「硝子の月」
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「どうした?」 青年の声にはっと我に返る。 「別に。アニス」 彼からも月からもふいと顔を背けて、窓のほうに腕を差し出す。 すぐに羽音がして、いつもの重みが腕に加わる。 「『別に』って様子か、それが」 「うるせぇな」 アニスをベッドの枕元に止まらせて、自分は布団に潜り込む。 「やれやれ」と肩をすくめたような気配がして、青年も自分のベッドに戻った。 「……なぁ」 少年は静かに呟く。 「『硝子の月』を手に入れたら、どんなことが出来んだろうな」
闇に尾を引いて声の余韻が消えてゆく。アニスは促すように空を見つめた。 ティオはつられるように、空を見上げる。
月が浮かんでいる。空に穿たれた穴のようにぽっかりと。 蒼褪めた月。存外に明るいひかりがこぼれる。
───ティオ。
まるで実際に耳元に囁くようにさえ聞こえる。
───ティオ、ごめんね。ゆるして───…
すすり泣くような声。絶望に濡れた、こえ。 いとおしく懐かしく物寂しく、なんともひどい風に胸を痛めてやまない。
自我が生まれるより前の話。意思が生まれるより前の話。 記憶を記憶とさえ残せないほどの昔、誰と認識すらできなかったひとが残した言葉。 ごめんね、と 繰り返し囁く。 こころより早く刻まれた記憶は、ただ穏やかさだけのある温もりをも伝えてくれた。
それが抱き上げた腕の温度なのだと、なにも知らないままにティオはしっていた。
───あいしてるわ、わたしの子───
「アニス?」 夜中にティオは親友の名を呼んだ。 窓辺にルリハヤブサのシルエットが浮かんでいる。その輪郭は月光に縁取られ、陽光の下で見るよりも不思議と青味が増して見えた。 「どうした?」 向かいのベッドから青年の声がした。二部屋も宿を取る余裕は無いので、当然同じ部屋にいるのである。 「アニス?」 彼の問いには応えずに、少年はもう一度親友の名を呼ぶ。 蒼い鳥は眼差しを少年に向ける。 ピィ 短い鳴き声。
「今のあたしにもう一言でも勘違い野郎な台詞を聞かせてごらんなさい? あんたに夜明けはやって来ないわよ……?」 別に疑問文ではないのだが語尾が微妙に上がってしまう。 「ルウファ……君と一緒なら永遠の夜も怖くは無い。寧ろ昇り来る太陽を恨みに思うことだろう! 僕達の夜の終わりを告げる無粋な太陽などな!」 ぶち。 何かが切れる音がした。 「『闇に住まいし昏(き御身(…』」 「え?」 「『御身こそは闇そのもの…』」 「ちょ、ルウファ?」 「『我が敵なるものを御身の内に呑み込みて糧となせ――』」 常人には聞き取れぬ呪文が後に続く。 「あの、いきなりそんな闇の高等魔法を……」 引きつった笑みを貼り付けた青年が後ずさる。 「『闇食い』」 「のわぁぁああああああぁぁっ!!」 空中に夜とは違う闇が現れると、青年を呑み込んで消えた。 「……あー、無駄に精神力使っちゃった。でもまぁ」 少女はにっこりと笑う。 「すっきりした♪」 後はただただ静かな夜であった。
「ルウファー? どうして先行っちゃうんだよ」 ふよふよと宙に浮きながら青年が追いかけてきた。 性質の悪い亡霊にでも付きまとわれているようで更にイライラする。…もっとも、悪霊と言われればそうかと納得しないでもないが。 「歩きなさいよアンタ! ものぐさしないで! いつもいつもいつもふよふよだらだらと空に浮かんでんじゃないわよ、いくら煙とナントカだからってッ!!」 ついにキレて怒鳴ると、青年はきょとんと目を瞬かせた。 そしてややあって、そこにぱっと希望───だかなんだか───の光を灯し、何を言う間もなくこちらの手を握ってくる。 「そうか! 俺と一緒に歩きたくて拗ねてたんだねルウファ! 気付かなくてすまなかった俺としたことが!」 「───…」 ルウファは一瞬、かなり本気で青年に致命的なダメージを与える瞬間を思い描いた。 実際そうしてやろうかという気分をギリギリ、コップに注いだ水の表面張力程度にギリギリ、押さえ込む。もっとも今この瞬間にそれが零れてもいいような気も、同時にした。 「シオン───…」 名前を呼ぶ。まるで何かを諦めきったような心地で。 花が咲き零れるように鮮やかに微笑みながら、彼女は囁いた。
「ご機嫌斜めだねお嬢さん」 不意に空中から声が掛けられた。 「……ええ、そして今更に最悪って域にまで辿りついたわ」 声の主を見上げて、少女は心の奥底から嫌そうに言ってやった。 「ちょっとその態度は冷た過ぎるんじゃない? 仮にも近い未来の夫に対してさ」 「叩き落してあげましょうか?」 ただでさえ機嫌が悪かったのだから、堪忍袋の緒は容易にぶち切れること受け合いである。 「ルウファにだったらいいなぁ」 ゴッ……べしょ 声の主の台詞が終わるとほぼ同時に鈍い音がして、彼は地面に叩き付けられた。今まで彼がいたはずの所には、代わりに筋肉ムキムキのお兄さん(上半身のみ)が力こぶを披露している。 「ひど……」 「あんたがいいって言ったんでしょ?」 「僕は『ルウファにだったら』って言いました!」 勢いよく起き上がって抗議を述べたのは、二十前後の青年だった。打たれ強い男である。 「あたしがやったのよ」 「手を下したのはあれだろ!? 俺は嫌ですあんなのに殴られるのなんて! だいたいどうしてわざわざ精霊召還なんてするんだよ! 盗賊に教われた時は自分で戦うくせに! はっ! そうか!」 青年は何事かに気付き驚愕に目を見開く。 「わざわざ精神力を消費してまでこの俺と関わりたい、いや、この俺の為なら精神力の消費も厭わぬと! 嗚呼それほどまでに俺のことを! 俺の胸は感激で張り裂けそうだぜルウファ!! ……って、あれ?」 青年が再び顔をそちらに向けた時には、少女の姿は既にその場から消えていたのであった。
2001年10月19日(金) |
<月下> 瀬生曲、朔也 |
「しけてるわねぇ」 満月を背にして少女は溜息をついた。見下ろす先には返り討ちにしてやった盗賊。 「人を襲っといて自分はこれしか持ってないわけ?」 持っていないから他人様を襲うのだと思われるが…… 「ったく……余計な時間食っちゃった」 盗賊の財布の中身を手のひらにあけて「割に合わないわ」と呟く。が、ないよりはましと開き直り、自分の財布に入れる。 「じゃあね、おじさん達。次から人を見掛けだけで判断しちゃ駄目よ」 彼女が身を翻すと、しゃらんと鈴の音がした。
辺りに家の一軒も見えない長い道を、彼女は一人歩く。 月のひかりにさらされた道がしろくひかった。月そのものの上を歩いているような気にさえなり、軽く目をほそめ。 「…やってらんないわね」 軽くため息を吐く。 女、しかも軽装の少女の一人歩き。月の明るさは行く手を照らしてくれるけれど、それ以上に格好の獲物の存在を示してしまうもので。 実際のところ、旅に出てから出会った盗賊の数は、一組や二組の騒ぎではなかった。 まぁその全てを叩きのめしてはきたが、有体に言って、
「うざったいったらないわよッ!!」 唐突に、彼女は月に向かって叫んだ。
「世の中舐めてるの!? 働きもせずにいたいけな女の子襲おうなんて、どうしてこう揃いも揃って馬鹿ばっかり!! 大体武器持ってればそれだけで強いと思ってるのが馬鹿すぎってどうしてわかんないのよああ馬鹿だからね知ってるけどいい加減にして欲しいわよまったく!!」
ノンブレスで10秒プラスマイナス2。フラストレーション爆発である。 その「いたいけな女の子」を襲って返り討ちに合った盗賊たちからせしめた金品で、ちりも積もればなんとかと言うか、そこそこ懐は暖かくなった。
しかし、よるとさわるとうじゃうじゃうじゃうじゃと現れる、(彼女曰く)きたないオヤジたちには心底うんざりだった。 「こうなったら一刻も早く! 街にたどり着いてやるからねッ!!」 決意も新た、彼女はキッと道の先を見据えた。
「それはな、『硝子の月』があるからさ」 少年の答えを待たずに、グレンはそう言った。その瞳には抑えきれない感情がある。それは喜怒哀楽で言うのならば「喜」であろうと思われた。 「『硝子の月』……」 「聞いたことぐらいはあるだろ? 『それを手にしたものは世界を手にする』っていう、伝説のあれだ」 ただの迷信だとは言えない、歴史に幾度となく登場する伝説。 「あんたは世界を手に入れたいのか?」 「いや」 少年の問いに青年が笑う。 「見てみたいだけさ。欲しければお前にやる」 それはきっと本心から出た言葉。 「……ルリハヤブサ盗もうとした奴の台詞とは思えねぇな」 「それはもう忘れろって」 ティオの悪態に、彼はがっくりと肩を落とした。
「あんたの目的は何なんだよ」 それを聞いておかなくては返事は出来ない。少なくとも物凄い悪人ということはないようだが。 「お前、この大陸がなんて呼ばれてるか知ってるか?」 ティオの問いには答えず、グレンは唐突にそう問い掛けた。 「『第一大陸』だろ? 馬鹿にしてんのか?」 自分の住む大陸の異称くらい五歳の子供でも知っている。 「じゃあ、何故そう呼ばれるのかは? 『じおぐらふぃー』最大の『魔法大陸』でも最小の『機械大陸』でもない半端なこの大陸が何故最初に数えられるのか」 青年は口元に笑みを浮かべて目を細める。
「信用されると思ってんのか?」 胡散臭そうな顔を隠そうともせず、ティオは青年を見遣った。 「まァよ。どーせ金もねぇんだろ? いいじゃねえか。 こんな街でそんな高価な鳥と一緒に野宿なんかしてみろよ、明日の朝にはお前の死体だけ河に浮いてるなんてことになりかねねえぜ?」 「───…」 そう言われ、少年は一瞬黙り込む。そんな馬鹿なと跳ね除けられない身の上が哀しい。 「おまけにお前みてえなよそ者のガキじゃ、仕事だって簡単には見付からねえよ。 こんな所で行き倒れてえのか?」 畳み掛けるような青年の熱心さに、ティオの顔が更に疑わしげになった。 「…で? なんだってお前がその『よそ者のガキ』の面倒を見てやろうなんて思うわけ?」 とげとげしい言葉に、けれど青年はけろりと笑う。 「なに。ちょっとばかしお前さんのことが気に入ったのさ。 …それだけだ」
「ちげーよ」 食べる手は休めずに視線だけを向けて、少年は不機嫌に応じる。 「んで、行く当ては? 宿はあんのか?」 その言葉をそのまま受け止めたのかどうか、青年は問いを重ねる。 「どっちもねぇ」 「よし。じゃあ俺と一緒に来い」 「はぁ?」 流石に手が止まった。ティオの眉間には思いっきり縦じわが寄っている。 「何があって家を出たのかは知らねぇし、訊かねぇ。それについちゃ俺もあんまり偉そうなこた言えねぇからな。けど、子供の一人歩きは危険だぜ」 「子供じゃねーし、かっぱらいの片棒担ぐ気も無い」 「馬鹿。ありゃちょっとした出来心だ」 『出来心』で親友を攫われたのではたまったものではない。
「怒鳴んなよ。オッサンのくせにおと…」 「『オッサン』じゃねぇ」 「……はい」 本当は『大人気ねぇ』と続けようとしたのだが、何やら物凄い迫力で顔を近付けられたのでやめてやった。その上珍しく素直な返事までしてやったのだからティオにすれば大サービスである。 (何かよっぽど嫌な思い出でもあんのかな) 「で、お前は?」 「いや別に」 そんなにいい生活ではなかったが、ここまでむきになるようなことは今のところない。 「は? 名前訊いてんだよ俺(ゃぁ」 「ああ、そっか」 噛み合わない会話に眉根を寄せた男を見て、本来の話題を思い出す。 相手が名乗った以上はこちらも名乗るべきであろう。おそらくはそれが礼儀と言うものだ。 「ティオ・ホージュ。こっちがアニス。今度攫おうとしたらマジぶっ殺ス」 名前の他にちょっとした注意事項も付け加えておく。 「あーはいはい、悪かったよ」 うんざりとした様子で何杯目かわからない果実酒をあおって、グレンと名乗った男は溜息をついた。 「スープおかわり」 「まだ食うのか」 「オッ……あんたと違って食べ盛りなんだよ」 ただ飯を食い溜めしておこうという魂胆もある。 「……お前、家出人か」
「俺が小僧ならアンタはオッサンじゃん」 あっさり肩をすくめ、小憎たらしくティオはせせら笑って見せた。 「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀ってモンだろ?」 簡単に挑発に乗るほど馬鹿ではない。ひったくり如きに嘗められる気は毛頭ないのだ。 「おっさ…って、俺はまだ二十代だぞ!?」 男が力んで反論した。二十代のいくつなのかを言わない辺りが微妙である。 「見た目がオッサンなんだよ」 「なんだとっ!? お前だってチビじゃねえか!!」 「俺はこれから伸び盛り。オッサンはこれから年取る一方」 「────ッ!!」 ティオは素知らぬ顔でアニスに肉を切り分けてやる。 男は怒鳴りつける一歩手前の顔で、ぐーっと果実酒を喉に流し込んで息を吐いた。 「───れん」 「…は?」 低い声に聞き取り損ね、ティオは聞き返した。 「グレン・ダナスだ! しっかり覚えとけこのクソガキ!!」 男は噛み付くように怒鳴った。
「わ、悪かった! 俺が悪かったよ! 飯奢(ってやるからやめさせてくれ!」 「そんなことくらいで…」 グゥ… とりあえずそういうことになった。
「ったく、何が悲しゅうて俺がこんなガキに飯を奢らにゃならんのだ」 「何か言ったか?」 「いーえー、ベーつに−」 パスタを食べる手を止めて、ティオは警戒の目を向ける。晩飯を奢ってもらったくらいで懐柔される程素直な育ち方はしていない。 「せめて年頃のかわいいねーちゃんだったらなぁって言ったのさ」 男にはさほど悪びれた様子もない。果実酒をまるで水のようにあおっている。 「よう小僧、奢ってやってんだから名前ぐれぇ名乗れや」 その理由が自分にあることを忘れたとでも言うのだろうか。 「…………」 「じゃあ『小僧』でいいのか?」 黙々と食事を続けていると、男は口元にからかうような笑みを浮かべてそう言った。
2001年10月01日(月) |
<街にて> 瀬生曲、朔也 |
「いってぇ……」 後頭部を押さえて男がうめいている。しかしあんな石をぶつけられておいてその程度とは、相当な石頭らしい。 「さぁて……」 親友を取り戻した少年はゆっくりと男に歩み寄る。 「よ、よぉ小僧、また会ったな!」 まだ後ろ頭を押さえたまま、男は白々しいくらいに爽やかな笑顔を見せた。 「おお。ちょっといい運動させてもらったぜ」 よく見ると少年の肩はまだ大きく上下している。 ――これは逃げられる。 すぐさまダッシュをかけた男はすぐに後悔することになった。
「逃がすと思うかこのボケ!!」 キレた少年の声と同時に、頭から何かに襲い掛かられる。 「うわあッ!!?」 思わず悲鳴を上げた。件のルリハヤブサだ。 爪とくちばしを使い、頭も無く顔も無く滅茶苦茶に攻撃を食らう。
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