「硝子の月」
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目覚めると、既に日は高く昇っていた。 「ってぇ……!」 ズキンと痛んだ腹を押さえ、グレンはベッドにうつ伏せたまま呻く。 「……? ああ、そうか」 見慣れない寝室は明け方になってから転がり込んだ宿。 腹が痛むのは、昨夜の稽古中にカサネに蹴りを入れられたからだった。 「下手すりゃ死ぬっつーの」 「実践では何が起こるかわからない。剣にばかり気を取られていたお前が悪い」 声の降ってきたほうを見上げると、窓枠に腰掛けた件の女戦士が林檎を口にしていた。 「……いたのか」 「いたら悪いか」 「悪かねぇけどよ……」 独り言を聞き咎められて顔をしかめる。かなりバツが悪い。何しろ彼女のしごきは想像以上で、この宿にも彼女に支えられつつ入ったのである。 「あれくらいで参るようでは情けない。もっとも…」 カサネは美しい顔にからかうような笑みを乗せる。 「おかげでこちらも睡眠に専念出来たがな」 「ああ、惜しいことしたよ」 負け惜しみを返しつつ起き上がる。風呂にも入らずベッドに倒れ込んでしまったから、体中汗だらけ泥だらけである。宿の者はさぞかし嫌な顔をするだろう。 (ま、いいけどよ。それにしても…) 「食うか?」 自分が空腹であることに思いを馳せようとした瞬間に林檎が来襲する。 「ありがとよ」 顔に激突するところを間一髪で受け止めて苦笑混じりに礼を言い、彼女に倣って丸かじりにする。 その時に。 「!?」 奇妙な感覚に顔を上げて窓を見る。窓枠の美女ではなく、その向こうの空を。 「お前も感じたか」 そう言ったカサネはどこか嬉しそうに見える。 「何の…」 「ヌバタマ」 問い掛けに零れた声など聞こえなかったかのように窓の外に向かって呼ぶと、漆黒のルリハヤブサが飛来して彼女の腕に止まった。 しかし青年の問いを無視したわけではないことはすぐにわかる。 「行くだろう?」 当然の答えを要求して、カサネは不敵に笑んで寄越したのだから。
「アルバートよ」 彼は空を見上げた。なんと忌々しき第一王国の空か。 月は廻るものだ。たとえ今はこの空に輝こうとも。 「……死者の願いが、いつまでも世界を留められるものか」 硝子の月は未だ守られている。王国の中、封じられるままに。 しかし願う者があれば現れるのが硝子の月。かつてアルバート一世がそれを見つけ出したように。 硝子の月は誰にも渡さない。老いぼれの王の国にも、無能な王の祖国にも。そして死した王が未だ守るこの王国にも。 誰にも渡さない。 (硝子の月は――この手に) 悲願。 硝子の月を呼ぶものは、そう名付けられた思いだけなのだ。
「運命は紡がれる」 彼女はそっと囁いた。切なげに細められた目が、空を映して瞬く。 「紫紺の翼は証。それだけがほんものの証。世にふたつとない、偉大なる月の」 歌うような声は、詩でも読むように唇から零れる。 「赤き運命は流れを作るでしょう。白き紡ぎ手はそれを細く紡ぎ、蜘蛛の巣のように王国に張り巡らせるでしょう。 そこからは誰も逃れられない。紡ぎ手よりも流れに近い、挑む者より他には」 深青色の瞳、それを縁取る長い睫毛。 美しい少女は祈るように手を組んだ。 「制御されざるる運命の流れ。運命の先端たる赤にさえ、それはどうにもならない。 挑む者は、運命を変えられる? ……いいえ、それは誰にもわからない」 空は青い。深い泉の色をする、彼女の目に呼応するように。 祭りは始まった。見守るものにできるのは、あとはただじっと祭りの終わるのを待つことだけだ。 「イリア様――我等が偉大なる巫女姫様。ご覧になっていますか? あなたの何より慈しんだものが、この波のさなかにあることを」 目を閉じ、ひとりの少年の姿を思い浮かべる。 とても懐かしい面影の眠るひと。 「奇跡は起きるのか――あなたなら、ご存知ですか?」 空は沈黙するのみ。 答えはどこからも、返りはしない。
「頃合だな…」 「そのように存じます」 ウォールランの脳裏にかつての声が繰り返された。
――『紫紺の翼持ちたる証』を手に入れよ。さすればいずれ『赤き運命』が『挑む者』を紡ぐであろう――
艶やかに、まるで濡れた花びらにくすぐられるような響きは、今もなお鮮明に残っている。 (されど『永き者の寵を受ける御方』よ…) 「すべてが、貴女の手のひらの上とお思いか?」 小さく口から漏れた言葉、それは拍手と喝采の嵐に紛れ、誰にも聞き取られぬままに消えた。 「陛下」 貴賓席の男に小さく耳打ちする。 「一時退席する無礼をお許し下さい。王国よりの連絡で、些事ですが急を要する事情ができましたゆえ」 「ああ、よいよい。好きにせよ」 陛下と呼ばれた男は、蝿でも追い払うような仕草を見せた。その視線は踊り子達のすらりと伸びた足に釘付けになっている。 「左様ならば、これにて」 ウォールランは一瞥さえくれなかった主に恭しく礼をすると、マントをひるがえした。精緻な恭順者の仮面を1ミリたりともずらすことなく。 (踊るがいい…。今しばらくの間)
『紫紺の翼持ちたる証』 確かにそれは、月へと至る道であろう。しかし、何も道は一つではない。そして、決められた道を辿る限り、いずれは彼女らの紡いだ運命の上を歩かざるを得ないのだ。 誰も考えなかったのだろうか? 硝子の月はアルティアと共にある。 だが、そのアルティアがなくなってしまえば? …と。
「宰相閣下」 頭からすっぽりと黒い布に覆われた女が、貴賓席にどっしりと座った男の後ろに控えるウォールランの背後に現れた。 彼女が何かを口にするよりも早く、彼は己の主に気付かれぬように唇を笑みの形に釣り上げる。もっとも、優雅なはずの貴賓席を小さく見せている中年の男は眼下に繰り広げられている舞に目を奪われていて、ウォールランの笑みはおろか女の登場にも気付いてはいまい。 「ああ、『ツイン』が動いたか」 「……ご存知でしたか」 青年の言葉に、女が苦笑したのが気配でわかる。
宮殿の奥まった所。此処までは外の歓声もほんの僅かしか伝わらない。 (――あんな女は嫌い) 祭り用の豪奢な衣装に着飾った、白い少女は思う。 (――何も、解らないくせに) 全てを見通していると思い込んでいる「赤き運命」。自分こそが、 硝子の月の側にいると、運命を手中に収めていると勘違いしている女。 私こそが紡ぎ手であるというのに。 少女は、真紅の瞳を正面に据えて呟いた。 「――死んでしまえ」 …今度こそ。
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