Sun Set Days
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| 2002年09月29日(日) |
長い散歩+『南の島の星の砂』 |
木曜日、28歳の誕生日には、ちょっと長い散歩をしていた。 21時過ぎに部屋に帰ってきて、友人と1時間くらい電話をして、22時半に部屋を出た。 最初は、マンションの近くをちょっと歩きながら1年の目標を決めよう、くらいしか思っていなかったのだけれど、歩き始めると意外と、というか思いがけず長い距離を歩くことになった。 それは、別に今年の目標が決まらなかったからではなく、いままで行ったことのない方面に行ってみようと思ったからだった。 歩くのは好きなので、住んでいる場所の近くは大体歩いているのだけれど、まだ行ったことがない方面があった。 それは新興住宅地が続く方面で(Photoの#7近辺)、ある程度までは家も電灯もあるのだけれど、その先は道しか続いてなく、その先へはまだ歩いてみたことがなかったのだ。 それで、せっかくだからとそちらに行ってみることにした。頭の中に入っている大まかな地図では、その道はちょっと歩くことになるだろうけれど、歩けば隣の駅の方と合流しているはずでもあったので。
歩き始めると、新興住宅地特有の真新しい家並みと、統一された街灯が続き、そのオレンジ色の明かりが淡くぼんやりと周囲を照らしていた。道がどこかと続いていることを証明するかのように、前方からも結構車が走ってくる。ただ、人はほとんど歩いてこない。つまり、先には家がないからだ。僕はいつものように、小さなカバン(散歩用バック。本とノートとペンとデジタルカメラと携帯電話が入っている。これだけあると、散歩の途中でコーヒーとかを飲もうということになっても退屈しないし、写真も撮ることができる)を斜めがけして歩いていたのだけれど、歩いている間全然他の人とすれ違わなかった。
そして街灯は途中でその間隔を広げ、周囲の暗さはさらに深まる。 一瞬、やっぱり引き返そうかなとちょっとだけ思う。そして、普段の散歩なら引き返していたと思う。最近は物騒だし、自分だけはそういうある種の暴力性と無縁でいられるなんて根拠もなく楽観的には思ってはいないし。ただ、そのときは考えてから、そのまま歩いてみることにした。誕生日って、行ったことのない道路を歩いて、それがどこに通じているのかを体感してみるということをするには、ふさわしい日のように思えたのだ。
客観的にみるのなら、そういう行動はやっぱり少し変わっているのだろうなと思う。 でもまあ、暗くてちょっと怖いけれども、まあとにかく行ってみようとてくてく歩いていた。
すると、不思議なことに暗い前方から音楽が聴こえてきたのだ。繰り返される単調なメロディーが。 おいおい、と少しだけ思った。 最初は、誰かが途中に車を停めていて、窓を開け放して音楽を聴いているのかと思った。 あるいは、カーブを曲がった先に工場や自動車修理場があって、近くに民家がないのをいいことに、その夜に働いている従業員たちが結構大きな音楽をかけながら仕事しているのかもしれないとも思った。もちろん、近付いていくにつれて音量は大きくなっていくし、それがインストルメンタルだということが判別できるようになってくる。そのときには引き返すには歩きすぎていたし、せっかくだからと、そのままカーブを曲がった。
なんと、そこには道路脇でバンドの練習をしている4人組がいたのだ。 工場も自動車修理場もなくて、カーブを曲がってもただ同じように道路だけがある。そして、その途中に車を停めて、歩道のちょっと奥まったところに楽器を直接置いて、そこで練習をしていたのだ。 だからインストルメンタルだったのだろうし、同じような単調なメロディが繰り返されていたのだ。 びっくりした。それは予想していなかった光景で、歩く足を止めはしなかったけれど、それでも思わず見入ってしまった。
僕は車道を挟んで反対側の歩道を歩いていたのだけれど、その夜のひっそりとした場所でバンドの練習をしている4人組はなんだか現実の風景ではないみたいに見えた。通り過ぎてから振り返ると、消えてるんじゃないだろうなと思えるくらいに。もちろん、向こうは向こうで夜遅くにこんな人気のない道をてくてく歩いている人がいることに驚いていたのかもしれないけれど(人なんて通らないだろうと思っているからこそ練習場に選んでいるのだろうし)、それでもお互い特に何事もなくそのまま通り過ぎていく。 そして、そこからしばらく歩くと東名高速の下のトンネルを潜り抜けることになり(高速道路の下を通り抜けるときには思わず上を見上げてしまう。この上をスピードを出したたくさんの車が走っているのだとぼんやりと思う)それを超えるとようやく道路標識があり、どの方向に進めばどちらの方向に出ることができるのかわかる場所になった。どうやら結構歩いていたらしく、そこが高速のインターのすぐ近くだということがわかった。最初の頭の中の地図をちょっと修正する。なるほどなるほど。
それから、普段の散歩コースでもある隣駅を目指し歩き、結局部屋に帰ってきたときには0時30分だった。途中、23時台なのに8割がた満席というラーメン屋があってそこに入ったので(あとで聞いたところによると、有名店らしい。おいしいというよりは、味が濃すぎたけど)、実質歩いていたのは1時間30分ほどだった。
てくてくと歩きながら、とりあえずあの道はもう夜は通らないようにしようと思いながら(人気がなさ過ぎて危険だ)、でもあの道路を朝に歩くのはたぶん気持ちいいだろうなとも思っていた。途中、家々がなくなった辺りから、遠くには山々が見えるようになり、斜面に合わせて、いくつもの電塔が高く聳え立っているのだ。また、道路の左右には野原が広がってもいたし、棒に何かの植物のつるがからみついているところなんかもあった。きっと、朝になるとのんびりと懐かしいような表情を見せるのだと思う。
目標は歩いているうちに決めた。
それから、その散歩の帰り道、いつもの散歩道(男なら問題なしというような人通りの多いところ)に戻ってきた後、途中の坂道で深夜の道路工事をやっていた。結構な数の人がいて、結構な数の工事車両があって。その工事車両のひとつが、照明だったのだけれど、それがとても明るかった。縦に三つの大きなライトが連なっているタイプの照明を、クレーンのようなものでマンションの3階くらいの高さまでかかげて工事現場を照らしていた。そのすぐ横の歩道を通り過ぎていったのだけれど、通り過ぎているとき、通り過ぎた後、ついついその明かりを振り返ってまで見入ってしまった。とても明るかったのだ。夜とも、昼間とも、普通の電灯の明かりともまた違って、なんだか慣れない明るさで。
坂道を下りきった後、もう一度振り返ってみてみたら、やっぱりとても明るかった。おもしろいくらいに。
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金曜日の夜は、以前に約束していた先輩とその恋人の3人で飲む。 地下にある、個室がたくさんある焼き鳥屋。以前一度行ったことがあった店で、雰囲気がよく、メニューもおいしいところ。 いろいろな話で盛り上がる。 もともと先輩の恋人も知り合いではあったので、共通のネタは結構あったのだ。あと、最近江國さんにはまりはじめたので、オススメを教えてほしいと訊かれたり。 そして、全員が北海道人であるので、「北の国から」の話で盛り上がる。 純君のだめさ加減の話とか、吾郎さんが初期の頃と性格が大きく変わってしまっているとか、これまでのシリーズの好きなシーンの話とか。 2人はとても仲がよく、そういうのを目の当たりすると、素直にいいなあとは思うのだけれど。
そして、誕生日ということもあったりして、全部おごってくれた。思いがけず嬉しかった。 話しすぎて終電を逃し、3人でタクシーで帰ったのはご愛嬌だとしても。
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土曜日は、後輩と一緒にさいたまスタジアム2002までJリーグを観に行ってきた。 浦和レッズ対清水エスパルス戦。 結果はレッズの延長前半Vゴール勝ちだったのだけれど、かなり白熱した試合だった。Jリーグ観戦は久しぶりだったのだけれど(前回はコンサドーレ札幌の試合を見た)、はじめてこの目で見るレッズサポーターの応援はさすがにすごかった(39406人の観客動員数の9割ほどがレッズサポーター)。僕らは特にどちらのファンというわけでもなかったので、ホームのレッズの応援をしていて、レッズサポーターが盛り上がりを見せるたびに、同じように声を出したり、手拍子をしたりしていた。一緒になって声を出して応援をするのは気持ちいい。 また、今回の試合はW杯の韓国躍進の立役者の一人でもある安貞桓(アン・ジョンファン)の日本デビュー戦でもあって、それもとても興味深かった(それもあってどの試合を観に行くか決めるときに浦和対清水にしたのだ)。 清水サポーターは試合前から安貞桓コールを続けていて期待の高さをうかがわせたし、実際に後半11分に登場した際には、今度は浦和サポーターが地響きを起こしそうなほどのブーイングで挑発していた。あんなにブーイングをされるなんて、なんだかんだいってもやっぱりそれだけの選手ということなのだろう(もちろん、移籍前後の言動にいただけないものがあるからこそのブーイングでもあったのだと思うのだけれど)。 応援していた方が勝ったのでもちろん嬉しかったのだけれど、負けた清水の三都主や戸田、市川といった日本代表選手の動きはやっぱり違うという感じだった。特に三都主のドリブルはほとんど止められることができないほどのキープ力だったし。 そして、浦和がサポーターに愛されているチームなのだなと思った理由の一番は、観客が老若男女様々だということ。サッカーは基本的には若い観客が多いスポーツだという印象があったのだけれど、浦和はちょっと違った(もちろん若い人が一番多くはある)。スタジアム周辺には年間パスを首からぶらさげたおばさんやおじさんがたくさんいたし、僕らの前の席には、50代くらいの女性が2人で見に来ていた(しかも話しているのが聞こえてきたのだけれど、選手とかもかなり詳しい)。隣の席にもやっぱり50代くらいのお父さんと20代くらいの娘が2人で見に来ていた。そういう組み合わせが当たり前のようにいるなんて、すごいと、これはもうただびっくりした。 昨日の勝利で、浦和は引き分けを挟んで5勝1分で、29日の磐田の試合の結果が明らかになるまでの暫定首位となった。そのため、試合後のバスを待っているときのサポーターたちもかなり興奮冷めやらぬ、というような雰囲気で、駅までのバスの車内でも、いろんな人がいろんな話をしていた。笑いながら。 ヨーロッパのサッカーファンたちも、こんな感じなのだろうなとちょっと思った。
埼玉までは後輩の車で行ったのだけれど(スタジアム周辺には駐車場がないため、シャトルバスが出ているJR駅近くのパーキングに車を停めていたのだ)、帰りの首都高は随分とすいていた。首都高を走りながら、隅田川や東京タワーを横目に、関東圏はやっぱり広いよなと、あらためて思っていた。 夜の高速道路って、それがどこのものであれ、独特の雰囲気があってなんだか印象深く感じられる。特に地方の高速道路なんかでは、直線の長さなどの関係か、いろいろと思い出してしまいそうなスピードだ。
夜ご飯は、最近リニューアルしたばかりのパスタとピザの店で食べる。 そこは、何種類ものケーキをたくさん積んだワゴンが通路を巡回してきて、食事を食べ終わった頃の客に向かって、「このワゴンの上にあるケーキが3種類で500円なんですよ」と追加で注文を受け付ける方式になっていた。その店では入り口のところでケーキも販売しているのだけれど、それがおいしそうだったので、思わず頼んでしまう。ケーキはとてもおいしくて、これで3つで500円なら安いよなと思っていたのだけれど(もちろん、小さく切り分けられたもの)、その仕組みはとてもうまいよなと思った。 最初からデザートを頼むかどうか訊ねられたらいらないと言うことが多いとは思うのだけれど、食後に回ってきてワゴンの上にある実物を見せられながら勧められると、敷居のようなものが低くなるような気がするし。しかも、テーブルを順番に回ってくるから、隣のテーブルが頼んだりしたら、おいしいのだろうなと思ってついついつられてしまったりすることもあるだろうし。
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日曜日は、歯医者と書店。Coccoの絵本『南の島の星の砂』を購入する。文・絵・訳Cocco。河出書房新社。 よかった。
自らの内にあるもの(あるいは外から流入してくるもの)を表現するために、どういう方法を採るのかというのは志向や適性や意思などに基づくのだと思うのだけれど、いくつもの手段をとることができる人は確実にいるのだなとあらためて思った。
ずっとずっと南の海に かわいらしい 小さな島がひとつ
Far, far away, in the southern ocean lay a lovely small island.
絵本はこうはじまり、そのページには、青い時間の海の真ん中に浮ぶ小さな島と、その島を見つめている(海から上半身を出している)人魚が描かれている。水平線の果てまで、他には何も見えない。陸地の影も、船の姿も。そこにはただ海と、空と、小さな島、そして海の仲間(人魚)がいるだけだ。
まず、それがすごくよかった。そういうある種の感じ、世界の果てというか、どこでもないどこかというような雰囲気がその世界への導入として、ものすごく魅力的だった。たとえば地球儀や地図帳などで世界地図を見るときに、海しかない広大な領域があって、その辺りにも本当はそこに描かれているような小さな島があって、それは船にも見つけられなくて人工衛星の映像にも映らなくて、海の仲間たちが島の周辺にいるのだ、と想像してみるのはとても愉しいことなんじゃないかと思う。科学がいくら発達しても、知りえない領域であるとか、場所のようなものは絶対にあるだろうと思うし、ねじれた空間のようなものは絶対に存在するのだろうし、それが物語の入り込む隙間というような感じがする。
もちろん、四方を見回しても海しか見えない、ということは、実際に想像をしてみるととても怖いものだ。それでも、怖さや孤独や自然の脅威のようなものを表わしているからこそ、(それを自ずから内包する)自然の美しさや世界の奥行きのようなものを深みは深みとして感じさせるのだとも思う。
いくつかの絵の構図(雨や深夜から夜明けにかけてのところ)はしばらく眺めてしまったし、短いので繰り返しゆっくりといろいろと考えながら読んでいた。優れた表現者がある種の媒介のようになってしまうことについて考えてみたり、純粋さのようなものについて考えてみたり、内側に壁を作り出してそのなかで空想をすることについて、雨や嵐について、影遊びについて、耳をすますと聞こえるはずの音について、いろいろと考えたりぼんやりと思ってみたりした。もちろん、シンプルでそぎ落とされた言葉のことも。
最後のところのCoccoの写真も繰り返して見てみたり。
ちなみに、この絵本は書店ではがっちりビニールで中が見れないようになっているのだけれど、そうしないと立ち読みだけで済ませる人が多いだろうし、現実的かつ当然の仕様だという気がする(僕が買った書店ではそうだった。もっと大きい書店では、見本用にビニールをはずしたものもあるとは思うのだけれど)。
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お知らせ
googleのページが4周年記念バージョンですね。
今週の『日経ビジネス』に、三宅義信というかつての東京・メキシコ両オリンピックの重量挙げ金メダリストの談話が載っていたのだけれど、その中の言葉が非常に印象的だった。それはこういうものだ。
つくづく、夢は大切だと思います。夢のない人に理想はなく、理想がなければ信念が生まれません。信念がなければ計画が立たず、計画がないと当然実行はなく、成果もないからです。
これは確かにその通りなのかもしれないけれど、実際にそうやって人生を渡ってきた人だけに、その言葉には重みがあると思う。成果をあげたいと思うのにそうできていない人は、この言葉を逆に読んでいくことで、まず何をするべきなのか、何が足りなかったということがわかるだろうし、そうしたら自分にとってのそれが何なのかということについて、考えるようになるのだろうし。 短い言葉だけれど、考えさせられた。
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お知らせ
目新しいニュースではないですが、来年の3月19日からの、東急田園都市線→営団半蔵門線→東武伊勢崎線→東武日光線の相互直通運転ってすごいですよね。なんだか、やたらと長くてそれだけで面白く感じてしまうくらい。 東武動物公園にも乗り換えなしで行くことができるわけです。行かないけど。
http://www.tobu.co.jp/news/2002/08/020829_2.html
| 2002年09月23日(月) |
こんなカレンダーは嫌だ+『第四の手』 |
この時期になると、大きな文房具屋や雑貨屋では来年のカレンダーが売りに出される。ちょっと気が早いかなと思わないでもないけれど、東急ハンズのメールマガジンでもカレンダー特集だったし、まあそういうものなのだろう。それに言ってしまえば、洋服なんてもっと季節とずれているし。 個人的には、シンプルなやつが好きだし、できれば書き込みができるものがいい。学生時代はずっと無印良品のシンプルな小さなサイズ(A4とB4の間くらいの大きさで正方形のやつ)のものを使っていて、読んだ本や、観た映画のタイトルをそれぞれ色を決めて書き込んでいた。そういうふうにしていると、ぱっと見て最近映画観に行っていないなとか、今月は結構本を読んだんだなとか、予定がたくさんあったんだなとかわかってわかりやすかったし。基本的にいろいろなことを忘れてしまうので、忘れないようにするためにはメモや記録は大切なのだ。
ということで、個人的には実用度重視と言うか、シンプルイズベストという考えでいるわけなのだけれど、人によっては、結構カラフルなというか、いろんな写真やデザイン重視の人もいることだろう。実際の売り場配分がそうなっているので、そういう人のほうが多いのかもしれない。カレンダー売り場には、犬猫カレンダーとか、ディズニーものとか、となりのトトロとかそういうものも溢れている。たぶんそういうのは買わないのだけれど、今日は、こういうのは絶対に買わないというものをちょっと考えてみる。
○ジェイソンカレンダー
名前の通り、『13日の金曜日』のジェイソンの写真が毎月登場するやつ。しかも、7月で一度倒された写真なのに、8月になったらまた生き返ってるの。12月はなんと宇宙に(※注:現在公開されている最新作では、ジェイソンが宇宙で大暴れしている)。
○徳川十五代カレンダー
1月……家康、2月……秀忠、3月……家光、と歴代将軍が毎月登場する豪華なカレンダー。豪華桐箱入り(使わないよ)。え? 1年は12ヶ月だって? もちろん、マイナーな将軍(たとえば、9代家重と10代家治)なんかは一緒に1月分になっているなど意外と芸が細かい。類似品に足利十五代カレンダーあり。
○街のベッカム君カレンダー
渋谷や新宿を歩いていた、(いまだに)ベッカムヘアーの男の子たちの写真を集めたカレンダー。って言うか、これは本気でいらないんですけど……
○しょっぱいカレンダー
毎月、しょっぱいシーンのイラストと、その解説の文章が載っているカレンダー。
――例――
<1月>間違えて15日に成人式会場に行ってしまったA君のイラストがあり、成人の日がかならず連休になっていることを説明する文章が書かれている。
<10月>高校の体育祭で、ダンスの時間に男子クラスのため男子同士で踊っているイラストがあり、少子化の説明の文章がついている。
○欽ちゃんファミリーカレンダー
欽ちゃんファミリーが(いま、なぜか)再集合しているカレンダー。あんな人やこんな人も欽ちゃんファミリーだったんだねという感慨にはふけることができるかも。
○ウォーリーを探せカレンダー
もう探さなくていいでしょ……
いずれにしても、(そして、毎年似たようなシンプルなやつを買ってしまうにしても)またカレンダーを選ぶのは楽しみだったりはするのだけれど。
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『第四の手』読了。ジョン・アーヴィング著、小川高義訳。新潮社。 帯の裏にはこう書かれている。
TVジャーナリスト、パトリックは、インドでサーカスの取材中、ライオンに左手を食いちぎられる。以来、なんども夢に現われる、新緑の湖と謎の女――。やがて事故死した男の手が移植されることになるが、手術を目前に「手」の未亡人に子作りを迫られ、月満ちて男の子が誕生する……。稀代の女ったらしが真実の愛に目覚めるまでのいただけない行状と葛藤を描く、巨匠による最新長編。
アーヴィングの長編でありながら、上下巻にわかれていないのがなんだか不思議な気がする(400ページ弱の分量)。 いつもなら遅れがちな翻訳が今回は早かったのも(2001年発表の新作)、そのせいなのかもしれない。 この作品は身を刷り削って書いたというような大作ではないし、むしろ長篇作家が合間に書きそうな作品という感じだ。もちろん、自分のスタイルを確立している作家なので、充分に読ませるし、面白かった。けれども、そこにはある種のスケールのようなものがほんの少し損なわれているような気がする。それはこの作品の前に読んだのが『海辺のカフカ』だったからなのかもしれないし、そういう意味でいえばタイミングが悪かった。もちろん、それぞれの作品にはそれぞれの意図があり、独立した作品でありまったくの別物なのだけれど、読んでいる自分は一人なので、どうしても読んだ本の順番での相対的な感想というやつが生じてしまうのだ。正直な話、どんな話だろうと『海辺のカフカ』にかなわないと(少なくともいまは)思えてしまうので、そういう意味ではしょうがない。
もちろん、アーヴィングは大好きだ。『ホテル・ニューハンプシャー』は個人的なオールタイムベスト10には必ず入るし、『ガープの世界』だって、『オウエンのために祈りを』だって、『未亡人の一年』だって大好きな作品だ。それは変わらない。『第四の手』だってなんだかんだ言って実はよかった。ただ、求めるものが大きかっただけなのかもしれない。読む前に期待をしすぎちゃいけないというのは好きな作家であればあるほど思うし、できるだけそうしないように頑張ってしまうのだけれど、それでもやっぱり期待してしまっている。そして、この作品だって期待には充分応えている。けれども、ごく少数の本当に好きな自分にとって特別な作家には、期待以上の「何か」を求めてしまうのだ。それはまったくもって勝手な、読者としての一方的な願望なのだけれど。 その「何か」が今回はちょっと足りなかったような気がするというだけの話。いつものアーヴィング節は(やや軽くなりつつも)健在だし、面白いのだけれど。
相変わらず人物造詣が面白い。特徴のたいしてないような主人公である考えなしの色男パトリックを媒介に、いつもながらの人癖も二癖もある人物たちのオンパレード。男性陣ではゼイジャック博士がいい味を出しているけれど、印象度的にはこの作品では女性陣の方に軍配が上がる。と言っても、思い返してみればアーヴィングの作品では、いつだって女性が強いのだけれど。ジェニーしかり、フラニーしかり、メロニィしかり。 今作でもドリス・クラウセンにメアリ・シャナハン、イブリン・アーバスノットにアンジー、偽名を使った老婦人。そういったたくさんの(少々風変わりで)魅力的な女性たちが登場する(中にはちょっと勘弁してもらいたいというような魅力を持った女性もいる)。彼女たちに対するパトリックの態度が本当に媒介的なものなので、逆にそれぞれの女性の個性が浮かび上がってくるといった感じだ。
そして、以前村上春樹がどこかでかつてのアーヴィングの作品には最後にぐっとくるようなシーンがあると書いていた記憶があるのだけれど(正確な言葉を思い出せない。確かそういうニュアンスだったはず……)、そういう意味でいう心温まるというか印象的なシーンが、この作品では途中何箇所かであった。それは確かに珍しいことなのかもしれない。かつてはその本当に長い物語の最後の方に、心を掴まれるようなシーンがあったのだ。そしてそれは最後に来るからこそ、大きな感動(のようなもの)を抱かせてくれていたのだけれど(『ウォーターメソッドマン』なんかは、それがなかったらさすがに読了感が辛かったろうと思うし……)。けれどもこの作品ではいくつか途中でそういうシーンがある。
パトリックの所属するテレビの世界に対する皮肉めいたものはあくまでも表層から深まることはないし(それが逆にパトリックの性質と合致しているとは思うのだけれど)、世界の暴力性のようなものは狂犬が吠え掛かるのを我慢しているように、ここでは以前よりもずっと身を潜めている。かわりに、一人の男が愛に目覚める様子に焦点が当てられ、どちらかというとそのためにスケールは小さくなっている(言い換えるのなら、かつての作品はもっと世界の暴力性だとか、問題点のようなものに言及するところがあって、それが最後にきわめて個人的なシーンに収斂されていくというところが印象的に思えていた理由なのかもしれないけれど、今回は最初から結構個人的な話に終始するので、そういうシーンが途中に何度も挿入されているように思えたのかもしれない、ということ)。 けれどもそれはきっと悪いことじゃないのだろう。それに、いくつかのシーンは本当に印象的なものだったし。映画化されてもあそこは名場面になるだろうなというような感じ。
……それでも、同時代に生きている大好きな作家には、とんでもない期待をしてしまう。 圧倒的で、魂ごともってかれるような作品を創り出してほしいと。 願うのは楽なものなのだけれど。
いくつかの部分を引用(これから読もうという人は読まない方がいいですよ)。
「このところ悪い気はしなかったのよ。女の中にすっかり自分を見失える男と付き合っていたんだからね。でも逆に言えば、あなたって人は中身が乏しいから、どんな女にもあっさり自分を失えるんじゃないかしら」(21ページ)
二人とも行為を仕掛けようとはしなかった。どちらかが体を求めたとしたら、そうなったかもしれない。だがウォーリングフォードは、男の子のように、読み聞かせてもらうほうを選んだ。セアラ・ウィリアムズも(このときは)色気よりも母親めいた感情を強めていた。それに、青年男女が裸になって――知らない同士で、昼日中にホテルの部屋を暗くして――E・B・ホワイトを読んだりすることがどれだけあるか。さすがのウォーリングフォードも、このユニークな状況を大事にしたくなったと言わざるを得まい。(230ページ)
「おやすみ、ドリス。おやすみ、オットーちゃん」暗いホテルの部屋でウォーリングフォードはささやいた。自分が芝居していないと確かめたいときには、そう口にするのだった。(238ページ)
するとドリスとオットー・クラウセンの結婚指輪が思い出された。ボート小屋の桟橋の下、暗い湖水との中間で、懐中電灯の光に輝いていた。あれを釘で留めてからドリスは何度もぐったことだろう。桟橋の下で懐中電灯を手に立ち泳ぎをしたはずだ。 それとも一度も見なかったのだろうか。ただ単に――これからのウォーリングフォードもそうなるだろうが――夢や想像の中だけで見たのだろうか。だとしたら、金はより輝きを増し、指輪はいつまでも湖面に映っていることだろうが。 もしクラウセン夫人が考えてくれるとしたら(……)それよりも大事なのは、桟橋の下の指輪がドリス・クラウセンの夢の中で、想像の中で、どれだけの輝きを保っているのかということだ。(339ページ)
だが本というものは、映画もそうだろうが、もっと一人だけの、ひっそりとしたものなのだ。いい作品だとうなずき合えることもあるだろうが、こうだから好きと言えるような理由までが、すんなり一致するわけではない。 いい小説や映画は、ニュースとは違う。(……)読んでいるとき、あるいは見ているときの、すべての感情の総体なのだ。ある人が映画や本を愛するとして、その愛を他人がそっくり真似することはできない、とパトリックは悟った。(358ページ)
そして、最後の謝辞にあるアーヴィングの言葉もおもしろいので引用。
実際問題としてそういうことは起こらないだろうということです――(……)それでも私はストーリーとしての可能性がないかどうか耳をすませます。いつも私の小説は「もし〜だったらどうだろう」というところから始まったのでした。(391ページ)
さらにこの作品は、ラッセ・ハルストレムによってすでに映画化が決定しているとのこと。いくつかのシーンは、ハルストレムの撮る美しい風景の中にぴったりと溶け込むだろうなと思う(ちなみに、パトリックが東京と京都を訪れる重要なシーンもあるので、ハルストレムがそれらの都市を撮る可能性があるわけです。新幹線の中のパトリックとイブリンも)。
そうそう、それからこの単行本の中にも、「中野区の話らしい。」という『海辺のカフカ』の予告の紙が入っていて(以前新潮文庫に入っていたやつ)、ターゲットは間違っていないよなあと思ってみたり。
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お知らせ
でもなんだかんだ言っても、好きな作家の文章に(翻訳でも)触れることができるのは単純に好きな時間ではあるのですけど。
だめだ……!! 彫れないっ。どうしても彫ることができない……。
薄暗いアトリエの中央で、初老に差し掛かった彫刻家が苦悶の表情を浮かべていた。彼の周りには彫りかけては挫折したたくさんの雪花石膏が散らばり、髭をそる余裕もないのか、無精髭が影になり頬がうっすらとこけたように見える。 もうずっと、挑戦し続けているのだ。それでも彼の手は途中で止まり、その題材の難しさ、奥の深さの前に断念させられる。まるで、底なしの崖の前に立ってそれでも底を眺めようと目を凝らしているようなものだった。
このモチーフはっ、このテーマはワシには難しすぎるのか……!!
彫刻家は心の中でそう叫び、さらに材料を無駄にする。彼は最近ベテランに与えられると言われている権威ある賞を受賞したばかりだった。これまでにいくつかの大作もものにしてきた。評論家たちの間での評価も高い。 その彼が、自らの実力に限界を感じ、挑み続けては断念している題材があるのだ。
芸術とはまさに深遠。果てのない宇宙だということができるだろう。
……え? その彫刻家の選んだモチーフは何かって?
じゃあちょっと、材料の近くに置いてあるラフデッサンに書かれているタイトルをズームアップしてみよう。
……
……
タイトル
……
……
「スネ夫」
……
……
彫刻家の苦悩は今日も続く。
髪がっ、髪が彫れないのだ……3次元の常識ではスネ夫の髪はっ……!!
……ええ、勝手に悩んでいてください。
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お知らせ
【Fragments】14と15、連休中に同時にアップ予定です。
| 2002年09月20日(金) |
10000Hit+バリュー |
ふと気がつくとDaysのカウンターが10000を超えていた。Daysは「Enpitu」というWeb日記のサービスを利用しているので、日記だけのカウンターもついているのだ。ホームページ本体のカウンターはすでに11000を越えているのだけれど、あとを追う形でDaysもささやかかもしれないけれど大台にのったことになる。 あらためてこの数字を見てみると、なんだか不思議な感じがする。日記と10000という5桁の数字に脈絡も関連もないように思えてしまうのだ。もちろん、インターネットの世界には1日で1000以上のアクセスを誇る日記サイトなんかもあるわけだけれど、「Text Sun Set」くらいの規模だと、やっぱり驚いてしまう。こんなにささやかな日記が(累計でも)10000回も読まれているなんて。 基本的には、「Text Sun Set」を閲覧してもかわいい犬の飼い方を知ることもできないし、totoの攻略法だってわからないし、さらに言えば魅力的なHP用の素材が置いてあるわけでもない。どちらかと言うと個人的なテキストがあるだけだ。 けれども、そういうホームページの中にある日記を、読んでくれている人がいるのだからおもしろいなと思う。中には、リアクションをくれる人さえいたりもする。もちろん、だからこそ続けてくることができたのだろうし、更新しようと思えているのだけれど。 日記なのにリアクションがあるというのはなんだか不思議な感じだ。普通日記は極個人的なものだし、一人で壁相手にキャッチボールの真似事をやっているようなものだ。けれども気がつくとそれが人相手のキャッチボールになっていたりするときがあるのだから。
もちろん、公開するからこそ書かないことはたくさんあるし、これは日記じゃないだろうという内容の日だってたくさんある。ただ、基本的にはその日思ったことを大体30分から1時間で書いている(長いときや分量が多いときには、3時間くらいになることもあるのだけれど)。 いずれにしても、いい息抜きにはなっていると思う。
ありがとうございました。 これからもよろしくお願いします。 ささやかではありますけど、楽しみながら続けていきます。
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今日、どうしても月見バーガーが食べたくて仕事帰りに職場近くにあるマクドナルドに行ったら、たまたま座った席の隣に小学校3年生くらいの5人組がいた。男の子3人、女の子2人。そのくらいの年齢の子供たち(かなり小さい)が20時に子供たちだけでハンバーガーを食べているのってなんだか不思議な感じがしたのだけれど、塾の帰りとか、そういうやつなのだろうか?
そして、しばらくすると一度席を離れていた男の子の一人が「やった!」と言ってその席に戻ってきた。 「なんだ?」と思っていたら、アップルパイを追加で買ったときにレジのお姉さんが「さっき(バリュー)セット頼んでた?」と訊いてくれて、頼んでいたためアップルパイを単品価格150円から、バリューセットと一緒に購入したときのセット価格100円にしてくれたみたいだった。 隣の席で、いつもカバンの中に入れている推敲用『N43゜』から顔を上げて、その「すげー、いいなー」とか言っている子供たちを思わず見てしまいながら、店員のお姉さんすげーよと思っていた。それはもしかしたらものすごい数があると言われているマクドナルドのマニュアルにあることなのかもしれないし、マクドナルドのホスピタリティ精神のようなものからすると当然のことなのかもしれない。あるいはただ単にそのレジのお姉さんが特別やさしい人だったのかもしれない。けれども、そういうことって、小さなことだけれど、その子供がこれからもマクドナルドに行くことになる動機にはたぶんなると思う。そういうちょっとした特別って、子供の頃であればあるほど大きなものになるものだし(たとえば、はじめて買ってもらった野球帽が広島だったから、広島のファンになるとか)。 その後、子供たちは、ずっと飽きずにテレビの話をしていた。 自分も小学生の頃は、テレビの話をしていたなと思った。いまでこそ月に2時間もみないけれど、昔はびっくりするくらい見ていたし。
いずれにしても、それがルールなのか+αのサービスの部分なのかはわからないけれど、ルールと個人の裁量に委ねられる部分の話、つまりどこで線を引くのかという話は難しい話でもあって、結構考え始めるときりのないものではあるのだけれど。 でも、今日のマクドナルドのお姉さんはナイス。誰だか知らないけれど。
って、僕のマクドナルドに行く動機にもなっている?
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お知らせ
マクドナルドの期間限定物の中では、「月見バーガー」が一番好きです。 友人は、以前ドライブスルーで「月見バーガー」を注文して車の中で食べようとしたら、目玉焼きが入っていなかったことがあったそうです。 それは「曇り」で、ときどき月が見えないそういうやつが混ざっているのだと話していたりしたものです。 やれやれ。
最近は涼しい日が続いているけれど、より冬に近づいてくると、空気が随分と乾燥してくる。 実家にいた頃は、初冬の一時期の持つ、冷たく乾いた空気が結構好きだった。道端にはまだ街路樹の落ち葉が寄せ集められていて、空は突き放したような曇天で、高架の下に暗い影ができるような午後の雰囲気。そういうときには、たとえば何かを地面に落としたらその音がいつまでも長く低く響き続けるように思えたし、冷たい北風が世界と身体との間に埋め難い致命的な溝があることを理解させたりもするのだった。 商店街の明かりもそういう午後には早く灯り、日は思いがけず早く落ちる。駅から降り立つと、ファストフードの店の照明がやけにまぶしく見えたり、目の前に続いている緩やかな坂道がいつもの見慣れたものとはどこかが違うような気がする。道行く人たちはコートの前をしっかりととめ、寒さを防ぐことと人生の荒波を泳いでいくこととがイコールのように思っているように見える。 そんな午後や、夕方はきっと何度もあった。1日1日を明確に覚えているわけではないけれど、何日かのトータルのイメージとして、そういうグレーな初冬のイメージは結構色濃くある。それは穏やかな春の1日も、まぶしい夏の1日も、燃えるような秋の最中の1日も自分の中に(ある種のイメージとして)あるように、初冬のイメージ<曇りバージョン>としてストックされているのだ。
そういう意味で考えてみると、様々な季節のいくつものイメージが、まるで自分の中に小さな引き出しがいくつもあるキャビネットがひとつあって、その一つ一つの引き出しの中に香水の小さな瓶に入れられてあるみたいだと思う。キャビネットのインデックスのところには、<夏:溶けるような暑い午後>とか、<冬:その冬最後の雪>、あるいは<春:冬に戻ったように冷たく寒い1日>というように、その小さな引き出しの中にどんな季節のイメージが閉じ込められているのかが書かれている。 その引き出しを開けて、その中に入っている小さくて透明な瓶を取り出して、コルク栓をきゅっきゅっと回しながら取ってみる。そうしたら、眼前にその瓶の中に閉じ込められていた季節のイメージが立ち上がってくる。香水の匂いを嗅いで元々の材料を思い描いてみるように、雰囲気のようなものを反芻することができるようになる。そういうキャビネットは誰の中にもあるのだと思う。人によって、過してきた環境によって、そのキャビネットの引き出しの数と、インデックスに書かれている文字がたぶん異なってくるだけで。 だから、同じ引き出しを持つ人たちの間では季節の話はより”合う”のだろうし、たとえば異なる場所で過した人たちはほとんど引き出しの中身が重ならないのだろう。 季節に限らず、たとえば感情の種類に関してみても、そういうキャビネットのようなものは誰の中にもあるのではないだろうかと思う。普段はどの引き出しもしっかりと閉じられている。そして必要に応じて(リアルなキャビネットがそうであるように)、開けられていく。だから、それぞれの季節の持つある種の感じを思い返そうとするとき、僕らは自分の中にあるそのキャビネットの前に立って、どの引き出しを開けるべきなのかをしばし考える(あるいは無意識のうちに適切な引き出しを開けている)。
たとえば雨ばかりが続く休日の午後に、昼寝をするようなときに、そういうキャビネットの引き出しについて思いを巡らせることは、暇つぶしには結構いいことなのかもしれない。そのうち浅い眠りに落ちたりもするだろうし。
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「季節の話」はたとえば営業トークのわかりやすい基本ででもあるように言われているけれど(「最近は暑いですねえ」とか「日に日に寒くなってきましたね」とか)、「季節の感じ方の話」はある程度以上親密にならないとなかなかできないものだと思う。それは引き出しの中を開けて(=心の中のある部分を開いて)伝える必要のあることだからなのだろうし、だからこそ「季節の感じ方」が似ている人と会ったときには、なんだか思いがけず嬉しくなるのかもしれない。
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お知らせ
自分ではつけてはいないですけど、夢日記とかつけている人もいるのですね。枕元にノートと筆記用具を常備して。
| 2002年09月17日(火) |
街道に建てられた石碑のごとく |
今日は北海道から隣の駅の近くに引っ越してきた先輩から連絡があり、一緒にご飯を食べてきた。 20時30分にさらにひとつ隣の駅の改札口を出たところで待ち合わせ、肉を食べたいという先輩の希望を叶えるために「牛角」に行く。個人的には忙しくていっぱいいっぱいの牛角は致命的に(焼肉屋としての許容範囲を超えているくらいに)ご飯が出てくるのが遅いのでちょっとどうだろうと思っていたのだけれど、先輩の肉を食べたいという欲求は放っておくと森中の木を切り倒してしまう樵なみに強いようだったので、そのまま牛角に入ることにする。 平日だったせいか、場所のせいなのか、その牛角はそれほど混んではいなくて、ご飯が来るのも早かった。ということでそれなりに満足。僕は焼肉には絶対に白いご飯がないとだめな人なので、ご飯が遅いというのは結構重要なポイントだったりするのだ(そういうところはお子様でときに哀しくなるのだけれど)。 そう、思い返してみれば子供の頃遊びに行っていた親戚の家のおばさんには、「○○ちゃんは、白いご飯が大好きなんだもんね」といつも言われていた。それくらい白いご飯が好き。お箸の国の人ですから。
閑話休題。
ただ、肉を焼いているよりも喋っている時間の方が多かった。僕は男なのに! なんでそんなに喋るの! というくらい(場合によっては)喋るので、その先輩とはかなり仲が良いし話が弾んだのだ。もちろん、確かに控えめに言っても僕はよく喋る方だとは思うけれど、それは相手によるし、状況による。時と場合をわきまえることは大人になる第一歩だと昔から思っていたし、ただ喋ればいいような場合じゃないときには、その場に適した内容と喋り方で喋ればいいのだということを学ぶのも大人ならではだ。もちろん、そういうのが大人であるのなら、大人であることはなかなかにむずかしく果てのないことだなとも思うのだけれど。
いずれにしても、たくさんのことを話していた。お互いに。その先輩は7歳くらい年下の恋人が今度一緒に暮らすためにやってくるのだとも話していた。僕もその子を知っているので、今度一緒に遊びに行こうという話になる。それは邪魔者じゃないのかなとか思うが、とりあえずOKする。それにしても、恋人のために知り合いがほとんどいない土地にやってくるのってすごい。
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ネットにはいろいろな人の文章が溢れていて、いろいろな考えや、状況や、出来事が書かれている。それこそ、1日にとんでもない数の人が見るサイトもあれば、森の奥にある小さな集落のように、郵便屋さんが全員と顔見知りというくらいほんのわずかな人だけが見るサイトもある。たとえば「Text Sun Set」も(基本的には)そういうささやかなサイトのひとつであるわけだし。 ただ、一読者としていろいろな文章を読ませてもらっている中で、この人の文章はすごく好きだなと思えることは結構ある。それは笑える内容の文章(いわゆるネタ系のもの)から真面目なもの、あるいはちょっとおかしみを感じさせてくれるものまで様々だけれど、文章だけで(あるいは文章だけであるから)近い感覚であったり、共感のような感情を抱いたりすることができる。あるいははたと気がつかされることがあったり、感心させられたり、ときには襟を正すような気持ちにさせられたりする。 そういう文章に出会うたびに思うのは、その人の人生と絡むことはきっとおそらくないだろうけれど(ネットの世界のことであるし)、一瞬でもその人の状況なり出来事なりを(文章で読んで)知って、いろいろと思うところがある人がきっと(自分を含めて他にも)いるのだろうなということだ。たとえばそれはそういうのはとてもわかる、あるあると膝を叩いて画面に向かって笑ってしまうことであったり、傲慢なことなのかもしれないけれど頑張って欲しいなと応援したいような気持ちになるようなことであったり、自分はこの文章に書かれているようなことにちゃんと向かい合っているのだろうかと考えさせられたりすることだったりする。 もちろん、ネットだからある種の痕跡(メールだとかBbsだとか)を残さなければ自分がそのページを閲覧したということは(書き手には)わからない。ただ、そういう人のなかにそこに書かれている文章を読んだことに小さいかもしれないけれど何らかの意味であるとか共感であるとか、そういうものを持った人がいるということは十二分にありえることだと思うのだ。世の中、一人の人が思ったことは、たぶん他の誰かが思っているわけだし。じゃないと物語は決して広まらないし、世界は味気なく色を失ってしまうし。
そういう意味で言えば、ネット上に自分の文章を記すことは、たとえば田舎の街道を歩いているときの道端にある石碑のようなものなのかもしれないと思う。長年の風雪に耐えてきた石碑は表面は柔らかく磨耗したりして、時の流れを強く感じさせているものだけれど、そこに書かれている内容にはある種の真実が語られている。それを名もなき旅人が旅の途中で目にして、かつてこの場所で起こった出来事や、石碑を彫った人の身にふりかかった出来事を知る。そして、思いを馳せる。そこに小さな(場合によっては決して小さくない)意味を見出す。そういうものなのかもしれないと思う。 ネットの世界というのは幾千の、幾万の、あるいは幾億の街道が脈絡もなくありとあらゆる方向に伸びているようなものなのだろうし、そのそれぞれの街道の中に日々更新されていく文章がたくさんの石碑のように、あるいは一里塚に書かれた文字のように、建てられ続けているのだ。それを、ネットサーフィンなり、「ブックマーク」なり、「お気に入り」なりで通り過ぎていく。石碑に書かれている文字を見て何かを思っても、それは基本的には石碑を建てた人には届くことはない。けれども、そこに石碑を残していることには残し手の何らかの意図(後世に伝えたいだとか、誰かに伝えたいだとか)があるのかもしれないし、そういう意味で言えば石碑を建てた後、旅人が一人でも立ち止まってくれることに意味はあるのだと思う。 もちろん、結局のところ意味だとか意義だとかそういうものは大きな役割をもってなくて、石碑を建てた人にとっては石碑を建てることこそに意味があるのだということなのかもしれないけれど。 むしろ、そういうほうが本当なのかもしれない。 石碑を建てた人には石碑を建てることこそに意味があって(形にすることはときに本人が思っていたことをクリアにするし、形にした刹那思っていることを正しくは形にできていないことに気がつくのだけれど、それでも形になってしまったものは強烈な存在感で持って主張しはじめるので、それがほんとうのことになってしまうような感覚)、ただその結果として残された石碑を見て何かを思う旅人がいるということは、どうでもいいことなのかもしれない。――けれどもそこにもやっぱり意味はある。小さな意味が、あるいは小さくない意味が。
いずれにしても、意味があるとかないなんてことを言うのは、傲慢なことだなとは思う。でも、結局のところこういう文章だって街道に建つある種の石碑にしか過ぎないのだろうし、街道に建つ石碑に込める意味はこういう場合個人的なものでしかない。だからまあ、いいかなと思う。いつか誰かが石碑を見て、何かを思ってくれるかもしれないし、ただ通り過ぎていくだけなのかもしれない。 石碑を建てよう。
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日常生活では口にはしないけれど、いつも思っていることがあって、それは「世界の周波数」のこと。 そんなことを言ったら不思議がられてしまうので普段はもちろん言わない(基本的には現実的なのだ)。 けれどもそれでもしばしばそのことを考える。 それは世界はいつも微細なノイズに溢れているような周波数の中にあって、ノイズはときに耳をつんざくほど大きくなったり、曇天の下の野原を揺らす微風のようだったりするんじゃないかということ。 けれども、一生のうちに何度か、そのノイズがクリアになる瞬間があると思うのだ。たとえばそれは小さな携帯ラジオで、世界中の砂浜にある色のついた石を集めたような素敵な曲を流している海外のラジオ局の電波をノイズなしで捕まえてしまうみたいなことだ。海を隔てた電波をクリアに受信する。そしてその瞬間にとても美しい曲が流れ始める。一瞬のうちに、心を掴まれてしまう。見えない手で掴まれ、見えない声で絡め取られてしまう。身も心も、魂ごと。 その瞬間はじっとただ待っているよりは、自分から(アンテナを伸ばした携帯ラジオを持って)いろいろな場所を選んで探していく方が来やすいような気がするけれど、そうでないこともありうる。ただ、そのノイズがかき消えてしまう瞬間は、きっととても素敵なもので、本当に素晴らしいもので、一度でもそれを体感してしまったらもう一度それを経験したいと思ってしまう。そのノイズがクリアになった瞬間の記憶があるから、それから大変なことがあっても頑張れたりもするのだ。 それを知っているからこそ、普段はノイズがあることの意味もたぶん理解できるのだろうし。 だから、日々いつもそのことを考えているわけではないけれど、ときどき、かつての周波数がクリアになった瞬間のことをうっとりと(あるいは健やかに)思い出したり、周波数を合わせるのだと思うことは大切だと思う。 あのときの曲をまた聴きたいとか、まだ知らない素敵な曲があるはずだとか思うことは。
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お知らせ
モニカの3rdアルバムは、ずば抜けて名曲ばっかり! という感じではないのですが、穏やかで好きな感じの曲が数曲入っていて、その曲ばっかり繰り返し聴いています。7、10、13曲目なのですけど。
| 2002年09月14日(土) |
『アバウト・ア・ボーイ』+『サイン』 |
今日は午前中に起きてホームページの更新をして(『Always on my mind』)、雑誌を読んで、歯医者に行って、それから映画を観に行ってきた。 『アバウト・ア・ボーイ』を観たかったのだ。 物語は、親の遺産で定職にもつかずに勝手気ままに暮らしている38歳の男と、母親と2人で暮らしている12歳の少年との友情を描いたストーリーなのだけれど、ヒュー・グラントがはまり役過ぎて笑ってしまう。映画は過度に感傷的になることもなく、ときにユーモアを交えて、軽妙に進んでいく。「人間は皆、”島”」と「”人間は孤島ではない”」というモチーフが最初から出てくるのだけれど、そういう島に橋をかけたり、連絡船を連絡させることが重要なのだというのは、なるほどというところ。 ヒュー・グラントってシルベスター・スタローンにちょっと似ているよなと、あんまり関係ないことも思っていたりもした。 それと、ヒュー・グラント演じるウィルが住んでいる部屋に置いてあるインテリアや雑貨、調度品は設定から類推できるものばかりで、ものすごく人物造詣とマッチしている。
いつものようにシネマコンプレックスに行っていたのだけれど、『アバウト・ア・ボーイ』を観終わった後に、ちょうど今日明日だけ先行上映をしている『サイン』の開演時間が近くて、せっかくだからとそれも観ていくことにする。スリラーというふれこみだったのでどうしようかなと思っていたのだけれど(怖いのはあんまり好きではないのだ)、「先行上映」で「時間もぴったり」というのはタイミングが合っているなと思ったこともあって。
……それが、大当たり! 『サイン』はメル・ギブソン主演の『シックス・センス』のM・ナイト・シャマランの最新作で、例のごとくストーリーに関しては触れないで下さいとパンフレットに書かれているのでネタバレになるようなことは書かないけれど、これは本当に観てよかった。いまとなっては珍しいくらいに古典的な匂いすらする、けれども紛れもなく新しい物語。見終わった後には印象深い物語にふれたときに感じる内側からの高揚感のようなものを感じることができたし、普段は見ないタイトルロールも最後まで見てしまった(僕は本当によかったと思う映画のときだけタイトルロールを最後まで見ることが多い)。 『海辺のカフカ』もそうだし、今週は物語の当たり週だと、帰りの駅までの道を歩きながらしみじみとそう感じていた。
来週公開なので、映画を観たいけれど何にしようかなと思っている人には、『サイン』は本当にオススメです。1800円の価値は充分過ぎるほどにあると思います。
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お知らせ
最近、買い物途中などでよく耳にする曲で「いいな」と思っていた曲があって、それが中島美嘉の「WILL」という曲だということを知りました(遅い)。
部屋に帰ってきたのは14日の午前1時30分過ぎ。後輩の車で送ってもらった。ふう。 金曜日の夜は、仕事が終わってから同僚たちと9人でしゃぶしゃぶを食べに行く。先日同僚と2人で行ってよかった食べ放題の店。 みんなで、とんでもなくハイペースでしゃぶしゃぶを食べる。灰汁をなかなかすくうこともしないくらいの勢いで。 肉おかわり、野菜おかわり、ご飯おかわり、ウーロン茶ください、肉おかわり、ご飯おかわり……というような感じ。絶え間ないし、息つく暇もない。まるで砂煙を上げてやってくる砂漠の窃盗団のようだ。自分たちのことながらちょっとおかしくなってしまう。
それから、8人でボウリングに行った。 これがかなり盛り上がる。 4人ずつ向かい合わせのレーンで3ゲームやったのだけれど、いわゆるチーム対抗戦形式にしたのだ。 つまり、4人を1つのチームとして、その1ゲーム毎の合計点を競い合うというもの。 1ゲーム目は、勝利チームにはジュース。 2ゲーム目は、勝利チームは1ゲーム分の料金を負けチームに払ってもらう。
そして、僕のいる方のチームが連続して勝利を収める(僕はボーリングがあまり得意ではないのだけれど、メンバーに恵まれていたのだ)。しかも、5フレーム目までは負けていたのに見事に追い上げての逆転勝利で。
連続して負けた相手チームが、最後の3ゲーム目は「2ゲーム分の料金を勝ちチームに」と言ってくる。つまり、僕らのチームは勝てばシューズ代のみ、負ければ4ゲーム分支払わなくてはならない。その勝負を受けてたち、最後の緊迫したゲームがはじまった。 これもまたメンバーの強さのバランスがよかったということなのだろうけれど、9フレームくらいまで10点差くらいの接戦となる。早く進みすぎたチームはしばらく相手チームの投球を待ち、同じフレームで進行するように調節しながらゆっくりと進んでいく。 そして、最後の10フレーム目で勝負がついて、僕らのチームは、シューズ代だけ(300円)で、3ゲームものボウリングを楽しんだことになった。かなりおもしろかったし(こんなに盛り上がったボウリングは久しぶり)、ストライクやスペアを決めたメンバーとは手を合わせたり、「おおーっ」とか言ったりした。
ちなみに、3ゲームの僕の点数は、121、136、140だった。一番のハイスコアは相手チームの点取り屋で191点。すごい。
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お知らせ
朝スターバックスでコーヒーを飲んだときに、店員さんに小さい袋に入れられた20gの細挽きしたコーヒー豆のサンプルをもらう。裏のシールには「Rich&Relaxing Weekend」と書いてある。金曜日に配るのだと思うのだけれど、ちょっと得した気分。
| 2002年09月12日(木) |
『海辺のカフカ』(下) |
『海辺のカフカ』下巻読了。村上春樹、新潮社。 12日の23時半過ぎに読み終わった。読み終えるのがいやなのにページを手繰ることは止められないので、そのまま1ページずつできるだけ集中しながら読み進めた。いくつかのことは終わり、いくつかのことは始まるのだけれど、それはDaysでは触れないことにする。感想のようなものは、もちろんいまはまだ自分の中でまとまってはいないし、時間が経ってもまとまるのかどうかはよくわからないのだけれど、それでも書くことに意味があるわけだし、書こうとは思う。 My Favoriteの中に、追加しようと思う。書き終わったら。
(この下の段落からはネタバレというほどじゃないですが、少し作品に触れているので、これから楽しもうという人は読まない方がいいと思います)
ただひとつ言えることは、『海辺のカフカ』という小説は僕にとってとても大切な物語になったのだということ。もちろん、これまでだって村上春樹の小説は大切な物語であり続けたけれど、これまでのものと比べても、ある種の物語(や本)と出会うことにタイミングのようなものがあるとしたら、かなりの程度でタイミングのようなものがよかったと思う。思いがけず、思いがけないからこそ強く深く。 物語のある点には、暗い行き止まりの路地にべったりと張りついている影のように、簡単には許容することのできない暴力性があったし、半紙に間違って落としてしまった墨の模様のように違和感のある共感できない点もあった。けれども、それよりもたくさんの心を打たれる細部があり、考えさせられる印象的な(作中よく使われていた言葉を使えば)メタファーがあった。 そういういくつかのことを鑑むまでもなく、大切な物語だ。 村上春樹はその『海辺のカフカ』のホームページの中で、「小説を書くときに自分がいちばん強く意識することは、「何度読んでもそのたびに違う読み方のできる小説を書きたい」ということです。」と書いているけれど、これはまさにそういう小説になっていると思う。ストーリーはあるし、はじまりから終わりにむかって放たれた矢のようにまっすぐにある点を目指していく。そして、その矢の軌跡は美しいのだ。とても。繰り返し空を見上げてその鮮やかな軌跡を反芻してしまいたくなるほどに。時間をおいて読み返すことになるだろうし、その何度かはおそらく部分的な拾い読みになるのだと思う。 比喩ということについて考えさせられた。それが喚起するイメージと象徴する意味のようなもの。対象と置き換えられたものとの間の関係性。あるいは文章のスタイル、淀みのない、あるいは淀んでいる流れ。文章的な技術と物語。そういったいろいろなことを、交互に続く物語を読んでいる間に思っていた。 こういう物語を、小説を読むことができてよかったと思う。村上春樹の作品を同時代で読むことができる読者でよかった。 本当に。
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朝、最寄り駅のカフェのなかで、カプチーノのエクストラサイズとスイートポテトパイを食べながら我慢できなくて100ページほど読んだ。 帰り、職場の近くにあるマクドナルドで、月見バーガーのMセットを食べながら100ページほど読んだ。 帰り、最寄り駅のカフェのなかで、カフェオレのエクストラサイズを飲みながら100ページほど読んだ。 帰ってから、ベッドの上に座って壁に背中を預けて残りの100ページと少しを最後まで読んだ。 それが、下巻を読んでいた場所になる。 朝と帰りのカフェは同じ店で、座った席は違う。
読み終わったあと、携帯電話に友人からの着信が入っていたので、電話をかける。その友人はいまは北海道の函館に住んでいる。かつて僕も半年間ほど住んでいた場所だ。いくつかのことを話し、なんだかんだで1時間弱。電話が終わったときには0時30分少し前だった。
小説を読んでいるときの愉しさのことを、なんだか随分とひさしぶりに思い出したような気がする。不思議なことに。 そして、今夜同じように『海辺のカフカ』を読んでいる人ってどれくらいいるのだろうと少しだけ思った。結構たくさんいるような気がする。集中して、ページを手繰っている同じ物語に触れている人たち。優れた物語にはいくつもの扉があって、世界中のいろいろな場所で、その扉を開けてたくさんの人が同じ物語の中に入っているのだということをイメージしてみる。まるでネットワークのなかで繰り広げられるロールプレイングゲームみたいに。ただちょっと違うのは、同じ物語世界の中に入り込んでいるのだけれど、そこでは相互のコミュニケーションはとることができない。その場ではチャットもできない。そこが違う。それから、同じ物語世界に入り込んでいるのに、そこに見出す意味のようなものもそれぞれ違う。けれどもそこにはたくさんの扉があって、たくさんの人たちがその扉を開けてこの物語に入り込んでいる。 そういうイメージ。
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お知らせ
僕はナカタさん+ホシノさんのパートがかなりたのしみでした。
| 2002年09月11日(水) |
『海辺のカフカ』(上) |
いまは12日の午前6時少し前で、ついさっき『海辺のカフカ』(村上春樹、新潮社)の上巻を読み終わったところ。 まだ下巻をまるまる読んではいない状態だし、たぶんDaysに訪れる人の結構多くの人がこの作品を読むだろうから、中身についてはまだ触れないでおく。
ということで、その周辺のことを。
実は、上下巻ともに10日の夜に手に入れていた。 11日が振替休日だったので、その日に読みたいなと思い、フライング気味に発売している書店がないかなと3店舗ほど夜に回ってみたのだ。単行本の発売日は往々にしてずれることがあるし、CDだって発売日の前日には店頭に並ぶ。だったら、2日早くても店頭に置いてあるところがあるのかもしれないと思って。 そして、3店舗目に訪れた書店に(20時前後だった)、『海辺のカフカ』が並んで平積みにされているのを見つけた。もちろん、「おお!」と思ってすぐさま手にとる。さらに隣のCDショップを覗くと、モニカの3rdアルバム『ALL EYEZ ON ME』が発売していて、「わあ!」と思ってそれも購入する。 けれども、その夜には遊ぶ約束が入っていたので、21時からはその足で待ち合わせ場所に行く。 部屋に帰ってきたのは思いがけず遅い時間になり、それからそのまま眠った。
11日(振替休日)は起きてからいろいろと用事を済ませる。髪を切りにも行く。それでなんだかんだで、部屋に戻ってくることができたのは17時頃になった。それから、ようやく上巻を読み始めた。ベッドの上で、ゆっくり。僕は壁際にベッドをつけて置いているので、壁に背を預けて、ときどき横になったりもしながら。 上巻は397ページあるのだけれど、200ページほど読み進めたところで一度眠ることにする。あまりしっかりと眠っていなかったのだ。 それで普段とは違う時間(21時頃)に眠ったためか、午前3時頃に目を覚ました。 そのまま続きを読みはじめる。そして、ついさっき読み終わったのだ。 本当はこのまま下巻を読みたいのだけれど、今日は仕事なので、どうしたって途中で中断してしまうから、まずは我慢する。 帰ってきてから読もうと思う。
そして、いまDaysを書きながら、モニカのアルバムをはじめて聴いているのだけれど、懐かしいモニカの声がとても心地よく聴こえる。 モニカは『Before you walk out of my life』と『Angel of mine』という最高に名曲だと思う歌をうたっているということだけでもう好きなのだけれど、声が好きでもあるのだ。その、いつもの、そして懐かしいモニカの声。『The boy is mine』ではBrandyと共演していたりと本国ではアイドルのようではあったようなのだけれど(デビューが14歳だった)、いまでは21歳だということで、それには時の流れを感じさせられてしまう。デビューしたときからリアルタイムで聴いているのだなと思うと、なんだか不思議な感じはする。
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お知らせ
繰り返しになりますけど、『海辺のカフカ』期間限定サイトは以下のURLになります。 著者のロングインタビューなども掲載されています。
http://www.kafkaontheshore.com/top.html
| 2002年09月09日(月) |
ゆかいな(?)テーマパーク |
健一と真理子は高校1年生のカップルだ。 先月、健一が勇気を出して真理子に告白し、前から健一のことをいいなと思っていた真理子はその告白にOKしたのだった。 けれど、2人は、はじめてのデート先にゆかいなテーマパーク「Sun Set Land」を選んでしまった。 それでは、2人のデートがどんなものになるのかを見てみましょう……
健一:なあ、あれなんだと思う……見たことないんだよな。
真理子:うん……本当に、なんなんだろうね。ミッキーとかドラえもんを意識しているような気がするけれど、なんだかものすごく中途半端な感じだよね。
※1:2人が見ているのは、「Sun Set Land」のメインキャラクターの1人ポエムンだ。中央広場にいて、いつも不思議なポエムを観客に無理矢理聞かせることで有名なこのマスコットキャラクターは、2人が話しているようになんだかものすごく中途半端だ。
健一:あ、こっちに近づいてきた。
ポエムン:今日は、君たちみたいな可愛い恋人たちに捧げるポエムを作ったんだ。聞いてくれるかい?
健一:どうしよっか?
真理子:せっかくだから聞いてみようよ。
ポエムン:じゃあいくよ。2人のためのポエムだ。
タイトル:別れてしまえ!
別れろ! 別れろ! 別れろ! 別れろ! 別れろ! 別れろ……ボガッ!!
健一がポエムンに蹴りを入れて、ポエムンは跳ね飛ばされる。健一は空手初段なのだ。
ポエムン:な、なんだよ、乱暴だなぁ。これからよくなるところだったのに……
(蹴りを入れられた右腹を押さえながら、ポエムンは言う)
健一:なんだよそのポエムは。全然恋人たちに捧げるポエムじゃないだろう、いい加減にしろよっ。
ポエムン:しょうがないなぁ、今度はちゃんとしたのやるからさ、な、聞いてくれよ。
健一:わかったよ。ほら、早くしろよ。
ポエムン:じゃあいくよ。2人のためのポエムだ。
タイトル:裏切り
……ボガッ!!
ポエムン:ゴフゥッ!! い、いたいじゃないかっ。
健一:なんだよその「裏切り」って、すげえ気になるタイトルじゃねえかっ。もうあっち行けよっ。
(ポエムン、「ちぇーーーーっ」と言いながら転がるようにしていなくなる)
健一:な、なんだか変なのにつかまっちゃったな、ハハ。
真理子:うん……。
健一:気を取り直して、あ、ほら、あそこに何か建物がある。
「マジカルお約束ツアー」
健一:なんだろ、これ。なんだか、2人乗りの乗り物に乗っていくやつみたいだ。お化け屋敷みたいなやつなのかな。
真理子:でもおもしろそうだよ。乗ってみようか。
健一:真理子がそう言うなら。
(そして2人は「お約束ツアー」の中にはいる。2人乗りの乗り物がガタゴトとゆっくりと動いて、建物の中に入っていく。すると、普通の路地のセットが映し出されている)
健一:ん? うわー、すげーガラの悪い不良が歩いている。
真理子:何なんだろうね。
(不良が、路地を歩いている。そして、ふと立ち止まる。すると、そこには捨て猫がいて、不良がその捨て猫を拾い上げ、学ランの中に入れて頭を撫でる)
不良:お前も捨てられたのか……フッ、オレと同じだな。
健一:……。
真理子:……。
(乗り物はさらに前に進んでいく)
(今度は、なぜか激しい雨が降っている。雨に打たれた男女がいる)
男:マリー!!
女:ポール!!
(2人は抱き合うために両手をあげて走り寄って行く。そして、近づきかけたそのとき、突然車がやってきて、ポールを轢いていく。跳ね飛ばされるポール)
マリー:ポォォーーールッ!!
(マリー、跳ね飛ばされたポールに駆け寄り、抱き上げる。ポールは首がぽっきり曲がっている)
ポール:マ、マリー……ゴフッ(血を吐く)ボ、ボクはもうだめだ……あ、い、し、て、る……。
マリー:ポ……ポォォォーーールッ!!
(ポールとマリーのところだけスポットライトが当たったようになり、周囲が暗くなる。あとはただ雨の音だけがする)
健一:……。
真理子:……。
(乗り物はさらに前に進んでいく)
(今度は、教室。三つ編みで黒ぶちメガネをかけた目立たない女の子が椅子に座っている)
(その女の子が立ち上がり、三つ編みをほどき、メガネを取ると、ものすごい美少女に変わる)
健一:……ぽっ。
真理子:……ぎゅう。(健一の頬をつねる)
健一:いててて……
(そして、そんなこんなで「お約束ツアー」は終わるのだった)
健一:なんだか、さぁ……。
真理子:うん……。
健一:そ、そうだ。そろそろお腹空かない? フードコートに行こうよ。
真理子:そ、そうよね。お腹が空いたら機嫌も悪くなるものねっ。
(そして、2人は気を取り直そうと広場の横にあるフードコートに行く)
健一:さ、て、と、何にしようかな〜。
――――――――― メニュー
ひやむぎ 500円 そうめん 550円 ピータン 70円
―――――――――
健一:メニュー、これだけなんだ……
真理子:変わってるね……
健一:しかも何でそうめんの方が50円高いんだろう。
真理子:ピータンは70円なんだね……
健一:ああ……
(それから。広場のベンチで)
健一:ごめんな。真理子。せっかくのはじめてのデートだったのに変なところ連れてきちゃってさ。
真理子:ううん、いいよ。健一君と一緒だったら、どこでも楽しいもの。
健一:でも、パンフレットを見ると、もう少しでパレードがはじまるみたいだ。いい場所も取れたし、それで今日の嫌な気分は全部帳消しといきたいな。
真理子:パレードかぁ。私エレクトリカルパレードとかすごく好きなんだー。
(パレードのはじまる音楽が向こうの角から流れてくる)
健一&真理子:あ……
さっきの捨て猫を拾った不良と、ポールとマリー、そしてメガネを外した美少女が、タンバリンを持ってやる気なさそうに歩いてくる。
「パレードだよー」「たのしいよー」とか言いながら……
「パレードだよー」 「たのしいよー」 「みんなだいすきパレードだよー」
(パレードはそのままやる気がなさそうに遠ざかっていく)
健一&真理子:……
ポエムン:あら? お2人さん。どうしたんだい浮かない顔して? とっておきのポエムはいかが?
健一:またお前か。
ポエムン:どうです、気分をぱあっと明るくするようなポエムだよ。
健一:……じゃあ、頼むよ。とにかく、明るい感じで頼むぜ。
ポエムン:オーケー、いくよ。
タイトル:浮気のつもりが本気になって
……ボカッ!!
(今度は、真理子も一緒になってポエムンを蹴るのでした)
―――――――――
今日の関東地方は、夜になってかなりの大雨が降った。仕事場から駅までの間でスーツがたっぷりと濡れてしまうくらいの雨。傘がほとんど役に立たないくらいだった。 たくさんの人が駅の屋根の下で外に降る雨を見つめていて、タクシー乗り場からはゴーストタウンみたいにタクシーがいなくなっていた。 改札口を抜けてホームに出ると、ホームからもまたかなり激しい雨を見ることができた。 昨年も同じくらい激しい雨が降った日があったなとぼんやりと思い出した。 本当に、叩きつけてくるような激しい雨で、そういう雨は久しぶりに見たような気がする。
電車には、一番端にたまった水を放出する溝のようなものがあったのだけれど、なぜか一番前の車両だけは、その溝からの放出が結構遠くまで届くようになっていて(他の車両のそれはホームの方にはかからないようになっているのに)、電車の到着を待ちわびてホームぎりぎりまで前進したおじさんが、その先頭車両の思いがけない水攻撃にあって正面から水を浴びて顔をしかめていた。なんとなくおかしかった。トラップだ、とか思って。
最寄の駅のタクシー乗り場には長打の列ができていた。 けれども、普段とはほんの少し変わった並び方だった。 タクシー乗り場のところには2人しかいない。 それよりも順番が後の人は、5メートルくらい後ろの、屋根がついたところから並び始めているのだ。そして、1人乗るたびに、屋根の下から1人がタクシー乗り場の方に傘を差して行くというもの。 そういうのって自然発生的にできた仕組みなのだろうけれど、確かに後ろの人たちは待ち時間が長くなるわけだから、その分長い時間激しい雨に打たれて濡れてしまうことになる。それを避ける意味で、かなり実用的だ。 必要は、ときに効果的なやり方をつくるのだなと思うとこれもやっぱりおもしろかった。 タクシー待ちの列は30人以上並んでいたから、もしかしたらそれは誰かが最初の頃につくったやり方がそのまま踏襲され続けた所作なのかもしれない。あるいは、本当にそこにいる数人がなんとなくそうしたのかもしれない。 いずれにしても、へえと思ったし、僕は傘を差してその横を通り過ぎて行ったのだけれど、おもしろいなと思った。
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お知らせ
突発的な、本当に激しい雨でした。
| 2002年09月08日(日) |
『オースティンパワーズ ゴールドメンバー』+民話 |
『オースティンパワーズ ゴールドメンバー』を観た。 結構笑ったけれど、ネタが多い分、苦手な感じのネタも結構あった。最初が特に笑えるということで、どういうものなのだろう? と思っていたのだけれど、観て納得。あれは確かに笑ってしまう。 わかっている人相手というか、ここはこう笑うところですよというところが多すぎるような気はした。 『MIB2』のときにも思ったことだけれど、劇場で見なくてもいいかもしれない。
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「もしもあなたが、失くした鍵の代わりに新しいのを作らせて、その後で前のを見つけたら、どちらをお使いになりますか。古いほうですか、それとも新しいほうですか」
という文章が『フランス民話集』(岩波文庫)の中にあって、話の中では答えは古いほうなのだけれど、読んでいてなるほどなあとは思った。民話や童話は穏やかな語り口に反して実は残酷だったり、あっさりし過ぎたりしてときどき戸惑ってしまうこともあるけれど、それでもやっぱり好きだ。短いし、ついぱらぱらとめくってしまう。 それは子供の頃に「昔々……」ではじまる物語になれていたからなのかもしれないし、短くてもちゃんと物語になっているところに惹かれているのかもしれない。 いま僕らが知ることができる民話は、伝承というハードルを潜り抜けてきたものであるということも興味深い。残っている話の影に、残っていない様々な話があるのだろうなと思うと、いろいろと想像が膨らむ。 民話を読むときには、同じ話を、たとえば田舎の小さな村の小さな家の暖炉の前で、おばあさんが孫たちに話して聞かせていたことだってあるのだと思って読むと感慨めいたものが増すような気がする。そしてそれが地域によって、語り手によって、同じよくある三姉妹もの(長女と次女がずる賢く、三女が信心深く心優しく、三女だけが父親の出す課題をクリアしていくようなやつ)でも微妙に細部のアイテムや結末が違ったりもするのだ。そういうのが、血となり肉となった物語ということなのかもしれないと、ぼんやりと思う。
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お知らせ
関東は雨のようです。
| 2002年09月07日(土) |
○○が○○でいるだけで |
結論から言うと、『北の国から』後編は見逃した。 ビデオにも撮ってはいなかったので(ビデオに撮ると安心してしまって、集中してみることができないんじゃないかななんていうことを思っていたのだ。DVDにもなるだろうなと思っていたし)、実家で撮っていたビデオテープを宅急便で送ってもらうことに。 あんなに楽しみにしていたのに、と思うのだけれども、しょうがないとも思う。 残念。 うー、どうなったのだろう? とはすごく思うのだけれど。
でもまあ、楽しみが増えたのだと思おう。
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ある絵本のなかでは、お父さんというものは子供のことを、「ただぼくがぼくでいるだけであいしてくれる」ものなのだそうだ。正確にはもうちょっと違った言い回しだったけれど、それを読んだときにはなるほどなあと思ったものだった。 もちろん、ぼくに子供がいないので、そういう気持ちは親であれば誰でも持つものなのか、それとも親子であってもなかなかに難しいものなのかはよくわからない。ただ、子供を他のことに置き換えてみても、「○○が○○でいるだけであいしている」ものはあるのだろうかと思うと少しだけ考えてしまう。
ということは逆に、「○○が○○でいるだけであいしている」ものがあるのなら、それはそれで自分にとってものすごく大切なものなのだろうなと思う。
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お知らせ
吾郎さん……
| 2002年09月05日(木) |
『ローマ人の物語�次ヾ躓,塙酩�』 |
『ローマ人の物語�次ヾ躓,塙酩�』読了。塩野七生。新潮社。 読み終わってしまった……。 気がつくとすでに�軸�目まで来ていて、現在�彰�までしか刊行されていないため(全15巻完結予定。1992年から2006年まで、1年に1冊ずつ書き下ろされているのだ)、いよいよ追いついてきてしまっていることになる。それだけに本当は日々50ページくらいずつ、ゆっくりと、味わうように、味わいつくすように読み進めていきたいのだけれど、おもしろいのでついついページを手繰ってしまうのだ。 これはある種矛盾していると自分でも思うのだけれど、こういうシリーズ物は早く読み進めたいのに、全部読みつくしてしまうのが寂しいと思いがちだ。おもしろい長編小説を読んでいるときにも、その世界に没頭しているがゆえにそう思うし、いわゆる大人買いをしたマンガの最終巻あたりにきたときにも同様の感情を抱く。いずれにしても、だったら読んでいるときに味わいつくそうと精一杯集中するほかはない。
皇帝ネロの死からローマにて内乱が起こり、一年の間に3人もの皇帝が生まれる時代からこの巻はスタートする。まさに「危機」だ。けれども、ローマ帝国の歴史は変動する時代に応じて適切な資質を持った時代の担い手になる人物が登場する不思議なリレーの歴史でもあるので、やはりこの「危機」状態を「克服」していく、回復させる担い手となる皇帝が登場することになる。それが、ヴェスパシアヌスだ。 いくつかの部分での解説により、読み手はローマ帝国がこの後に「五賢帝時代」と呼ばれる平和を享受する時期を迎えることになるがわかっている。だから、ヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの3人の世襲の皇帝たちによるフラヴィウス朝は、どちらかと言うと混乱の時期から賢帝たちの時代へのバトンタッチのつなぎのような意味合いすら感じられるかもしれない。 けれども、読み進めてみると、五賢帝時代に踏襲される重要な政策のいくつかは、この3人が生み出したものであることが少なくないし、完全無欠の皇帝は存在しない分問題もあるにはあったが、有益な施策を打ち出していたのだ。
いずれにしても、戦乱に明け暮れる時期があり、ようやく平和が訪れもし、けれどもしばらくするとその平和の内側で不正がはじまり、また指導者の性質により様々な善きことと悪しきこととが繰り広げられていく……そういう意味でローマ帝国の歴史は人間性の体現でもあるかのようで、読んでいて考えさせられるところがたくさんある。
また、ティトゥスの治世の間にヴェスヴィオ山の噴火が起こり、ポンペイ等の都市は火砕石や火山灰の堆積の4メートルも下に埋まってしまったのだ。ポンペイはかなりの歳月の後に、発掘されることになるのだけれど、そういうのも生々しい。
そして、学校の勉強とは異なり、こういう通史を読んでいると、印象に残る度合いが違うためか、たとえばローマ皇帝の名前をアウグストゥスから12代目のネルヴァまで順番にそらんじることができるようになったりもする。歴史の教科書で、皇帝の順番を示す図を眺めても、たぶん覚えるためには何度も復唱しなければならないだろうなと思うので、好奇心と記憶力はある程度はリンクするのだなと思う。
気になったところや気に入ったところを。
平凡な資質の持ち主は、本能的に、自分よりも優れた資質の持ち主を避ける。自分にない才能や資質を迎え入れることで、自分自身の立場を強化するなどという思考は、平凡な出来の人には無縁なのだ。(35ページ)
良き意思とそれを他者に伝える言葉をもっているだけでは、革命であろうと改革であろうと再建であろうと実現できない。意思と説得力に加え、権威なり権力なりがないと実現はできない。(……)意欲はあってもそれを実行できる立場になかったり、それを実行するに必要な力をもっていなかった人の場合は、非難することはできない。しかし、やろうと思えばできた人がやらないのは、ただ単に精神の怠惰にすぎない。(72ページ)
ローマ世界の内でのユダヤ教徒の存続の可能性を信じたユダヤ人は存在したのである。つまり、ローマ人にとっての哲学としてもよい「普遍」と、ユダヤ人の宗教の説く「特殊」が、共存し共栄できると考えたユダヤ人は存在したのだ。現代ではまるで、ユダヤ人全員が一丸となって支配者ローマに反抗したかのように思われており、それに対して疑問をいだく人からして少ない。しかし、人間社会の一面しか見ない、カエサル流に言えば「見たいと思う現実しか見ない」傾向は、ユダヤ人自身にとっても良い結果をもたらさないと思う。異なる宗教、異なる生活様式、異なる人種であっても、ともに生きていかねばならないのが人間社会の現実である。玉砕は、後世を感動させることはできても、所詮は自己満足に過ぎない。(183-184ページ)
この百年の間にローマ人は、はじめはしぶしぶ飲み下した「薬」が、実は大変な効果を産んだことを理解していたのだった。現代風に言えば、帝政に対するコンセンサス(……)は確固としたものになっていたのである。それゆえに、ローマ帝政の危機とは、皇帝統治システムの危機ではなく、皇帝になった各人のその職務に対する適格度によって生ずる危機であったのだ。(206ページ)
歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、多宗教、多文化という国家としてはまとまりにくい帝国であったにもかかわらず、なぜあれほども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。(285ページ)
それで、学者ではない私自身の人間性への観方だが、ローマ史を書きつづけるに際して私が、自分の判断の基準にしたことが一つある。 それは、最高統治者である皇帝が成したことが共同体、つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトゥスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後につづいた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、のほうを判断の基準にすえたのである。(331ページ)
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お知らせ
大人買いをしたときに、大人になったのだなと実感します。
今日は京都に日帰り出張。 午前6時前に最寄の駅を出発し、午後6時には関東での仕事場に戻ってきていたのだから、まさにとんぼ返り。 京都は非常に暑く、空は青く、雲はもくもくと、やっぱり西は暑いと認識を新たにしてくる。 ということで、移動時間がかなり多くかつ長い一日だった。 行きは仕事の準備を、帰りは少し眠り、『ローマ人の物語�次戮鯑匹鵑任い拭�もう少しで読み終わってしまう……。
今日は大サイバーショットと小サイバーショットをひとつはカバン、ひとつはスーツのポケットに入れて持ち歩いていた。 帰り際、新幹線の発車まで30分ほどあったので、京都駅で小サイバーショットでぱちりと何枚か写真を撮る。 新しい京都駅は好きなのだ。 あのやたらと長く幅の広い階段も、新幹線のホームから見えるガラス張りの壁面も。 まあ、新しいといってもいまではそれなりに前の話にはなるのだけれど。
帰りの新幹線の窓から、「滋賀県立愛知高校」っていう学校が見えた。 いままで、何度も往復しているはずなのに、はじめて気がついた。 紛らわしい名前だなと、通り過ぎた後でちょっとだけおかしくなった。 だって、滋賀なのに愛知なのだ。 もちろん、そんなことは取るに足らないことであるし別にすごいことでもないけれど、そういうのってちょっとだけおもしろいよなと、思う。
でも、今日はかけあしで通り過ぎてしまったけれど、京都はゆっくりと回ってみたいなとはやっぱり思う。
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夜は同僚としゃぶしゃぶの食べ放題の店に行く。 2480円で食べ放題。 よく喋り、よく食べる。最後にはシャーベットもついていた。 しゃぶしゃぶはおいしい。
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お知らせ
ここ数日はUAの昔のアルバム『AMETORA』をよく聴いています。 一番は「2人」で、それから「青空」や「ミルクティー」が好きなのです。
今日は小学生の頃に見るような、30分アニメの雰囲気で。
ポエムンはウットリ星からやってきた不思議な生き物。 毎日窓辺で自作のポエムを呟いては、アンニュイでロマンチックな妄想に浸っているんだ。 ひょんなことからボク(柏木ケン太。中学校1年生)の家に居候することになったポエムンは、毎日詩を朗読するのでかなりウザイ。 って言うかマジウザイよ! だって四六時中ボクの部屋にいるんだ。そして一日中ポエムを呟いてはうっとりしてるんだぜ! 本当に困ってるんだ! でも最近はこういう不思議な生き物を邪険にするとマスコミの追及が激しいから、表面上は我が家で可愛がっていることになっているんだ。エヘ☆(ブラックだね。世の中って怖いね)
せっかくだから、ポエムンについてちょっとだけ説明しよう。 色は白色。 形は2頭身で、額のところに星のマークがある。 これがときどきいろんな形に変わる。それがポエムのジャンルを表わすらしい。 つまり、ハートマークのときには恋のポエムを、木のときには自然のポエムっていうわけ。 また、見た目は結構ぬいぐるみにでもなりそうなくらい可愛いのだけれど、実はかなりの毒舌家で、他人のポエムにはやたらと厳しいことも特徴に挙げられると思う。 あと、精神的にもやたらと打たれ強い。 口癖は「心のポエムっていいよね……」。
じゃあ、そんなボクらの日常をちょっと垣間見てもらおう。
「それゆけポエムン!」 第一話 心のポエム3部作
ケン太が部屋でマンガを読んでいると……
「ねえねえケン太君」 「なんだいポエムン」 「ついさっきいいポエムを思いついたんだ。聞いてくれよ」 「いや、実は宿題があってさ……」 「宿題なんて! このポエムの前にはやらないと怒られるような代物でしかないよ!」 「いやだからそれがいやなんだって……」 「いいからきいてくれよ! この、家族愛を謳ったポエムをね!」
ポエムン心のポエム� .織ぅ肇襦 屬覆戞�
なべ なべ あたたかい なべ とうふ あつい ねぎ あつい しらたき あつい さかな あつい なべ なべ あたたかい なべ
ボクはなべぶぎょうになりたいんだ いつも
「ふーん」 「ふーんって! ふーんって! どういうことさそれ! このポエムマスターとしても名高いポエムンのハートフルポエムじゃないかっ! もっとほら、こう涙を流すとか、気がつくとお玉を持ってアクをすくいそうになっていたとか、そういう反応はないのかい? 言うに事欠いてふーんって」 「いやだから熱いんでしょ。それはよくわかったよ」 「そ、そんなのは形而上の修辞学でしかなくて、ある種の暗喩でしかないんだよ。つまりはメタファーさ。それをただ熱いんでしょだなんて、ケン太君、君は本当にまったくもって全然わかっていないね。また、ベッドのマットの下に隠しているプレイボーイの水着のグラビアのことしか考えていないんだろう!」 「(ドキッ!)な、なんでそのことを……」 「ボクはね、ケン太君。ポエムを伝えているときには五感が鋭敏になって、ある種のトランス状態になっているのさ。だから、ケン太君がこの部屋のいたるところに隠している恥ずかしい雑誌のことなんて全部お見通しなんだよ!」 「(バツが悪いなあ……)」 「しょうがない、ケン太君には、もうひとつ、とっておきのやつを聞かせてあげるよ!」 「えー(あー、またつかまっちゃったよ……)」
ポエムン心のポエム�◆.織ぅ肇襦 屮櫂好函�
ポストはいつもてれている はずかしがりやさんなんだ(だからまっかだ) でもこうきしんいっぱいで ふたつのめをつぶったりはしない いろんなてがみを ふたつのめでみているよ せかいじゅうのてがみを ポストはじっとみつめている
「……目つぶし?」 「ノー! なんだよそれケン太君。目つぶしって、残酷だなぁ。そうじゃなくってさ、ポストの二つの入り口を目に見立てた擬人化の技法が用いられたかわいらしいポエムじゃないか」 「そうだね」 「心がこもってない言い方だね! ふんっ!」 「だからポエムン、ボクはこう見えても結構忙しいんだ。ポエムンのポエムは今度時間があるときにゆっくり聞くからさ。今日はもういいだろ」 「ケン太君のうそつき! いつもそうやって言うじゃないか。日曜日には遊園地に連れて行ってくれるって言ったもんっ。だからアタシは楽しみにしてたのに……パパ、いっつも約束破るんだもん……」 「……設定変わってるって」 「と、とにかく。ここまで聞いたんだから3部作の最後のポエムも聞いてもらうよ」 「……3部作だったんだ。初耳だよそれ」
ポエムン心のポエム�� タイトル 「蟹光線」
でました 巨大蟹が街に 目からビームを出してる まさに蟹光線 みそもたっぷり はいってる 目からビーム 足にも身がぎっしり 高層ビルをも焼き尽くす 蟹光線 みそがもれても 失うものはない やつが泡を吹いたそのとき、歴史が動いた
「……なんか根本的に理解できないんだけど」 「天才はいつもそうさ。愚民どもよりも10年先に行き過ぎてしまうんだよ。まあケン太君がこのポエムの素晴らしさを知るには、あと3日くらいかかるね」 「3日でいいんだ……」 「あー、でも3部作を披露したから、気分がすっきりしたよ。夜のリサイタルも、楽しみにしていてくれよ」 「へー(そんなのあるんだ……)」
……続く?
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お知らせ
今月下旬にCoccoの絵本が出るんですよね。どんなものなのか楽しみです。
癒し系という言葉はあまり好きではないのだけれど、絶対にそれを使わないというほど頑なになる理由もないので、癒されるとしか言いようのないような感情になるものには癒されるなとやっぱり思ってしまう。 もうしばらく、ずっとこれ。 ゆっくりネットに繋いでいるときには必ず見ている。 夜なんか、ほとんど何も見えないのに。でも見てしまう。 朝も見るし、日中ネットに繋ぐことが出来るときにもたまには見る。 とにかく、何度も何度も。 現実のこの場所にも行ったことがあるけれど、そのときは季節外れで色とりどりの花は見ることができなかった。 ただ草が、景色が茫々と開けていて、小さな売店があって。 でもいいのです。なんだか、とても。
http://www.stv.ne.jp/webcam/koshimizu/index.html
以前Daysに書いたライブカメラのひとつです。
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お知らせ
夕方から夜になり初めくらいが、一番いいと思います。
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