どういった海でもいいのだけれど、記憶がそこにプランクトンみたいに溶け込んでいるということ。
 常に思い出せなくても、ある瞬間に鮮明に蘇る記憶としてストックされていること。

 そういうのはとても貴重なことだと思う。
 たとえば、これは「何それ?」と言われてしまうことかもしれないけれど、ものすごく疲れてしまったりしたときに、そういういままで自分が訪れたすべての街や町が、いま等しく同じ空の下にあるのだと考えてみたりするのだ。あの地方都市も、海辺の町も、昔住んでいた町も、ただ通り過ぎただけの街も、とにかくそういうすべての記憶の中にある町が、たとえば同じ月に照らされているとか、同じ雨に打たれているとか、同じ永い夜のなかにあるとか、そういうことを想像してみるのだ。
 あるいは、そのたくさんの記憶の中の、ある町をひとつだけ選んでイメージしてもいい。
 その町のある交差点もいま、同じ月の下で静かな夜をむかえているって思い浮かべてみるのだ。時折ヘッドライトをつけた車が通り過ぎて行くって。
 そうすると、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ楽になれる気がする。
 気持ちがしん、と落ち着けるような気がするのだ。
 世界は広い。
 そういうことがわかるような気がするから。
 もちろん、そんなのは気休めだと言う人がいるかもしれないし、ただの錯覚という人もいるかもしれない。
 そして実際にそうだとも思う。
 でも、気休めでいいし錯覚でいいし、そういうときには、気が楽になるのなら何でもいいんじゃないか? ともこれは結構頑固に思う。
「正しい気が楽になる方法」なんてものを、いちいちなぞってなんかいられない場所というものは絶対にあるはずだし(第一、そんな方法なんてあるのか?)。

 ただほんのちょっとだけ、辛かったり落ち込んだりしたときに気持ちが楽になればいいのだ。
 ただそれだけなのだ。
 そしてそのために、たくさんの見知った町や街の記憶が少しは役に立つんじゃないかっていうこと。
 星の数ほどあるはずの方法の中のひとつとして。

 僕は海外の景色はほとんど知らないのでそういうときには使えないのだけれど、海外旅行にたくさん行っていたり住んでいた経験のある人は、海外の景色も利用できるわけだから、なおさら世界は広いって思えるんじゃないかとも思う。

 繰り返すと、

 しん、と気持ちが落ち着けるようなイメージを描いてみること。
 実際に訪れたことのある場所の、いまこの瞬間の時間を想像してみること。
 ビルの屋上に設置されたお天気カメラのように、心の中で定点観測をしてみること。

 
 子供じみた考えかもしれなくても、そういうのが役に立つときもあるかもしれないとは思うのだ。ときどき。


 ……でも、そういうのって本当はどうしようもないただの気休めでしかなくて、本当に疲れている人にとっては何を言っているんだと思われるようなことなのかもしれないとも思う。
 僕はそういう本当に疲れてしまうような地点までいったことがなくて、本当の疲れというものがどういうものかなんてことを全然わかってなんかいないのだと考えたりもするし、そう思うと情けなくなったりもする。
 そして、そういうことを考え出すと、沈黙が続いてしまったりもするのだけれど。


―――――――――

 今日は仕事で有楽町の方に行く用事があり、用事が済んでから有楽町ソフマップに行ってきた。買ってくるように頼まれていたものがあったのだ。
 別にパソコンショップであればどこでもよかったのでビックカメラでもよかったのだけれど、最近流通系の雑誌で有楽町ソフマップの記事を目にする機会が多かったので、どんなものなのだろうと実際に見に行く事にした。興味があったのだ。自分が小売業で働いているせいか、新しいお店やショッピング・センターを見るのは好きなのだ、すごく。
 記事では、銀座や丸の内で働いている女性客の来店を促すような店舗を意識したというようなことが書かれていたのだけれど、確かに既存のターミナル型のパソコンショップの雑然さとは正反対の、天井が高く、ゆったりとしたスペースの売場が作られていた。
 また、白が基調色となっていて清潔感があったり、高い天井近くの壁にはパステルカラーの文字で何の売場なのかを示す案内表示があったりと、遠目にもわかりやすかった。今日が土曜日だったとこともあって、店内も混み合っていたし。新鮮といえば、新鮮。

 そして、その有楽町ソフマップは無印良品との複合出店でもある。建物自体は3F建てなのだけれど、その2〜3Fが無印良品になっているのだ。「無印良品有楽町」は東日本の旗艦店でもあり、無印のほとんどすべての商品が揃う大型店となっている。
 無印に入ったのは久しぶりだったのだけれど、何でも扱っているのだなというのが改めての印象。たとえば、いまではベビーカーにスーツ、さらに液晶TVも冷蔵庫も扱っているのだ。価格的な部分で言うと衣料品なんかは微妙な感じがしたのだけれど(ユニクロより上、百貨店系よりは下)、それでもライフシーンを同じテイストで統一できるというのは好きな人にとってはとても魅力的なんじゃないかとは思う。衣食住に関わるほとんどすべての商品がそこにはあるわけだし(ちなみに、実験的に無印良品ブランドの建具や木材なんかも展示されていた。無印のパーツで家も作れてしまう?)。

 さらに、もうひとつ実験されていたのが無印良品初のレストラン業態「Meal MUJI」だ(いままではCafeはあったけれど、レストランはなかった)。
 ちょうど、1月4日付けの日経MJの記事にもあったのでそれを少し引用すると、

 ミールムジは旬の野菜や海草、魚、豆腐、鶏肉などを素材にカロリーを計算したヘルシーな自然食を売り物にしている。
 メニューは惣菜二十五種、パン類三十種。「鯖と蓮根の揚げサラダ」「山芋のガレットゴーヤ添え」「ルッコラの白和え」「ジャガイモの豆乳グラタン」などの惣菜から四品を選び、ご飯またはパンと組み合わせたセット(650円)が昼時の売れ筋だ。

 となっている。
 無印良品らしい展開のような気がする。ヘルシーな自然食のあたりが特に。
 実際、僕が無印を見ていたのは15時過ぎくらいの時間だったのだけれど、それでもガラス張りの店内はかなり混み合っていた。普段は昼時になるとOLたちが行列をつくるとも記事には書かれていたのだけれど、それにも納得という混み具合。2年位前から、無印良品は食に力を入れはじめているように思うのだけれど、それがこういう形に派生しているのだなと思うとおもしろい。この有楽町店の好調な展開を受けて、大型店への導入や、ミールムジ単体での展開も視野に入れ始めているとのことだ。

 そして、3Fには「マーサ・スチュワート」のショップも入っていた。
 アメリカのカリスマ主婦が展開するホーム・ファッション(タオルとかベッドカバーとか、食器とか)のお店。カリスマ主婦ってすごい言葉だといつも思うのだけれど、アメリカでは「マーサ」ブランドは爆発的に支持されているとのことだ。


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 有楽町ソフマップで光ファイバーのネット接続の体験をすることができるコーナーがあったのだけれど、100Mbpsのスピードはもう何だか普段のスピードが哀しくなってしまうくらいだった。ハイパーリンクをクリックするとほんの一瞬で次の画面が表示される。画像があろうとなかろうと、あっという間に。
 速い! としか言えないような速さ。
 ああいうスピードが当たり前のものとなったときに、インフラの前提が切り替わってしまうわけだから、いまでは思いつかなかったような新しいサービスとかが生まれてくるのだろうなとか想像すると、おもしろそうだなっていつも思う。
 子供の頃に、たとえば携帯電話を1人1台持つような時代になるなんて思ったことはなかったし、Segwayのような乗り物だって、もっとずっと遠い未来の話だと思っていた。
 けれども、幼い頃に描いていたような未来は、確実に、しかも加速度をつけて近付いてきている。僕がまだ生きている間に、たぶんとんでもないところまで発展してしまうのだろうなとも思う。
 できることなら、某ネコ型ロボットが作られるのを見てみたいものだけれど。
 ドラ焼なら、いくらでもプレゼントする用意はあるし。


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『チェーンストア経営の目的と現状』再読。渥美俊一著。実務教育出版。
 ビジネス書。
 会社に入ってから、事あるごとに読み返している本。大抵は部分読みが多いのだけれど、今回は半年振りくらいに通読(何度目だろう?)。流通業(とりわけチェーン・ストア志向企業)で働いている人のほとんどは、この本を読むようにと言われていると思えるくらいの、チェーン・ストアについての教科書のような本だ。何度読んでも、改めてなるほどと思わされるところがある。著者は、チェーンストア経営専門コンサルティング機関日本リテイリング・センターのチーフ・コンサルタント(イオンやイトーヨーカドー、ダイエーなども、まだ小さかったときに著者がコンサルティングをしてきたと書かれている。まさに流通業の生き字引みたいな人だ)。

 この本について書き出すときりがないので、一箇所だけにしておくけれど、「チェーンストア」という言葉についての誤解について述べている部分ではこう書いている。

 多くはさきの”連鎖店”という直訳を前提に、鎖で縛られている店または人々のこととの印象をもち、人間としての自由がない管理社会のモデル的存在という、ひどい偏見を主張したりする始末である。
 鎖は本来、人類が開発した運搬の道具であり、どんな形のモノでもひとくくりにして移動させられるという、すばらしい文明の利器であった。なぜ日本人は、それを人間を束縛するものとのイメージをもってしまったのだろうか。
 一つひとつの鉄の輪はちっぽけでまったくの非力に見えるが、それが一定の法則で連結し多数が繋ぎ合わさると、一人の人間ではとうてい動かしがたい大物や多量のモノを、ちゃんと思うところへ動かせるという、ものすごいことをやる特別な仕組みなのである。つまり、一店ではできるはずのないことを、特別に工夫された経営上のシステムによって、素晴らしい”暮らし”というご利益を国民に提供するものというのが、つまりチェーンストアという言葉の本来の意味である。(6-7ページ)

 最初から、こうなのだ。そして、具体的にチェーンストアがとるべき手法について、様々な理論や数字を紐解いて解説している。初版は昭和61年で、平成13年に改訂第12版が出ているので、そういう意味でもまさに教科書のような本だ。
 これからもきっと、何度も読み返す本だ。
 

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 お知らせ

 さて、明日は午前中の飛行機で札幌へ。休日を利用しての移動です。
 そして、休日の前日には、ついついDaysを書き過ぎてしまいます。


2002年01月04日(金) 『N・P』

『N・P』再読。吉本ばなな。角川文庫。

 読み終えて、「本書は、一九九○年十二月、当社刊行の単行本を文庫化したものです。」という文字を見たときに、まず驚いてしまった。
 もうそんなになるんだ……と、なんだかしばらく力が抜けてしまったみたいに呆然としてしまった。
 90年と言ったら僕はまだ16歳くらいだから、高校生だ。
 その年の暮れ、確か単行本は12月に発売されたのだけれど、すぐに買って、一気に読んでしまったのだった。
 そのせいか、年末に読んだというイメージがとても強い。
 今回、ほぼ10年ぶりに通して再読をして、いろいろと思うところがあったのだけれど、やっぱり改めていいよなあと思った。吉本ばななの作品を5つ挙げろと言われたらおそらくその初期の作品に集中してしまうのだけれど、中でもこの作品はやっぱり入ってくると思う。
 境目について語ることに関しては、僕がいままで読んできた小説家のなかでは、やっぱりこの人が一番だと思ってしまう。

 手にとったのは、本当に偶然だった。
 昨日、買物に出かけるときに、手ぶらで行きたくて、じゃあ文庫本を持っていこうかなと考えてみた。
 本当は、年末年始用に買いためた本がまだ何冊もあるのだけれど、それらはすべてハードカバーだったので、現実的にコートのポケットには入らなかったのだ。
 それで、文庫本の中から何かを選ぼうと思ったときに、目に入ったのがこの『N・P』だった。
 どうして文庫本版を持っているのかはよくわからなかったのだけれど、おそらくもう1年以上前になる出張生活のときに買ったのだと思う。そのときには、恒常的な移動を続けていたのだけれど、昔好きだった小説を無性に読み返したくなる衝動に駆られることがよくあったのだ(『落下する夕方』の文庫本なんて、その衝動のために3冊も持っている。部屋にあるのがわかっていても、部屋に帰ることができるのがいつなのかがわからない日々だったからつい買ってしまっていたのだ)。
 けれども、結局そのときにはすぐに衝動が収まってしまったのか、通読はしていなかった。
 そして、ずっと、本棚(というか無地のカラーボックス)のなかにしまわれてあったのだ。

 買物の行き帰りの電車の中で、50ページくらい読み進めた。眠る前にも読んだ。
 そして今日帰ってきてから、続きが気になってしまってそのまま続きを読んだ。
 読み終えたのは0時少し過ぎだ。
 しばらく、なんだかぼんやりと余韻にひたってしまった。

 印象に残る場面や、文章はたくさんある。
 けれども、いくつかを挙げるとしたら、

 父がいないのは淋しかったけれど、その生活は面白かった。3人でいると、年齢や役割が日に何度も入れかわる。ひとりが泣き、ひとりがなぐさめ、ひとりが弱音を吐き、ひとりがはげまし、ひとりが甘え、ひとりが優しく抱きしめ、ひとりが怒り、ひとりが誤りを正した。(13ページ)

 夜は萃に似ている。(127ページ)

 今思ってみても、そのときの屋上には悪い影はなかった。何かいいもの、子供時代の夢のようなものに包まれていた夜。(158ページ)

 とか。
 もちろん、他にもたくさんあるのだけれど、いろいろと思うところはMy Favoriteのほうにまわしておこう。なかなか更新していないMy Favoriteだけれど、この小説はやっぱりそっちの方に入れておきたいし。

 あと、補足でちょっとだけふれるとしたら、吉本ばなな描く主人公の「私」たちは、根本的なところで(致命的にというべきかもしれないけれど)肝がすわっている。そして何ていうかこう……お酒が強そうだ、とても。


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 仕事はじめの今日はまだ休日のところが多いためか、電話もほとんどなくスムーズに進む。新春ミーティングとか新春休憩とか、何かと新春をつけるのが自分のなかでは流行っている今日この頃。
 同僚は連休中にパチスロに行き、1日で(しかも3〜4時間くらいで)13万円も勝ったと話していた。
 僕はパチンコやパチスロはやらないので詳しいことはよくわからないのだけれど、ただ、数時間でそんなに勝ってしまうこともあるのだから(13万円なんて、すごい)、やめられないのだろうなとは思う。まあ、大勝ちするときもあれば大負けするときも少なくないという話だったけれど。個人的には、そういう話を聞いても、たぶんやらない。
 お金をかけるなら、別のものにと思ってしまう。
 宝くじは、購入したメンバーは全滅。

 そして、今日は仕事が終わった後、同僚5人と奮発してステーキを食べに行く。
 何かと言うと肉を食べさせておけばいいのはお約束だ。
 おいしかったし、おもしろかった。


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 asahi.comで、帰省ラッシュの渋滞に関するニュースがあって、その中にとあるジャンクションの渋滞の様子をRealplayerで見ることができるというものがあったので、ちょっと試しに見てみた。
 ヘリコプターから撮っている映像で、ジャンクションに連なり続ける車の群れを上空から映し出していた。
 料金所に収斂されている夥しい数の車の明かりを見ていると、なんだか世界の終わりを避けるために、とにかく遠くに脱出しようとする人たちの群れのように見えたりもする。画像がやや粗くて、それも何だか不穏な事態が起こっているのではと錯覚させる。
 いずれにしても、インターネットで、渋滞の映像をダウンロードしてみるのって、なんだか随分と不思議な感じのすることだった。
 意味を求めるようなものではないのだろうけれど、なんだか。


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 今日はMAXWELLを聴いているのだけれど、最近購入したCDは当たりばかりで、聴く時間は限られているので嬉しい悲鳴だ。
 気に入った曲は何度も聴きたいのでリピートしてかけるのだけれど、でもあっちのアルバムのあの曲も聴きたいしとか思って。
 しばらくは、この贅沢な状態でいろいろと繰り返したくさんの曲を聴いていこう。
 でも、高音の美しい歌声って、やっぱりいい。
 甘く甘い声。
 ちなみにMAXWELLは男なのだけれど、やたらとセクシーな声をしている。すごい。


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 お知らせ

 何だか本棚を見ると、同じ本が他にも何冊かあるのです……。


2002年01月03日(木) 「人見知り英会話」+今年の手帳を買いに行く+『ぼくの小鳥ちゃん』 

 ある日僕はテレビをつけた。そこでは見慣れない番組をやっていた。


 番組のテーマ曲が流れている。(女性キャスター画面中央に歩いて登場)

キャスター:(凛と正面を向いて)
 本日のビジネスニュース特集は、参考書についてです。
 現在、巷にはたくさんの参考書が溢れています。
 英語にパソコン、高校あるいは大学受験、簿記、そしてインテリアコーディネーターなど、世の中にある様々な試験や技能や資格に応じて、それぞれ何冊もの参考書が存在しています。そして、それだけ氾濫しているために、いったいどれが自分に合うのかという判断を下すのが非常に難しくなっているのが現状ということができるのではないでしょうか?
 そこで、今日は参考書問題に詳しい伊藤教授にお越し頂きました。(教授、画面の横からゆっくりと歩いてくる)
 教授、よろしくお願いします。

教授:よろしくお願いします。(教授、そのまま反対側に歩き去ろうとする)

キャスター:ちょ、ちょっと教授。

教授:何か用かね?(振り返って、不思議そうに)

キャスター:こちらへ、どうぞ。(表面は柔らかな笑顔だが、心中穏やかでない感じ)

教授:ああ、ここか、はじめから言ってくれればいいのに。紛らわしい。

キャスター:
 ……さて、教授。氾濫する日本の参考書。このままいけば、頼みになるような専門家に、どの参考書がいいのかをレクチャーしてもらわなければならなくなってしまいそうですね。

教授:
 ええ、確かに。現に、参考書を☆マークで評価しているようなサイトもインターネット上には多数存在しています。

キャスター:そうなんですか?

教授:ええ。まあ、それだけ参考書の数が大変なことになっておるということですな。もちろん、その評価を鵜呑みにするのも考えものです。たとえば、私の書いた参考書などは、あまりにすごすぎて判断がつかないのか、どのサイトでも☆がひとつもついていないくらいです。

キャスター:えっ? それって……

教授:ただ……

キャスター:ただ?

教授:(ものすごく早口で)
 問題は、現在流通している参考書というものが、実際にその勉強をしていて困っている、そういう人たちからの発想が抜け落ちているということなんですな。つまり、その技能なり何なりを獲得している、そういう人の側から一方的にベクトルが伸びたものとなっているわけです。そういう人たちは全体像を知っているわけです。ですから、これだけは覚えてもらわなければならないっていう部分がある。しかし、ページ数は限られています。ということは、ある意味無理なカリキュラムを組んでいかないとページに収めることができない……もちろんすべてがそういうわけじゃないですが、そんなふうに、全体像からの出発になってしまっているものが多いのです。全体に目が行き過ぎてしまっているがために、結果として部分部分では消化不良を起こしてしまっているという……

キャスター:な、なるほど……。

教授:
 けれども、そういう大量のカリキュラムが押し寄せてくるとしたら、いくら意欲のある学習者でも辟易してしまうことでしょう。最初のうちに高いレベルで抱いていたやる気のようなものが、度重なる理解できないような解説や、ページをめくるたびに現れる新たな問題に、次第に磨耗させられていくというわけです。

キャスター:だからといって、プロフェッショナルでなければ参考書をつくることは難しいのでは?

教授:
 もちろんそうです。つまり、大切なのは、そういうプロの人たちが、初心者と同じ目線に立って伝えようとすることなのです。そうすればその参考書のわかりやすさは飛躍的に向上していくというわけです。ほら、子供に物を言って聞かせるときには、しゃがみこんで、目線を合わせるでしょう? あれと同じですよ。

キャスター:なるほど……あ、臨時ニュースが入りました。全日本トップブリーダー選手権で、山田太郎氏が2連覇を達成しました。山田選手の、喜びの声をお聞きください。

(山田選手のインタービューが挿入)

キャスター:おめでとうございます。山田さん。(画面に向かって笑顔で)

教授:それ、臨時で読み上げる内容なの?

キャスター:失礼しました……。では、教授、続きを。

教授:
 コホン。そこで、今日は、ここ数年大ブレイクしたある参考書を取り上げて、どういう参考書が受け入れられていったのか考えてみようというわけです。

キャスター:それでは、「ある参考書ブームの光と影」。ご覧ください。(キャスターのアップ。真面目な表情で)

(画面が切り替わる。タイトルが表示される)


「ある参考書ブームの光と影」(タイトル消える)


ナレーション(森本レオ風):
 ここに、かつて日本で大ブレイクした英会話テキストがある。まさに日本人のための英会話テキストとして一世を風靡したこのテキストを、今回は取り上げてみよう。
 現在、書店ではめっきり見かけなくなったこのシリーズのタイトルは、『人見知り英会話』。
 まさに、海外旅行に出かけているときの日本人特有の挙動不審さを十二分に表現しているタイトルだった……


 平成5年にその第1弾が発売された。そのときのサブタイトルは、


『人見知り英会話 フェード・アウト万歳』(表紙が画面に映し出される)


 これは、人見知りの日本人が海外でやりがちな、最初はちゃんと聞こえるのだけれど、最後の方になるに従ってか細くフェード・アウトしてしまうことを全肯定しているテキストである。別にそれでもいいじゃないか、むしろフェード・アウト万歳だという姿勢が、多くの学習者に自信を持たせた。
 レイアウトも、サブ・タイトルに則した物となっており、全ページの構文は、最初のフォントが12なのに、語末になると8になり、最後はかならず「...」で終わる。
 これはフェード・アウトしてしまって聞き取れないという意味だ。

<例文> My name is TARO...

 ヒアリングとスピーキングのためのCDも付属でついてくるのだが、その声も最初は大きいのに、最後の方では耳を澄ましても聞こえないくらいの小声になっている。その後で、一際大きく陽気な声で「repeat after me?」って言われても、聞き取れないので繰り返すことすらできない。

 当初、業界で売れるはずがないと言われていたこの『人見知り英会話 フェード・アウト万歳』は、発売されるやいなや存在を肯定された多くの日本人海外旅行者に愛され、爆発的な売れ行きを見せることになった。一時、海外で、日本人のフェード・アウト方式の発音が(悪い意味で)話題になったほどである。

 そして、ベストセラーになると続編が出るのは世の習い。
 翌年、待望の第2弾が発売された。


『人見知り英会話�◆.疋皀螻很拭�


 これは、人見知りの日本人が海外でやりがちな、ついどもってしまうことを全肯定しているテキストである。
 全ページの構文は、最初のアルファベットが、必ず重複している。

<例文> M,Ma...M...My name is TARO...

 というような感じであり、やはり付属でついてくるCDの発音も、情けないほどに慌てている。
 そして本書は、海外で思わずどもってしまった経験のある推定180万人の日本人に支持され、やはり爆発的に売れた。

 そこでやめておけばよかったのだ。しかし、出版社の上層部は、もうこれでシリーズを終わりにしたいという編集者たちの意見に首を縦に振らずに、続編を出すことを強要した。当時の編集者のひとりはこう語っている。

(当時の編集者のインタビューが挿入される。顔は影になって隠されている。声もやけに高くなっている)

元編集者:
 ええ、最初は私の発案でした。私自身海外でうまくコミュニケーションすることができなくて、フェード・アウトしたりどもったりばっかりだったんです。だから、そんな私と同じような日本人に、それでもいいじゃないか、一緒に頑張ってそこからやっていこうよということを伝えたかったのです。
 だから、第3弾の製作を命じられたときには、抵抗しました。
 サブタイトルを聞いたときに、趣旨がずれてきていると思いましたから……でも、私はサラリーマンです。小学生の息子も娘もいます。上層部の命令には逆らうことはできませんでした……。

(画面真っ暗になる)

 そして翌年、編集者たちの自棄とも言える第3弾が発売された。


『人見知り英会話�� 私絶対に話さない』


 これは、従来の2冊と異なり、もう英語なんて話さなくてもいいじゃないかと開き直った一冊だった。英語の参考書なのに、そこは日本語のオンパレード。たとえば、お馴染みの例文を見てみると、

<例文>だから俺は太郎だって! なんでわかんないのさ!

 になっている。逆ギレしている……

元編集者:でも、あそこまでやったんだから、もう手の平を返されたように売れなくなるって思ってましたよ。そしたらまあ、上の方も納得せざるを得ないだろうし、元の路線に戻ることができるって。売れるはずがないって、そう思っていました。

 しかし、これは「そうだ。俺たちは日本人なんだから日本語でいいんだ」という根拠のない熱狂に迎えられ、� ↓△鯲寝錣垢訛腑戰好肇札蕁爾箸覆襦�
 これに気をよくした出版社は、ここでやめておけばいいのに、驚異の第4弾を発表する。


『人見知り英会話�ぁ〇篁爐鵑任睿辰気覆ぁ�


 もう一体何の参考書なのかわからないこのタイトルは、しかしやはり爆発的に売れてしまった。
 最初のページをめくると、大きな字で「沈黙を貫き通せ!」と達筆な筆で書かれている。
 次のページをめくると、「沈黙は金!」とやっぱり筆で書かれている。
 最後のページまでそんな感じである。

 そして、そこまでがこの『人見知り英会話』シリーズの蜜月だったのである。

 ��を発行したあたりから、業界の強い風当たりを受けていた出版社は、世論の波と、正当に学びたいという多くの声に勝てず破綻寸前にまで追い込まれ、同シリーズの出版を取りやめたのである。

 元編集者は語る。

元編集者:
 ええ、あれでよかったと思っています。結局、ちゃんと努力して学びたいという声が勝った。私たちも最初はそうだったんです。でも、どこでどう間違ってしまったのか、同じ方向に歩いているつもりが、私たちの方がどんどん脇き道にそれてしまっていた……え? いまですか? いまは当時より小さな出版社で、やっぱり参考書をつくっています。まあ、根っからの参考書人間なんでしょうね。妻にも、「この参考書人間が!!」っていつも怒鳴られていますよ……ま、いまは英会話ではないですけどね。細々とやってますよ。

 そう言って、現在作っている参考書を見せてくれる元編集者。


『人見知り仏会話 ジュテーム大作戦』




キャスター:……教授?

教授:どうしました?

キャスター:えーと、いまのVTRは?

教授:まさに現在の参考書問題を色濃く反映していると言えるでしょうな。貴重な映像でした。

キャスター:そうなんですか……?(疑いの目)

教授:でもまあ、どんな参考書を使うにしても、結局は自分次第ということを忘れてはいけないということがいまのVTRを見てよくわかりましたね。私はあまりの感動に涙が出てきました……。(教授、白いハンカチで涙を拭う)

キャスター:え、え? ちょ、ちょっと教授、泣かないでくださいよ。まだカメラは回っているんですから。

教授:うぇっ、うぇっ、おうおう……(教授、なぜか号泣)

キャスター:そ、それでは、今日のビジネス特集はこれにてお別れです。来週のこの時間は、「インターネットの未来は?」です。それでは、伊藤教授、本日はありがとうございました。

教授:うぇっ、おうおう……ひっく。

キャスター:そ、それでは、ごきげんよう。

(エンディング・テーマが流れはじめる。画面、フェード・アウト)



 ……何これ?


―――――――――

 ※もちろん、こんな番組はありません。


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 今日は昼にホーム・ページを少し変更した後で買物に出かけてくる。
 さすがに、今年の手帳を買わないといけないよなと思ったのだ。

 そして、定番の東急ハンズへ。ものすごく混み合っていて、レジの列は通路のかなり先まで伸びていて、それだけで購入する気がそがれてしまうくらいだった。
 でもまあ、手帳は必要だしねと物色をはじめる。年末から、何度かいろいろな店でたくさんの手帳を見ていて、でも結局買っていなかったのだけれど(そう言えば、カレンダーもかなりたくさんのものを見たのに結局まだ買っていない)、それもあって選択の幅は随分と狭まっていた。

 結局、QUOVADISの「Executive Notes」を購入した。けれど、ほとんどのシリーズは品切れで、あったものを買ったという感じ。
 16�僉�16�僂寮喫�形で、見開きが1週間。そして、メモ欄が比較的多いシリーズだ。ホームページを見ると、働く女性に人気のシリーズらしい。
 いままでQUOVADISは毎年買うか買わないか迷って結局買っていなかったので、今年は実験の意味もあっての購入だったのでどんなサイズでも良かったのだ。スーツのポケットには入らないサイズだけれど、とりあえず、今年の前半も異様に出張が多くなることは確定しているので、いつも持ち歩くカバンに入れるので問題はないと思うし。
 でも、手帳を買ったら、ますますPDAを使わなくなってしまうような気はする。どちらも利点と欠点があって甲乙つけ難いのだけれど、やっぱり自由度の点でいうと紙の手帳かなと思う部分はやっぱりある。
 それにしても、新しい手帳に予定を書き込んだりするのっていつも楽しく思う。これも新学期のノートと同じで、時間が経つにつれて乱雑な扱いになってしまうのだろうけど、それでも新しい手帳にしか持ち得ないようなある種の感覚はやっぱりあって、そういうのはいくつになってもいいなと思う。
 新年から、やるべきことを列記していたら、ちょっとだけ「むむ……」となってしまったのだけれど。

 ちなみに、QUOVADISのHPはこちらです。

 http://www.quovadis.co.jp/

 その後、東急Foodshowで、以前の上司が勧めてくれたGateaux de Voyageのプリン「Pudding aux Vanilles」を買う。
 部屋に帰った後で久しぶりに食べたのだけれど、やっぱり美味しかった。しかも1個200円だし。
 店はとても混んでいたのだけれど、これなら人気があるのも納得。

 帰りは、一駅わざと乗り越して、隣駅前のモスバーガーでエビかつバーガーを食べてから、一駅分歩いて帰った。
 今年初の隣駅からの散歩は、途中コンビニにも寄ったので片道で30分ほどかかる。
 でも毎日Daysを読んでいて土地鑑がある人は、僕の住んでいる駅とかわかるだろうな、これなら。
 

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『ぼくの小鳥ちゃん』読了。再読(5度目くらい?)。江國香織。あかね書房。
 何度も繰り返し読んでしまう本というのは確かにあって、最多は『ホリー・ガーデン』なのだけれど、この本も結構読み返している。もちろん薄いという理由もあるのだけれど(読み終えるのに1時間もかからない)、とりわけ冬になると、この本を無性に読みたくなってしまうときがあるのだ。
 どうしてか、なぜなのか。
 外はとても寒くて部屋の中は暖かいような冬の日、パソコンから顔をあげると、この本の背表紙がハードカバーの間に小さく収まっているのが目に入って(サイズが少し小さいのだ)、なんだか気になってしまう。そして本の間から抜き出して読み始めるのだけれど、そうするといつもそうなのだけれど小鳥ちゃんがいればいいのにって思う。

 ある朝主人公の「ぼく」のもとに、小鳥ちゃんがやってくる。ペット屋の主人が言うには、「男のかたのなかには、どうしても小鳥にかかずらわってしまうかたがあるんですよ、まれにね」とのことで、ぼくは実際に以前にもすずめと一緒に暮らしていたことがある。そのぼくのもとに、また小鳥ちゃんがやってくるというわけだ。前とは別の、真っ白の小鳥ちゃんが。
 ぼくはなんでも「うけいれすぎる」ところが欠点らしいのだが、そのためか当たり前のようにぼくの部屋に居ついてしまった小鳥ちゃんは、文字通り羽を伸ばしているように見える。ちょっとだけわがままで自由で、「あかるくてきれいなもの」を愛している小鳥ちゃんは、いさぎよくて魅力的だ。自尊心のある、プライドの高い小鳥なのだ。

 小鳥ちゃんの言葉はいつだってとてもまっすぐに響く。ラム酒のかかったアイスクリームを「あれは世界中でいちばんいいたべものよ」と断言したり、教会に行った後には無言になって「神妙に」している小鳥ちゃん。「ずーっとつづくのが好きなの」と言い「ん」がついてもいいルールのしりとりをしたりもする(小鳥ちゃんは退屈するとすぐにしりとりをしたがるのだ)。

 小鳥ちゃんが夜にねむれないぼくを落ち着かせようと、あかるくてきれなものをいろいろと挙げてくれるシーンがあるのだけれど、そのシーンは特に好きだ。そのときに、小鳥ちゃんはこう言うのだ。

「あかるくてきれいなものをおもいうかべれば、ずっと気分がよくなるでしょう?」

 この台詞は本当に素敵だと思う。小鳥ちゃんは無敵だ、とさえ思う。そしてそのあたりまで読む頃には、僕も自分用の小鳥ちゃんが欲しいよなと結構切実に思う。冷静に考えると結構(と言うか、かなり)危ないのだけれど。

 また、ぼくの恋人もすごくいいと思う。

 ほかには料理も整理整頓も、ほころびを縫うのもとても上手だ。能力を問われるおよそありとあらゆることに、彼女はその才能を発揮する。(14ページ)

 彼女は早起きだし、いつも休日になると朝早くからぼくのところにやってくる。たまには「新聞紙にくるんだ水仙の束を抱えて」やってきたりさえする。水仙! すごい。(彼女が来ているとき、小鳥ちゃんは彼女がぼくの部屋に飾って置いている写真立て(三つある)をたおしていくのだけれど、そういうところもまたいかしている)。
 また、彼女はデートの途中にぼくがふさぎこんでいるときには、「たのしそうにして」と前を向いたまま言ったりするのだ。「たのしくないのなら帰って」とまで。
 そういうのって、ものすごく素敵だと思う。

 この短いおはなしは、個人的には江國香織の作品のベスト5を挙げるとしても入ってくる。いまのところはこんな感じ。

 1.ホリー・ガーデン
 2.落下する夕方
 3.ぼくの小鳥ちゃん
 4.いくつもの週末
 5.神様のボート

 しかも3位だ。結構上位(まあ、色々な作品を読み返すたびに順位は変動していくのだけれど)。でも、この作品は短いけれど本当によくできていると思う。「信号の緑がドロップのようにきれいにみえる。」のように表現も素敵だし。何よりもぼくと小鳥ちゃんと恋人のキャラクターが魅力的なのだ。
 昨年末に文庫本も出版されたので、それを手にとって読んでみるのもいかもしれない(本当にすぐ読めてしまうから)。
 オススメです。


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 お知らせ

 さて、明日は仕事はじめです。
 気がつくと、あっという間の6連休でした。
 楽しかったけれど。


2002年01月02日(水) My sweet time bomb+『小説作法』

 社会人一年目のある夏の休日、僕は函館の街を散歩していた。
 やけに暑い一日で、北海道の夏は短いのだけれど、そのせいか青空は随分と眩しく輝く。坂道が多い街だからついつい見上げることが多くなるのだけれど、坂を越えた先に緑の山々が目に入り、その上に純度の高そうな青色が広がっているのが見えた。
 夏になると、たくさんの色が鮮やかに輝くような気がする。空気がその物本来の色をさえぎったりしないようなところがあるのかもしれない。冬になると空気に一枚の透明な薄い膜のようなものがかかって、その膜は透明なのにどこか色のピントを損なってしまうような気がするからなおさらだった。

 確か随分前のDaysでも少し書いたけれど、函館は学生時代に当時の恋人と旅行で訪れたことのある街だったから、その場所で自分が暮らしているというのは不思議な感じだった。たとえば、その日見て回っていた観光地のほとんどは数年前にも訪れたことのある場所だったし、やっぱりそうすると当時のことを思い出してしまうのだ。
 ひとつの場所からは、たくさんの記憶を引っ張り出すことができる。
 夕方にロープウェイで函館山の展望台に登り、雲が結構ひどくてなかなかに夜景を見ることができなかったこととか、朝に食べたいかそうめんがとてもおいしかったこととか。あるいは、五稜郭タワーから、小雨に降られた五稜郭公園が見えたこととか。
 観光地の集積するエリアを歩きながら、そういう他愛のないことを一人思い出しては感傷的な気持ちになっていたのだ。

 もちろん、そういう思い出は函館にいるのにせっかくの観光地を巡らない理由にはならなかった。
 僕は函館に住んでいた数ヶ月の間に昼の函館山にも夜の函館山にもロープウェイや先輩の車で何度も上った。他にも、よく晴れた初夏の五稜郭公園を散歩もしたし、港のレンガ倉庫周辺だって何度か歩いた。1泊2日の観光客では発見できないような場所にもたくさん行ったし、当時は知らなかった女の子と裏夜景を観に行ったりもした(街を挟んで函館山と正反対の山々から見る夜景のことを地元の人たちは「裏夜景」と呼んでいた。別に特別な展望台などがあるわけではないのだけれど。早朝近くまで、その細い路地のいたるところに、夜景を見るカップルたちの車がたくさん続いているのはなんだか滑稽だったけれど)。
 だから、僕は函館で新しい時間を過ごしながら、時間はちゃんと流れるのだなと、改めて思っていた。

 その日はたまたま函館山に行く途中で、同じく休日だった会社の先輩(男)とばったり会った。なんだか見覚えのある人がいるなと思っていたら、先輩だったのだ。その月に函館に着任したばかりだった先輩は、せっかくだからと1人で観光地を巡っていたのだった。
 狭い街というわけじゃないのに、その偶然に僕はなんだか笑ってしまった。声をかけると先輩も僕に気付いて、「おお」と言った。
「○○君もそうなの?」
 そう訊かれて、「そうなんですよ」とこたえる。「散歩日和だし」
 そして、僕はその日の長い午後をその先輩と一緒に観光地を巡って過ごすことにした。「せっかくだから、一緒に回りましょうよ」と持ちかけたのだ。
 誰かと一緒だと、あんまり感傷に浸ってもいられなくて、その日を楽しく過ごすことになった。僕にかろうじて長所があるとしたら、切り換えが早いことでもあるし。僕はその先輩の話すたくさんのエピソードにいちいち驚いたり、笑ったりした。
 その先輩は観光情報誌のようなものをちゃんとチェックしていて(すごくマメな人だった)、一通り観光地をめぐった後で車がすれ違えないような細い道路の先にある喫茶店に行った。
 その喫茶店は街から外れた海岸ぎりぎりのところに建てられていて、夕方になると沈む夕日が奇麗に見えるというのが売りだった。
 僕らはその大きな窓の開け放たれた2階席で、軽食を食べてコーヒーを飲みながら、ゆっくりと沈んでいこうとしているきれいな夕日を見ていた。
 おもしろいよなあってずっと思っていた。
 その日偶然坂道の途中で先輩と出会っていなかったら、僕はその店のことをずっと知らなかっただろうし、そこから見える美しい夕日を見ることもなかったわけだ。
 よく人生は不可逆の枝道の繰り返しで、選択をし続けていかなければいかないというたとえがあるけれど、だからどの枝道を選んでも、そのそれぞれにいいことも悪いことも分量の差こそあれちゃんと用意されているのだと思う。たとえば別れたときには最高に落ち込んでしまった恋人と離れてしまってもまた同じ街でそういう美しい景色に出会うことがあるし、また違う人と出会うこともある。
 僕はこれからの自分の人生がどんなものになるのかなんて正直な話よくわからないのだけれど、ただ、いままでのことを思い出すと、どんな環境であれ起こるべきことは起こるし、ただ目の前の様々な出来事や風景に、ちゃんと感応できる心持だけは持っていたいよなと思う。
 ノイズがクリアになる、自分の周波数をちゃんとわかっているということ。
 それがとても大切なことだと思うのだ。
 もちろん、そんなことが余裕のない時期にはとても難しいことだということもわかっているのだけれど、そういうときのためにもきっと日記は役に立つ。
 余裕のないときに、余裕のあるときに書いた文章を読み返してみるのだ。
 文章を書いているのは同じ自分なのだから、そのときの心持を読み返してみることによって、溢れてしまったノイズを、そうすることで少しは弱めることができるんじゃないかなと思う。

 さて、今年はどんな1年になるのだろう?
 前半は仕事が忙しくて余裕を失ってしまいそうなので、いまのうちにこうやって書いておこう。
 日記も時限爆弾のように、数ヵ月後の自分に響くようなものがあってもいいのだろうし。
 まあ、それなら誰も傷つけない優しい時限爆弾のようなものなのだろうけど。


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 お正月の新聞のテレビ欄を見るのはとても楽しい。
 実際に見ることはなくても、チャンネルを合わせればたくさんの芸能人が一堂に会した番組があり、豪華な出演者のスペシャルドラマがあり、様々なアーティストたちのライブもやっている。まさに盛り沢山だ。小学生や中学生だった頃には、年末年始にテレビを見るのは本当に楽しみだった。
 いまはテレビはほとんど見ないのだけれど、それでもお正月のテレビ欄はまじまじと見てしまった。
 そして、たくさん気になる番組があったのだけれど、とりわけ気になったのがこの番組。



 1月1日(火)の午後3時からなんと2時間に渡ってテレビ東京でやっていた番組。



「徳光VSえなり!! ゴルフ真剣勝負 年の差40歳実力は互角▽徳光負けたら六甲おろし歌う▽豪華ゲスト珍プレー&美技▽なお美マジ誘惑えなり赤面」




 ……ねえ?

 昨日のこの時間は映画を観に行っていたので見てはいないのだけれど、もし僕がこの番組の企画書を見せられたスポンサー企業の人だったら、ゴーサインを出すだろうかってちょっとだけ考えてしまった。ちょっとだけ。
 もしこの番組を見た人がいたらぜひ感想を聞いてみたいものです。
 徳光さんとえなりかずきのどちらが勝ったのか。G党の徳光さんが負けたら六甲おろしを歌うのは確かに屈辱だけれど、えなりかずきは負けたらどうするのか?(「渡る世間は鬼ばかり」を降板するとか?) なお美マジ誘惑のなお美って川島なお美なんだろうかとか、とにかくいろいろと想像してしまう。まあ、すべてどうでもいいと言えば最高にどうでもいいことなのだけれど。

 でも、今年の夏くらいに、「年の差カップル発覚!!」とかいう見出しがスポーツ新聞を飾って、えなりかずきと川島なお美が付き合っていることがスクープされたらいやだな。

「きっかけは、そうですねえ……お正月の特番だったんですよ」

 ってやけに大人びたえなりがレポーター陣に向かって語るのだ。

 やれやれ。


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『小説作法』読了。スティーブン・キング著。池央耿訳。アーティスト・ハウス。
『ミザリー』や『グリーン・マイル』などでお馴染みのベストセラー作家スティーブン・キングが書いた帯によると「小説家として学んだすべてのことを伝えたい」という本。
 と言っても、いわゆる堅苦しく権威ぶった文章論になっているわけではなくて、キング自身の言葉を借りれば「物書きなら、当然、心得ている文章技術の初歩の初歩でしかない。」というようなことをわかりやすくかつ共感できる形で書いている本だ。
 その最たるものは、繰り返し語られる「よく読み、よく書く」ことだという部分だと思う。
 キングは作家になりたいのであれば何を措いてもそれを怠ってはならないと述べている(ちなみに、自身は遅読と断った上で年に小説を70〜80冊ほど読むと書いている)。
 また、「小説の役割は文法の手本を示すことではなく、物語を伝えて読者に喜んでもらうことである。小説を読んでいることさえ忘れてもらえるようなら、これに越したことはない。(154ページ)」というような、細かなことではなく本当に大切なことが何なのかについての説明も多い。本書に書かれている内容はよい文章を書くには「〜しなければならない」的なものではなく、直裁的に姿勢のようなものについて述べているところが多いのだ。それなので読んでいて気持ちがいい。
 もちろん、そういう「考え」を述べている部分ばかりというわけではなく、具体的なポイントや技術に関する解説もあるにはある。たとえばそれは「副詞はできるだけ使わないこと」であったり、「受動態よりは能動態を用いた方がよい場合が多いこと」、あるいは構想を練ることをあまり推奨はしないということ。あるいは会話や比喩について他。それぞれについて、あくまでも個人的な考えであることを述べた上で、説明を続けているのだ。
 そのため、この本は、一般的な文章読本というよりは、一人の作家の物語や書くことに対するスタンスを率直に述べている本という性格の方が色濃いような気がする。もちろん、その内容には普遍性が伴っているとも思うけれど、数々の文章の基本の中から、何を選択して語るのかはそれぞれの個性によるわけだし、本書の場合、その選び方にとりわけ強く色がついているような気がするのだ。
 それなので、僕はキングの本をたくさん読んでいるわけではないけれど、それでもほとんどすべてを読んでいるファンにとっては(キングの熱心なファンはたくさんいる。大抵の場合ものすごく熱心な人が多い)、たまらない内容なんじゃないかなと思う。
 敬愛する作家が自らの拠り立つスタンスについて自ら語っているのだ。それがファンにとって興味をひかないはずはない。

 また、本書の最後の方では、ある短編の前半部分の初稿と第二稿を並べて提示し、どのように推敲を行っているのかも見せている。

 訂正のほとんどは理由を説明するまでもない。初稿と推敲した原稿を比べれば、違いは一目瞭然だろう。なおよく読めば、プロの作家といえども、初稿はいかにお粗末か、おわかりと思う。(327ページ)

 初稿と第二稿を読み比べてみると確かに大きく変わっていて(もちろんかなり読みやすくなっていて)、なるほどと思ってしまう。
(キングによると、ポイントは「無駄な言葉を省くこと」と、「第二稿=初稿―10%」の二つになるのだそうだ)

 また、本書の前半ではキングの幼少期から作家として身を立てるまでの「生い立ち」が語られていて、その部分も面白く読むことができた。とりわけ、現在でも一番の読者であり批評家ともなっている妻タビサとのエピソードはこの作家にこの妻ありなんだと思えもしたし。

 僕もこのDaysでほぼ毎日文章を書いているけれど、いわゆる文章読本のような本はほとんど読まないので、新鮮でなるほどと思わされることが多かった。
 なるほど。すごい。


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 お知らせ

 今日のヘヴィ・ローテーションは昨日も書いたのだけれど、ホール&オーツの「One On One」。
 もう最高。
 気に入った曲はオールリピートで何度も何度も聴いてしまう。
 でもやっぱり、オーツはマリオ(ルイージ)に似ていると思うのだ。


2002年01月01日(火) 『パイロット・フィッシュ』+『スパイ・ゲーム』+『シュレック』

 【重要】管理人よりのお知らせ


 年末ジャンボがはずれたので傷心の旅に出ます。
 探さないでください……



























 











 新年明けましておめでとうございます!
 2002年がみなさんにとってよりよい1年になりますように。

 そして、本年度もText Sun Setをよろしくお願い致します。 

 新春から無駄にテンションが高いのだけれど、今年もよろしくお願いします。
 個人的かつ非実用的なText Sun Setですが、見に来ていただいている方の存在が更新の原動力になっているのです。

 年末ジャンボのことは、とりあえず忘れます。
 人は、たくさん傷ついて大きくなっていくものだし(?)。


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 年が明ける瞬間は、ゆく年くる年を見ていた。
 カウントダウンが終わってから、CDラックの前にしゃがみこんでCDを選ぶ。
 2002年最初のCDって大切なのだ。
 少しだけ迷ってから、最近再びよく聴いているPizzicate Fiveのベスト・アルバム『Best Hits and Jet Lags 1994-1997』にする。
 ケースを見ながら少しだけ考えて、リモコンで8曲目を選ぶ。


「メッセージ・ソング」


 ここには書かないけれど、この曲の歌詞は本当に素敵で(曲ももちろん素敵なのだけれど)、歌詞カードを読んでいいよなあなんて、女子中学生みたいなことを思ってみたり(このアルバムの歌詞カードもまた、小振りなサイズのよい感じのものだ)。

 でも、小西康陽の書く歌詞はツボにはまることが多くて、このマニアな才人は、男の子と女の子遺伝子の双方を兼ね備えているよなといつも思う。
 たとえば「悲しい歌」にしても「Happy Sad」にしても、昔はずっと野々宮マキが歌詞を書いているものだと思っていて、そうじゃないと知ったときの驚きといったら、やられたーという感じだったし。

 そして、何だかんだで午前6時半まで起きていた。
 メインは、テレビ。
「ガキの使い」の罰ゲームの再放送をやっていたのだ。「24時間耐久鬼ごっこ」と「松ちゃんが旅館に1人泊まる」やつ。
 以前にも見ていたのだけれど、改めて見ても笑えた。初笑い。


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 目覚めると11時で、それからナイトテーブルにコーヒーを持ってきて、ベッドの上に膝を立てて座ったり寝転がったりしながら小説を読んだ。
『パイロットフィッシュ』大崎善生。角川書店。
 19年ぶりに学生時代の恋人から電話がかかってくるところから、彼女(と彼女の娘)に再会するまでに様々な回想を折り挟んだ一人称の小説。
 主人公の「僕」は『ノルウェイの森』のワタナベ君に感じが似ている。
 根本的なモノゴトについてのスタンスが、非常によく似ているような感じがするのだ。
 登場する女性の頭がいい、というか聡明なところも同じ。
 ある種の「喪失」のようなものについて語られているところもたぶん同じだ。

 帯には、「人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない。」と書かれているのだけれど、この物語は「記憶」について、寄せては返す波のように、繰り返し繰り返し様々な方法で語っている。

 たとえば、

 由希子との三年間を僕は思った。十九年たった今もそれは僕の心の中にある。それこそプリクラのように、今となってはそれは小さな小さな思い出のひとつとなってしまった。
 しかし、それはたとえどんなに小さくても心の片隅にペタリと貼られたシールのようなもので、剥がそうとしても簡単に剥がすことはできないのだ。(21ページ)

 という部分がそうだし、他にも記憶についての異なる様々な表現が多用されているのだ。
 他にも、学生時代の回想の場面で、実家で可愛がっていた犬が半年以上前に死んでいたことを知らされた部分ではこう書かれている。

 半年以上前に死んでいたトムは、それを知らされなかったというたったそれだけのことで、僕は生きているトムとして感じたり思い出したり遊んでやりたくなったりしていたのである。少なくともこの半年の間、僕は生きているはずのトムと付き合っていた。(79-80ページ)

 物語自体は淡々とした日々を、感傷的なトーンをちりばめながら切り取っていて(この感傷さの度合いで好みがわかれるかもしれない)、現在と過去の様々なエピソードが最後の方で緩やかなやり方で収斂されていく様には考えさせられてしまった。
 この小説は、『ノルウェイの森』を好きな人なら、読んでみてもすんなり入り込めるんじゃないかと思う。

 ちなみに、帯にはこうも書かれている。

「パイロットフィッシュ」とは、水槽内の環境を整えるために犠牲的に飼われる熱帯魚。

 これが何のメタファーなのかも、読んでいくとわかってそれがせつないのだ、すごく。


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 午後は、ひとりで映画を観に行く。
『シュレック』を観たかったのだ。
 連休中に観に行かないとまたチャンスを逃してしまうと思って、今度はネットで上映時間をちゃんと調べてから出かける。
 濃いグレーのタートルネックに濃い茶色のハーフコート、そして黒のバックを斜めがけで、傍目には幼く見えてどうしようもない格好で出かける。
 部屋から外に出ると午後2時過ぎで、空は随分とまた淡い快晴だった。新春から天気がよいのは幸先よいなと思いながら。

 電車に乗って出かけていったシネコンはものすごく混んでいた。
 それは今日が「映画の日」だからで、ロビーにいる人たちの頭の上に吹き出しで「ハリー」、「ハリー」って書いてあるみたいに『ハリー・ポッターと賢者の石』目当てのファミリーが多かったと思う。チケット売場には、「ハリー」の何時の回がすでに完売ですっていう張り紙がたくさん貼られていて、なかなかすごい光景に少し驚く。
 そして驚いたのは『シュレック』の観ようと思っていた回も満席になっていたこと。

 おそらく、『ハリー』完売→『シュレック』とスライドした家族が多かったのだろうなと思う。
 あるいは、『ハリー』完売→『ハム太郎』とか。
 いずれにしても、完売は仕方がないので、その次の回を観ることにして、時間の近い映画の中で一番興味をひかれた『スパイ・ゲーム』を観ることにする。

 その『スパイ・ゲーム』は面白かった。と言うか渋かった。ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの共演なのだけれど、とりわけレッドフォードがよかった。
 最後のある台詞では思わず泣いてしまったくらい(最近自分のことながら涙腺弱いなあと思う)。
 それまで非情なスパイの論理で渡り合ってきた男が、最後の最後で親心とさえ言えるような人間的な感情に突き動かされて自分が育てた若いスパイを助けようと行動する。そこが非情に熱いのだ。
 また、『アメリ』を観てからは、つい映画がはじまる前の客席を見てしまうのだけれど(さすがに上映中には振り返ることはできないし)、予告編がはじまる前に見た座席には、カップルに紛れて中年のお父さんたちが結構混じっていたのが印象的だった。
 レッドフォード好きなんだろうなとか思ってみたり。
 ちなみに、ブラッド・ピットの出世作『リバー・ランズ・スルー・イット』の監督がレッドフォードだったので、その2人が今度は作中で共演っていうのは不思議な感じがした。『リバー〜』は学生の頃に観ていたのだけれど、レッドフォードは監督としてもよいのだからすごい(しかも、サンダンス映画祭の主催者でもあるし)。

 そして次は『シュレック』。時間がぎりぎりだったので慌てて座席に滑り込む。
 浜ちゃんが声優をしている吹き替え版もあるけれど、僕が観たのは字幕版。
 これもまた面白かった。
 技術の進歩はときに新鮮だよなと思いながら、何度も笑わされる。
 途中、『マトリックス』のパロディなんかもあって、そういうのも面白かった。
 ディズニーならここまでやれないだろうなと思ったり、作っている人たちは楽しかっただろうなと思ってみたり。
 この作品も子供と大人双方が楽しむことができると思う。

 また、映画の予告編では、ここ数日間で何度も繰り返し観た『オーシャンズ11』と『指輪物語』がとても面白そう。
 とりわけ後者は、『「小さきものたち族」が宇宙を救う』っていうキャプションだけで思わず泣きそうになってしまうくらい。
 でも、絶対に観に行きたい映画だ。


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 CDも買った。4枚。
 輸入盤を3枚以上購入すると、1枚1380円になるサービス期間中だったので、いままで欲しかったのだけれど躊躇していたものをまとめて。

『NOW』Maxwell
『8701』Usher
『The Very Best of Daryl Hall John Oates』Hall&Oates
『Britney』Britney Spears

 まだ全部聴いているわけではないのだけれど、いまのところかなりよい感じ。
 とりわけ、ホール&オーツの「Private Eyes」(SonyのCyber-ShotのCMで流れている曲)や「One On One」はやっぱり名曲だし。
 年末に購入したCDと併せて、この連休はたくさんの音楽を聴こう。


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 というような感じで、元旦からいろいろと楽しみの多い1日だった。
 僕は基本的に昔親が話していた「元旦からお金を使うとその年は浪費がちになる」という言い伝えを信じているのだけれど、それが映画やCDにならば、逆によいことなんじゃないかなと思うようにした。
 そういう1日。


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 お知らせ.1

 John Oatesって、マリオに似ていると思うのだけれど(もしくはルイージに)。 


 お知らせ.2

 もちろん旅には出ていませんよ(念のため)。


 お知らせ.3

 個人的な今年の目標は、「一生懸命」です。
 やりたいことが幾つかあるのだけれど、それに向かって一生懸命頑張るということ。
 ただ、それは一箇所でというよりは幾つかの場所やジャンルになると思われるので、「一所懸命」ではなく「一生懸命」の方で。
 やや抽象的だけれど、これが大テーマで、それを具体的なものに落とした中テーマも幾つか用意して補完しあえるようにしているのです。

 今年も頑張ろう。


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