Sun Set Days
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| 2002年08月31日(土) |
『バイオ・ハザード』+『リターナー』+『ローマ人の物語�察^�名高き皇帝たち』 |
午前中は会社の課題をして、午後少しだけ仕事場に顔を出す。 それから、中途半端な時間になったので映画でも観ようかなと、電車に乗ってシネマコンプレックスに行くことにする。スクリーンがいくつもあるので、時間を調べないで行っても1本くらいは観たい映画があると思ったからだし、そういう意味ですごく便利な場所だと思う。 シネマコンプレックスに着いて、ちょうどいい時間だったのが『バイオ・ハザード』。ちょうど今日封切りだったし、ゲームもやったことがあったし、ミラ・ジョヴォヴィッチは好きだったので(たぶんこれが一番大きな理由)観ることにする。
ゲームを映画化した作品って結構いろいろあるような気がするのだけれど(昨年の『トゥーム・レイダー』もそうだし、昔は『スーパー・マリオ』だって映画化されていた)、たいていの場合あんまり快作とはなっていないような気がする。それが自ら動かすゲームと観る映画の能動受動の関わり方の違いなのか、それともただの偶然なのかはよくわからないけれど、この作品も個人的には大味なような気がした(ハリウッド映画に大味じゃないことを求めることが云々という話はおいておいても)。 ただ、ゲームの雰囲気は忠実に再現していて、ああこれは確かにバイオハザードだ、とは思えた。怖いシーンはちゃんと怖いし、閉鎖感はあるし、ゾンビの動きも確かにあんな感じだというものだったし。 ミラ・ジョヴォヴィッチは格好よかった。ゾンビであふれる施設内でも肌を大幅に露出した服装で通していたのはどういう意図なのだろうという感じではあったけれど(もちろん、軍服めいた服装よりはずっと魅力的ではあるのだけれど)、かなり適役だったと思う。意思的な瞳というのはこういうのなのだろうなという感じ。 ストーリーは、ネタバレしてしまうのがあれなので書かないけれど、本当にまんまバイオハザードでちょっとびっくり。 映画館を出る人たちもあのラストにはかなりいろいろ言っていたように見えたし。
そして、『バイオハザード』の後味のためなのか、なんとなく別の映画を観ようと思ってしまって、やっぱりまた時間の近かった『リターナー』を観ることにする。これも今日封切り。個人的には『オースティン・パワーズ』か『ウインド・トーカーズ』が観たかったのだけれど、ちょうど間が開いていたのだ。 先日、出張で札幌にいるときに実家でテレビを見ていたときに、ちょうどコマーシャルで予告編を見てどういうのだろう? と思ったのもあって。
感想としてはコマーシャルで感じた通り、日本製のハリウッド映画のような作品。金城武演じる殺し屋のミヤモトと、異星人との戦争で滅亡の危機にある未来から過去を変えるためにタイムスリップしてきた鈴木杏演じるミリが、相棒となって世界を救うまでの活躍を描く物語。そこに、ミヤモトの過去の因縁の相手である岸谷吾郎演じるマフィアの溝口が絡んでいく。 この映画では、金城武が本当に格好いい。この人をはじめて見たのは『恋する惑星』だけれど、そのときから思っていたのだけれど、話し方がとくにいいと思うのだ。あの話し方が、もともとの雰囲気と相まって(たとえ殺し屋であっても)優しい、あるいは純粋というような雰囲気を与えているような気がする。未来からやってきた1人の少女を守るヒーローとしては、かなりハマリ役だ。
個人的には、タイムスリップものとか、SFめいた作品は結構好きだし、いいよなと思う。
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『ローマ人の物語�察^�名高き皇帝たち』読了。塩野七生。新潮社。 『第四の手』は一気に読みたいから時間がまとまってできたときにと思っているうちに、毎日少しずつ読み進めていたこちらの方を先に読了。500ページくらいあるこの本を、少しずつ読み進めるのが最近の日課で、あと3冊で現在刊行されている部分に追いついてしまうのだと思うとちょっともったいないような感じだ。 この7巻目は、アウグストゥスによって成されたローマ帝国の2代目皇帝ティベリウスから5代目皇帝ネロまでを描いている。帯の裏を引用すると、
ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ――帝政を構築したアウグストゥスの後に続いた四人の皇帝は、人々の痛罵を浴び、タキトゥスら古代の史家からも手厳しく批判された。しかしながら帝政は揺るがず、むしろその機能を高めていったのはなぜか。四皇帝の影ばかりでなく光も、罪のみならず功も、余すところなく描いて新視点を示した意欲作。ローマ史を彩る悪女・傑女も続々登場。
たとえば、ネロなどは枕詞として「暴君」という言葉がついてしまうようであるらしいのだけれど、上の文章にもあるように、この本では「罪のみならず功も」しっかりと描かれている。この著者の書きたいと思われるペースで書かれているシリーズでは、スポットを当てた1人1人の人物をしっかりと辿っていくので、読む方としては悪名高き皇帝たちであっても、すべての面においてそうではないということを知ることができるのだ。 そして、この一連のシリーズを読んでいると、ローマ人が法を重視し、平時ではインフラとしての街道網の整備を重んじ、戦時では兵站を万端にすることがはじまりとなるというように、その堅実さというか、緻密さが感じられておもしろい。そして、そういう性質を持っているところが、稀に見る国土を有する帝国を長期間に渡って堅持しえた根底だったということなのだろう。そして、表立った歴史には現れてこないそういった些細なことに尽力するたくさんの人たちがいたからこそ、ある種の悪政でもシステムが機能していたのだろうし、ローマの覇権が(基本的には)揺るがなかったのだろうなと思う。 以前にも書いたように、学生時代は日本史を選択していたので基本的なこと以外はほとんど何も知らずに読み始めたシリーズだけれど、読めば読むほどおもしろく、手にとってよかったと思う。 また、著者はこのシリーズを通じて、印象づけたい事柄等を本当に繰り返し述べてくれている。たとえばそれは、「人は見ようと思う現実しか見ない」というフレーズであったり、ローマのインフラ整備への取り組みなどだ。そのために読み手の方では、複数の巻に渡って繰り返しそれらが語られるので、著者の歴史観や、重要だと信じているであろうことを感じ取ることができる。そして、個人的にはそれに共感できるので、読み進めていくうちにこのリズムやスタンスがかなり読みやすく、入り込みやすいものになってくる。こういうのって、長い小説のシリーズを読んでいるときにもあるけれど、本の中に近づいていくような気がして愉しい。
いつものように、いくつか引用。
ピソが、陰にまわってのコントロール役に徹するのではなく、表に出ての口出し役をやってしまったからである。与えられた任務を過大に受けとってしまう人がいるが、そしてそれを、ことごとに顕示する人がいるが、ピソはこの典型ではなかったかと思う。(87ページ)
法律の結果である各種のシステムに対しても適用された。つまり、システムとはそれが何であろうと現状に適応するように”修理修復”さるべきものである、それを怠ればシステム自体に疲労をもたらし、ついには崩壊するという、長いスタンスから見れば大変に非経済的なことに終わることを知っていたのだ。(……)時折の「手直し」をしさえすれば機能性の維持は可能というシステムを構築したことほど、(……)基本形がしっかり出来ていたという証拠であるからだ。(120-121ページ)
彼らは、偽善を、日本の辞書にあるような、見せかけの善行とだけは考えなかった。偽善を、上等と下等に二分したのである。日本の辞書の説明は、ギリシア人にすれば下等の偽善でしかない。 ギリシア人の考えた上等な偽善とは、たとえうわべを装おうとも見せかけであろうとも、それをする目的が公共の利益にあった場合である。ギリシアの哲学者たちは、この種の偽善を、政治家には必要な手段であるとさえ認めたのだ。必要悪、ではない。もっとポジティブな意味を持つ「悪」である。(142ページ)
歯車といえば、いかに個々の歯車が良く出来ていても、それでイコール機能の向上にはならない。個々の歯車をかみ合わせてこそ、機能も向上する。時速五百キロの高速を出せる列車の一日に一本よりも、時速三百キロでも十五分に一本ずつのほうが効率向上に益するのと同じである。 高速道路式の街道は、一本だけならば、紀元前のペルシア帝国にすでにあった。だがそれを、街道網というネットワークに作り換えたのはローマ人である。郵便も、ペルシア皇帝がすでに開発していた。だがそれを、郵便網という感じで帝国全域に張りめぐらせたのはローマ人である。(315ページ)
悪事を働かねばならない場合は一気にやるべしと、マキアヴェッリも言っている。他民族侵略という悪行は短期に済ませ、戦後処理を充分にしたほうが、征服者にとっても被征服者にとっても好都合、ということだ。ここでは、侵略はなんであろうといけないという、理想主義は拝す。歴史は、侵略の歴史でもある。つまり、人間の悪業の歴史でもある。これが人間性の現実ならば、悪事による弊害をいかにして少なくするか、にも、人間の知恵を働かせる場所はある。(418ページ)
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お知らせ
『バイオ・ハザード』のゲームは、昔怖がりつつやりました。1と2を。
今日は飲み会だった。 23時台の電車で帰ってくる。 お腹が空いていたせいか、ビール一杯で随分と赤くなってしまい、頭がぼんやりする。
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Cyber-shot Uは、散歩カメラとしてはかなりいい感じだと思う。キャッチコピーは「Visual Bookmark」というかっこいいものだったけれど、本当に写真を撮るということへの敷居のようなものが低いので、気に入った何かをぱちりと気楽に写すにはかなり向いている。 昨日の今日で早速使用してみたのだけれど、いまのところの難点はズームがないことくらい。ただ、そのうちズーム機能つきでこのサイズのものも(あるいはもっと小さなものも)出てくるだろうし、なんでもかんでもを今の時点で求めることもできないだろうから、満足はしている。 僕はいままでいわゆるカメラつき携帯を持っていたことが一度もないのだけれど、それもこの気楽さという点では同じなんだろうなとか考えてみる。ちょっとしたメモとしての写真なんて、デジタルカメラが日常的なものになったからこそ誰もが気楽にできるようになったことなのだろうし。 昔だったら、気楽にシャッターを押すというのは、現像することを考えると、どうしても躊躇してしまうようなところがあったわけだし。 散歩のときの楽しみが、いままでとは違った形で、またひとつ増えた。
そして、こういう小さなカメラがもっとずっと日常化したら、たとえば小学生の子供の夏休みの宿題は、デジタル写真日記になるのかもしれない。常にそういう小さいカメラを首からぶら下げていて、印象的なシーンや友人たちと一緒のところを写真に撮って、その画像を添付したテキストをつくって日記にしてしまうのだ。そういうのもありなのかもしれない。
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お知らせ
いよいよ来週は『北の国から』で、かなり期待しているわけです。 ↓は、オフィシャルページのURL。
http://www.fujitv.co.jp/jp/furano/index2.html
| 2002年08月29日(木) |
『王国 その1 アンドロメダ・ハイツ』+Cyber-Shot U |
『王国 その1 アンドロメダ・ハイツ』読了。よしもとばなな。新潮社。
この作品から吉本ばななは、ペンネームをよしもとばななに改めたとある。その改めたペンネームでの第1作だけれど、おもしろかった。個人的なツボのようなものにはまるはまらないは別にして、よしもとばななの小説にはいつだってオリジナリティがあるし、オリジナルの文体があるのでおもしろいのだ。 この話も、色濃い傾向のひとつであるサイキックなどの要素が散りばめられていて、自然との繋がりのようなものについても繰り返し言及されている。ある意味、最初から根底にあって、少しずつ表面に出てきたよしもとばななの王道の要素だ。
ツボにははまらなかった。ツボにはまるのは槍投げのラインみたいなもので、しかも90メートルから100メートルの間にぴたりと落ちるときとか、こちらの予測できないくらい遠くへの新記録を達成したときに限るというようなところがあるので、なかなか難しいのだ。そのときの読み手の側の環境や状況によっても変わってくるだろうし。 いずれにしても、これは作品のよしあしの話ではなくて、自分にとってツボにはまったのかどうかという話。 おもしろいのだけれど、ツボにははまらない。でもおもしろい。うまく言えないけれど。
よしもとばななの小説に出てくる主人公たちは、たいていの場合「楽観的で肯定的」で、それが読んでいて安心することができるところなのだろうし、主人公がそうやって安定し、結局は自らの足で立つことができる強い人であることに共感したくなるようなところがあるのだと思う。主人公たちはしばしば社会的な少数派に属し、自らと世界との間に柔らかな境界線を引くようなところがあるけれど、誰もが多かれ少なかれそのような線を引いているのだろうし(それが外よりなのか内よりなのかは別にして)、そういう境目に焦点を当てている物語に惹かれる面はあるのだと思う(そういうのって意外と少ないような気がするし)。 そして、よしもとばななの主人公たちにはその線の内側で心落ち着く場所を見つけていくことで終わらず、大きな流れに身を任せ、その内側から外側に出て行こうと決意するようなところがあって、そういうところに本能的に惹かれてしまうところがあるのだろう。理屈じゃなくて、もっと根源的な部分で。 人は(基本的には)日陰よりは日向に向かうようにできているのだろうし、そういう意味でゆがみながらも安定しているというのは、得難く貴重な性質だという気がする。
そして、物語の中ではわかりあえている人たちがしばしば登場するのも大切な要素なのだろう。それが家族であれ、恋人であれ、友人であれ、ぴたっとはまるわかりあうことのできる人たち。いまそういう人が近くにいないような気がしている人は、いつかあるはずのそういう人との邂逅に思いをめぐらすのだろうし、いまそういう人が近くにいる人は、自分にとっての特別なその人たちとの関係に、自らの心がどんなに穏やかな心持ちを抱かせてもらえているのかを再認識するのかもしれない。 よい物語って、ストーリーをおうこともそうだけれど、いろいろと思いをめぐらせるようにしてくれるところにもあると思う。
その1というからにはその2があるのだろうし、劇的というよりはどこか淡々と、常にメインストリートというよりは路地めいたスタンスで進んでいくのだとも思うのだけれど、主人公の雫石(またもや変わった名前!)がどうなっていくのだろうとは思う。
いくつか、気に入ったところを。
そんなふうにふいに恩寵のように、きれいな雲が空をその輝きでうめつくしたり、冷たい一杯の水ののどごしが全ての疲れを夢のように取り去ったり、土に種が混じっていたのか、どこかから飛んできたのか突然咲いた一輪のタンポポが金色に光って風に揺れたりしているのをよく飽かずに眺めたものだった。山を降りても、そうしたものとのつながりを保っていることによって、思っていたよりもずっとひんぱんに、私の日常はもと通りの至福に満たされるようになってきていた。(38ページ)
そして、サボテンはあなたのことが大好きです。サボテンはもうあなたを選んでいます。(49ページ)
私たちはいつまでも夏休みの子供みたいにしていていいのだ。 光の中で遊ぶだけ遊んで、肉体が衰えたら死んでいけばいいのだ。 私はベッドの中で清らかな気持ちで目を閉じた。(104ページ)
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そして、今日Cyber-Shot Uを買った。 実はここ数週間いくつかの店を回って探していたのだけれど、どこでも売り切れだったのだ。 今日入った店でたまたま見つけ、すぐに購入(全色置いてあった)。 Cyber-Shot Uは本当に小さい、タバコの箱よりも小さいデジタルカメラだ。色が3色あるのだけれど、選んだのはシルバー。
デジタルカメラはひとつ持っているのだけれど、今回Cyber-Shot Uを購入したのは、より気軽に持ち運びができるかなと思ったからだ。僕が持っているデジタルカメラはレンズ部分が飛び出ている大きなやつなので(Cyber-Shot505)、たとえば散歩のときにはほとんど持ち運んでいたとしても、出勤時などには持っていけないときもあったのだ。けれども、Cyber-Shot Uなら、スーツのポケットに入れてもかさばらないし、カバンのサイドポケットに入れてもいい。いずれにしても、気軽に取り出せて、気軽に写真を撮ることができる。 そういうのに憧れていたのだ。 デザイン的には、もう少しメタリック感が欲しかったりするのだけれど、現状では本当に小さくてそこそこの画素があるデジタルカメラはこれと他社のカードタイプのやつ(正式名称は忘れてしまった)しかないので、Sony製品好きとしてはCyber-Shot Uの方を選んでしまった。 それにしても、これはいまものすごく売れていて、結構みんな首からストラップでぶらさげているみたいだ。 実際には、首からぶら下げている人を見たことはないけれど。
ただ、これで本当に気軽に思ったときに写真を撮ることができる。画素は確かに約130万とそれほどでもないのかもしれないけれど、基本的には趣味の写真だし、大事なのは切り取り方だけだと思っているので、あんまり影響はないだろうなと思う。もちろん、画素は高いに越したことはないのだけれど、そうじゃなくてもオッケーだというところだ。
しばらくはいろいろとぱちりぱちりとやってしまいそうだ。 通常の電池は約13時間充電とのことだったので、別売りの急速充電器も購入する。そちらで充電すると約1時間30分とのことで、その差は一体……とちょっとだけ思う。 カバーを開けると電源が入るので、さっきから意味もなくカバーを開けては電源を入れてみたりしている。
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お知らせ
あと2年もしたらいったいどんなデジタルカメラが、携帯電話が登場するのでしょう。
今日は先輩と2人で飲む。前に一緒に飲んでから半年以上経っていて、いろいろと話す。 先輩おすすめの焼き鳥屋に入ったのだけれど、メニューのなかに「ささみ刺し」があって、新鮮じゃないと出すことができないメニューだけあって、おいしかった。 おごってもらう。
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帰りにミスタードーナツに寄ってドーナツを買った。 子供の頃、ミスタードーナツやハンバーガーショップはちょっと特別な場所だった。普段はそういうファストフード的な物を頻繁に食べるわけではなく、家で普通に食事をとっていたから、そんなふうに思えていたのだと思う。 だから、子供時代に家にケンタッキーフライドチキンがあったり、ミスタードーナツの細長い箱があったりするのを見つけたときには、なんだか特別な感じがして嬉しかったりもした。
ファストフードが特別なものではなく、日常になってきたのはいつくらいからなのだろう。
中学生のときもあまり入らなかった。 高校生のときには、学校帰りに友人たちと入ったりはしていた。 やっぱり、大学生だったときからなのかもしれない。そのときには僕は1人暮らしをしていたのだし、自炊はしていたにしても、毎日のようにしていたわけではなかったし。そういうときの選択肢として、コンビニと並んでファストフードは随分と重宝するものだったから。 それから、社会人になって、もともとハンバーガーが好きだったこともあるのだけれど、結構頻繁にファストフードを食べるようになって、いつの間にか小さかった頃のわくわく感のようなものを忘れてしまっていたのかもしれない。 今日、ミスタードーナツのトレイを持ってフレンチクルーラーやハニーチュロを選びながら、そんなことをふと思った。たとえば、以前のマクドナルドのコマーシャルに、小さな子供がマクドナルドに行くことを本当に楽しみにしているようなやつがあったけれど、自分だってかつてはそうだったのだ。ドライブスルーだって、「注文は自分に言わせて」とねだるくらいおもしろいことだったのだ。
もちろん、すべてのことに繰り返し新鮮味を感じられるわけではないし、慣れることにもよいところはたくさんある。けれども、完全に当たり前のことになってしまって、そこに楽しみのようなものをまったく見出せなくなるのは、やっぱりちょっとつまらないかもしれないなとは思う。同じものに対しておもしろいと感じる人と、そうは感じない人がいて、それはやっぱり自分がかけている目に見えないメガネのレンズの色が何なのかということに尽きるのだろうし、だったらそういうメガネにかけかえないととか考える。
繰り返しになるけれど、すべてのことに新鮮味を感じることは難しいし、すべてのことに好奇心を抱くことだって現実問題ちょっと難しい。 けれども、日々の暮らしのなかに、少しずつ「こういうところがおもしろいよな」とか、「こういうのはいいかもしれない」という小さな何かを付与していくことくらいはできると思う。 それはもちろん無理をしていることなのかもしれないし、それだったら本当ではないのかもしれない。 けれどもそういうのだってある種の慣れだし、そう考える癖がついてしまえば、後は意識しなくても自然とそう考えるようになるというのも事実だと思う。
同じことに、同じ出来事に、まったく反対の印象を抱くことはできるのだ。 だったら、楽しいほうにしたほうがいいと、ただ単純に思うだけなのだけれど。
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お知らせ
ミスタードーナツの点数のカードって、5点くらい揃ったところでキャンペーン期間終了というのが多いのです。 そして、子供の頃には、いつか大人になったらケンタッキーフライドチキンの20ピース入りを1人で食べてみたいと思っていました。まだ実行はしていないですけど。
今回の出張先は札幌で、いまは実家でパソコンを広げている。 仕事が終わり21時過ぎに実家に帰ってきて、それから家族とジンギスカン(定番!)を食べた。 久しぶりの帰省でもあるので、好物を食べることができたりするのだ。 最寄の駅が新しくなっているのを見て、なんだか不思議な気持ちになる。 札幌はやっぱり随分と涼しくて、少し肌寒いくらいだ。
今朝は7時台の飛行機に乗って新千歳空港を目指したのだけれど、同じ飛行機に修学旅行生たちが乗っていた。飛行機が離陸する直前くらいから機内が騒がしくなり始め、離陸と同時に背後の方で大きな歓声があがっていた。自分も修学旅行の時に飛行機に乗ったときには、同じように歓声をあげていたことを思い出したりもした。 いまでは随分とぼんやりとした記憶になってしまっている修学旅行は、もう10年ほど前のことになるのだと思うと、なんだか不思議な気がする。
飛行機を降りると、空の色や雲の感じが、北海道はやっぱり独特のような気がして、それはもちろんただの地元意識のようなものでしかないのかもしれないけれど、それでもやっぱりそういうのを見ただけでも帰ってきたのだと実感する。世界中には大都市のなかにある自動販売機のようにたくさんの街や町があるけれど、そんなふうにまるでスイッチを押すみたいにすぐに「あっ」と思えるのは北海道だけで、そういう意味では故郷があるというのはおもしろいことかもしれないと思う。
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お知らせ
関東は蒸し暑いのだと、実感しました。
伊豆高原の中にある何でもない山道を、40分くらい1人で散歩していた。 土日をかけて11人で、バーベキューをやったりいろいろと楽しんだのだけれど、ちょっとした自由時間にせっかくなので散歩に出てみることにしたのだ。 僕らが宿泊していたのは1グループが家一軒をまるごと借りるタイプのところで、周囲には同じような建物や、プチホテルなんかが並んでいた。山の中に囲まれた、鳥や虫の鳴き声が響いているような、そんなところ。風に流れる霧のせいか空気は湿っていて、歩いていると、傘のいらない小雨のときみたいに、うっすらと腕が湿ったりした。
車2台すれ違うのもちょっと難しいような、そういう路地(一応舗装はされている)がまるで迷路のように続いていて、それはなんだか神様が山の中に絵を描こうと空から大きな手で何本もの線を描いて、そのまま途中でそのことを忘れてしまったみたいだった。
そこには、意味のない行き止まりがあったり、意図のわからない小さな空き地があったりした。たとえば空き地の方は、木々の合間から、下の方に小さな(テニスコート半面分くらいの)空き地ができているのが見えている。けれども、その空き地に行くための階段や入り口はなく、何のための空き地なのかの説明もなく、ただ雑草が生えたままになっているだけなのだ。 木々の間から覗きながら、なんだろうってちょっとだけ考えてしまった。
冬のために使うものなのか、丸太が何層にも積み重ねられているところがあった。 古びた謎の機械(材木を切断するもの?)がビニールシートをかけられたまま道路わきに放置されていた。 飼い主が戻ってくるのを待っている従順さを競っている犬たちのように静かな、使われていない別荘がたくさんあった。
そして、一番印象に残ったのは、ごみ置き場があって、そこに4台ほどのテレビが捨てられていたことだ。 それらのテレビにはそれぞれ張り紙が貼られていて、「この場所に捨てることの許可を得ていないので、捨てた人は持ち帰るように」というような内容の文章が書かれていた。 だからたぶん、それらのテレビはもう結構な長い時間放置されているはずだった。放置されている場所は、薄暗い森のなかの、細い路地沿いにある小さなゴミ置き場。 つまり、普通に考えると、捨てた人たちはもう二度と「持ち帰る」ために戻ってくることはないということになる。 だからまだ結構な時間、テレビは同じ場所にあり続けることになる。
もちろん、僕だって(テレビは捨てないにしても)ゴミは捨てるし、自然をすべて残しておくことができないことも現実問題としてわかる。 けれども、やっぱりそういう光景を見てしまうと「うーん」と思うし、やりきれなくなる。 だからと言ってそこからテレビを持ち帰り廃品回収業者に持っていくなんていうこともできるわけではなくて、そういうことができないのならいちいち何かを言ったりすることはできないのだとも思う。 それでもできることは少しくらいはあって、自分がそういうことをしないことがその最初にくると思う。 それは、価値観によっては偽善と言われてしまうようなことかもしれないけれど、それでもいつかテレビを捨てるときには、そういう場所に放置することではなく、きちんとした手続きを踏んで捨てようと実感した。 そういうのって、もちろんとるに足らぬ小さなことではあるけれど、けれどもあの光景は奇妙な静寂さに溢れていて、あらためてそう思うには充分すぎるほど迫ってくるものがあったのだ。
その周辺は、基本的には美しい自然の中であり、静寂に包まれた雰囲気と木漏れ日の中、その遺棄されたテレビすら風景の一部分として溶け込んでいるということはできた。
けれども、それはきっと何か違う。
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昔、道徳の教科書か何かに載っていたもので、細部は少し異なっているかもしれないけれど、忘れられないエピソードがある。 それは、村長さんに何かのお祝いのために村中みんなでブドウ酒を贈ろうという話になって、大きな樽に村人1人が1杯ずつワインを入れていくということになった。 そして、村人たちからワインを贈られた村長さんが嬉しくてワインを飲もうとしたら、何とその樽の中には水しか入っていなかったという話。 つまり、自分1人くらいワインのかわりに水を入れてもわからないだろうと、全員がそう思ってそうしてしまっていたという話。 個人的に、幼い頃のこの話の衝撃たるや大きなもので、道徳の教材だけにある程度オーバーに作っているところはあるにしても、「全員!」ということには本当に驚かされた。大きな樽1杯になるくらいの人たちが、1人もワインを入れなかったのだということ。 そのエピソードはいまでもときどき思い出してしまうし、いろいろ考えさせられてしまう。
もちろん、自分だってずるいし、そういうところがあるのだけれど、それでもどうしても(だからこそ?)いつもこのエピソードに立ち返ってしまう。そして、自分だけがワインを入れるのと、できるだけたくさんの人にワインを(それとないやり方で)入れてもらうことのどちらがいいのだろうとか、そもそも何もしなくても全員がワインを入れるようになるための素地としては何が必要なのだろうとかいうことを考える。 もちろん答えはでない。
ただ、その捨てられたテレビを見たときに、ひさしぶりにその話を思い出した。 自分たちだけが正式な処理を経ないでテレビを捨ててしまおうと誰もが思ったら、世界中の森や山はテレビだらけになる。 そういう機械たちがいつか自我を持ったりしたら……とか考えてみたら、へたな怪談よりよっぽど怖い。
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お知らせ
某観光地の食堂に入ったのですが、そこではカツ丼が1200円で、観光地価格にみな憤慨していました(もちろん僕も)。
| 2002年08月22日(木) |
Word Labo�� |
冴子:みなさんこんばんは。今日も言葉の不思議を科学する「Word Laboratory(通称Word Labo)」の時間がやってきました。
安藤教授:そのキャッチフレーズ、やっぱりあんまりよくないのう。
冴子:そうですか? それでは、いったいどんなのがいいんですか?
安藤教授:そうじゃのう……
冴子:「言葉の不思議を科学する」って私はいいと思うんですけど。
安藤教授:いやいや冴子君。こういうキャッチフレーズはもう世に溢れておる。つまり、ありふれていて新鮮味がないということじゃ。もっとこう、なんていうか……情熱を感じさせる……真夏の灼熱の砂浜のような……そんな熱く熱いキャッチフレーズが必要だと思うんじゃな。つまりまあ、インパクトの強いやつじゃ。
冴子:はぁ。
安藤教授:おっ、そうじゃ。こういうのはどうじゃ? 「言葉のアッチッチ ワオ! 『Word Labo』 02夏」とか?
冴子:なんだかぴんときませんねえ。というかわかりずらいですよ。
安藤教授:「言葉のダイナマイト・ボンバー『Word Labo』」っていうのは?
冴子:それもあんまり……というかもっとありきたりだと思うのですが。
安藤教授:しょうがないのう。まったく、冴子君はわがままじゃのう。そんなことだから「冴子君の恋人募集コーナー」への応募が少ないのじゃぞ。もっと笑わないといかん。人間笑ってないとだめじゃ……キ、キ、キェーッ!!
冴子:きゃっ。き、教授? どうされたんですか……いまちょっと心臓止まりそうになるくらいびっくりしましたけど。
安藤教授:私の田舎に伝わる、素直に笑えるためのまじないじゃよ。いま冴子君にかけてあげたんじゃ。
冴子:え……? いまのがですか?
安藤教授:そうじゃ、このまじないで笑顔も戻るし、髪も若返る。車についた小さなすり傷も見事に消えてしまうのじゃ。
冴子:最後の2つは関係ないと思うのですけど。
安藤教授:まあ、これで少しは冴子君にも笑顔が戻るじゃろう。
冴子:(気を取り直して)さて、みなさんの会話の最後につく「語尾」。それによって同じ言葉でも大きくイメージが変わっていってしまいます。そこで、今回われわれ「Word Labo」では、いくつかの語尾で言葉の与えるイメージがどのように変化するのかを検証してみようと思います。それでは教授、お願いします。
安藤教授:ケ、ケ、ケケェーッ!!
冴子:きょ、教授?
安藤教授:いまのは私の田舎に伝わる、集中力を増すためのまじないじゃよ。テレビの前の視聴者の皆さんに、これから番組を集中してみてもらおうと思ってかけてみたのじゃ。ほら、最近「ながら族」とか多いじゃろう。このまじないで、みなテレビだけに集中できるはずじゃよ。このまじないをかけると集中力が増すし、タンスの裏などの狭いところにある埃も見事に取れるようになるのじゃ。
冴子:最後のは関係ないと……それにしても、教授の田舎っていったいどんなところなんですか?
安藤教授:まあ、とにかく、いま冴子君が説明してくれたように、言葉の語尾だけで相手に与える印象は大きく異なってくる。だから、視聴者のなかにも語尾を変えることによって様々なイメージを使い分けたいと思っている人は多いはずなんじゃ。それに、我々の「わくわくウォッチング調査」でも、いまスタイルごとに使い分けたいものとして、眼鏡の次に語尾がきているくらいなのじゃよ。つまり、仕事のときと遊びのときのメガネは違う方がオシャレだし、仕事のときと遊びのときの語尾も違う方がオシャレというわけじゃよ。 流行に敏感ないくつかの女性誌でも、「これからは東北系の語尾がカワイイ!」とか、「秋の語尾5つのスタイル別使い回しテク」「絶対動物系語尾宣言☆」などの見出しがつけられておるのを見たこともあるじゃろう。まさに、いまブームがはじまろうとしているわけじゃ。
ただし、メガネは失敗してもちょっと笑われるくらいですむが、語尾は失敗すると変わり者の烙印を押されかねん。そこでなかなか新しい語尾を試すのに躊躇してしまうという人が多いということもわかった。そこで、我々「Word Labo」ではいくつかの語尾を実際に使ってみて、そのときの感じを見てもらいたいと思うわけじゃ。
冴子:それでは、さっそくVTRを見て行きましょう。実際によくあるシチェーションに新しい語尾を巧みに織り交ぜている様子をご覧下さい。
語尾� 屐舛瓦兇襦弖�
(VTRはじまる。ある高校の校庭。2人の坊主頭の野球部員が、夕日に照らされたグランドを一緒に歩いている。2人のユニフォームは汚れており、居残りで自主練習をしていたのが終わったところだ)
A夫:……なあ、いよいよ来週から大会だな。
B介:そうでござるな。
A夫:一回戦からA高と当たるなんてホント俺らってついてないよな……最後の夏だっていうのにさ。
B介:何を言うでござるか! 勝負は諦めたときが負けでござるよ!!
A夫:……ごめん、俺、なんか弱気になってたよ。サンキュ。
B介:いいんでござるよ。
(VTR終わり)
冴子:……。
安藤教授:(泣いている)せ、青春じゃのう……。
冴子:そうですか?
安藤教授:「〜ござる」系の語尾は、地味だけれど実直な人柄を強調したいときに使用するものじゃ。「〜ござる」系の語尾を用いると、一つの目標に向かって着実にがんばっている、といったような印象を与えることができる。いまのVTRでも、B介君のそういうところが感じられたことと思う。
それでは、次の語尾にいくとするかの。
語尾�◆ 屐船吋蹇弖�
(VTRはじまる。ある会社のロッカー室。制服から私服に着替えている何人ものOLたちが、化粧直しなどをしながら騒々しく騒いでいる)
A美:えー、今日の合コンの相手って、そんなにいけてんのー?
B子:いけてるって、かなり期待してていいって総務の子が言ってたよ。
A美:総務の子って、あのロングヘアーの?
B子:そうそう。
A美:あの子がそこまで自信持っているんだったら、いいかもねー。
B子:ねえ、C江はどうする? 今日の合コンいいらしいわよ。
C江:わ、私はいいケロ……。
B子:えー、何でよー、男欲しいでしょー。
C江:う、うん……でも、やっぱりいいケロ。
A美:またぁ、いつか運命の出会いが! とか信じているんでしょう。そんないつまでも夢ばっかり見ていないでさ、ほら、現代は行動力の時代なのよ。
C江:だケロ……
B子:行こうよ。ダイジョウブだって、もしかしたらC江の運命の人がいるかもしれないわよ。
(VTR終わり)
冴子:………。
安藤教授:(号泣)
冴子:きょ、教授、どうして泣いているんですか? いまのVTRはそういうのじゃなかったでしょう?
安藤教授:冴子君にはいまのせつなさがわからんのか。C江君は現代では珍しく運命を信じているのじゃぞ。1人暮らしのアパートでは小鳥を飼っていて、毎日その小鳥に話しかけているのじゃぞ。「いつか一緒に幸せになろうね」ってな。しかも、その小鳥には田舎の実家で飼っている犬と同じ名前をつけておる。 そう、「〜ケロ」系の語尾をつかうと、大人になっても、ピュアな心の持ち主であるというような印象を与えることができるというわけじゃな。
冴子:でも、最後の言葉、語尾の使い方間違ってませんか?
安藤教授:ペ、ペ……ペカラーッ!!
冴子:またですか教授。今度は何のおまじないですか?
安藤教授:相手がいちいちあげあしを取らないようになるまじないじゃ。このまじないをかけると、そういう小さなことは気にならなくなるし、高いところにある邪魔な枝も簡単に切ることができるようになるんじゃっ!!
冴子:……。
安藤教授:んー、コホン。じゃあ、最後のVTRを見ていくとしよう。
語尾�� 「〜ぴょん」系
(VTRはじまる。ブラインドさえとじられた、ある会社の重々しい雰囲気の会議室。いま、業績赤字拡大から回復を図るための役員会が開かれているところだ)
A専務:……ということで、わが社の株価は低迷を続け100円をついに割り込んだというわけだ。まさに市場の風は厳しく、楽観視はできないというところだが……何か事態が好転するような材料があればいいのだが。
B取締役:資金繰りは急速に悪化しています。このままでは、今月末に支払期日をむかえる債権が不良化し、納入がストップすることとなります。そうなってしまっては、悪循環に拍車がかかり、事態はますます……
C取締役:大規模なリストラの枠1500人に対して、希望者が初日で2600人を突破し、現在急遽慰留すべき人材を選び逆に説得に入っているところです。
D取締役:営業部は顧客の信頼を回復するために、徹底的な顧客周りを続けているんだぴょん。当社の創業精神である「前を向いて、ひたすら歩け」を実行しているということになるぴょん。もちろん、現在の状況は顧客各社も不安視していますが、当社とのいままでの関係によってなんとか契約を打ち切らないでいてくれているといった状況だぴょん。
A専務:……そうか。
(VTR終わり)
冴子:…………。
安藤教授:まさに平成不況じゃが、「〜ぴょん」系の語尾をつかうと、そんな中でも自分を見失わずに、自分のペースでやっておるというような印象を与えることができるというわけじゃ。
冴子:違う意味で自分を見失っているようにも見受けられますが……
安藤教授:さあ、今日は3つの語尾の例を見てきたわけじゃが、言葉が時代とともに移り変わるように、語尾もやはり変化しておる。今日のVTRなども参考にしながら、みなさんも自分に似合う語尾をぜひ見つけ出して欲しいものじゃのう。 それでは、今日はこの辺で、ごきげんよう。
冴子:ごきげんよう。
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お知らせ
最近カロリーメイト(フルーツ味)をなぜか結構食べているのです。
今週は部署の全メンバーでのミーティングを行っているのだけれど、今日は早く帰ることができるということで、仕事帰りに10人でフットサルをしに行って来た。 前日にコートを予約して、今日はジャージと運動靴と着替えを持参で出勤して。 フットサルをするのは初めてだったのだけれど、ナイター設備も整っているコートが3面あるところで、想像していたよりもずっと混み合っていた(隣のコートやその隣のコートには、ベッカムのユニフォームも何人かいたし)。 正直、おもしろかったのだけれど身体の節々が痛いのも事実で、全員が明日(場合によっては明後日)は筋肉痛で大変なことになるだろうなーという話をしていた。運動不足だともみんなで言いあって。 いまは、思ったほどでもないのだけれど(もっともっとすごいかと思っていた)、それでも、寝て起きたらかなりやばいのだろうなとは思う。
そしてその後は、4人で麻雀をしに行くことになった。モスバーガーで軽く食事をして、それから雀荘に行く。僕はいわゆるギャンブルは競馬もパチンコもパチスロもやらないのだけれど、学生時代から(それがどの学生かはあえてふれずに)麻雀だけはするのだ。 もちろん、たいていの社会人がそうであるように、学生時代に結構やっていても、社会人になってからほとんどやらなくなるというような感じではあるのだけれど。 何度か半荘(はんちゃん:麻雀の1回のゲームの呼び名)をして、トータルで89の勝ち。 勝つときもあるし負けるときもあるという感じではあるのだけれど、勝ったときはもちろん嬉しい。
明日明後日もミーティング。そして週末には全員で今期のお疲れ会ということで1泊2日で伊豆に遊びに行くのだ。 バンガローを借りて、バーベキューをする予定。何かと注文の多いメンバーなので、幹事役の2人の後輩はちょっと大変そうではあったのだけれど(と言いながらいろいろ言う)。
昨年もそうだったのだけれど、仕事と仕事の狭間の短い期間に、一気にいろいろ楽しむというような風潮はシーズンが終わったことを実感できるし、いいなと思う。メリハリは大事だし。
そして、その後は、やっぱり出張に行くのだけれど。
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お知らせ
昨日あたりから一気に夜と朝が涼しくなってきて気持ちいいです。
| 2002年08月20日(火) |
おんぷになりたい+人工衛星 |
その町にも、やっぱり商店街があった。商店街の中央には、市内の様々な幼稚園の園児たちの作った七夕の短冊が展示されていて、その大半は「デジタルモンスター2ほしい」とか「ぽけもんがほしいです」とかだった。自分の子供時代のことは差し置いて、いまの子供は現金なものだなあとか思って見ていると、中に一つ「おんぷになりたい」と書いてある短冊があった。なんだか、びっくりした。よく新聞の家庭欄なんかに、子供の言ったりしたりする面白い言動を投稿しているコーナーがあって楽しく読んでいたのだけれど、そのことを思い出した。どうして、おんぷになりたいと思ったのか、それはもちろんまったくわからないのだけれど、そういうのを見たりすると、疲れってとれるよなとかしみじみとしてしまったのだった。音符になりたい5歳の女の子。うん、それは悪くない。
これは、昔書いた文章を読み返していたらあった部分なのだけれど、本当にそう思う。 人によってもちろんポイントは違うとは思うのだけれど(そして、同じ人でもそのときどきによって同じ言葉でもツボにはまるはまらないはあるとは思うのだけれど)、それでも確実に疲れがとれてしまうような、もやや霧が完全に晴れてしまうような、ノイズがかき消えて感じられるような言葉というのはあると思う。そのときの雰囲気とか、自分の心持とか、そういうものすべてのバランスを完成させる大きなパズルの最後の1ピースのような言葉。
そういうのっていいなあと単純に思う。 自分が言う(書く)のでも、誰かが言うのを聞く(読む)のでも。
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その世界では、人は死んだら人工衛星になると言われている。 人工衛星になって、何度も何度も惑星の周囲をめぐり、残された人たちを見守り続けるのだ。 そして、何度目かの周回を終えると(その回数は人によって違う)、その人工衛星は役目を終えたように夜の海をめがけて落ちていく。 そして、海の一番深いところまで沈みきったあとで、また生まれ変わることができる。
そう言い伝えされている。
その世界のなかにある「和」という国では、一年の中の月に盆という行事があって、その日には空から無数の人工衛星が海をめがけて落ちて行く姿を見ることができる。
残された人たちの想いと、失われた人たちの想いが一番近くなるその日、新しい命がたくさん生まれる。
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お知らせ
今日の久しぶりCDはSQUEEZEの『SQUEEZE GREATEST HITS』。 01年に本格的に解散してしまった(らしい)イギリスの20年以上活動を続けていたロック・ポップ・バンドのベスト盤。 「Another nail in my heart」とか「Is that love」とか「Love Circles」とかいい曲。 シンプルで、ちょっとだけウェットなポップソングが得意なグループで、「珠玉の」という言葉がつきそうな感じ。 ベスト盤自体の発売は93年10月発売。 懐かしい。
雨は1日中降り続け、灰色の雲の下街は煙って見えた。
遠い未来には、現在では考えられないような技術力を用いることによって、過去の記憶をまるでテレビや映画を見ているように目の前で再現してくれるジュースの缶のようなカプセルが売りに出されるようになっていた。
たとえば、それは街の様々なところで自動販売機のようなもので売り出されていたり、「メモリーズ」とかいうようなチェーン店の店頭で購入することができた。
購入方法はいたって簡単だ。誰もが、いくつかのボタンを押して、思い出したい記憶を選ぶ。
最初に押すボタンは、「喜」「怒」「哀」「楽」で、次に押すボタンが年齢。0歳から1年ずつずっと続いている。
もちろん、そこで0歳を押すことも可能だ。 0歳を押すと、まだ自分がただ泣いていることしかできなかった、見守られるしかなかった頃の映像が浮かび上がるだろう。
次に、月を選ぶ。1月から12月まで、それぞれの月を選ぶことができる。日付は(たいていの記憶がいくら印象深くても詳しい日付まで覚えていないことが理由なのだけれど)押す必要がない。思い出したいときの自分の年齢と、何月かということだけ。 もちろん、よく覚えていない人のために、10代前半とか、10代後半っていうボタンもある。春とか、秋というボタンもある。記憶はデリケートなものであり、カプセルの生成には細心の注意が払われているのだ。適度にシステマチックに、かつたくさんの需要にこたえることができるように。
記憶は甘くときに切ない、実入りのいいビジネスになっているのだ。
次に選ぶのが記憶の属性だ。そこには、誰との記憶を思い出したいのかということをある程度選ぶことができる。それは「家族」であり、「恋人」であり、「友人」であり、「風景」だったり「事件」だったりする。ちなみに、ある企業の調査では、一番多い需要は「家族」であり、とりわけまだ幼かった頃の家族の記憶を蘇らせたい人が多いとの結果が報告されている。次に、青年期における愛についての記憶と続いている。
選択するのは、そこまでだ。現状の技術では、それ以上こみいった記憶を再現することはできない。そこまでの情報を有機液晶ディスプレイの簡単なボタン操作で、順番に選択していく。そして機械の中にあるメモリースティックという赤いバーが光りだしたら、画面の指示に従う。
「メ ノ マ エ ノ ア カ イ バ ー ヲ ニ ギ ッ テ ク ダ サ イ」
そして、思い出したい記憶を思い起こしながら、あるいはランダムに記憶が蘇ることを期待しているのであれば漠然と記憶の種類に近い感情を抱くよう努めながら、その赤いバーを握る。赤いバーはゆっくりと明滅を繰り返し、たっぷり29秒たってその間隔が間延びしていき、やがておさまっていく。
画面に、その記憶缶の金額が表示される。それは安いものから高価なものまで様々で、よくコレクターの収集の対象になるものに外れの割合が多いように、安い記憶が現れるケースが多い。ただ、たまにひどく高い金額が画面に表示されるときがあり、そんなときたいていの人が驚きかつ期待する。購入は現金でも、いくつかのICカードでもすることができるし、あまりに高い記憶の場合、ローンを組むこともできる(あまりに高額な記憶に手を出し、経済的危機に陥った個人も少なくないという調査結果も出ている)。
すべてよければ、「確認」のボタンを押す。ガタンという音がして、記憶缶が取り出し口に落ちてくる。 記憶缶は、そのときによって色が違う。 赤色に青色に、淡い橙色に、薄い緑。様々な色で、あけるまでの間様々な想像をめぐらせることができる。缶の色と記憶の種類との相関関係はいまのところ明らかにされていない。
記憶缶を開けるのは必ず1人でという注意書きが書かれている。それは、記憶を見ている間、ある種の覚醒状態に入るからであり、たとえば道端でそのような人がいると、なにかと面倒なことになりかねない。だから、主に部屋の中で開けることが推奨されている。
そして、購入者は記憶缶を生まれたての雛のように大切に抱えながら、永遠に晴れることのないような重い雨の降る街並みを部屋まで帰り、そこでゆっくりと記憶缶を開ける。残念なことながら、現状の技術力ではそれほど美味しい飲み物にはなっていない。たとえそれが甘い記憶だったとしても、甘い味を付与することまではできないのだ。それは無味透明な液体で、味についての感慨のようなものはほとんどない。 記憶缶を飲んで、29秒経過すると、ゆっくりと意識が薄まり、目の前にある種の記憶の残像が浮かび上がりはじめる。そこで、誰もが一度ビクンとふるえる。
すぐに、それがいつの記憶であるのかを、正しく理解する。 そのときに思い出したくない記憶であることをある種の直感で理解したとしても、そこで記憶の再現をとどめることはできない。記憶購入はある種の自己責任とリスクを負うことでもあるのだ。
いずれにせよ、記憶が再現される。それがよい記憶でも忌まわしい記憶でも。 現在の調査では、平均すると10分から1時間の間で、多い人で5時間近く再現されていることが報告されている。
記憶の再現と時間との関係性については、長さが問題ではないというアンケート結果もある。 短い時間でも、身を切るような一瞬の映像と、言葉、そういうものが再現されるだけで支払った対価に見合うことは十分あるし、長くてもただ退屈な記憶を延々と再現される場合だってある。 それでも、誰もが過去の記憶をイメージしたものではなく、現実にあったものとしてそのままの状態で見るのだ。
過去の記憶をたどること。 何度も繰り返し、過去を追体験すること。 それは、ある種の人たちにとっては渇望されることであったし、ある種の傾向を持つ人たちにとっては止め難い誘惑や中毒となった。 時間の不可逆性の原則を覆してしまうことですらあった。
人は弱く、技術はときにその弱さを助けるように見えて突き放す。記憶缶にふれることを「退廃」だとして廃絶運動が起こることになるまでにそれほどの時間を有するわけではなかったし、現在や未来ではなく過去に目を向ける人たちは常にいて、またそれがどうしようもないくらいのリアルな重さで獲得することができるようになったことが、そういう人たちの傾向を助長することにもなっていた。 最初はただの娯楽のはずだったのに、いつの間にかそれは絶ち難い依存へと、逃れ難い甘美な誘惑へと変わっていったのだ。
そのようにして(もちろん、それはたくさんの理由のうちのひとつでしかないけれど)、大きな船はゆっくりと滅亡の港に向かってゆるやかに航海を続けていた。 終わらない雨は、世界中のすべての街を、港町であるかのように冷たく湿らせていた。 すべての防波堤の上には猫が、きたるべき大きな波を遠くにまっすぐに見据えていた。 もしかすると猫だけがその大きな船の行く末を知っていたのかもしれない。
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Information あなたは、記憶缶を買いますか? 一度だけ買いますか? それとも、しばしばそれを買いますか?
今回のTop写真は、Top写真にしてはめずらしく(?)写真を撮った場所が結構明確だったりする。 ということは逆に、同じ場所に行ってみたいなともし万が一思ったとしても、訪れることが容易にできるということでもあって。 10日のDaysに書いた通り、今回の写真は多摩川の川べりで、東急田園都市線の二子玉川駅から15分も歩けば、写真を撮ったのと同じ光景を見ることができる。 ちなみに、写真を撮ったのは午前6時台なので、本当に朝の散歩という時間帯。 川に向かって右手に東急田園都市線が見えるところを、左手にしばらく進んだ辺り。
のんびり散歩にはオススメな感じではあるので、関東近郊の方で散歩好きの方は行かれてみてはどうですか?
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今日は書店でなんとJ・アーヴィングの新作の翻訳を発見。 タイトルは『第四の手』(新潮社)小川高義訳。
帯にはこう書かれている。
取材中、ライオンに手を喰われたTVマン。 移植手術を目前に「手」の未亡人が会いに来て……。 稀代の女ったらしが真実の愛に目覚めるまでの 迷い多き日々をつぶさに描く、抱腹の純愛小説。
巨匠アーヴィング、2001年発表の最新「純愛」長篇。
最近よく行く書店でいつものようにお決まりのコースをまわっていたのだけれど、そのときに「アーヴィング」の文字を発見して本当に驚いた。発売しているなんて全然知らなかったのだ。しかも表紙の絵もいい感じで、すぐに手にとってしまう。アーヴィングで「純愛」? ただの純愛ではないんだろうな……とちょっとだけ思ったのだけれど、逆にそれもまた興味深くって。さらに言うと、2001年発表の作品がもう翻訳! とかうれしくなってしまったり。書店の中でうかれているのはまあ怪しいのだけれど。
本自体はハードカバーで、400ページ弱の分量。早く読みたいのだけれど、一気にまとめて読むことのできる休日まで我慢することにする。ちょっとお預けだ。
吉本ばななも今月新刊が出るそうだし(8月22日同じく新潮社より発売の『王国 その1 アンドロメダハイツ』。「よしもとばなな公式サイト[最新情報]より」)、『海辺のカフカ』も合わせて好きな作家の新刊ばかりが集中するなんて、今年は読書の秋というところだ。
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今日はマクドナルドでベーコンレタスバーガーのセットを食べたのだけれど、最近の値下げに合わせて、新しいバリューセットができていた。それはドリンクとポテトにハンバーガーとチーズバーガーというハンバーガー類が2つついてくるセットなのだけれど、それを見ていたら昔食べたお弁当を思い出した。 そのお弁当はご飯のおかずが混ぜご飯だったのだ。他にもちょっとした煮物とかが入ってはいたけれど、基本的には「ごはん+ごはん」で、全体の5分の4がご飯で埋められている……仕出し弁当屋さんのやつでこれは注文するときによっぽど予算をけちったのかなとかいろいろ言っていたのだけれど、個人的には結構衝撃的だった。だって、ごはんばっかりだし。 お弁当ってご飯とおかずのバランスの妙が醍醐味だし大切なポイントだと思う。 でも、そのお弁当の場合は、白いご飯を食べて、味の変化を楽しもうと思ったら混ぜご飯……ちょっとありえないよ……でも本当にそういうお弁当で、それ以来そういうお弁当って一度も見かけたことはないから、やっぱりかなりの変り種だったのだろうなと思う。 世界は広い(←使い方間違っている?)。 て言うか、何弁当って言うのだろう、あれは。
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お知らせ
アーヴィングはもはや「巨匠」なのですねえ。
池田綾子という人の『Life』というシングルを試聴して購入しました。「愛なんていらねえよ、夏」というドラマの主題歌なのだそうですが、すごいタイトルのドラマですね。おもしろいのでしょうか?
気がつくと今月は(も?)1時間くらいしかテレビを見ていないのです。
| 2002年08月17日(土) |
1st Anniversary!! |
Text Sun Setも18日で丸1周年を迎えることができました。 昨年はじめてホームページをアップしたときからもう1年が過ぎたのだと思うと、なんだか不思議な感じです。 それに合わせてリニューアルを行うこともでき、ひとまずは一安心です。
いつまで続くのかはわかりませんが、マイペースでやっていこうとは思います。
そして、ごく一部の Novel ファンのみなさんにお知らせです。
Text Sun Set 1周年を記念して、今回の更新から長編小説の新連載がスタートします。 タイトルは、Bbsでもちょっとふれていたのですが、『Always on my mind』(四季物語という言葉は外しました)。
11歳の少女杏(あん)と血の繋がっていない保護者である卓郎を中心とした、ちょっと心温まるSun Set版ホームドラマです。
娘と父親の物語には名作が多数ありますが(『Papa told me』とか『毎日が日曜日』とか)、楽しんでやれればいいなと思っています。できればやさしい物語になればいいなと思います。
卓郎は当初次郎だったのですが、最終的に卓郎で落ち着きました。
ということで、アップを記念してTopページの写真も、『Always on my mind』のコーナーに置いてある写真を拡大したものに変更しました。 前回のDaysに書いたとおり、多摩川沿いの写真です。 読んでいただければわかりますが、杏と卓郎もおそらくは同じ景色を歩いたことでしょう。
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お知らせ
感想とかいただけると嬉しいです。
いつも遊びに来ていただいてありがとうございます。 これからも Text Sun Set をよろしくお願いします。
| 2002年08月16日(金) |
ヘッドフォンミュージック |
今日のヘッドフォンミュージックはUsherの『8701』(これもまた3割以上のアルバム!)。11曲目に入っている「Can U Help Me」という曲がかなりすさまじいくらいにメロウで、ブラックミュージックはたまにこういう曲が紛れ込んでいるからやめられないのだとちょっとだけ思ったりする。 まだ学生だった頃には、社会人になったらそのうちクラシックとか、ジャズとかを聴くようになるのかなと漠然と思っていた。けれども、27歳(もうすぐ28歳)のいまでもそんなことはなくて、昔よりは邦楽を聴くようになってきたけれど、基本的には昔と同じような傾向の音楽を聴いている。 いつくらいまでそうなのだろうと思う。世の中には変わることとあんまり変わらないことがあって、音楽の趣味はどちらに属するのだろうとちょっとだけ思う。 もちろん、それは答えが出るようなことでも、答えを出すようなことでもないので、なんとなく思うだけなのだけれども。
昔から、人と話しているときによく思ったことのひとつは、「答えを出そうとしている」人が多いということだった。 僕はあんまりそういうふうに思わないから、いろいろなことをあんまり考えていないのかもしれないと思う。
でもシンプルに考えようとは常に思うし。シンプルなことをシンプルじゃないようにこねてしまうようなことはしないようにしようとは思っている。 楽観的すぎて単純すぎて、呆れられてしまうかもしれないけれど。
【ヘッドフォンミュージック】 最近、ヘッドフォンごしに音楽を聴いていることが多いのです。それは夜中に起きていることが多いせいでもあるし、音楽の身近感が強まるのも楽しいと思えるせいでもあって。ヘッドフォンは昔買ったSonyのやつで、耳のところがやわらかくて長時間かけていてもあまり耳が痛くならないようなやつ。
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ものすごくメロディーがきれいで、泣きたくなるような素晴らしいバラードなのに歌詞が全然マッチしていない曲とかがあったらいいのに。 たとえば、
ぽわぽわぽわ……(ものすごいバラード、名曲を想像してください)
しょうゆをこぼしたとかかけすぎたとか そういうことはもんだいじゃない もんだいは ケチャップがかたまっていたことで 牛乳の賞味期限がきれていたこと
ヨーグルトやプリン、コーヒーゼリー 冷凍食品だってたくさんある 今日は発泡酒でなくて生ビール 嬉しくてナイターを見る
プリン プリン プリン……
こういう歌詞で、でも涙なしには聴くことができないような名曲があったりしたらおもしろいのに。 生ビールのところとかプリンのところとかで、思わず鳥肌が立ってしまうくらいの。 あり得ないか。
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お知らせ
英語の曲で、「youをU」「forを4」と表記しているものって、おもしろいなと思います。
このホームページは、不規則な生活時間でおなじみの、Sun Setの提供でお送りしました。
| 2002年08月15日(木) |
夜明け+『なぜデルコンピュータはお客の心をつかむのか』 |
いまは16日の午前6時半を少し回ったところ。 ちょっと前に、ほとんど始発の電車で帰ってきた。 16日は休日なのだけれど、昨晩から飲んでいたのだ。 最近仲良くなった人に誘われて(男だけど)、仕事が終わった21時過ぎに待ち合わせ、居酒屋、バーと2軒ハシゴして午前4時少し前まで飲んでいた。もちろん、僕はいつものようにほとんど飲まなかったのだけれど、2軒目ではさすがにいきなりウーロンというのもどうかなと思いカクテルを2杯飲んだ。頭痛い。
その人は少し年上で、たくさんの話を聞くことができた。僕自身もかなり喋る方なので、2人でずっといろいろな話をしていた。よく考えてみると、移動時間を抜かすと6時間くらいは喋っていたことになる。よくそんなに喋っていたなとか思ったりもするのだけれど。
4時少し前にその人と別れ、最寄の駅に向かい1人歩きながら、どうしようかなと考えていた。 その駅は僕の最寄り駅から5つ離れていて、タクシーを使うと割増料金で6000円くらいかかる。だったら、始発まで待てば150円なので、ちょっと待とうとか思ったのだ。 そして、お酒を飲んでいたせいなのか、それともただの気分だったのか、その1時間をぼんやりと待っているのもなんだなと思い、始発の時間までいける駅まで歩いてみようと歩きはじめてしまったのだ。 昨晩の仕事帰りの荷物をそのまま持っていたので、結構重かったりはしたのだけれど、それでも歩きはじめた。
細かな道がわからなかったこともあって、ひとつ分の駅を歩くのに35分くらいかかった。時計は4時半を少し過ぎたところで、周囲は大分明るくなってきていた。ちょうど高台になっているところを歩いていて、遠くに新興住宅地のような家々と、その上に広がる朝の空が見えていた。決して涼しいわけではない朝で、車も人もほとんど通らなかった。
もう一駅歩こうかなと思っていたときに、ちょうど不二家の看板が目に入ってきた。24時間営業のペコちゃんのファミリーレストラン。 少しだけ考えた。そして、結構歩いて汗をかいていたりもしたので、涼むことにしてその店に入った。
店では、「はちみつムースと白桃のパフェ」とアイスティーを頼んだ。4時台にスーツ姿でパフェを頼むサラリーマン風の男ってすごくあやしいよなとか思いながら、でもまあいいやとぼんやりとした頭で思っていた。飲み物だけはさみしかったし、ハンバーグやパスタを食べるほどおなかも空いていなかったし、だったらスイーツだろう、という感じだったのだ。
そして、昨日読みかけだった本の続きを読み始める。『ローマ人の物語�察戮發舛磴鵑版磴辰討�ているのだけれど、500ページ以上もあるので、違うのをちょっと挟もうと思って読み始めた本。で、読了。
『なぜデルコンピュータはお客の心をつかむのか』宇井洋。ダイヤモンド社。 以前、デルの社長であるマイケル・デルの書いた『デルの革命』(日本経済新聞社。文庫版も出ている)を読んでいて、そのとき以来デルのことはいいなと思っていた。自分では実際には買ってはいないけれど(VAIOだし)、それでもその顧客サービスには結構いつも興味があった。日経ビジネスのランキングのアフターサービスに関するランキングでも上位に入っていたし。
それで、そのまんまのタイトルの本だったので、購入してみたのだ。 200ページ弱の本で、すぐに読み終えることができる。そして、デルの顧客サポートについてのポイントが図字等も多用されわかりやすく説明されているので、参考になった。業界業種は関係なく、すぐれたサービスはやっぱり参考になりえるものだし。
いくつかを引用。
「お客様の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、本当は何が問題になっているかをお客様の言葉から探り出さなければなりません。例えば『パソコンのカバーが開かない』という問い合わせが来たときに、なぜお客様がカバーを開けたがっているかを知るべきです。お客様の抱えている真のトラブルが別にあれば、カバーを開けた後にまた問い合わせが来るかもしれない。最初の問い合わせで根本的な理由を聞き出すことで、結果的にソリューションを早く導き出すことができます」(95ページ)
「言葉遣いにはかなり神経を使います。『パソコンが動かない』という問い合わせに対して、『電源は入っていますか』とダイレクトに聞けば、お客様はバカにされたと思って怒ってしまいます。その場合は『電源ランプはついていますか』まどとえん曲に聞くようにしています。お客様がマウスのことを『カチカチ』と表現したら、オペレーターも『カチカチ』と合わせてあげるような柔軟性も大切になります」(95−96ページ)
「オペレーターを希望する人は技術的なことだけに興味がある人が少なくない。そういう人はお客様からの問い合わせに対して専門的な技術解説だけをして、自己満足で終わってしまう。しかし、テクニカルサポートの業務は、突き詰めればサービス業なんです。トラブルを抱えて、イラついているお客様の気持ちを上手にハンドリングして、ハッピーになってもらう。いわばサービスのプロフェッショナルであるホテルマンのような気配りが必要となる仕事なんです」(107−108ページ)
また、帯にも書かれている「お客様が実際に商品を手に入れて使用するまで」の4つの経験の話もおもしろかった。
店を出て、始発から3本目の電車で戻ってきた。 コンビニに寄って、お茶を買って、それを飲みながらDaysを書いている。 アップして、これから眠る予定。
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お知らせ
今日はぐっすり眠ろう。
| 2002年08月14日(水) |
よく似た場所/スイッチ/記憶と記録 |
随分前のDaysでも少し書いたように、僕は学生時代の一時期に、カラオケボックスでアルバイトをしていた。学生の飲み屋街の外れにある小さな店で、店の前にはねずみ色のアスファルトをかためた、ゆるやかな傾斜になっている駐輪場があった。 夜の間中、そこには数台から十数台の自転車がつねにあって、それらはときに片方に寄って停められ、ときにだらしなく扇状に広がっていた。
その入り口の正面でもある緩やかな斜面には、いつもいろんな人たちがいた。 盛り上がったグループの中の、さらに盛り上がった2人が部屋から出て話に花を咲かせていたり、その横では泥酔した男がぼんやりとしゃがみこんでいたりした。待ち合わせの時間よりも随分早く着いてしまって手持ち無沙汰に立っている男や、カラオケの後の興奮が覚めやらないのか、いつまでも解散せずにそこで立ち話をし続けるグループなんかもいた(ときどき、1時間以上も話している人たちもいた)。 他にも、ナンパ目的で女の子だけの部屋に乱入していった男たちのグループが、なんとか飲み屋にと懸命に誘っている様子なんかも見ることができた。 僕はよく入り口をちらりと見ていたから、カウンターの内側から、あるいは室内の清掃に行く途中に、そういう光景をよく見ることになった。お店は入り口に気を配ることがとても重要なことであると思っているので、入り口にはつい目をやってしまいそういう光景が視界に入るのだった。
そのカラオケボックスでのアルバイトは、個人的にはとても楽しかった。基本的には娯楽の場所であるから楽しそうにしている人が多かったし、酔っ払ったお客さんに辟易してしまうときもあるにはあったけれど、それでもなかなかに興味深い様子を見ることができたのだ。
だから、そのアルバイトをしている間の出来事で、覚えていることはいくつもある。書きはじめるときりがないくらいには。 勤務時間は18時から閉店の午前1時までの7時間で、結構シフトを入れていたのでそれだけその場所で過した時間が長く、その分思い入れも強いのだと思う。カラオケボックスは意外に「待ち」の時間も多くて、同じアルバイトの人と思いがけずいろんな話をしたりもしたし。 そういうことも含めて、いまでも結構いろいろ覚えている。
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いまだに覚えていることはいくつかあるのだけれど、先輩の送別会の時のことはとくによく覚えている。 ちょうど、僕が入った年に、4年生だった先輩が卒業、就職を期に辞めることになり、その送別会を行ったのだ。 店の一番奥の部屋が20人以上入ることのできる大部屋で、送別会はその部屋を貸しきってやった。 0時過ぎから非番のアルバイト仲間が集まりはじめて、1時に店が閉まった後、片付けもレジ締めも全部済ませて、その一番奥の部屋でみんなで乾杯をした。オーナーに了承をもらっての、閉店後のカラオケボックスの貸切り。 パーティ用の料理と、たっぷりのお酒と、たくさんのうた。僕は歌が苦手なのであんまり歌わなかったけれど、それでも陽気な気分になるには十分だった。それに、どんなに散らかしても、そこに集まっているのは、散らかしたカラオケの部屋を掃除することに関してはエキスパートたちばかりだったのだ。だから、清掃はかなり手際よくて笑ってしまったりもした。
そのとき、アルバイトの中で一番若かった僕はプラスティックのコップか何かを取りに行くためにパーティの途中で部屋を出て、薄暗い廊下を歩いてフロントまで行った。入り口のところで振り返ってみると、真夜中の水族館みたいに静かな廊下と、その突き当りの部屋のミラーライトの光が対照的に見えた。一番奥の部屋の喧騒は、ちょっと遠くに聞こえた。 基本的には、深夜のカラオケボックスは忘れられた廃墟みたいにしんとしていたし、ロビーの椅子も、煙草の自動販売機も、電源だけは終日ついている通信カラオケの機械のランプも、すべてが調和がとれてそこにあるような気がした。なんだかここはいい場所だなとそのときに思ったし、窓の外に少しだけ積もった雪も、店の前の電灯のオレンジ色の明かりに照らされて、まるで音のない世界を見ているみたいだった。
スイッチが入る瞬間なんてきっといくらでもある。 静かな冬の夜なんてなおさらだ。 当時、デジタルカメラの小さいやつをいつもポケットの中に忍ばせておくことができたらよかったのにといまは思う。 そうしたら、そういうときにすぐにポケットから取り出して、シャッターを押すことができたのに。 それはただの薄暗いカラオケボックスの写真でしかなくて、別に誰かに見せる写真にはなりえないけれど、自分のための写真にはなる。そしてそういうのがすごく大事だとも思うのだ。
ときどき、写真を撮ることに心をとられていたら記憶に残らないから写真は撮らずに自分の目でしっかりと見るんだというような話を聞いたりもするのだけれど、僕は本当にたくさんのことを忘れてしまうから、写真を撮った方がいいんじゃないかなと思っている。 そのときにどんなに印象的な光景だったとしても、記憶の中にしみこませることはたぶんとても難しい。 だから可能であればそういうときには写真を撮ろうといまは思う。 写真を見て、そのときのことをスイッチを入れ直すみたいに思い出すこと。写真がないとそういうことがあったことすら忘れている光景はたくさんあるし、1枚でも何かが残っていれば、それをきっかけに忘れていたようなことを掘り出していくこともできる。思い出すことは必ずしも必要なことではないのかもしれないけれど、それでも忘れていくばかりなのもやっぱりちょっと哀しいことだと思うし。 たとえば雪原を歩いていたら、すぐに振り返ったら自分の足跡が残っているだろう。けれどもしんしんと雪が降り続けば、その足跡は雪で覆われてしまう。忘れてしまうっていうのはたぶんそういうことだ。だったら、とちょっとだけ思う。雪原の途中で振り返ってぱちりと写真を撮る。そうしたら、あとからその写真を見るたびに、その寒い冬の夜のことを思い出すことができるんじゃないかって。 それとも、そういうのってお手軽であんまりよくないことなのだろうか? 情緒に欠けているのだろうか?
それでも形として残るものというのはときにとても重要で、僕はそのことを出張時代に購入したデジタルカメラと、いまこうやって書いているDaysで実感するようになった。たとえば、ある出張先の休日に撮った写真を見ると思い出すことは確かにあるし、以前の文章を読み返すことで思い出すことだってもちろんある。そういうものがなくても思い出すことはできるのかもしれないけれど、そういうものがあることが思い出すことに推進力をつけてくれる。 つまりそれは、手漕ぎボートで記憶の島に向かうのもいいけれど、ときにはエンジンのついたボートで記憶を目指すのもいいんじゃないかということだ。あるいは、歩いて目的地に行く人もいるし、自転車に乗る人もいるし、自動車に乗っていく人もいる。ようは、自分なりに納得することができるものを利用すればいいということ。当たり前のことだけれど、あらためてそう思う。 だから、美しい光景を自分の胸に深く刻みつける人もいれば、忘れてしまう情けなさでもって写真に残しておくような人もいる。でもそれは人それぞれの話でしかなくて、その人にとってそのときどきの一番いいやり方を選んでいけばいいのだ。
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……その夜、送別会は午前4時くらいまで続いた。すべてが終わって、外に出たときには随分と寒かった。店の前で先輩に「連絡しますね」と言い(その先輩とはその後も何度か遊んだけれど、いまではすっかり疎遠になってしまい、音信不通になってしまった)、それから他のアルバイトたちと別れ、そのまま帰路についた。吐く息は白くて、吐く息が白いとむやみに息を吐きたくなるから、バカの一つ覚えみたいに繰り返し白い息を吐いて、その行方を何とはなしに見ながら歩いていた。
いまでも、当時のアルバイトのことや、深夜のカラオケボックスのことをときどき思い出す。 ひとつひとつの部屋に小さなガラスがついているそこは、真夜中の水族館にとてもよく似た場所なんじゃないかと思う。
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お知らせ
今日のCDはちょっと最近の天野月子の『Sharon Stones』です。
| 2002年08月13日(火) |
『ローマ人の物語�此.僖�ス・ロマーナ』 |
『ローマ人の物語�此.僖�ス・ロマーナ』読了。塩野七生。新潮社。 帯の裏にはこう書かれている。
天才の後を継いだ天才でない人物が、いかにして天才が到達できなかった目標に達したか――。 志なかばに倒れたカエサルの目標を引き継ぎ、半世紀をかけて達成し、巧みに共和制を帝政へ移行させた初代皇帝アウグストゥス。 ローマを拡大安定成長の軌道にのせるため、構造改革を実行し、「ローマによる平和」を実現したアウグストゥスの運命と意思の物語。
この物語は、ローマの歴史をたどっていくなかで、それぞれの時代ごとに中心となる人物に焦点を当てていくというのは以前も書いた通り。そして、この巻ではローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が中心となっている。そして、作者は最初を「読者に」という短い文章からはじめ、いきなりこう断っている。
この巻の主人公になるアウグストゥスは、第�郡�に登場した人物の中でもひときわ生彩を放っていたスッラのように痛快でもなく、第�検Ν拘�を通して圧倒的存在を誇示したカエサルのように愉快でもない。 実戦の指揮をとればことごとく負けた事実は、第�拘�の後半で紹介したとおりである。それゆえにこの第�佐�では、手に汗にぎる戦闘場面もなければ、あざやかな逆転勝利を読む快感もない。(7ページ)
もちろん、アウグストゥスは�拘�ですでにオクタヴィアヌスの名で登場しており、このシリーズの読者であれば彼のその慎重なやり方と軍事面での才能が(これまでのローマの英雄たちがそれに秀でていたのに比べると)圧倒的に欠けていることはわかっている。それでも、あえてもう一度そう断っているのだ。ただし、300ページ以上の本の最初にこんなことを言ってそれを鵜呑みにするのはちょっとせつない話で、これは逆説的に違った楽しみ方ができますよと言っているのと同じことだ。 現に作者はすぐにこう続ける。
しかし、それでいて私は、彼の生涯と業績を追っていた間、一度として退屈したことはなかった。この男は、三十三歳で戦場に出る必要がなくなってから七十七歳で死を迎えるまでの長い歳月、別の意味の戦争を闘いぬいたのだと感じたからである。(7ページ)
そして、書くほうがそうであればたいていの場合読者の側でもそうであり、読んでいる間退屈はほとんどしなかった。正直なところ、ちょっとうーんと思うところもあったけれど、それでもいままでの巻とは違った意味でとても興味深く、おもしろかったのだ。
この巻では長い間、一人の男が不断の意思を持って一つのことを成し遂げるまでが書かれており、それらは本当に何十年と言う年月をかけて少しずつ進められるので、最初ある兆候が表面に現れてきたときにも、ナビゲーターでもある作者の解説がないとそれを見逃してしまう。たとえば、アウグストゥスが目指すところは帝政なのだけれど、そのためにまずやるのが内戦を戦い抜く中で自らに集中した権力や特典の元老院(共和制の根幹)へ返還といったことである。そのときには、元老院側は狂喜する。なにしろ、権力が一手に集中したアウグストゥスが、それを振りかざしたりしないかと心配していたのだ。ローマは(とりわけ元老院は)反共和制的なるものにアレルギーのようなものを持っており、いままでの歴史も共和制を打破しようとする勢力を追い落とすことの連続という側面もあったくらいなのだから。 けれども、アウグストゥスはそのように元老院側にそんなことはしませんよ、むしろ権利を放棄しますよと一度餌をまき、そのかわりに一見たいしたことではないようなことを要求する。それらはたいていの場合ささやかな(と思われるような)ことであり、要求は反対もなく受け入れられる。けれども、数年後そのときに与えたささやかな権限が、実はアウグストゥスの目指す帝政への移行に際して、非常に大きな意味を持つことが明らかになってくるのだ。そういうのは、本当に見事と言うほかはない。そしてそういうのがひとつではなく、何種類もある。驚いてしまうくらいに、多岐に渡って。伏線だらけの人生という感じなのだ。
もちろん、もともとの性質的なものもあるのだろうけれど、自らを後継者に指名してくれたカエサルが志半ばにして暗殺されていることを知っているアウグストゥスは、だからこそなおさら急進的にことを進めるのではなく、敵を作るのではなく、ゆっくりと水面下で着実に進めることをそのスタイルとしていたのだ。 もちろん、カエサルがポンペイウスを破り、五十代でようやく自らの目指す状態を構築しなければならなかったことに比して、アウグストゥスは20代〜30代からのスタートをとることができた、ということもそのスタイルを形成する一助とはなっていた。気をつけてさえいれば、時間はたっぷりあったのだ。
そのために、インフラ整備の街道網の構築であっても、軍制制度であっても、あるいは税金に関する諸事項でも、アウグストゥスは一時にすべてを施行してしまうことはしない。そうではなく、まず一部を実行に移し、機が熟してきた頃に自らが思い描いていた形へとゆるやかに変更をしていく。様々な領域についてそうだったので、常に本心を隠すようなやり方でやっていたために、確かに見た目の派手さのようなものはない。けれども、それらはローマの安定と平和のためにという目的を達成するための手段であり、そういう意味で言うと、時代に必要とされた人物であると思う。 強く、かつ持続する意思を持って、自らの信念とするところを現実的に貫き通すための方策と伏線を惜しまなかった人、というところだ。このシリーズに登場してくる主要な人物を比べてみても、本当にいろいろな人がいるなとあらためて思う。
人物と時代というのは確かに重要なもので、たとえば三國志の曹操も人物見に、平時の奸雄、乱世の英雄というようなことを言われていた。そう意味で言えば、どんなに優れた素質を持った人物でも、生まれる時代が違ったために開花することがないということだって充分ありえる。 そして、カエサルによってある程度芽の巻かれていた種をしっかりと開花させるためには、着実に自らの目指すところを知っていて、そこに向かって周到に物事を進める石橋を叩いて調べてから渡るようなアウグストゥスがふさわしかったということなのだろう。本書の中でも、ローマ史研究の権威の言葉「アウグストゥスは、アレクサンダー大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかし、あの時期の世界は、彼のような人物こそ必要としていたのである」が引用されているし。
そのように、適時その時代に見合った人物が登場し、その身の丈にあった、性質にあった貢献をすることによってローマ世界を形成していくのだから、歴史は不思議で魅力的だと思う。
また、このシリーズは学者による歴史書ではなく、作家による人物に焦点を当てたものであることは、読む愉しさを充分に与えてくれている要素のひとつなのだけれど、それだけに随所に感じ入るような部分がたくさんちりばめられている。乾いた、味気のない歴史を語るというよりも、生きた人間を活写すると言うのにふさわしいような本なのだ(だからこそ読みたくなるし、ページを手繰ってしまうわけだし)。 そして、この巻の最後のエピソードもそういうトーンに彩られているいい終わり方だった。
そして、いつものように気に入ったところをいくつか引用。たくさんのことを忘れてしまうので、あとで読み返して思い出すために。
しかし、その彫像のすべてが三十代のアウグストゥスを模したものである。(……)アウグストゥスはわざと、青年期とローマ人が考えていた三十代に、公的な自分のイメージを限定したのだと思う。(……)彼が確立しようとしていた新生ローマのイメージとしても、静かで晴れやかであるために攻撃的でなく、それでいて若さからくる活気も充分な三十代がふさわしい。(39〜40ページ)
この軍制改革が、軍備縮小と平行して行われた点も興味深い。常設軍ともなれば、可能な限り少ない経費で最大の効果をあげる組織に作らなければ、国の経済力がそれに耐えきれなくなる。耐えきれなければ早晩、属州税の値上げをせざるをえなくなる。だが、値上げしようものなら属州民の不満が爆発し、帝国外の敵への防衛どころか、帝国内の安全も保障できなくなるのだった。(52ページ)
アウグストゥスが、経済の振興こそがギリシアの再建につながると信じていたと思えるのは、列柱で囲まれた広い市場を市の北部に建てて、それをアテネ市民に贈った一事にも示されている。これに対してアテネ市は、ローマとアウグストゥスに捧げた神殿をアクロポリス上に建て、アウグストゥスとアグリッパの彫像をつくってその中に立てることで返礼とした。 ”貿易センター”を寄付するローマ人と、そのお礼に神殿と彫像を贈るギリシア人。地中海文明の二大主人公であるこの二民族の、性向の差異がうかがわれて面白い。(112ページ)
平衡感覚とは、互いに矛盾する両極にあることの、中間点に腰をすえることではないと思う。両極の間の行き来を繰り返しつつ、しばしば一方の極に接近する場合もありつつ、問題の解決により適した一点を探し求めるという、永遠の移動行為ではないだろうか。自由と秩序は、互いに矛盾する概念である。自由を尊重しすぎると秩序が破壊され、秩序を守ることに専念しすぎると、自由が失われる。だが、この二つは両立していないと困るのだ。自由がないところには進歩はなく、秩序が守られていないと、進歩どころか今日の命さえ危うくなるからだ。(……) 「公正を期してつくられるのが法律だが、そのあまりにも厳正な実施は不公正につながる」(151ページ)
墓碑に刻まれた文の中にも愉快なものが少なくなく、ローマ人の健全な死生観をあらわして余りある。 「おお、そこを通り過ぎていくあなた、ここに来て一休みしていかないか。頭を横に振っている。なに、休みたくない? と言ったって、いずれはあなたもここに入る身ですよ」 (……) 「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ。あなたがここに入るまでのすべての日々を」(257ページ)
『ローマ史』の中で、ティベリウスの戦線復帰を兵士たちがどのように迎えたかを、次のように叙述している。 「(……)自分たちの前に姿をあらわした彼を見て、兵士たちは喜びのあまりに泣き出したのだった。そして誰もが、隊列が乱れるのもかまわずにティベリウスに走り寄り、口々に喜びを述べ、その手にふれようとさえする様子は、規律の厳しさで知られたローマ軍団では見られない光景だった。 『夢ではないのでしょうね、総司令官、われわれが再びあなたの指揮下で闘えるなんて』 『わたしはあなたの下にいたのですよ、総司令官、アルメニアのときです』 『わたしは、レティアの戦線であなたの部下でした』(293〜294ページ)
カエサルが考え、その後を継いだアウグストゥスが巧妙に、嘘さえもつきながら確立に努めた帝政とは、効率よく機能する世界国家の実現であったと、私ならば考える。その証拠に、心情的には共和制主義者であった歴史家タキトゥスですら、属州では帝政のほうが評判が良かった、と書くしかなかった。つまり、六百人には不評でも、六千万人には好評であったということである。だからこそ、「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」は長つづきしたのである。(337ページ)
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お知らせ
今日の久しぶりCDはDebelah Morganの『It's not over』。98年8月29日発売。 日本盤を持っているのだけれど、帯には「21世紀の歌姫」って書いてある。 期待度が高かったのだろうな。最近あんまり名前は聞かないけれど。 でも、この人は歌うまいなあと思う。きれいな声に加えて叙情的な感じもあって。
| 2002年08月12日(月) |
Some Scene |
『天国の口、終わりの楽園。』のなかには好きな映像が結構あるのだけれど、主人公の少年2人がスーパーマーケットで買い物をするシーンはすごく好きだ。主通路の陳列台を挟んで2人が歩いていて、一人はショッピングカートを押していて、もう一人がバスケットのシュートのようなポーズでポテトチップスのようなお菓子の袋をカートの中に入れていくシーン。 日常とはかけ離れた現実を感じさせない映画ももちろんいいけれど、日常の中にある普段はなかなか気がつくことが出来ない特別な側面を映し出している映画はもっといいなと思うときがある。
やっぱり何だかんだいって、映像が美しい映画には惹かれてしまうし。 感情についての物語には心を揺り動かされてしまうし。 結局はすべてが流れていってしまうのだとか、うたかたの日々みたいなことを実感させられると、生々し過ぎてうーんと思う。 そうだからこそ物語が必要でとか、そういうものに触れたいのだろうなとか、いろいろぼんやりと考える。 ぼんやり。 ゆっくり。
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お知らせ
今日はShaniceの『Shanice』。「A Reason」はやっぱり名曲だと思う。そしてこれは3割以上のアルバム! 最近は毎年訪れる昔のCDをやたらと聴き返す時期で(もちろん、新しい物を買ったりもするのだけれど)、それでも昔のCDを日に1枚、2枚と聴いていくのは逆に新鮮だし、懐かしくて楽しい。
| 2002年08月11日(日) |
一言メモ+About "Days" |
たまにネットサーフィンをすると(この言葉って死語なのだろうか?)、いろんなページがあってすごくおもしろい。 知らない人の知らないページに行って、見たり読んだりして、そのページのリンクからまた名前だけでフィーリングだけで選んで、見たり読んだりして、またリンクから選ぶ(……以下繰り返し)。たまにここおもしろいなーとか思うと「お気に入り」に追加したりする。そして、気がつくと知っている名前のページがリンクの中に紛れていたりして、世間は意外に狭いのかとか思う。あんまりそういうことはないのだけれど。
今日はそういうふうにいくつかのサイトをめぐっていく中で、一言メモみたいなものを思いつくまま残すようなのが流行っているのだろうか、と思った。女の人のページでも男の人のページでも、結構たくさんの人がそういうのをやっていた。本当に日々の気付きやつぶやきみたいなものを、ごく短く、あっさりと書き連ねていくようなスタイルのやつ(まじめなやつから、ちょっとふざけたやつまで、いろいろ)。
短い分妙な説得力があったり、こちら側が解釈する余地が大きいので共感できたりもしておもしろいし、Text Sun Setにそういうのを入れる予定はないけれど、Daysでちょっとやってみようと思う。
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(※この下の日付と時間と内容は適当です)
□02/08/11 06:01 ヒムロックはロックのジャンルじゃないんだって。
□02/08/11 07:15 近くのセブンイレブンのパートのおばさんは歌丸ににてる。
□02/08/11 09:27 コンタクトおとした。
□02/08/11 11:15 サイフおとした。
□02/08/11 12:58 携帯おとした。
□02/08/11 14:02 木陰で涼んだ。キモチイイ。
□02/08/11 15:41 眠っている間に影が移動して右腕と右頬だけ日焼け。
□02/08/11 16:30 公園のはずれでヘビを見た。心臓がとまるかと思った。
□02/08/11 16:32 ヘビを見たらなにかあるんだっけ? それとも踏むんだっけ? 夢で見るんだっけ?
□02/08/11 17:30 近くのローソンのアルバイトの男の子はこん平ににてる。
□02/08/11 18:30 「サザエさん」のオープニングの絵が変わっているとうれしくなる。
□02/08/11 19:50 巨人が弱いとつまらないけど、強すぎてもあんまりおもしろくない。
□02/08/11 21:30 向かいのファミリーマートのオヤジは円楽そっくり。
□02/08/11 22:21 花火したい。
□02/08/11 23:10 少しだけ眠ったら、大喜利にでる夢をみた。ざぶとん全部とられた。
□02/08/11 23:16 最近「アミノサプリ」ばっかり飲んでる。
□02/08/11 23:50 キオスクのおばちゃんはいつも元気がいいのでこっちまで元気になる。
(※この上の日付と時間と内容は適当です)
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と、こんな感じのやつ。たいていフォントがすごく小さい。 いろんなパターンの、たくさんのスタイルのページがあって、おもしろいよなと思う。そういうふうに、普通だったらそういう人の日々の気付きやつぶやきなんて絶対に知ることなんてないのに、そういうものをささやかにではあるけれどふれることができるというのはネットのすごいところのひとつだと改めて思う。 やっぱり世界は広い。たとえネットの世界でも。
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僕は毎日asahi.com(http://www.asahi.com/home.html)を見ているのだけれど、今日その中に『「安眠」の通説覆す手引書出版』という記事があった。
これは厚生労働省の研究班が医薬関係出版社から出版したもので、「睡眠障害の対応と治療ガイドライン」という本(2200円)らしい。 少し引用すると、
よく言われる「8時間睡眠」の学説的根拠は全くない。個人差や季節の差もあり日中の眠気で困らなければ十分▽早く床に就くのは逆効果。いったん床を出て眠くなってから再度床へ▽起きてすぐ日光を浴びると15、16時間して眠くなる。早寝より早起き――といったように、無理なくできそうな提言が目につく。
また、昼寝は浅く20〜30分の方がいいとか、午後3時以降の昼寝は夜の睡眠にあまりいい影響を与えないというようなことも書かれているみたいだ。今回のような手引書が発行されることは珍しいことであるそうで、意図としては「不眠症には『早寝早起き』など子どものしつけのような指導がなされてきたが、医学的データに基づき、生活が不規則になりがちな人も実行できる先進的なものを目指した」とのこと。
個人的には、睡眠不足&不規則な暮らしというのが結構染み付いてしまっているようなところがあるので、こういうのを読むとちょっと安心する。もちろんのこと個人差はあるわけだし、日中の眠気で困らなければ十分というのがよかった。8時間睡眠に根拠はないというようなことをときどき聞いたことがあったけれど、心のどこかでは8時間はとるべきなのだろうなと思っていたようなふしはあるし。
ただ、睡眠って本当にそれについて意識しすぎるとあまりよくはないような気がするので、あんまり「〜しなければ」というような考えに陥らないようにしたいなとは思う。
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ここからは、ある程度自分のための記録として。
8月9日で、Daysが丸1周年を迎えた。ホームページ「Text Sun Set」は昨年の8月18日開設だけれど、「Sun Set Days」の方はそれに先立つ10日からスタートしていたのだ。ということで、Daysだけを見ると、9日で丸1年が過ぎたことになる。
この1年、結構な頻度でDaysを書いていたような気がするのだけれど、実際に数字で見てみるとどうなのだろうと思い、記録として確認してみようとちょっと調べてみた。
各月のDays記入回数は以下の通り。
2001年 08月 18日 09月 24日 10月 29日 11月 23日 12月 25日
2002年 01月 23日 02月 14日 03月 17日 04月 21日 05月 22日 06月 17日 07月 18日 08月 08日
合計 259日
12ヶ月で割ると、1ヶ月平均21.6日。 1年を365日とすると、71%の記入率。
こうして数字で見てみると、思ったよりも書いていないなという気がする。80%くらいは書いているイメージがあったのだけれど。それだけイメージというものが曖昧なものだということなのだろう。 いずれにしても、数字にして見てみると、なんだって基本的には事実をベースにした考えにもっていくことができるので、個人的にはかなり好きだ。事実ベース、数字ベースでモノゴトを組み立てなければならないなんていうのは社会人1年生のときによく言われることなのだけれど(印象で物事を言うなとか)、こういう考え方になれたのは社会人になってよかったと思うことの一つだ。それが複雑であれ簡単であれ、数字を介することによって具体的な話になってくるし、そうでないとモノゴトがなかなか進んでいかないし。
話がちょっとずれてしまったけれど、Daysを書きはじめて、日記(のようなもの)を残すことは重宝する面があると改めて思っている。たとえば、今日も数を数えるために昔のDaysを少し読み返してみたのだけれど、ちょっと読み返すだけでもすっかり忘れていたようなことはかなりあって、それも記録を残していなければなかなか思い出すこともなかったのだろうなと思ったのだ。 もちろん、思い出すためのある種のきっかけはきっとあることと思う。人生において、ちょっとした気付きは日本中のコンビニの数よりはきっと多いはずだし。けれども、それはかなりの程度で偶然性に依拠しなければならず、受け身なものとなってしまう。 逆に、日記のような記録があると、そこに立ち返れば、少なくとも思い出すことはできる。そういうのはもちろん弊害だってきっとあるのだろうけれど、それでも重宝はする。見たくなかったら読み返さなければいいのだし。
もちろん、Daysだっていつまで続くのか続けるのかはわからないし、更新頻度だって絶対に(いままで以上の)波が訪れることになるとは思う。ほとんど月に2、3度しか更新されなくなるかもしれない。けれども、それはそれで別にいいと思うし。自分が書きたいとか、書こうとか、そう思えているうちはその通りやって、そうでなければやらないだけだ。
Daysを書き始めた最初の頃、自分の中でいくつかの約束事があった。ひとつは「リアルな生活の方が絶対に大切なのはわかりきっていることなのだから、そちらを尊重していくこと」というもので、もちろんいまもそう思っている。それなので、Daysを書かなければという、偶然上の眠りの記事のところでも書いたけれど「〜しなければならない」というふうにだけはならないようにしようと思う。Daysは義務でもなんでもないし、楽しみのためにやっているわけだし。
あと、他にも読み返していやな気持ちになることは書かないようにしているし(自分の文章に引きずられてネガティブになるのはいやだし)、出来事等々においても結構書いていないことだって多い。もちろん、それはDaysが公開されているものという性質があるからで、いちおうこれでもアップする内容は選んでいるのだ(くまとかくまとか、くまとか)。 ということで、公開していなければもっといろいろ踏み込んで書くのかもしれないけれど、逆に公開していないければこうも続けることはできなかっただろうなと思うことも事実なので、これからも書くことと書かないことと書けないことのバランスをとりつつ、マイペースで続けていこうと思う。
そしてもちろん、大きな目的のひとつに「文章の練習」ということがあって、文章を書くということはある程度習慣性の必要なものであるとどこかで思っているので、こういう日記は重宝している。
自分で読み返してみると、元気なときと疲れているとき、あるいは調子のいいときとそうじゃないときが結構わかったりもして、そういうときの調子のようなものをできるだけ一定に保つことができるようになりたいというのはちょっと願望ではある。 調子というものが絶対にあるというのはわかっているのだけれど、その絶対値の差のようなものは努力とか経験とかそういうものでいくらでも縮めることはできるのではないかなと思っているのだ。そして、調子の悪いときには書かなければいいというのではなく、練習という側面から考えると、そういうときでも書くことができる状況であれば書いて、アップしていくことがたいせつなんじゃないかと思う。 継続性のもたらすある種のちからのようなものは、結構打たれ強いものになると思うところもあるし。
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お知らせ
今日はR-Kelly。『TP-2.Com』。ひさしぶりに聴くといつもすごいと思わされてしまう。声がツボかどうかということも大きいのだろうなと思う。
| 2002年08月10日(土) |
眠れない夜→朝の散歩→『天国の口、終わりの楽園。』→洋服 |
いまDaysを書いているのは16時少し前で、ちょっと前に帰ってきたところ。昨日からずっと起き続けていて、かなり眠い。ということで、これを書き終わったらすぐに眠ろうと思うので、時間帯によってはこのDaysに遊びに来ていただいている間、僕はぐっすり眠っています。夢もみなそうな感じではあるけれど、できればビーチの夢を見たいとか思ってみたり。 それでは、昨晩からいままでの話。
�/写襦�0時頃〜)
Bbsの方に思わず書き込みをしてしまったように、村上春樹の最新長編の期間限定ホームページを見てうかれていた。10日スタートということはわかっていたので、0時過ぎでやってるかなーと思っていたら、本当にやっていたので、「うわ」とか思う。こういうのって小さなことだけれど、ちょっと嬉しい。小確幸?
�△気蕕某写襦�2時頃〜)
『N43゜』を黙々と直す。ワードの文章を縦書きでプリントアウトしたものに、色ペンで削ったり書き加えたり、ここまで推敲を繰り返すのは実ははじめてかもしれない……。でもまだまだかかりそうな感じだ。今年中にはけりをつけよう。
�L詭世院�5時頃〜)
アタマが冴えて眠れなくなる。そして、10日封切りの『天国の口、終わりの楽園。』の初回を観に行くことを決めていたので、いま眠ったら絶対に起きれない! と思って「どうしよう……」としばし考える。初回の上映は9時50分から恵比寿ガーデンシネマ1。 そして、自分会議の結果もうこのまま起きていよう、そして帰ってから爆睡しよう! と決める。 それまでの時間をどうしようと思い、部屋にいたら誘惑に負けて眠ってしまいそうだったので、とにかく外出してしまうことにする。そうだ、久しぶりに二子玉川に行こうとなぜか思う。唐突に。いつも唐突。
�ち當�(6時頃〜)
ちゃんと着替えて、カーキ色の肩掛けカバンにノートとかデジタルカメラとかを入れて斜めがけする。それから最寄の駅に向かう。6時3分発の電車に乗り込む。時間と曜日のせいか、車内はかなり閑散としていた。天気はよくて、窓の外には朝のまだ半分眠っているような感じのする街並みが見えている。体調はともかく、散歩にはいいかもしれないと思う。
二子玉川駅に着いて、ホームから改札口まで長いエスカレーターを下る。前に来たのは初冬くらいの時期で、そのときのことはDaysには書かなかったので日付まではわからない(書いておけばよかったかも)。ただ、そのときはデジタルカメラを持っていかなかったことを後悔したのだった。かなり寒かったのを覚えている。 けれども、もうそれから半年以上経っていて、季節も真夏だ。僕は半袖だし、コートだって羽織っていない。 東急ハンズ側から駅を出て、昔ながらの商店街といった感じの路地を抜けると、川べりに出る。遊歩道みたいなものがあって、そこを川下に向かってゆっくりと歩いていく。 振り返ると、東急線の橋が見えて、ときどき時間調整のためなのか橋の上で電車が停まっているのが見えた。なんだか大きな毛虫みたいな感じだ。空にはほとんど雲もなく、散歩をしているおじいさんや、犬の散歩をしているおじさんや、小さな子ども連れのカメラを持ったお父さんとか、謎の体操をしている若いお兄さんなんかがいる。自転車に乗って遊歩道を通り過ぎていく人も多い。釣りをしている人もいる(何が釣れるのだろう?)。川べりなので少しは風があって涼しいのだけれど、それでもやっぱり暑い。 そして……眠い。 もちろん、散歩は好きなのでときに伸びをしたりしつつてくてくと歩いていたのだけれど、心の中では「ねむいよ……」と思っていた。ちょうど眠気のピークがきていたのだ。やばいくらいに。だから、傍目には早朝から(6時半くらいだったし)散歩をしているかなりすがすがしい朝の過し方という感じだったのだけれど、実際にはずっと起き続けていて、いつもより歩く速度も心持ちスローだったりした。 そして、歩きながら、心の中で「ねむいねむいのうた(作詞作曲Sun Setさん)」を歌っていたり。
ねむいねむいのうた
ねむい ねむい どうしてこんなにねむいの? めのまえに ひつじがたくさん みえるよ きりょくを ふりしぼって がんばれ えいが えいが えいがをみにいくんだし が ん ば れ る ー が ん ば ろ う − が ん ば ろ う −
こりゃあ売れるよ100万枚間違いなし! とか思いながら(嘘です)。
実際には歌ではなくて、デジタルカメラで写真を撮っていた。今回はちゃんとカバンに入れてきたのだ。歩きながらときおり立ち止まって、ぱちりぱちりと(今日撮った写真のうちの1枚は次回のTop写真に登場します)。
そして、片道20分歩いたところで、腕時計を見て引き返すことにする。それからまた同じ時間かけて駅まで戻ってきた。往復40分と少し。
�ツ�(7時30分頃〜)
二子玉川駅から渋谷駅へ。お腹が空いていたので、渋谷駅で朝食をとる。東急線からJRへ連絡する途中の階段のところにある店でモーニングセットB(トースト2枚、目玉焼き、ハム、サラダ、コーヒー)。
渋谷からJRで恵比寿へ。 恵比寿に着いたときには8時少し過ぎで、またガーデンプレイスもほとんど人がいないし、閑散としていた。土曜日の朝なのだ。エクセルシオールカフェ(ドトールがやってるドトールよりオシャレなイメージのする店)があったので、まだ開場まで時間があるだろうと思い中に入る。カバンの中に入れていた無印のレポートパッドにせっかく少し時間があるからと【Fragments】の新しいやつを書きはじめる。珍しく手書きで。でも、眠かったのでいまレポートパッドを読み返してみたら、判読できない文字が結構あって驚く。半分寝てたのか……?
映画は9時50分スタートだったので、9時にそろそろかなとカフェを出てガーデンシネマの方にてくてく歩いていく。 そして、一瞬「えっ」と思ってしまうくらいに驚く。 なんと映画館に長蛇の列が出来ていたのだ。ざっと見て100人程度(実際に受付番号は103番だったのでそれだけ並んでいた)。30分以上も前にここに来ていたのに……先に映画館のほうをちょっと見ておけばよかった……としばし悔やむ。
けれども、逆に期待はかなり盛り上がる。初日の初回ということを差し引いても、これだけの人が観たいと思っているなんてやっぱりいいのかもしれないと。待っている間、僕の後ろにもどんどん列が伸びていく。後から来た人が「え? 何これ?」とか言っているのが聞こえる。それにしても、自分が列の中にいると、後から来た人に対して優越感を抱いたりしてしまうのってなんだかやれやれという感じだ。そういうときには自分が小さいなあと思ってしまう。でもそんなに人間ができていないからなとも思う。
それはともかく、チケットもパンフレットも無事に購入を済ませ、後は映画を待つだけ、館内はほぼ満席で一番前の列まで人が入っていた。
�Α愿傾颪慮�、終わりの楽園。』
(※注意!! ネタバレ含みます)
チラシでは、ストーリーはこう説明されている。
悲しい秘密を持つスペイン生まれのルイサと、生のエネルギーを持て余す17歳の少年フリオとテノッチ。3人は伝説の海岸「天国の口」を目指し、生と死、優しさと残酷さが交錯する乾いたメキシコの大地を南下する。暑い太陽に照らされたひと夏の旅は、ルイサにとっての最期の旅、そして、少年ふたりにとっては、もっとも輝いていた甘美な少年時代との訣別の旅だった…。
しかも、本国メキシコではハリウッドの並み居る大作を抑え2001年度の年間興行収入の第1位、社会現象とまでなる大ヒットを記録していると紹介されている。
もともとロードムービーが好きだった。そして、上にあるような設定だ。これはもうかなり興味を惹かれ、絶対に観に行こうと思っていた。 スクリーンに映し出されるのは、恋人がそれぞれ夏の旅行に出てしまって、取り残されてしまった2人の少年の退屈な17歳の夏休みで、どこか倦怠感に包まれながら、バカ騒ぎをしてみたり、意味のないことを繰り返していたりする日常が描かれる。そういう夏が、ルイサとの旅に出るところから変わり始める。親戚の結婚式でであった美しい女性ルイサをナンパするためにでっちあげた「天国の口」というビーチにルイサが行きたいと言い出し、それで2人は年上の女性とのめくるめく何かを期待して車を走らせるのだ。あるはずもないビーチに向かって。
青春時代は誰もがその比率はどうあれ弾けるような楽しさとどうしようもなく退屈な時間の双方で占められていると思うけれど、その退屈な時間の中で、たいていの人はいろいろな想像をめぐらせるのではないかと思う。たとえばそれは海での出会いであったり、友達の紹介であったり、恋人とのさらなる進展であったり……そういういろんな願望。フリオとテノッチのそれも、最初はただの夢想のようなものでしかなかった。けれど、ルイサから電話がかかってくることによって、その青春の幻想とも言うべき年上のセクシーな女性とのひと夏の旅が現実のものとなるのだ。そして、そこから現実は2人にとって予測不可能なものとなる。ただ車を走らせ、言葉を重ねて、ハイになること。後は流れにまかせることがすべてになる。
もちろん、ルイサには2人の少年に電話をかけるだけの理由があり(愛する夫の浮気の告白という理由ともうひとつの秘密)、別に2人の少年にとってのファム・ファタールになろうと思っているわけじゃない。ただ、2人はルイサの理由や秘密は知らないし、ただ憧れの女性の前で浮かれている。どうしようもないくらいに。ガキの真摯さと欲望でもってルイサと奇妙な連帯感を深めていく。
少年たちは車の中でルイサにたくさんのことを話す。ルイサも、少しずつ自分のことを話していく。車の中は、どうしたって秘密を共有しやすい場所だ。スピードが出ているし、そこでの会話は当人同士にしか聞かれるおそれもない。だから、たくさんの車の中でたくさんの秘密が、人生が語られている。それがロードムービーが魅力的な理由のひとつだと思うのだけれど、この物語でもそれは同じだ。
ルイサは最初テノッチと、それからフリオと関係を持つ。2人の少年はふとしたことからお互いの恋人と寝ていることをばらし合い、喧嘩をする。関係性が車に乗るたびに変化しながらも、それでも目的地に着くまでは旅は終わらない。そして、一度崩れていきかけた関係性も危ういバランスをとるようになっていく。 そして、一行は世界最高のビーチ「天国の口」に着く。 実在しないはずのビーチが実在していた奇跡。 最後の夜、3人は一緒に長い夜を過ごす。 ある種の宴の後、ルイサはそのままビーチに残ることを2人に告げ、2人はメキシコシティーへ帰る。 それが、その夏の旅の終わりだった。
その後、たいていの親友同士がそうであるように2人の少年の人生は離れて行き、別々の人生を歩むようになることがエピローグのように語られる。その中で、ルイサが癌であの後すぐに亡くなったことが知らされる。ルイサは自分の余命幾ばくもないことを知っていて、あの夏の旅に来ていたのだ。
そういう物語。 物語は様々な細部に彩られていて、とりわけ第三者の語り手のある種冷徹な語り口(その語りが入るときには、すべての音が一瞬画面から消え去る)が、目の前で展開されている物語がすでにとじられたものであり、紛れもない現実の中のひとつの出来事でしかないことを強く意識させる。たくさんの人の、それぞれの人生と同じ重さのものでしかないということを。もちろん、少年2人にとっては後で思い返すことになる特別な数日間ではあるけれど。 それでも、随所で挿入されるその語りが、物語を過度に感傷的に陥ることからバランスをとることの助けとなっている。
また、車で走っていくメキシコの映像もいい。とりたてて別段特徴もないようなメキシコ郊外の、どこまでも続く乾いた道路。カメラは長回しでその風景を写し取っていく。それははじめて見るような光景なのに、誰の中にもあるような景色のように思える。 国は違えど、シチェーションこそ違えど、誰もが青春時代を超えてきている。そして、その青春時代の持つ情けなさややりきれなさや、そしてその中にある真摯になる瞬間のようなものがそこには映し出されていて、それが個人的にはかなり生々しかった。
僕は一睡もしていなかったけれど、映画の間まったく睡魔を感じなかったし、ものすごくツボにはまるというわけではなかったはずなのに、どうしてか強い印象が残ってしまう映画。後になってもいくつかのシーンを思い出すことの出来る映画とストーリーしか思い出すことの出来ない映画があるけれど、確実に前者だと思う。 観てよかったと思う。
チラシを見ていたら、たくさんの著名人がこの映画を勧めているのだけれど、その中に江國さんの名前があった。ちょっと驚く。最近は本当にいろいろなところで江國さんの名前を見かける。 こう書いてある。
江國香織さん(小説家)
暴力的なまでに輝かしくやさしい瞬間を、ビビッドかつ力強くとらえていて、心に残ってしまう映画。
他には、ファッションモデルの冨永愛やデザイナーの中野裕通、女優のとよた真帆などもコメントを寄せている。
�Ю妓瓠糎畍紂�12時頃〜)
映画を見終わった後、恵比寿三越で文房具や雑貨を見る。結構いろいろ雑貨を置いていた。 それからもう一度渋谷に戻り、せっかくなのでちょっとだけ買い物をしていくことにする。ハチ公前を基点にしてハンズ方面から丸井方面へぐるっと円を描くようにいくつかの店に入りながら移動。探していたバッグがあったのだけれど、結局見つけることができなかった。かわりに、秋冬物のベストを1枚買う。服屋の店頭って季節が先取り過ぎてなんだかわけがわからないような感じだ。 他にも本やCDなんかも物色(買わなかったけれど)。 電車に乗って最寄の駅まで戻ってくる。 帰りの電車の中では、気がつくと眠っていた。 そして、気がつくと最寄り駅のひとつ前の駅だった。こういうときは、ちょっと得をしたような気持ちになる。
昼食をとっていなかったので、駅構内のカフェでアイスコーヒーを飲む。 それから部屋に戻った。
クリーニングを出しに行って、Daysを書いた。 長くなったけれど、貫徹時はハイだからなあとちょっとだけ思う(普段以上に細かく書いているし……)。 さて、これから寝ます!
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お知らせ
書いているうちに眠気が……またなくなってしまいました(横になったらすぐに眠ることができるとは思うけれど……やれやれ)。
| 2002年08月09日(金) |
Word Labo�� |
冴子:みなさんこんばんは。今日も言葉の不思議を科学する「Word Laboratory(通称Word Labo)」の時間がやってきました。
安藤教授:あんたそんなキャッチフレーズいつ考えたんじゃ?
冴子:……えー、今日は「新しい接頭語を考えよう」です。
安藤教授:ペケンポ!
冴子:それはもう前回で終わりです、教授。
安藤教授:つまんないのぅ……
冴子:いじけないで下さい、教授。さて、世の中には、それをつけただけである種のイメージを付加する言葉があります。たとえば、「超」をつけると「すごい、とても」という意味になるというのもそうですよね。これなんかは、どちらかと言うと新しい言い方であるということができるかと思います。そこで、今回われわれ「Word Labo」でも、同じように新しい効果を持つ言葉をつくりだしていこうというわけです。それでは教授、お願いします。
安藤教授:いま冴子君が言っていたように、その言葉をつけるだけである種のイメージを簡単に付加することのできる言葉が定着するということは、ある面では弊害じゃが、その一方で大きなメリットも持っておる。そして、我々の基本的スタンスは、「言葉はいきもの」ということでもある。そこで、今回のこの試みというわけじゃ。
では、こちらのテロップをまず見てもらおうかの。今回は全部で3つの言葉を提案してみようと思っておる。
(冴子、テロップを用意する)
「提案� .譽皀鵝�
冴子:(テロップを見ながら)……「レモン」、ですか? なんだか不思議な単語ですね。これにはどういう意味が?
安藤教授:(テロップの下半分のシールをめくりながら)初々しい感じ、じゃな。この言葉をつけることによって、誰もが初恋の頃のどこか甘酸っぱくって、懐かしいような感覚を思い起こすというわけなんじゃ。
冴子:はぁ……そうですかねぇ。
安藤教授:「言葉はいきもの」じゃよ、冴子君。これらの言葉は100の単語の中から渋谷新宿巣鴨での「わくわくウォッチング調査」で選ばれし言葉なのじゃ。つまり、まさにこれからの言葉というわけなのじゃよ。
冴子:渋谷新宿はわかるのですが、巣鴨と言うのは……
安藤教授:冴子君も勉強が足らんのう。いま、若者の間で裏原宿が流行っておるのは知っておるか?
冴子:ええ、まあ。
安藤教授:次は裏巣鴨なんじゃよ。
冴子:裏巣鴨? そんなのあるんですか?
安藤教授:ああ。今年下半期は間違いなく裏巣鴨がブレイクするじゃろうな……(遠い目)。
冴子:はぁ……
安藤教授:さて、話を戻して「レモン」をつけると「初々しい感じになる」というのを確かめてみようかの。
(VTRスタート。順に言葉が浮かび上がってくる)
・レモン卒業式
・レモン夏休み
・レモンお正月
・レモンゴールデン・ウィーク
・レモン殺人事件
安藤教授:どうじゃ、なんだか初々しくて胸がこう……苦しくなるじゃろう? 中学生くらいの感覚じゃ。
冴子:……最後の殺人事件って言うのはなんなんですか?
安藤教授:さあ?
冴子:……。
安藤教授:さあ、次じゃ。(テロップのシールをまたはがす)
「提案�◆Д泪ぅ淵好ぅ�ン」
安藤教授:次は、これじゃ。この言葉をつけることにより、なんだか健康によさそうな感じがする、という調査結果が出ておる。
(VTRスタート)
・マイナスイオンウォーター
・マイナスイオン牛乳
・マイナスイオンフライパン
・マイナスイオンピアノ
・マイナスイオンリス
冴子:…………ちょっとありそうでいやな感じですね。
安藤教授:な、な? 健康によさそうじゃろう?
冴子:最後のリスって言うのはなんなんですか?
安藤教授:可愛いじゃろう? 飼ってるだけで健康によいペットじゃ。
冴子:(腕時計を見ながら)えーと、次で最後ですね。
安藤教授:それではいくぞ。(テロップのシールをはがす)
「提案��:デフレ」
冴子:えーと、もう訊くのもちょっといやなんですが、これはどういう意図があるんでしょうか?
安藤教授:これはの、この単語をつけることにより、ものすごく安くなっているというようなイメージを付与するんじゃよ。とりわけ、高い品物にそういう名前がつくと効果大じゃ。じゃあ、ひとつ確かめてみようかの。
(VTRスタート)
・デフレコーラ
・デフレケチャップ
・デフレマグロ
・デフレダイヤモンド
・デフレマイホーム
冴子:なんか、ちょっとカチンときますね。
安藤教授:効果は高いんじゃがのう。
冴子:安く手に入れる努力は確かに必要だと思いますけど、たとえば婚約指輪を「デフレダイヤモンドだよ」って渡されたらちょっと引くって言うか……あえてそんなふうに謳わなくても……
安藤教授:またそんな予定もないくせに見栄っ張りなんじゃからのう……視聴者のみなさんに誤解されるじゃろう。
冴子:……(般若のような表情で教授をにらみつける。一瞬、画面に雷光が走る)。
安藤教授:しょうがないのう……ほれ、「冴子君の恋人募集コーナー」の宛先はここじゃよ。
(教授、画面の下半分を指で指し示す。画面では、その部分に応募先が書いてある)
冴子:ちょ、ちょっとやめて下さいよ教授。そんなこと……
安藤教授:やらなくてもいいのかのう?
冴子:え、え……ええと、渋めの人がいいかな、なんて。岩城滉一さんみたいな。
安藤教授:こればっかりは「わくわくウォッチング調査」でもどうにもならないからのぅ。冴子君は気が強すぎるんじゃな。
冴子:余計なお世話です。
安藤教授:それでは、今日はこの辺で、ごきげんよう。
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お知らせ
いよいよ8月10日から、村上春樹の新刊のHPが立ち上がりますよね。 そのページをじっくり見てしまうのか、それともちょっと覗いてあとは実際の本を待つのかはまだちょっとわかりませんが、いずれにしても一度は見てしまうのだろうなと思います。
URLはこちら。
http://www.kafkaontheshore.com
(暗闇の中の森を駆け抜ける素早い足音。しかも複数)
――ご隠居様ぁ、この町のうなぎは最高においしいらしいですよう。
城下町に入るや否や、黄門様に向かって笑顔で話しかける八兵衛。
(暗闇の中の森で、手裏剣のぶつかり合う音。一人が追われていて、何人かが追いかけている)
――ご隠居様ぁ、もうこの大福、最高ですよねえ。
お茶屋で美味しそうに大福にかぶりつく八兵衛。一気にふたつほおばっている。そしてむせて、一行に笑われている。
「うっ」 (森の中を逃げていた方が、手裏剣で肩を怪我する。そして、追っ手たちから逃げるために、自ら崖から眼下に広がる川へ飛び込む。逃げていた者の顔が月明かりに照らされて一瞬だけ映る。それは、女だった)
――ご隠居様ぁ、見てくださいよこの豪華な料理。この旅籠にして正解でしたねえ。
箸でどれから食べようか悩みながら、魚の煮物に箸を伸ばす八兵衛。
――いつまでもずっと、この笑顔を見ていられると思っていた――
――けれども、もう彼はどこにもいない――
(画面に映っていた箸を持った八兵衛の映像がそのままセピア色になる)
(おなじみのテーマソングのバラードバージョンが流れ出す)
(タイトル、浮かび上がる)
水戸黄門【劇場版】 ――さよなら八兵衛――
8月下旬衝撃のロードショー。
皆の者、ご老公の御前であるぞ、頭が高ーい、控えおろーう。
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○試写会では続々と感動の声!
――八兵衛の優しさに胸を打たれました。涙が止まりません。(19歳大学生)
――はかなく散った八兵衛と彼の恋。大人のラブストーリー。(32歳主婦)
――殺陣のシーンのCGに日本映画の可能性を感じます。(26歳会社員)
――お銀の入浴シーンはファンにはたまりません。(43歳自営業)
――黄門様心臓発作のシーンやぎっくり腰のシーンなど、ハラハラドキドキの連続!(17歳高校生)
○各誌絶賛の嵐!
――人間の尊厳とは何かと考えさせられる問題作。この夏一番の収穫。(T新聞)
――モラルとアンモラル、その狭間で生きるほかない人間の哀切を描いて切ない――。(A誌)
――失われた日本古来の風景を見事に再現。時代考証も完璧。(週刊「ご隠居」)
――おっちょこちょいで食い意地がはっているだけだと思っていたのに……もう彼のことを忘れられません。(F誌)
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……映画を観に行って、こんな予告編をやっていたら間違いなく観に行くと思う。
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お知らせ
先月発売された江國さんの絵本を書店で立ち読みしたのですが、ネットで調べたらその絵本についてのホームページもありました。
http://www.hakusensha.co.jp/book_review/osanpo/com.html
| 2002年08月07日(水) |
それは絵筆、それはトンカチ |
でも煙草は最初にして秘密の邪悪だった。彼女たちは興奮気味に嗜癖にのめっていった。タバコの煙を肺の中に入れたいからではなく、煙草を吸う女、になりたいがために。二、三年も経たないうちに、バッグに入れた煙草は財布や櫛と同じくらいあたりまえになった。けれど十四、五歳の時点では、化粧品に紛れた魅惑的な色合いの箱をひと目見るだけで、一つの人生が終わり、これからは新しく希望に満ちた時が始まる、と興奮していたのだ。(『プリティ・ガール』アンドレ・デビュース。151-152ページ)
僕は煙草を吸わないし、いままでの人生において積極的に吸いたいと思ったことがない。たぶんこれからもないと思う(絶対とは言えないけれど、まあかなりの確率で)。 ただ、それは別段健康のためというわけではなくて、子供の頃からどうしてか煙草が好きになることができなかったという感覚的なものでしかない。家族は煙草を吸っていたので、生理的に煙がだめなわけではないのだ。ただ、吸い終わった後の煙草のどこか物寂しい感じだとか、煙草を吸うことに象徴される大人っぽさのようなものに、どこか自分にそぐわないものを感じていたのかもしれない。 だから、煙草は別の世界のモノゴト、という感じがいつもしていた。
高校生にもなると、友人たちの間でも当たり前のように煙草を吸うやつが少なくなかったし、なかには20歳で禁煙するんだなんていうありがちな背伸び発言をしているやつさえいた。それでも、そういう時期でも煙草を吸う気にはやっぱりなれなかった。もちろん、高校生のときに一度だけ友人にためしにと言われてふかしただけの経験ならあるけれど、それはあくまでもふかすだから「吸った」ことにはならないと思う。
それでも、最初の引用の文章は昔読んだ本の中にあったものだけれど、煙草を吸わない僕でも、その文章が象徴しているものはわかるような気がする。それまでの子どもめいた世界から、もうひとつの大人の世界への扉を開ける鍵のようなものとして、煙草やありとあらゆるタブーが魅力的に映るというようなこと。
煙草を吸わない僕でもそういうことが(なんとなく)わかり、イメージすることができる。 そういうのって、よく考えると不思議だ。 自分が経験していないことにさえも、感情移入することができたりするのって不思議なことだと思ってしまうのだ。 もちろん、誰の中にもそういう感情があるからと言ってしまえばそれまでだけれど、やっぱりそれは想像力のなせるわざなんじゃないかと思ってしまう。
つまり、人の想像力は自分が見たことのない景色、訪れたことのない状況でさえも自分の中で組み立てていくことができるほど強いものであると思うのだ。 様々な断片を、そのときどきのやり方で結びつけて、一つの絵のようなものをかたどっていく。あるいは、様々な部品を、そのときどきのやり方で重ね上げて、一つの建造物を構築していく。 想像力はそういうときの絵筆であり、トンカチだ。 そして、自分の中に絵なり建造物なりができあがることによって、僕らはそれらを(自分なりの解釈で)理解することができる。想像力があるからこそ、そういうことができるのだと思う。 そして、素材である様々な断片や部品を用意するのは五感の役割だと思う。言葉には五感のなかに点在するたくさんのスイッチに触れていく力があって、そのスイッチが柔らかく(ときに強く)押されるたびに、心の中にある種のイメージが立ち上がってくる。そしてそれらの断片が立ち上がるたびに、絵筆でありトンカチである想像力がやってきて、回収しまとめあげていく。そしてある種の世界を自らのうちに構築していく。
書くこともプロセスとしてはきっと同じだ。 たとえば煙草を自分では吸わない僕でも、たくさんの人が煙草を吸ってきたシーンは目にしている。あるいはタバコの煙を嗅いだこともある。煙草の種類をいくつか見てきている。そういう五感に関連する様々な種類の断片を想像力で繋ぎ合わせることによって煙草を吸う人を(自分なりに)理解し、理解は解釈でもあるわけだからその解釈を用いて煙草を吸う人物を物語の登場人物の一人として創り上げることでさえもできるのではないかと思うのだ。
もちろん、知らないことについて書くことは難しいし、それはともすれば独りよがりな、どちらかというと本質をつかめないものになってしまうかもしれない。けれども、たとえば、目を閉じて鳥の羽音を聴くとする。そうしたらいままでの様々な記憶からその鳥の姿を想像してみることはできると思う。その想像はもしかすると実際の鳥の姿とは似ても似つかないものかもしれないけど、それでもやっぱり(自分にとっては)ある種の本当の鳥であると言うことができるだろう。また、ある甘いにおいをかいだとする。そうしたらその甘さをもたらしたケーキを想像し作り上げ、それについて書くことはきっとできるはずだ。その想像上のケーキは、やはり実際に食べることのできるケーキとは全然異なったものになるのかもしれないけれど、それでもある種の「ほんとうの」ケーキだ。 そんなふうに、自分たちのなかにあるたくさんの五感のストックを、想像力のトンカチを用いて結びつけ何かを創り上げていくこと。建造物の形はどうであれ、やっぱりある種の建物はできる。それを見ることによって「理解」することができるし、理解することができれば「書く」こともできるはずだ。きっと。 その建物が自分にとって「ほんとうの」ものになるように気をつけながら。
もちろん、建物の出来栄えという問題もある。 そのため、よい建物を作るためには、できるだけ普段から五感を使っておくことが、ストックをためておくことが大切なのだろうなと思う。 想像力は無から何かを生み出す力ではなくて、いまある一見無意味な素材のようなものを纏め上げる力であるはずだから。 たとえば、自分の中に素材が3つしかないと、その3つの点を結びつける線は3本しか引くことはできない。けれども、もし4つの点になれば6本の線を引くことができるし、10の点があれば、いったい何通りの線の引き方ができるだろう? 素材(点)がそれだけあることが、しっかりした複雑な建物を自分の中につくるための助けになるとは思うのだ。 語彙をたくさん知っている人がたくさんのバリエーションの文章を書くことができるように、五感のストックが多い人は、様々な状況を(たとえそれが自分の経験していないものであろうと)何本もの線で結びつけることによってリアルに想像し、理解できるのだろうと思う。
ということで、頑張ってもっといろいろストックしよう。
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お知らせ
今日のCDはL⇔Rの2ndアルバム『LAUGH+RAUGH』。「(I WANNA)BE WITH YOU」という曲があらためていいなと思うのです。92年11月16日発売のアルバムで、もう少しで10年だなんて、ちょっと信じられない感じです。
| 2002年08月06日(火) |
「新横浜ラーメン博物館」 |
今日は仕事が早めに終わり、同僚たちと新横浜にある「ラーメン博物館」に行くことにする。そんなに遠いところに住んでいるわけでもないのにいままで行ったことがなかったので、結構楽しみにしつつ新横浜に向かう。同僚2人と、部屋探しのためにこちらにきていた先輩に僕を加えた4人で移動。 「新横浜ラーメン博物館」は新横浜駅から徒歩5分ほどで、結構簡単に行き着くことができた。 まず、入場料の300円を払い(100円くらいでいいのでは?)、それから中へ。 建物の中は1階から地下2階までの計3層で、大きくラーメンの歴史等を紹介している1階の「プロローグゾーン」と、昭和33年の街並みを再現し、その街並みの中に全国の有名ラーメン店などがある地下1、2階の「体感ゾーン」とに分かれている。 現在のラインナップは以下の通り。
「大陸」……八戸(佐野実プロデュースの新ご当地ラーメン) 「蜂屋」……旭川 「支那そばや」……佐野実の店(この人のことは実は知らなくて、同僚に教えてもらった) 「すみれ」……札幌 「新福菜館」……京都 「勝丸」……東京 「六角屋」……横浜 「魁龍」……久留米 「こむらさき」……熊本
その中で僕らが行ったのは3店で、「こむらさき」→「すみれ」→「大陸」の順。僕が食べたのは「ミニラーメン」→「みそラーメン」→「ミニラーメン」。 当然のことながら食べ回りたいという要望に応えるために、各店にはミニサイズ(ミニの解釈は店によって異なっており結構興味深い)のラーメンが用意されているのだ(合理的)。 そして、食べ比べてみた結果(これは贔屓目もあるのかもしれないけれど)、やっぱり「すみれ」が一番おいしかった。平日の夜でありながら混み合っていた館内でも一番混んでいて、1時間くらい待っていたのだけれど。
また、屋内に人工的な夕暮れの空を作って雰囲気を出している「体感ゾーン」では、ラーメン屋に紛れて揚げパンやラムネが売られていたり、紙芝居があったり、また再現された街並みなども芸が細かく、結構おもしろいとは言えた。
最近は結構様々なところにこういう有名ラーメン店の集積がなされていて、一種のブームのような感じがする(もちろん、ここが元祖なのだろうけど)。ただ、そういうのももちろんいいのだけれど、個人的には部屋の近くに好きなラーメン屋がひとつあるほうがいいなと思ったりもする。 関東でおいしいラーメン屋を探すのは結構難しいのだけれど。
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お知らせ
もちろん、ずっと行ってみたかったので、満足です。
今日の夜、目黒で3人でパスタとピザを食べていたら(+お酒1杯)、窓の外でカメラのフラッシュでもたいたかと見まごうようなまばゆい光が。 雷だ。 気がつくと、窓の外では雨がものすごい勢いで降りはじめていて、雷光は何度も空を影絵のように染め上げていた。 店に入る前、ちょうどそういう時期なのか駅前では祭囃子が聞こえていたのだけれど、せっかくのそのお祭りの人たちも、突然の激しい雨にどこかに姿を消してしまったみたいだった。
食事が終わったあと、目黒駅の入り口では傘を持たない人たちがぼんやりと所在なげに雨を見つめていて、車のテールランプがほんの少しだけ煙って見えた。あとは、もう、ただただ激しい雨の音。
帰りの電車は随分と空いていた。 電車の中はほんのちょっとだけ間延びしたような空気のなかにあって、日曜日の夜という感じがする。扉が開くたびに、むあっとした湿気が押し寄せてくる。 今日は東急目黒線から東横線へ乗り換え、菊名で横浜線にさらに乗り換えた。東横線に乗っているときには、条件反射のように果歩と静枝の電車だといまだに思ってしまう。路線図を見て、白楽という文字になんとなくうれしくなってしまうのだ。東横線にはたまにしか乗らないせいかもしれないけれど、やっぱりそれは条件反射のようなものなのかもしれない。 そういう条件反射は他にもあって、たとえば飛行機に乗っているときの10回に1回くらい、『ノルウェイの森』の冒頭を思い出してしまったりもする。国内線なのだけれど。
雨はいつの間にかあがっていた。傘を持っていなかったので、最寄の駅でラッキーだと思う。タクシーの運転手さんたちがさっきの大雨のよいタイミングを逃してしまったんだよなぁというように、ぼんやりとした感じで何台も並んでいた。おしい、と思いながら通り過ぎる。
部屋に帰ってきたら、ちょうど遠くにいる後輩から久しぶりにTELがくる。
日曜日の夜は、個人的には結構好きだ。日曜日があんまり関係ない生活をしていても、それでもやっぱりちょっとだけ特別だと思う。どう特別なのかは、よくわからないのだけれど。
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お知らせ
今日は久しぶりにCloudberry Jamを聴いています。アルバムは『Providing the atmosphere』。
「次は気象情報です。大型の台風ひばりは今夜遅くに関東地方を直撃、明日の早朝には九十九里浜を抜けていく模様です。また、小型の台風かっこうは沖縄南西をゆっくりと北上しています……」
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ライブカメラというものがある。 世界中の様々な場所に設置されていて、そのほとんどは24時間その場所の映像を映し出している。カメラの映し出す映像の種類も豊富で、街角から店の中から、あるいは有名な観光名所まで、日本も、アジアも、ヨーロッパも、はてはほとんどなじみのない国の、ほとんどなじみのない砂浜の映像まで映し出されている。たいていは地元のテレビ局とか、観光協会がそういうライブカメラを設置していて、ライブカメラの画像のあるページばかりを集めてリンクしてくれているサイトもある。
ネットを見て回るときには、定期的にライブカメラめぐりをしてしまう。いくつかのお気に入りのライブカメラは、「お気に入り」に登録してさえいる。もちろん、全部見ることはできないし、基本的にはいくつかをそのときの気分でチョイスして見るというやりかたなのだけれど、それでもこれはおもしろいよなと思う。大体1分とか3分とか、あるいは1時間おきに画像が切り替わっていることが多いのだけれど、まさにこの瞬間の全然離れた場所の映像を見ることができているのだ。部屋にいながらにして。
僕はこのライブカメラが好きで、『N43゜』にもライブカメラがらみのエピソードをひとつ入れているのだけれど、昔訪れたことのある観光地であるとか、出張で訪れた場所であるとか、あるいは昔住んでいたことのある場所の近くを映し出しているライブカメラを見つけるとなんだか懐かしくてついついなごんでしまう。画像はたいていの場合あんまりよいわけじゃないし、中にはなんでこんな角度に設置するんだ? と思ってしまうようなものもあるけれど、それでもライブカメラの画像はいろいろと思いをめぐらすにはちょうどよいと思う。インターネットの好きなところのひとつに個人的にはあげてもいいくらいだ。
もちろん、自分の目で見るほうがいいとは思う。たとえば、自分で食べてみた食べ物でないと信用できないように、実際に、感じるということはやっぱり大切ではあるわけだし。けれども、すべての場所に行くことができるわけではないし、それでも知りたいとか見たいとかいう気持ちはあるとは思うのだ。やっぱり。 確かにそれはちょっとした代用的なものなのかもしれない。けれども同時に、ささやかな愉しみでもある。
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お知らせ
Googleで「ライブカメラ」で検索するだけで結構出てきます。 そして今日のBGMはノラ・ジョーンズ。
提案系サイト「Text Sun Set」の今月の提案。
提案:台風の名称を変えるというのはどうですか?
また、今年も台風の季節がやってきている。僕の育った北海道には基本的には台風は来なくて(北海道に上陸する前にただの低気圧に変わってしまうのだ)、それなので台風に関してはどこか別の場所での出来事という感じが常にあった。関東に住むようになってから台風がどういうものなのかということを何度か体感したことがあったけれど、それでもまだ本当の台風を、切実に実感することはできていないような気がする。もちろん、台風は災害だし、ないにこしたことは(水源の問題がない限りは)ないのだけれど。 そして、僕のイメージの中にある本当の台風は、どうして実際に体験したものと違うのだろう? と考えてみる。
閑話休題。
そうそう、それから台風の枕言葉的な存在があの港なんかに(わざわざ)行くリポーターたち。もちろん彼ら(彼女ら)は会社員なので命令や使命に逆らうわけには行かないのだろうけれど、「ものすごい風と波です」とか見れば誰だってわかることを必死に伝えようとしてくれているその様は、見ていてなんだか感動すらしてしまう。すごい。すでにああいう映像ってハンバーガとポテトとか映画とポップコーンみたいに、あって当然のようなセットになっている。 けれども、そんな台風にまつわる報道を見ていく中で、いつも天気予報を見るときに、ひとつだけ困ることがある。台風○号というのがわかりずらいなと思うのだ。もちろん、間断なく訪れる台風の場合には、ああこの間のが9号だったから次が10号ねとか、天気図の中に連続する番号が同時に映し出されていたりするとまあわかりやすいのだけれど、ある程度間隔が空いてしまったら、いまいちよくわからなくなってしまうのだ。
そこで、台風に名前をつけたほうがいいんじゃないかということになる。人でもなんでも、名前があることによって他と区別され、固有のものと判断されるわけだし、台風だってそうあるべきだ。ということで、台風にいくつかの名前をつけることを提案してしようと思う。 ちょっとシュミレーションしてみよう。
シュミレーション:欧米風の名前の場合
□□相関表□□
台風1号→台風ボブ 台風2号→台風マイク 台風3号→台風エリー 台風4号→台風ジュリー 台風5号→台風ピエール 台風6号→台風アレン
どうだろう? これなら結構わかりやすいのではないだろうか。これなら、たとえばテレビのニュースでは、
アナウンサー:「ボブは沖縄沖150キロで猛威を振るっています」 リポーター:「すごい波と風です。ボブパワー炸裂中です!!」
となるし、それを見ているお茶の間でだって、
健太(小学校三年生):「ねえかあちゃん、ボブがすごいらしいよ」 母親(最近カルチャーセンターでゴスペル講座に通いはじめた):「ああ、まったくそうだねえ。ボブは毎年すごいね」 父親(アンチ巨人ファン。新聞から顔を上げながら):「またボブか。困ったもんだなぁ」
というように非常にクリアかつ誰もがちゃんとボブのことをよくわかっているような(知り合いででもあるような)会話になる。他にも、たとえばアナウンサーの
「ジュリーはマイクなみの規模で北上中です」
とか、
「ピエールは関東上陸前に太平洋側にを抜けていきました」
という台詞だって(ああ、なるほどマイクなみねとか、ああピエール行っちゃったのねとか)と随分とわかりやすいということができるだろう。もちろん、欧米風の名前がいやならば、日本名にしたっていい。一郎とか、花子とか。花の名前にしてもいいし、鳥の名前にしてもいい。 今度台風がきたときにでも、ちょっと当てはめてみては?
―――――――――
今日今月転勤で関東にやってくる先輩から電話がかかってきた。部屋を探しているのだという。 その先輩は僕のいま住んでいる沿線の近くで部屋を探していたのだ。 それで、僕の最寄り駅の辺りはどうなの? と訊ねられた。その辺にも結構物件があるんだよねとのこと。
「あー、交通の便はすごくいいんですけど、店とか本当にないですよ。びっくりするくらいに。コンビニばっかりです」
答えながら、ちょっとだけせつなくなってしまった。 散歩には適した坂道なんかは多いのだけれど。確かに、店が……
その先輩とは遊びに行こうという約束をしていて、いまからとても楽しみ。
―――――――――
お知らせ
『アメリ』DVDの特典映像にはカメラテストがあって、俳優たちの生っぽい映像があってすごくたのしい。 ジュネ監督のインタビューや、シネマテークでの質疑応答への監督、俳優陣のエスプリの利いた返答など、これもやっぱりとてもたのしい。
| 2002年08月01日(木) |
『アメリ缶』購入+『アメリ』 |
いまは2日の午前2時を少し回ったところ。 ついさっき、『アメリ』のDVDを見終わった。これはあらためて言うまでもないけれど、けれどもやっぱり書いてしまうのだけれど、すごくよかった。やっぱりいいなと、そう思えたしそう思えてよかった(すごく気に入っていた作品は、いつも再びふれるときにちょっとだけ不安があるのだ。もしおもしろいと思えなかったらどうしようと)。 部屋を暗くして、DVDの用意をして、大きなノートとペンを持って、それでスタートのボタンを押した。そして、心惹かれた言葉や思いついたことなんかを書きながら見ていたのだけれど、部屋を明るくした後でそのノートを見たら、謎の単語の羅列&読むことのできないような字のオンパレードでちょっと笑ってしまった。手元が暗く、画面を見ながら書いているから、同じ位置に(きっと書きやすかったのだと思う)、繰り返し重ねて違う単語を書いていたりもして。 いくつかのことを考えさせられた。物語は結局は受け取り手のものだということを改めて感じてしまった。 そして、アメリはやっぱりかわいい。
『アメリ』のDVDには2種類あって、いわゆる限定版と通常版だ。そして僕が今日買ったのも限定版の方で、それには『アメリ缶』という名前がついている。あんまり直接の関連性はない「アメリカン」とかけているのか、それともブルトドーの思い出の缶にかけているのか、それはよくわからないのだけれど、ともかくそういう名前。いったいどんな企画会議だったのだろうと思う。 限定版と通常版の違いは、いわゆる”おまけ”がついているかどうか。どちらでもDVDは2枚組で、本編と各種特典映像つきのDVDがちゃんとついている。『アメリ缶』の方にはそのほかには、アメリ好きにはたまらないような各種おまけが満載なのだ。
それをちょっと紹介。
まずは、缶から。『アメリ缶』というくらいだから全体が缶になっているのだけれど、おみやげのお菓子の缶のような長方形をしている。缶自体は同じ図柄の紙に覆われていて、それを外すと缶が現れるようになっている。図柄はフランス版の映画のポスターと同じで、緑の背景をバックにしているアメリのバストショット(※日本版のポスターはベッドで上半身を起こしているやつ)。 蓋を開けると、まずは同じ図柄のマウスパッドが出てくる。なぜにマウスパッドなのかはよくわからないのだけれど、大きさ的にちょうどよかったのかもしれない。 そして、DVD。これは、通常版がそのまま入っている。 それから、パンフレット。劇場のパンフレットの簡略版のようなやつ。監督のインタビューなどが載っている。 ポストカード(銀のスプーンを持ったおなじみのアメリの写真など計6枚)。 そして、これが欲しいがために『アメリ缶』を買ったのだとさえ思う「世界を旅するドワーフからの手紙」。トリコロールの封筒の中に、例のドワーフのポラロイドを模した写真が全部で8枚入っている。 これはもう見た人にはわかる、たまらないアイテム。部屋の壁とかに全部飾りたいような。個人的にかなりツボにはまる。これこれ、と思う。 一番下にはアイテムが3つ。 アメリ・スプーンとクレーム・ブリュレのキャンドル、そしてアメリのゾロに扮したキューブリック。キャンドルのいい匂いが缶の中に漂っている。 以上が、『アメリ缶』の中身。8400円。 通常版と比較しての価格を、このおまけで考えて高いと見るか安いと見るかは人それぞれだけれど、個人的には納得だし満足。いい商売だよなと思う部分は確かにあるけれど、思い入れが強い分、ちょっとくらいなら高くても限定版の方を買ってしまうのがファン心理というやつであるわけだし。 そして、僕は予約をせずに直接店で買ったのだけれど、その店では購入特典として先着でネガフィルムのようなものをくれた。たぶん予約特典か何かだと思うのだけれど。地味めなシーンのネガばかり3種類だったけれど、得をした感じだ。
ここからは、時間軸もばらばらにいろいろ振り返ったことを。
また、同じ店で『シッピング・ニュース』のDVDも買った。結局映画館で見ることができなかったので、DVDの発売を楽しみにしていたのだ。個人的には原作も監督も好きなので、購入を決める。思い入れが強いとレンタルではなくて購入になってしまうのはまあそういうものだと思う。また、8月2日は今年前半の良作のDVD化の当たり日なのか、他にも『息子の部屋』などが売られていた(それはさすがに我慢したけれど)。
帰りは最近よく行くコーヒーショップ/カフェで、『ローマ人の物語�此.僖�ス・ロマーナ』を100ページほど読む。今日はカフェラテ。
『アメリ』を見ている間、部屋を暗くしていたので、窓の外の雷の光が何度も目立って見えた。 別に怖くはないのだけれど、一人暮らしをしていて胸がざわつくのは、個人的には雷の夜だ。雷の光や音は何かが起こりそうな予感に満ちているから、このままとんでもないことになったら、どうやってしのごうとかちょっとだけ考える。大洪水とか、そういうカタストロフィ的なものを想像してしまうのだ。やれやれ。 でもまあ実際には、雷も雨も遠ざかっていく。日常は強靭で、かつ何かが起こりそうで何も起こらない可能性のほうが高いから日常でもあるわけだし。
買い物の帰りには、無印良品をちょっと覗いた。水中眼鏡なんかがあって、ちょっと驚く。最近はなんでもある。とりわけ、もともとの主要顧客層の団塊ジュニアの成長に合わせてなのか、赤ちゃん用品や子ども用品の取り扱いが増えているように見えて興味深いとあらためて思う。なんだかんだいって、無印と一緒に成長してきている世代というのはいるのだろうなと。 そして今日は無印の文房具売り場で、個人的にかなりヒットな商品を購入する。
ルーズリーフパッド(方眼)
がそれ。商品に必ずついているシールの説明書きにはこう書いている。
表紙を折り返して使えるレポートパッドです。マイクロミシン目入りですので、ルーズリーフとしても使えます。
価格は350枚で、A4サイズ、80枚入り。 こういうのを実は探していたのだけれど、レポート用紙スタイルで、方眼で、しかも必要なページだけ切り離してルーズリーフで保管できるやつ。本当のルーズリーフならば基本的には1枚1枚なのだけれど、これはレポートパッドなので、連続してどんどん書き進めていける。個人的なメモなんかはもうとにかくどんどん書いてしまう方なので、方眼だと書きやすいし、あとで読み返したときにつかわないようなページも多いので、必要なところだけ適時切り離してというのも性に合っている。これは久しぶりのヒットと思う(個人的に)。
髪を切った。
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お知らせ
『アメリ缶』は完全初回限定版とのことなので、欲しい人は早めに買いに行った方が?
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