| 2004年03月31日(水) |
書を捨てよ街へ出よう |
文部科学省の教科書検定。
一端削られた内容が、「発展的内容」として復活した。
文部科学省は「今年から復活した」と、 胸を張って発表しているようだが、 旧バージョンの教科書を使った子ども達が、再び 新しい教科書で学ぶわけではない。
教科書が変わった、というのは 定点観測をしている大人の視点だと思う。 子どもにとっては一期一会の教本であり、知の源泉だ。
そういう大切な教科書のスタンスがコロコロ変わるというのは、 教育者をはじめ大人への信頼に関わる問題だと思う。 その点では、 戦争中に使っていた教科書を終戦後に塗りつぶされたのと相違ない。
もちろん試行錯誤は悪いことではないし、 教える内容が社会経済状況に対応して変化するのは妥当なことだ。
だからせめて教科書の冒頭には、 「この本は、貴方達の学習のために、 現段階で考え得る最高の内容としている。 しかし不必要な内容があるかもしれないし、 もっと学ぶべきことはあるかもしれない。 それは、貴方達もよく考えて欲しい。」
ぐらいの断り書きを示すのが、フェアというものではないだろうか。
だいたい教科書をそれ程まで重視する姿勢が、 私はどうも面白くないのだ。
2000年に、有珠山と三宅島雄岳という二つの火山で噴火があった。 自然の摂理の前に、人間、特に男の人達が まだか、もうかと騒いでいるのを見て、 それ以来、噴火には出産と同じような イメージを持つようになってしまった。
噴火という百年単位のこの地球規模の活動に対して、人は 本来ならば十年ぐらい途方にくれているのがいいのだと思う。 しかしながらそれでは社会生活が成り立たないので、 必要な部分だけ、人為を加えて安全と快適性を確保する、 というのが、まあ妥当な道筋なのではないかと思う。
東京都が発表した「三宅島緑化ガイドライン」には、 植物、土壌、菌類、生態系など、 あらゆる自然環境分野におけるエキスパート達の そうした思いが込められている。よい仕上がりだ。
島の復興は、帰島する島民の 生活の質を保証するものでなくてはならない。 同じ島に帰ってきたと思えることが重要だと思う。
彼らは、都市生活者には全く考えが及ばないほど 自然や風土と共に人生を生きている。 あだや外来種の緑で覆うなどということを 軽々しく行ってはいけない。 それは島民にとって、留守中の自宅に 外国人が違法侵入しているような違和感なのだ。
おそらくきっと、 噴火により荒れ果てた故郷を見るほうがずっとましだと思う。 誕生とは、痛みを伴ってもそれは豊かさの象徴なのだ。
仕事の合間に日記を埋める。
「埋める」ぐらいならやめればいいのだけれど、 ないとそれなりに困る。自分のネガ毒が溜まってしまうので。
さらに最近はここのカテゴリの内容から大きく外れ続けてしまっていて、 ムダにアクセスしてしまった人がいれば、お詫びしなければならない。
自分の置かれた立場からすれば 出産育児とか仕事、が適切なはずなのだけれど 実はどうもこのカテゴリでの自己表現が苦手なのである。
私の場合、そういうことから目を離して 自分を見つめなおすために日記を書いている訳なので。
そのためにはそれなりの努力が必要と思い、 社会問題にトライしているわけである。
しかしながら続けるというのは、しかも 時間のない時にもやらなければならないというのは、 本当に大変だ。 100回を目標とする腹筋運動の95回目の如く、である。
勝手に師匠的日記とさせてもらっている 「JIROの独断的日記」は、 客観的事実と感想を分けて書いてあるのが好きだ。そして 批判は批判としてきちんと理由を示しているのがいい。さらに 時折見せる天体情報とか音楽の話の中で、 さりげなく著者の感性が伺えるのが素敵である。
留守中届いたCDを楽しみに開封した。 昨年来日し、奇跡といわれたステージを残してくれた ジョアン・ジルベルトの、そのライブ盤である。
安物のCDデッキから聞こえてきたボサノバの神様の声は 再び私を9月16日に引き戻す。
話がとぶけれど、 ソルフェージュの訓練をしていた人なら誰でもそうであるように、 自分はある程度の音が取れるようになっている。相対音感だ。
それなので、耳に入る音楽はたいてい、 頭の中で「ドレミ」という言葉の翻訳が付いてきてしまう。 これは本当に、音を楽しむことを損なっていて、 自分でもつまらなく思う。
件のジョアンの歌は、 私の中途半端な音感が付いてこられない繊細の境地にいるので、 本当に純粋に心に響く。 自分の心の庭へ導いてくれ、時間を共有してくれる 数少ない宝ものだ。
アルバム名にあるとおり 「声とギター」が柔らかくしなり、 呼応して、生命をもつ。 この音楽という生命と生きるために、彼は生きているのだ。
「僕は音楽で自分を表現している。その音楽が音楽として良いか悪いかだけが重要だ。言葉による補足は必要ではない。音楽を言葉の世界に翻訳するのは不可能だ」 若かりしジョアンの言葉。その姿勢は今も少しも変わらない。
HとAと休日を過ごす。外は良い天気だ。
天気の良い朝は無性にパンケーキが食べたくなって、 それを呼び水にしてAと布団から出るのだけれど、 たいがい先に起きているHが、 味噌汁にご飯と納豆をセッティングしているので まあいいか、というふうになる。
腹ごしらえをして、洗濯掃除、そして外へ。
まだ白っぽい河原の芝生で走るA。 それを追いかけるH。 HがAにふざけてみせると、Aが笑う。 それをみて私が嬉しくなって笑う。
頭がおかしくなったんじゃないかと思うほど幸福感で満たされる。 ああそうか、寒さを抜けて、春だった。
全然違うことを書こうかと思ったが、やめた。
純粋に愛をもって成す 同性愛者の方には申し訳なく思う。 しかし久しく忘れていた あのことを今日は思いだした。 こういう風に書かざるを得ない。
日本の社会はホモ社会だ。 女のワタシには立ち入れない コミュニケーションがある。
いい年をしたネクタイスーツの男たちが、 フォーマルな場で「○○ちゃん」と呼び合ったり、 気安く肩を叩き合ったり、囁きあったり、 そういうコミュニケーションによって 色々な力関係がやりくりされ、重要な事項が決められていると思うと、 反吐が出そうになる。
もうそういうものは絶滅したかと思っていたけれど、 なんのなんの、しぶとく生きていた。 誰か気づいてほしい。 それはマントリング行為であり、 同姓間における強姦行為だと。
年度末も年度末。
実務上の節目としては、今や正月よりも年度末の方が 自分にとって意味が大きくなっている年度末。 そして「実務上の節目」というのは彼方此方から追い立てられて、 いろいろと恨めしいものなんである。
卒業式やら進学やらがあるから、学校でもきっと 「師が走る」のは年末より年度末だろう。 もっともこちらは「人生の節目」という、もっと格の高い節目だから、 忙しくする甲斐もあるというものだ。
☆
地元の雑事、しかしながら必要な仕事を済ませ、事務所にて仕事。 久しぶりに街の中を車で走ったら、なぜか緩やかに渋滞している。 年度末か五十日かと思ったが、原因は街に溢れかえる教習車だった。
この街には三つの自動車学校が近接している。 自分も世話になったクチなので、通常ならば路上教習車に暖かい態度だ。 しかし学校が休みに入る3月は本当に多い。多すぎる。 一体全体、街の中に何台潜伏しているのだ!
そこでハンドルを執りながら、 「民間企業が交通量に影響するほど公道を占有するのは いささか問題だよな」、とか、 しかめ面で難しいことを言ってみる。 カーラジオのDJは勝手に喋っている。
昨日の雪はすっかり解けてしまった。生暖かい曇天日。
| 2004年03月23日(火) |
頼むから静かにしてくれ |
事務所にて仕事。
六田登という漫画家の、「頼むから静かにしてくれ」という漫画。
死んでしまった天才レーサーに憑依され、 成績を上げる若い女レーサーの話。 「生きている人間は、沢山の死者とともにいる」という結末。 タイトルは、自分の内側で生き続ける死者達が賑やかしい様をいっている。
モータースポーツのマンガが、 こういう深みのある展開で結末を迎えるとは意外だった。 後半ぎりぎりまで面白コンテンツで若い読者を引きつけ、 最終回間際の数回で、タイトルに寄せた自身の思いを表現している。 優れた作家なのだなと思う。
これを読んで、 小林秀雄氏の名著「無常といふこと」を思い出した。 現代人は、室町時代の町娘ほどにも無常ということを判っていない、 と書いてあった。ような気がする。
現代社会は「今」に忙しすぎて、 ヒトから想像力や客観性を奪っている。 だから死者や、自分がいなくなった世界について なかなか考えが及ばないのだろう。
「死んだらオシマイよ」というのは結構カッコいい心構えだけど、 自分さえよければ後はいいと言っているようで貧しいと思う。 観光地でゴミをポイ捨てして、そのまま家に帰るような感じ。
自分の中の、沢山の死者を思う。 今でも自分を励まし時に軌道修正してくれる人がいる。 こういう存在の積み重ねで、自分の年輪が豊かになっていく。 自分なき、次の世代を思う。 先代にもらったものを、次代にも分けてあげたいと思う。 だから私は、出来る範囲で一生懸命子どもを育てる。
一週間在京。
家に戻ったら花冷えだ。 暖かかった冬の落とし前をつけるように、しんしんと雪が降る。
文芸春秋が、芥川賞の騒ぎの後夜祭のつもりか、 若手2人の受賞作品に対するコメント特集を組んでいる。
親にもらった体に傷をつけるなんて言語道断だ!とか、 こんなものは文学じゃない!と一喝している政治評論家もいた。 大した事ないと思ったらすごくよかった、 誤解していた自分を作者に謝りたいと記す女性アナウンサー。
色々な意味で微苦笑。 こりゃ、作品そのものを読むより面白い。
どうしてこんな特集をわざわざ読んだかと言うと、 義家弘介センセイが感想を寄稿していたからだ。 そしてやはり、素晴らしい感想を寄せていた。
彼は作品に対する感想なんか一行も書いていないのである。
ただひたすらに、「よく書いた!賞をもらってよかったな!頑張ったな!」と、若い作家へ、また背後にいる若い読者たちへ、 エールを送っているのである。自分らしく生きろ、と。
文芸春秋というメジャーな媒体におもねることなく、 芥川賞という権威に臆することもなく、 教育者としての自分の軸足を少しもずらさずに、 若者へ眼差しを向けられるこの人は、本当に先生なんだなあ。
こういう熱血先生を疎ましく思わずになったのは、 いい意味で自分が大人になったからかもしれない。
魑魅魍魎が跋扈する社会の中で、ひたすら熱血でいることが どんなに大変かわかるようになったということだ。
| 2004年03月15日(月) |
Mayor! Mayor! |
新市長が誕生した。
投票者数 161,863 有効投票 99,919 新市長 48,758 前市長 39,043 他候補 12,118
有権者数161,863人という数字に、 改めて小さな自治集団だと感じる。 要するに、町内会の寄せ集めなのだ。 だから、首長の意向ないしは威光は少なからず街の空気に影響する。 市長さんとは、知事とも違う難しい役どころなのだと思う。 政策手腕はもちろんのことだけれど、 やはり、市民に慕われる人柄が必要なんではないかとも思う。
長年続いた政権が変わるので、一瞬祭り上げたい気分になるが、 市長に「迎えた」訳じゃなくて、「選んだ」 ということを忘れずにいたい。 どうかこの死にかけた街に取り込まれずに、 職務を果たしてもらいたいものである。 まあ色々言っても、明るいニュースではある。
ああ、春だ。 HとAと3人で家の大掃除。中も外も。 秋に掃き残した庭の落ち葉を片付け、玄関前の野ばらを剪定し、 玄関前を掃き清めて水をまく。 家の外の掃除や手入れができるというのは贅沢だ。 住まいの中に、そういうスペースがあるということが。
★
「春よ来い」をAに歌ってやったら、「里」って何だと聞かれた。 同時に「野」って何だ、とも。 山に来た里に来た野にも来た、の里のことで、何と説明するかしばし熟考。
最近のAは、聞いたことのない言葉にとても敏感に反応する。 すぐに意味を知りたがり、知ればすぐに使いたがる。 言葉の海へ漕ぎ出したのがよくわかる。ようこそ世界の大海原へ。
★
まだ少し早いと思ったが、イチゴを買い付けジャムをつくる。 本当は酸味の強い女峰がベストだが市場になかったので我慢。
Aは山ほどのイチゴに、喜びのあまり嬌声をあげている。 ヘタを取る作業を一緒にするも、2つとるうち1つを口に入れるので 能率の悪いこと、お腹が膨れること。とうとう取り上げたら、泣いた。 散々食べたくせに全然もらえない人みたいに泣くので、 文句を言ってわんわん泣く横で、何言ってんのよとげらげら笑う。
2日火にかけて、ようやくできた。 これをつけるパンはどこで手に入れよう。楽しみ。
★
市長選。 保守的なこの街は、どんなに高齢だろうが再選が弊害をもたらそうが、 現職が強いのだろう。どうしても。 何かを変えたいと市民が思っているようにはとても思えない街だ。 だから街のあちらこちらがもう壊死している。
一票に僅かな望みを託す。たった20万人都市といっても 一票は大河の一滴だよなあ。
民族映画を見る会、というような集まりで、 バスク地方のチーズ作りの映像をみたことがある。
ヤギのチーズだったと思うが、ある季節がくると各家からヤギを委託されて、山へヤギと男たちが登っていく。チーズ作りの季節はずっとその山小屋で過ごすのだ。
見終わった後にそのバスクのチーズというのがどうしても食べたくて、 あちこち探し、ようやく手に入ったその味は、しょっぱい労働の味がした。
民族の誇りをもって戦ってきたのならば、 他の紛争に触発されてはいけないと思う。
テロはよくないことだ。 さらに、民族自立をうたっておきながら、他の民族から触発されたテロは最悪だ。
| 2004年03月11日(木) |
come back to home |
家に帰る。 Aが駆け寄ってくる。 言いたいことが溜まりすぎて、顔が変になっている。 頑張ったねと誉めても嬉しそうではない。そりゃそうだ。 こんな時何といったら言いのだろう。 布団に入ったら、抱きついてきた。
兎にも角にも、家に帰る。脳が解放される。 Hは明日から山。国内での今シーズン最後の冬山。
*
丁度思っていた長島一茂氏のことを、 お気に入りのJIRO氏の日記で書いてあるのを見つける。
野球は興味がないし、野球界はどちらかというと嫌いだ。 長島茂男氏が倒れたニュースについても、ああ大変だという程度だった。
何故関心をもったかというと、スポーツニュースで解説している長島一茂氏の顔が 本当に痛々しく、しかしながら今まで見たことも無いほど精悍だったからだ。 どうして人間は、困難や悲しみ、苦痛を受けとめて乗り越えようとする時、 ああも美しい表情をみせるのだろう。
考えてみれば、 長島茂男という人は今やっと家族の元に帰ってきたのである。 長島家において父親を支えるのは今、一茂氏彼しかいない。 野球界、野球人生において二の次にされてきた親子という絆が、 今やっと、誰に遠慮することもなく彼のアイデンティティの中で発揮できるのかもしれない。
たった一人のお父さん、早く回復されるといいなと思う。 野球界のためにではなく、人生の残された時間の中で、 親子の関係を深める時間を持つために。
| 2004年03月10日(水) |
聖トーマス教会受難、そして光 |
東京オペラシティでバッハの「マタイ受難曲」を鑑賞。 聖トーマス教会合唱団というドイツの歴史ある少年合唱団と、これまた歴史ある(世界で最も古いオーケストラといわれている)ゲバントハウス管弦楽団という楽団の共演。
成り行き上チケットを引きうけたせいもあるのだけど、 宗教曲の重さに加えて、人が受難する曲なんかを3時間も聞かされてしんどかった。ただでさえ家に帰れず受難している時だというのに。
さらに私をがっかりさせたのは、合唱団の子供達にとにかく落ち着きが無いのである。自分達の出番ではない時に、顔を掻く、身体をゆする、会場をきょろきょろ見まわす、挙句の果てにお喋りまで始める始末。少しもじっとしていないし、姿勢が悪い。とても自分の身体を楽器にする人の姿勢ではない。 聴衆の日本人(熟年のコーラス愛好家風の人が多数)のほうが微動だにせず聴いている始末だ。
歴史有る合唱団も現代っ子には違いないもんなあ、彼らも普段はフリースのジャケットを着てパソコンゲームとかしてるんだろうなあ。
こんな歌い方をされるなんて、イエスさんもつくづく受難だわね、と怒る気も失せた時、
その中でただ一人、輝くような子がいた。 コンダクターの方を真っ直ぐ見つめ、美しい立ち姿で微動だにせず歌っていた。 完全に自立したミュージシャンとして、演奏の世界に溶けこんでいた。 ああ私は今日彼に出会うために、ここに来たんだなあと、思った。
演奏が終了し、3時間にもわたるコーラスを歌い上げた瞬間、 彼の小さな肩がホッとしたように小さく揺れて、初めて少年らしさをのぞかせた。 隣の少年と、歌い遂げた握手をしようと手を差し出したようだが、振られてしまったようであった。
私は彼のためだけに拍手を続けた。
ブラボー!少年。ありがとう、少年。 受難の時代の救済は、輝ける一人でもできるのだね。
多忙の中、ゲド戦記読了。 ここ数日ずっと反芻していた。 頭の半分で仕事をし、もう半分で熱病にかかったように このファンタジーのことを考えていた。 まったく、なんという作品か!
*
人間、老いて死んでいく準備に何が必要なんだろう。 年金だとか介護だとか墓だとかそういうことに追われすぎて、 人生を俯瞰して生きることができないでいる。 高齢化社会はとっくに始まっているのに、 そのへんのところが社会的にあまり成熟していない気がする。 服を脱ぐように社会的関わりやそのための能力は衰えていく。 人間まるごと生きることの難しさ。
*
日産の高級自動車の盗難が米国で相次いだ。 「こんなことになるのは、メーカーの日産が 盗難の危険をちゃんと伝えていないからだ」と訴えられている。 アメリカらしい訴訟の、久々のヒットだ。 このニュースを聞いて「そういう奴はもう車に乗るな」と、 日本で何人思っただろう。
ワタシの国は車を盗まれて当たり前の国です、 と胸を張って主張する国。
* 留守番しているAが、普段言わない「オヤジ」なんて言葉を口にするらしい。 別段禁じているわけではないが、ワタシがそういう言い回しが好きでないのを感じているのかもしれない。 小さい人は、本当に親に好かれたいとセンサーを働かせているものだと思う。 不在中にちょっとそんなイレギュラーな言い回しをして楽しんでいる。 早く家に帰りたいなあ。
| 2004年03月07日(日) |
ファイトレメディエーション馬鹿 |
ファイトレメディエーションというのは、土壌汚染浄化技術の一つで、 ダイオキシンや鉛、砒素なんかの有害物質を植物に吸収させるというものらしい。HPで検索すればいくらでもでてくる最先端の技術だ。シダとかナズナに高濃度にダイオキシンを蓄積させるとかいう結構気持ち悪い技術なのである。
これの情報収集をしていて笑ってしまったのは、 有害物質の吸収率の高い植物の「使用権」なるものが存在するそうだ。 収集した情報では、アメリカの民間企業から日本のゼネコンがこの権利を買ったと書いてあった。
種子というのは植民地時代からビジネスや利権の対象になっていることは知っている。それだけの価値があることはわかる。バイオ技術や製薬技術の業界でも特別の利権があることは知っている。
しかし今回のそれは、植物のもつ特性を占有しようとする点で可笑しいのだ。もともと土地にあって、そもそもその特性は人間のものではないではないか。 ひとたび人間にとって利用価値があるとわかると、こうまでも自分のものにしようとするのだろうか。人間は本当に愚かだ。
権利をもっている会社は、自分が囲い込んでいる植物の種が自然に飛んでいかないよう、世界中で監視しなくちゃね。
| 2004年03月06日(土) |
家畜人ヤプーである状態 |
餓死で亡くなった12歳の少年のニュースがでる前の日に、 日本生理人類学会のシンポジウムの記事が目にとまっていた。
この学会の会長でもある長崎短期大学教授の佐藤方彦という方の基調講演が掲載されていた。 「野生動物はそれぞれが進化の過程で獲得した方法で子どもを育てますが、家畜は子育てが下手です。性的には活発ですが育児本能が退化しています。人間にもこの傾向があり、自己家畜化現象とよばれています。」
ちょっと付け足すと、家畜が下手なのは子育てだけではない。 牛やヤギなどは人の手を借りないと子産みさえできない。
仕事がら、科学を語る人の発言はその人の研究センスや姿勢などのバイアスをチェックして客観的に理解すべしとしているので、この講演について安易に賛同するのが怖くもあるが、でもしかし科学の目でそのような問題提起がなされるのはいいことだと思う。
だって、「人が家畜化されている」だなんて、 生理人類学という科学の看板でも背負わなければ、 詩人か、ただの厭世家の戯言になってしまう。 厭世家の戯言であるべき、抽象的なものであるべきことが、 そこにおさまっていない怖さ、である。
しかし件の講演録の「性的には活発ですが」の一文が悲しく笑わせる。しかしなぜ家畜化された動物は、性的には活発になるのだろう。合理的ではない気がするのだが。
できれば死ぬまで人間でいたいなあ。人間で。
やっと週末だ。もう、とも言える。
さあ家に帰ろう。
いつものことだがAは電話口に決して出ようとしない。 生身で面と向かった、最上級のコミュニケーションしか認めない姿勢だ。 不在をごまかすように電話した自分の甘さを思い知る。
家に帰ったら、HとAから沢山話を聞こう。話をしよう。
どこかの牛丼やが出した「豚めし」という商品をみて、 こういう食べさせ方をする店でこのネーミングでは 「豚のめし」と相異ないな、と思っていた矢先、 食育基本法案が自民党内で協議されたのらしい。
食の大切さを説く法律なんて必要あるのか。 法律とは何だ、とふと考えてしまう。
食べるという人間として初歩の初歩である価値観を 法律で定めなければ正常に身につけられない社会や文化に 薄ら寒い思いをする。 そのうち排泄教育基本法とか性交教育基本法とかできるんじゃないか。 阿呆か、という感じである。 国民を家畜化するつもりなのか。
生物としての基本的な営みにかかわる部分を 政治によって教育しようなどとは、 思い上がりもはなはだしい。
昨日の日記の舌の根も乾かないうちに、単身上京。 置いてきたAが気がかり。 自分の不在を説明する間、Aは目を逸らし、複雑な顔をする。 やや置いて、自分は大丈夫だ、というようなことを自分の言葉で言う。
こういう時に働く親というのはすまなそうな顔をしてはいけない、と 何かの本に書いてあったが、ちょっと自分にはできない技だ。 自分を偽らず、不在を詫び、抱きしめておく。
寒の戻りで、朝家を出るときは寒かった。 今晩は雪になるらしい。
| 2004年03月02日(火) |
保育士による景気動向指数 |
知人の保育士にインタビューする。
ふうん、と思ったのは、この十年ほど親の労働負荷が増していることが、 保育の現場から感じとれるという。おそらく不景気のせいだという。
確かに、休日に子どもをあずけて出勤する親が増えれば、 そういうことはリアルにわかるのだろう。お迎えの時間が遅くなるとか。
バブル崩壊後ぐらいからそうした傾向が現れてきて、 子ども達はそいういう大人の忙しさに巻き込まれている状況だ、という。
なんだこれは今の自分のことじゃんか、と気付き恥ずかしくなる。
「自分の忙しさ」という出来事一つとれば、今はそういう時とか、 年度末だから、とか色々解釈というか言い訳ができる。
「景気の影響で、あなたは今不健全な忙しさを抱えていますよ」という重要なサジェッションを、まさか保育の現場からもらうとは思わなかった。
じゃあ今すぐに職変えか、とかそういうことにはならないにせよ、 今自分やAが置かれている状況を言い訳せずに把握できてよかったと思う。
多数の親は、馬鹿みたいな忙しさを抱えて子どもを育てたいと思っているわけではないはずだ。
午前中に雪が降る。
多忙中の多忙、忙殺中の忙殺の中「ゲド戦記�供廚鯑匹燹� 安寧か自由か。従属か解放か。
閉所暗所が怖くて仕方がない人間なので、 物語が墓地の下の巨大迷路の描写になると ちょっとつらい。いや、ものすごくつらい。
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市町村合併の新聞記事を、Hが真面目な顔をして読んでいる。 この長野県という場所では、作業が難航しているのらしい。
国が主導のこの強引な方法について異議を唱えるのはわかる。 それにワタシは別に合併推進論者ではない。 でも、ゴミ処理量が増えるとか、 財政的にお荷物になるなどという理由で反対するのは、 何かさもしい感じがする。
ましてや政治家がそういう政策のテクニカルな部分を理由に反対するのは、 自分に政治的手腕がないことを明言しているように思う。
行政上の課題はいつだってどんな時代だって存在する。 合併しようがしまいが、ゴミの問題や財政の問題は解決しなければならない問題なのだから。
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