「硝子の月」
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『第一王国』の建国祭は決まって晴れる。 今年もその例に漏れず、朝から上天気だった。 「あら? グレンさんは?」 使用人達と共に見送りに来た客人達を見て、午前中の式典に出席する為に正装したアンジュはかわいらしく小首を傾げた。青を基調とした華やかなドレスがよく似合う。 「昨日の夕方出掛けたきりです。折角泊めていただいているのに申し訳ないですわ」 溜息混じりにルウファが答えた。 「それは構いませんけれど……まさか何かあったのでは?」 「大丈夫だと思いますわ。……多分」 「午後には戻られるかしら」 お嬢様は昨日から、皆で祭りを見て回ることを楽しみにしているのである。 「そうですね。もし戻ってこなかったら置いていきましょう」 ルウファは至極あっさりと、その時の青年の切り捨てを表明した。 「ですが……」 「彼も大人ですし、自分のことは自分で出来ますわ、きっと」 根拠になっているのかいないのかわからないことを言って、ルウファはにっこりと笑う。 「それよりも、そろそろ出発なさらないと。リディアもはらはらしてますわ」 「そうね。それではいってまいります。3時頃には戻ると思いますので、夕方はご一緒致しましょうね」 「ええ。いってらっしゃいませ」 少女達は笑みを交わし合い、赤い少女は黙ったままのティオの脇腹を軽く肘で突いた。 「……いってらっしゃい」 渋々と、ひどくぎこちなく、少年は言い慣れない言葉を口にする。 「いってまいります」 アンジュはもう一度そういいながらにっこりと彼に笑いかけ、表で待っていた馬車に従者と共に乗り込んだ。 がらがらと音を立てて馬車が走り去り、使用人達は持ち場に戻っていく。 「……見とれてたんでしょ」 残ったのが二人だけになると、少女は赤い瞳を細めて言った。 「『ドレスがよくお似合いです』くらい言ってあげたらよかったのに」
四方を高い壁に囲まれた部屋だった。その全面には無数の本が詰まっている。この館には、建国祭の喧騒も届かない。 その中央、一人の女が豪奢な椅子に腰掛け、物憂げにその机上にあるモノを見つめていた。 鎌首をもたげた蛇の様な形の金属の先に、黄金の飾りで縁取られた透明な球がついている。その中は液体が詰まっているのか、ゆらゆらと独特な光の屈折を起こしながら、その中央には何か小さな透明な物体が漂っている。 不意に、その独特のしじまが破られた。 「それが話題の『硝子の月』ですか?」 通りがかった女は、山と積まれた書類の隙間から自分達の長に何枚かの紙を手渡す。 金髪の女性は、手早く目を通して複雑な模様の印を押すと、からかい半分に尋ねる。 「おや、お前もこれが欲しいのかぇ?」 紙を受け取りながら、女は笑い返す。 「とんでもありませんよ、そんな物騒なもの。でも、教えてあげないんですか?長のお気に入りのあの宰相に」 「それとこれとは別じゃ」 長も笑う。 「妾は『管理者』に過ぎぬよ。コレをどうこうするのは彼の御方の意思に沿わぬ」 「ま、私にはどっちでも構わないんですけどね。別に今年の祭りがどうなろうと」
「――私、あの女嫌い」 何処までも深い闇の中、白い少女が呟く。 「…また、来たのかい?」 少女に衣の裾を捕まれた青年が、振り返った。柔らかい猫っ毛の黒い短髪の男。 「私、あの女嫌い」 少女は再び同じ台詞を呟いた。異様な程、抑揚の無い声で。 「う〜ん…君が嫌いなのは仕方がないけど、そうやってちょくちょく彼女の命を狙おうとするのは止めてくれないかな。仮にも僕の未来のお嫁さんなんだから」 苦笑しながら青年は少女を抱き上げる。 少女はするりとその両腕を青年の首に巻きつけると、頬を摺り寄せる――その、体全てを覆う白い布の上から。 「――シオンは好き」 「僕も、君は嫌いじゃないよ。でも、ルウファを殺すのは許さない」 にっこり微笑むと、優しく、柔らかい声と仕草で、シオンは少女の首筋に手を這わせる。その、金色の瞳孔がすうっと縦に細まった。 少女は、彼の手の所業など一向に歯牙にもかけない様子で、もう一度頬を摺り寄せるとその身を彼から放した。そのまま、ふうわりと中に浮く。 「…あの女はシオンの価値も知らないくせに」 「…好いんだよ、それで」 シオンが見上げる。 「――私、あの女嫌い」 何処までも深い闇の中、白い少女が呟いた。 闇を射抜くその双眸は――真紅だった。
2002年10月28日(月) |
<建国祭> 瀬生曲、立氏楓 |
(何でこんなことになったんだ?) グレンは自問する。前夜祭の賑わいが大通りのほうから聞こえてくるが、少し奥まったこの場所ではそんな喧噪は遠いものでしかない。 月明かりの差し込む窓辺に大きな鳥が止まっている。 ヌバタマ――漆黒のルリハヤブサ。しかし月の下で見るその姿は確かにルリハヤブサとわかるくらいには青味を帯びている。 その鳥を「相棒だ」という女が、何故か今自分の傍らにいる。
白い敷布(シーツ)の上にとうとう滔々と流れる黒々とした髪――。傷跡だらけの身体(せなか)の上を流れても、不思議と互いの美しさを損なうことは無い。 「――どうした?」 低く通る声が空気を震わす。 目を上げると、切れ長の紫闇の瞳が揶揄を含んだ色でこちらを眺めている。 「――いや、別に」 「…後悔しているのか?」 そんな事、有り得る筈も無いという口調。グレンは苦笑する。自分は、運が良いのか悪いのか。 「さて、では行くか」 彼の心中を知ってか知らずか、カサネは深草色のマントを羽織り、立ち上がる。 「…今から?」 些か驚いた表情でグレンは問い返す。 「何を言っている、今だから行くのだ」 「いや、だってもう夜中だぜ?それに…」 「夜中だから絶好なのではないか?昼日中では人目に付く」 「そりゃそうだが…」 結局、グレンは腰を上げた。
「――ひとつだけ聞かせてくれ」 昼なお暗い林の中、二人は小さく開けた空き地に立っていた。 「どうして俺を?」 「どうして?理由がいるのか?」 僅かに、揶揄を含む声。否定しかけたグレンを制して、カサネは真摯な表情を見せた。 「――お前をな、鍛えてみたくなったのだ」 「鍛える?…俺を?」 カサネはすらりと剣を抜く。月光にきらりと刀身が煌いた。 「そなたとて気がついてはおるのだろう?あの少年が只者ではないことを。そして、今のままでは自分が大して役には立たないことを。…あの、魔法使いの少女とは違ってな」 確かにそうだった。始めはお節介半分、興味半分で拾ったあの少年は、実は本人も知らないままに何やら思い宿命を背負っているらしい。…命を狙われるほどに。そして、一度は保護しようと決めた相手に対して、自分は何も出来なかった。少なくとも、あの赤い髪の少女の様には。(この際、例の馬鹿は除外。) 「…俺は、変われるのか?」 「お前次第だな」 その剣を放ってて寄越す。 「――少なくとも、見込みはあるのではないか?…私が選んだのだからな。ヌバタマ!」 鋭い呼び声と共に、彼女の指先に彼の鳥が止まる。その色は、鈍く輝く瑠璃の色――と、見る間にその姿は皓月の光を吸い込んで、その輪郭を溶かして行く…その形状は蒼く輝くもうひとつの剣! カサネはふうわりと微笑んだ。 「これは、私とお前だけの秘密だ」
「お祭りの前って好きだわ」 唐突にルウファが言った。 窓から差し込む月明かりに微笑が浮かぶ。 「いつもと違う『力』が満ちていて。何だかわくわくしてこない?」 少年は黙って少女を見詰める。 「運命を知る」という少女には、何か『力』が満ちていると感じ取れるらしい。 「どう?」 小首を傾げて問い掛けられて、ティオは確かに自分もどこか浮き足立っているような感覚を覚える。 毎年建国祭はやってくる。けれど、楽しいと思ったことは一度もなくて、楽しみに思うこともなかった。 今年は今までの年とは違う。 ここは首都で、回りにいる人間も全然別で。変わらないのは、アニスが側にいることだけ。 旅に出てからずっと非日常が続いていたけれど、その上に更に祭りという非日常が覆い被さってくる。 「ご飯作ったの。食べる?」 「……ああ」 また唐突に話題が変わって、ティオはこくりと頷いた。
「今起きたんだよ」 つまらなそうな口調でティオが言い返す。ルウファは闇の中で小さく微笑み、足音もなく寝台の横まで歩み寄ってきた。 「調子はどう?」 「……ああ、今は別に何とも」 休息が良かったのか老婆の薬草のおかげか。身体はいつもの調子を取り戻してきたようだ。 「そう。それじゃ、建国祭は無事に見て回れそうね」 ルウファは満足そうに小さく頷いた。 「……あれ。そう言えば、おっさんは?」 「戻ってきてないわよ。ルリハヤブサを追っかけたまま」 「戻ってない?」 ティオはわずかに眉をひそめる。見つからないなら見つからないで、そろそろ帰ってきても良さそうなものだが。 まさか本当にルリハヤブサをかっぱらって逃げたということもないだろうに―― 「ま、大丈夫でしょ。いい大人だもの」 ルウファはその一言であっさりと片付けた。これは信用しているということか、それとも単に面倒臭いということか。判断が難しい。 「それに、あたしにも新しくわかったことがあるわ」 「……え?」 目を瞬かせるティオに、ルウファは厳かに告げる。 「一人目の国王が願ったとおりに、今も硝子の月は隠されている。硝子の月がずっとこの国と共にあるように。 そして、争いと共にある硝子の月が表舞台に出て、平穏なこの国を乱すことのないように」 「……?」 ふとティオの脳裏を過ったのは、先刻の夢の景色だ。願いをかけた男の声。 「硝子の月を隠しているのは、硝子の月自身なのよ。一人目の王がそれを望んだから」 ――『硝子の月』はアルティアと共にある。 その言葉は封印にも等しい。 「明日は建国祭」 少女の声が、歌うように滑らかに部屋の闇の中を滑った。 「かつて建国王が、硝子の月に願いをかけた日よ」
「さぁ、今度はルウファさんのお話を聞かせてくださいましね」 彼女はにっこりと笑ってそう言った。 リディアは既に諦めたように、溜息混じりに燭台に火を灯した。
「アニス」 少年は親友の名前を呼ぶ。 アニスは彼の元に降り立つ。 「夢をみていた……この国がこの国になる時の夢――あんなだったんだな」 「ピィ」 まるで少年のみた夢の内容を知っているかのように、ルリハヤブサが鳴いた。何だかその声までもがとても懐かしい。長い長い夢だったから。しかし窓の外はようやく暗くなってきたばかりである。長くて短い夢だった。 深くなっていく夜の中で、ティオは静かに呼吸する。 その瞳の色は、親友の翼と同じ紫紺。月光の下では僅かに青味が増して見えるところまでもが共通の。 「起きてるなら灯りくらい点ければ?」 唐突に少女の声がして振り向く。いつの間にそこにドアを開けたのか、そこには赤い髪の少女が立っていた。
建国王が『硝子の月』に願ったその日を、アルティアでは毎年建国祭として祝う。 「ですが、この国が『硝子の月』に願われたことを知る人はそう多くはありませんのよ。何故か『硝子の月』は秘密を好みますの。この国の人でも『第一王国』と呼ばれる由縁を知る者は少ないと申しますわ」
「なんで、俺がそんなこと……」 寝台の上に上体を起こして、ティオは小さく呟く。 遠くから建国祭を祝うものか、明るい音楽が聞こえてくる。 「アニス……」 少年は夢の中にはいなかった相棒のルリハヤブサを見詰める。彼は静かにこちらを見詰め返している。 「ずっと、そこにいたか?」 「ピィ」 その鳴き声は肯定を示していた。
「そんな秘密をお話いただいてもよろしかったんですか?」 ルウファが至極もっともな問いを発する。もし話して悪いことなら、忠実な従者が黙っているはずもないのだが。 アンジュはにっこりと微笑んだ。 「ええ。不思議なことに、この話を聞いても忘れてしまう人は忘れてしまうのです。だから広まりませんの。きっと『硝子の月』の仕業ですわね」 「でも貴女は覚えてるんですね」 「多分、これでも一応建国王の血筋だからだと思いますわ」 「なるほど」 ティオやグレンが聞いていたら耳を疑い、もしかすると卒倒しかねないお嬢様の発言を、ルウファはあっさりと受け入れた。 実はクリスティン家と言えば、古い時代に王家から分かれた名門貴族なのである。
「願い事は決まったのか」 「もちろん。ずっと決まっている」 アルバートは微笑する。 「この地に俺の国を――平穏な俺の国を」
『硝子の月』――それを手にしたものは世界を手にするという、ありがちといえばありがちな、モノ――それに願われるのはあまりにも慎ましやかない願い。
『硝子の月』に叶えられた約束の王国。 故に『第一王国』。
「『硝子の月』はアルティアと共にある」 アルバートが屈託無く笑った。
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