浅間日記

2004年02月28日(土) 瑣末なことだ

HとAと三人で家に戻る。
うっすらと日陰に雪があるところをみると、
2、3日前に降ったようだ。

オウム真理教麻原被告に対する報道を再考す。
やはり、死刑判決はいいのだと思う。
その判決に自信をもつべきだとおもう。
被告が笑ったとか、
反省していないとかそういうことはいいのだと思う。

麻原という男と対峙するから、瑣末なことで虚しくなったり、
また焦点がずれるのだ。

我々が対峙しなければならないのは、絶対的な暴力とか悪意とか、
人の尊厳を奪うもの、そういう本質的なものなのではないか。

奇しくも判決文の条文を聞いていて、これなら戦争へと国民を駆り立てる今の政権にも適用できるではないか、と思ってしまった。




2004年02月27日(金) 青い空にヘリ

霞ヶ関で仕事。
ヘリコプターがブンブン飛んでいて、
何だろうと思っていたら、
道行く人が口々に「シケイシケイ」と言っているので、
ようやくオウム教祖の判決の日だったんだと理解した。

タクシーの中でラジオ解説が流れている。
彼の表情がどうだったとか、逐一解説している。

遺族や被害者の気持ちを思う。
生きて一生償いをという声もあるようだ。

でも残念ながらそれは難しいと思う。
社会的にも生物学的にもその存在をなきものにする以外、
やはり制裁はないのだと思う。



2004年02月25日(水) マルコおいで

在京中。忙しいという字のとおり、
心を亡くして殺されそうだ。

というわけで
色々思うことがあったけれど、失念。
ワタシは、いつも何もかもすぐに忘れてしまう。
つまり、普通にしていれば消えてゆく霧か霞のようなものを、
この日記に取り置いていることになる。

数年前までは、こんな風に仕事の忙しさに紛れて
自分の思考ができなくなることを、
むしろ何かのドラッグのように
楽しんでいた節があった。

自分を見つめなおすとかそういうことは、
作務着やらインド風の服を着た人達が
わいわい集まって考えればいいことだと思っていた。


二人でいるのがつらいと、今日HとAが上京。
まるで母を訪ねて三千里の旅だ。




2004年02月23日(月) 死ねない犬

HとAを置いて上京。

AERA誌に、車椅子に乗る犬を発見。
ペットの犬の成人病?が増えているらしい。
あの手この手で生かそうとするのらしい。

死期をむりやり遠ざけるのがペットへの愛だと勘違いしている。


死を恐れず死ぬことは、ふとした弾みがあればできてしまう。
10代に陥りやすいパターンともいえる。
また戦争とは、そういう弾みが発生するという面で
恐ろしいものだと思う。

難しいのは、そして大切なことは、
死を恐れずに生きることだ。
与えられた生を自分のものとして生き抜くことだ。

なんだかワンパターン気味だが、
またしてもゲド戦記から学ぶ。



2004年02月22日(日) 日本海側の話

部屋に掃除機をかけながらラジオを聴く。


日曜討論という番組で、六ヶ国協議の解説をしていた。
討論者が誰なのかは、じゅうたんの端を掃除機が吸い込んでがーがーいっている時だったので聞き逃したが、この番組の通例として、問題に近いところにいる政治家か官僚だろう。


圧力ではなくて、話し合いが必要だと言いながら、
北朝鮮の対応にかなり怒っており、
ケンカ腰な様子がラジオから伝わる。


この怒りの中に、
交渉のいらつきや国としてのプライドだけではなくて、
拉致被害者の失われた時間や命への怒りが代弁されているものと思いたい。


掃除終了。

*

さだまさしの歌に、
「トキが7羽に減ってしまったというのに、君は夕食のおかずのことで頭がいっぱいだ」と難癖をつけるのがあったな。

中学生の頃は、そういう独りよがりな歌詞に同調して、
そうだそうだとか頷いたものだけど、
まあ思えばそういう内向きの時期だったということだろう。自分も時代も。

今のワタシのトレンドで考えれば、そんなヤツは
「妻が夕食のおかずの心配をしているっているのに、
あんたは目の前の生活ではなくてどっかの鳥の心配をしているのね」という反撃を食らうこと必至だろう。

多分、このトキの心配をする男は、「こういうこと一緒に考えない?」と
美味しい食事を終えた後で、妻と話すべきだったのだ。

そうすれば、離婚率も今ほど高くなく、
もしかしたらトキも滅びなかったかもしれない。




2004年02月21日(土) TO PRAY

もう随分前になるが、
英国の教会を見物しようとしたら入口で遮られたことがある。
どうも、「お祈り目的の人だけお入りください」ということらしい。
嘘だ。もはやそこは世界的な観光地だというのに。

黒い服をきた男性に、「to pray?」と聞かれ、
私は両手を合わせて「to pray」と応え入れてもらった。
聞く方の男性と自分のうそ臭さに薄笑いが出そうだった。

 ☆

在宅ホスピス医である甲府のN先生に手紙を出したら、
ありがたいことに、わざわざ会いに来てくださった。
「命を医療から取り返すことがホスピス運動の始まり」とのこと。


どこから生まれてどうやって死ぬのか、
人生を俯瞰できずに生きるのはつらい。
「何のために生きているのかわからない」とは若者の戯言や甘えではなく、
真実の喪失感だと思う。


このN先生を駅まで迎えにいく途中寄った本屋で、
藤原新也「なにも願わない手を合わせる」を衝動買いする。

その権威主義的な面や形式主義的な面などから、
これまで寺院などでのあらゆる祈りを拒否してきた著者が、
母や兄の死をきっかけに、四国の地で、祈りを考え始める。

今日の日本人は純粋な祈りの姿を失ったのだな、と語る。
自己救済を願うばかりで、ただ祈ることができない、と。

ああこれは、生と死を日常から遠ざけられたせいだな、と
私は直感的に思う。

様々な考察を経たあと、彼は
自然と人間の合作のような、風化した野辺の地蔵にむかって、
「荒れ果てた人間の世紀の中で、
海のように揺るがない自分になりたい」と祈るのだそうだ。

生と死を奪われて、
満載の喪失感と空っぽの自己肯定感を抱えて生きる
現代の少年少女たちは、
まるで藤原が祈りをささげる野辺のお地蔵様のようで、
わたしも祈らずにはいられない。



2004年02月20日(金) 春がほどけていく

色々書くことがあったのだけど、仕事に忙殺され失念。


生暖かい一日。
梅のつぼみも大分ふくらんできた。
日も延びてきた。
こういう春先になると、Aを産んだ時のことを克明に思い出す。

お産に緊張は禁物なので、
暖かさにただでさえ身体が緩む
この季節に出産をしてよかったと思う。

生まれてきた本人であるあの人も、
そういうことを思い出したりするのかしら。

「Aが生まれてくれて本当に嬉しいよ」とか
「世界で一番Aが大事だよ」とか
べたべたに甘い台詞をささやくと、Aは
すごくくすぐったそうな顔をして、もじもじ笑う。
その変な様子が面白くて、また言ってしまう。



2004年02月19日(木) ファンタジーと生きる その2

ゲド戦記�靴量�者あとがきを読む。

原作者であるル=グウィンが書いた、
「This Fear of Dragons」というエッセーを紹介する一文に、
過日自分が考えたファンタジーに関する考察と似たような視点を見つけて嬉しく思う。

そこにはこのように書かれていた。

「ところで、数々のすぐれた作品にまじって、ル=グウィンにはThis Fear of Dragonsというエッセイがありますが、彼女はこの中で空想の楽しさを語り、女子どものものとして、それを一笑に付してしまおうとする現代人の心の貧しさに溜息をつき、…中略…世の大人たち、とりわけ社会の第一線で働くきちんとした身なりの男たちが、竜に象徴されるファンタジーをこんなにも排斥するのは、実はファンタジーが真実であることを知っているからではないか、自分達を忙しい日常へとかりたてていくものにひそむいっさいの虚偽を“竜”があばき出してみせるからではないか、そんなふうにして、自分達が人間的に解放されて自由になることをこわがっているのではないか、と言います。」


まことに一人勝手な世界であるけれど、
まるでここにグウィンや訳者である清水真砂子氏とがいて、
一緒に会話をしているような臨場感を感じてしまった。



2004年02月18日(水) 馬鹿でもないし迷走でもない恐怖

イラクを書いている人の日記を俯瞰す。

小泉首相の発言に、法的なあるいは理論上の妥当性がないとお怒りの人は多い。明らかに憲法第9条に違反している、とか。

丁寧にその矛盾点を解きほぐす作業は重要だ。
そういう作業を毎日、コツコツとしている人はすごいと思う。
拠所は、そこにあるのだから。

そういう積み重ねを前提に思うのだけれど、
問題とするものは最早そうした理論や意志決定の過程にはないと思われる。


それは彼が確信犯だからだ。

彼が最近多用する、「私は○○だと思う」
という言い切り型のフレーズは
権力をもった確信犯の発言であって、
「私がそいういう判断をしているのだからいいのだ」という強い意志が感じられる。

言下に何を背負った上での発言か知らないが、
家長が一家を取り仕切る時代ではない。
戦争をやりたがっている、と言われても仕方がないと思う。
私は、この人のこの強い意志をひたすら気味悪く思う。

心を失った弱い市民が強い(発言力の)リーダーを必要とした結果、
こういうことになってしまったのかなと思う。
強い意志を強い意志で返さなければと思う。
私も「私は○○だと思う」といおうと思う。

こういう、人が心を失ったときにこそ、
芸術文化の果たす力はあるのだと思うが、
やんぬるかな、第一線とよばれるアーティスト達の底の浅さよ。



2004年02月17日(火) モチベーション欠乏症

事務所で仕事。多忙なり。

複数のプロジェクトをぶん回すにあたり、
動きのいい人がパートナーだと仕事が楽しくなるが、
これがとんでもなく動きの悪い人だと、もう憂鬱だ。

能力の問題で動きが悪いのは、協力を仰ぐこちらの判断が悪いと納得できる。
そうではなくてモチベーションの段階で動きが悪い人は、
もう、「コチラが出口でございます」という具合に、
即刻お引取り願いたくなる。

別に強制的に仕事をさせている訳じゃないのに。

そういう人は、多分身体のどこかが悪いのだろう。
こう、全身症状的に健康体ではないのだろう。

ネガい駄文を連ねても仕方がないので、終了。



2004年02月16日(月) ファンタジーと生きる

家に戻る。
久しぶりに身をきるような乾いた寒さにふれ、
すがすがしく思う。Aも水溜りの氷をみて喜んでいる。
山々は白く輝いている。


借りおいてあった「ゲド戦記」を読む。
その�兇里弔發蠅�その�靴任△辰燭海箸傍い鼎�、躊躇するが
読むのをすごく楽しみにしていたので、かまわず読みはじめる。


てっきり子供が英雄の話かと思っていたが、
物語後半の主人公は既に若者ではなくなっている。
この分だと最終章では初老の男になっているはずだ。



ハリー・ポッターよりも数十年前に書かれたこのファンタジーは、
色々な作品に影響を与えているように思える。

まず魔法の学院で魔法使い候補の少年達が学ぶ、という場面で思い出すのはハリー。

それから少年時代の主人公ゲドが、自分自身の悪や憎しみなどの「影」と向き合い、受け入れ一つになることで強さを身につけていく、というくだりは、
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。
(ついでに言うと「世界の終わり」という概念もゲド戦記に出てくるのであった)

そして、物語全編にわたって表現されていることであるが、
人には仮の名前と本当の名前があり、本当の名前を悪意あるものに知られ、
奪われると力を失うという設定は、宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」に
登場する「ハク」という川の神の化身である男の子がまさにそのものだ。




いずれにしても、優れたファンタジーというものは、
安っぽいハウツー本、いや優れたハウツー本の何百倍もの
生きる力や、生きていくために必要なノウハウを教えてくれる。

ファンタジーというと夢見るような話と誤変換されがちなのが残念でならない。最近のゲーム業界やアニメ業界も一役かっているように思う。



本質的なことは、現実的なことを背景にしなくても伝えられるものだ。そして、(特に読書において)少なくとも私が得たいものは本質的な示唆なのだ。

「海辺のカフカ」に書かれていた、「想像しなさい。世界はメタファーだ。」という村上春樹の言葉を本当にそう思う。全ては自分の内側にある。



2004年02月14日(土) 見えないナイフ

依然在京。Hは凍った滝を登りに行っている。

今日はお気に入りに入れている「JIROの独断的日記」に完全一票だ。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/89954/diary.html

子どもを精神的にも肉体的にも傷つける大人が、許せないと思う。
別に普通にしていても、仮に愛を与えていても、
大人という存在は、この世の先客という点で
子どもを傷つける要素をもっているというのに。

ましてや教職にある大人が子どもの心を傷つけることが多すぎる。
これはもやは個別の教師ではなく、学校というシステムに問題があるとしか思えない。先ほどの日記の著者がいうように、
精神的な傷害を与えた場合には、しかるべき刑事罰が必要だ。

真剣な気持ちで教師になり、子どもと向き合って、
信頼関係を丁寧に築いている人もいるだろう。おそらく公立学校にも。
そういう人が気の毒だ。


今を生きる子ども達は、どうか間違った大人を
反面教師として育ってほしいと思う。

そして傷つけられた子どもはその分、
愛を与えられる機会に恵まれてほしいと思う。



2004年02月10日(火) プライベートライアン登山隊

テレビをつけたら、
関西学院大学のワンゲル部14人が、
遭難救出後の記者会見をやっていた。
車椅子に座り、何人かは手や足に包帯を巻いていた。
サブリーダーの男の子は、顔に凍傷をこしらえていた。


今回の救出劇からは、マスコミによる茶番臭さがぷんぷんする。
ヘリが飛ばないことなどは荒天の山岳でよくあることで、
大げさに書き立てるほどのことではない。
プライベートライアンばりの救出茶番は、
14人という数の多さの為だと思う。


Hはクライマーなので、遭難の話題は身近だ。
救出活動や死亡した後の遺族のケアの話をよく聞かされるので
そこに悲惨さがあることはよくわかる。
私も家族として心配することもある。
でもそれに、他人の心配が介入する必要はないのだ思う。
自分で行くと決めて、冬山に入っているのだから。
例え死んでしまったって、センチメンタリズムは無用だ。


当事者の学生達は、喜ばしいことに、
凍傷という犠牲を負ったもののピンピンしているようにみえる。
今回のことは、これから山を続ける上でよい経験になっただろう。
色々な報道に一番戸惑っているのは彼等かもしれない。
大学が、今後活動中止など無粋な処置をしないことを願う。



Hは明日下山予定。
学生2人が事故で亡くなったあの場所へ行っている。
彼らがそうさせたのか、この雪でヒーヒー言っていることだろう。



2004年02月08日(日)

Aとぶらぶら公園へいく。
いい天気だ。

外人の子供が沢山遊んでいた。
場所柄、A社かH社に勤務している人か。

家には、
しばらく帰れそうになくなってしまった。
まあ寒いからいいのだけれど、段取りが大変。

Aにすまなく思う。



2004年02月06日(金) 能動ラッシュを浴びる

Aとすごす。

ここに連れてくると、Aは大人に囲まれてにぎやかでうれしそうだ。

子供と接する時大切なことは、受動することだと思っている。
だから自分からはあまり働きかけない。

自分から働きかけることは、衣食住関係、
それも自分でできなさそうなことだけ。
あとは上手く何かしたい気持ちを出せない時に、
それを引っ張り出す作業。
面白い遊びなんかのサービスは、もっぱら他人まかせ。
だからずぼらな母だと思われている。

Aはまだ子供なので、色んな感情を
まだ上手に出すことができない時がある。
そういう気持ちを当てていく受動的な作業が好きだ。

テレビもおもちゃも、そこらへんのかまってくれる人も、
たいていは能動的に子供に接してくる。
少しだけならとても楽しい時間だけれど、長く続くと
これは子供にとっては大変なことだと思う。
処理できないうちに、次から次へと能動ラッシュが押し寄せる。

次第に自分の気持ちがどこにあるのか、
わからなくなってしまうだろう。
いろいろな出来事に対して、
どう感じたらいいのかわからなくなってしまう。

でも面白いもんだと思ったのは、
Aは夢中になって遊んでいても、
そのうちちゃあんと、自分を受け入れてくれる人を見分けて、
その人になつくのであった。




2004年02月05日(木) 粗末にされる男と粗末にされる女

男女産み分けに成功したとの記事。

これも言葉が違う。

男女選別だ。

もう少し書くと、1つの受精卵に対して
男に、又は女になるよう
操作できるようになったわけではない。

たとえば受精卵を3つ作って、2つ捨てるのだ。

この乱暴な技術も恐ろしい。
さらに実際にこの方法を選んだ夫婦の動機が、
「3人目はどうしても女の子がよかったので」などという、
どこの家でも誰でも口にするかもしれない
言葉であることがまた恐ろしい。

自分は子供を授かっても絶対に出生前診断なんかやらないけれど、
こういう出生前診断に関する技術は、そうしたい人がやればいいだけで
全く関係ないことだと知らぬ顔していたいのだけど、

イラクのニュース以上に私の心を暗くする。
誰に何をどう伝えれば、こんな乱暴な命の取り扱いを
やめてもらえるのか。
技術者達は、一体何を考えているのか。
人間の、内なる自然の、乱開発がすすむ。

命というのは、誕生から終わりまで、丁寧に扱われるべきだ。
性別ぐらいで子供を受け入れられないのなら、
そもそも親になる資格などないのではないか。

こんな思いをよそに、この手の生命操作技術については、
結局いくところまでいくだろう、と養老さんが書いている。
何でもかんでも出生前診断されるようになるだろうと。

でも、不自然に命を捨てることと同じぐらい、
不自然に命をつくり、ましてや選ぶなんてことは、
命を粗末にしているような気がするのだ。



* *

同じ時期に、イタリアが不妊治療に関する制約を出して、
女性議員から反発をくらっている。
減胎や受精卵の冷凍保存を禁じているので
多胎妊娠や卵細胞の採取回数の増加など、
女性に負担のかかる方法なのだそう。

この議員は女性の権利と命の権利を履き違えている。




2004年02月04日(水) 【備忘録メモの日】

・生まれ際死に際
人生の源流と河口

・自然保護運動を事例として
とてもよく似ている
制度と規制、合意形成の成熟
どんなシステムが必要か
変えていかなければいけないのは何か

・真ん中を考えるための催し
当事者のぜいたくやわがままではない
真ん中を考えるために使いたい
両端からみた、生きることとは

・命を市民に取り戻す
平和とか平等の意味にリアルさがない
知識ではなくて感覚や体験で
「家族」の意味ー立会いして欲しい人ー
源流部と河口の場面を仕事とする人から伝えてほしい

・死ぬことも生まれることも「病理」ではない
病気で死ぬかもしれないけれど、死ぬことは自然な現象

生まれることを病理ととらえる貧しさ
畳の上で生まれて畳の上で死ぬ豊かさ

以上。本日上京す。HとAも一緒。





2004年02月03日(火) 河川敷の贅沢

HPで「河川敷に、伸び伸びと暮らす」とあるのをみた。

リンク先へとんで、それが都市基盤整備公団による
高級賃貸住宅のキャッチコピーと判ったら、可笑しくなってしまった。

最初私は、かなり真面目に、ホームレス賛辞かと思ったのだ。

頭の中で、河川敷という言葉を、「川原」に変換したのだと思う。

公団の若い職員か、外注の広告代理店の担当者が
頭をひねって考えたのだろうけれど、

河川敷では伸び伸びと暮らしたくないなあ。

せいぜい、晴れた日にビールをもってデイキャンプを楽しむ程度にしておきたいものです。




2004年02月02日(月) 何が無事なものか

事務所にて仕事。
ばたばたと忙しいが、いまここで動きを止める訳にいかない。

昼食を作りながらラジオのニュースを聞く。

小中学生を狙った事件がまたあった。
「…男が近寄りカッターナイフで少女の顔をきりつけた。少女は浅い傷を負ったが、無事でした」というような内容。

焼きそばをズルズル食べながら、
何が無事なものか。とまた腹を立てる。

そういう表現は、たとえば、
【寝屋川市に住む64歳男性、3日ぶりに北アルプス奥穂高岳で無事救出】
とかそういう場合に限って使用してほしいものだ。

じゃあ、
山の中で3日間死と隣り合わせの思いをした中年男性の心の内は慮らなくていいのかと自問する。
他人の悪意が介在しないという点で、いいのだともう一人の自分が即答する。

知らないオヤジに大切な顔を切られた少女の気持ちを思う。
怖かったね。ダイジョウブ貴女は何も損なっていないよ。とひとりごつ。

牛乳をぐびぐび飲み干してまた仕事に戻る。




2004年02月01日(日) 春と氷

HとAと、ワカサギ釣りを見に行く。見るだけ。

誰が考えたのか知らないけれど、
氷に穴を開けて釣りをするとは酔狂だ。

ワカサギ釣り用に開けた穴の中にAが落ちやしないかと
どきどきする。結氷した湖面はつるつるして何度も転んでいる。

おじさんばかりかと思ったら、結構若い家族連れなんかもいた。
短い竿がくっとしなるかと思うと。
ピカピカ光るワカサギが、氷の穴からすっと現れる。
一回で一匹の仕掛けなのかな。結構簡単そうに見える。


そういえばもうすぐ春節だ。




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