7/24

2004年11月21日(日) あなたと二人で。


きゅうりが嫌い。
どうも、しろきちです。
大丈夫、もう大人だから箸で外によけたりしません(しいたけ以外←よけてんじゃねぇか)
だって・・・きのこ・・・味も変だし、形も可愛くないし・・・。
あの裏のひだひだが許せん。
いや、なんできゅうりかって言うとお昼のサンドイッチに入ってたからなんだけど。
いや、食べるよ?
がっつくよ?
ママンのお弁当だからね〜。
でも好きになれないんだよな〜・・・あの味・・・。
あとバナナも嫌い。
あの味と食感とにおいが嫌い。
偏食万歳。
ところで寒いです。
いや、冬なんだから当たり前なんだけどさ。
あたし、冬越えられるのか・・・。
植物のない常春の地に住みたい・・・(植物があったら春は花粉が飛ぶので)
もともとが生きにくい体質なのかも?
あぁ・・・無常・・・。
ところでタケモト野ばらの『恋愛の国のアリス』と内田春菊の『ぬけぬけと男でいよう』を読みました。
野ばらの方はエッセイで、春菊の方は小説なんだけど。
こう・・・なんだろう、いろいろ考えたよね。
野ばらは本の中で『女の子はいろんなものに恋が出来る。服にでも化粧品にでも人形にでも人間にでも。そしてそれらに等しく愛情を注ぐ能力を持つ。』みたいなことをいってて、なるほどなぁと思う傍ら、春菊の本は全部男の『僕』視点で話が進んでいく上にその言い分がわからなくもないので、ん〜・・・・ってなった。
あ、因みに春菊の本は不倫する男の話なんだけど。
その本に出てくる女たちは如何にも『女』な感じで、私が男だったら絶対面倒臭いだろうなって思ったりしたわけで、でも自分も男の人にこう見られてるかもって思うと耳が痛いって言うか、あぁ、用いる慣用句が適切じゃないんだけど。
純粋に恋するって何だろうね。
計算とか打算とか駆け引きとかしないで、純粋にアナタを想うことって可能なんだろうか。
野ばらが『本当の恋とは相手に大きな勇気を与えることが出来るものだ。』って定義づけてたけど。
なるほど、わかる気がします。
確かに私は同時にいくつものものを愛しているし、それらに勇気を貰っているから。
ただ、愛と恋は違ってるから私は愛してはいても恋してはないかも?とか思ったりするわけで。
愛と恋の明確な違いなんて若輩者の私にわかるはずもないんだけど、でもやっぱり違うんだなってことはなんとなく感覚的な本能でわかる。
私は、沢山のものは愛せても、恋することが出来ない人なのかもしれないなぁ。
そんなことをふと思ったりした。
でも、『愛してる』って言葉はあんまり使いたくない。
特に本気で愛してる人にはね。
何でだろう?
『愛してる』って言葉を重たいって思っちゃってるのかも。
だから『好き』『大好き』は良く言っても、『愛してる』ってあんまり言ったことない。
『愛してる』って言葉、なんか抜き差しならない感じするじゃん。
こう・・・愛って、認める感じがするからさ、私は。
だから、この先もたぶん嫌いにならないだろうものに対してしか言っちゃいけない気がして。
自分の言葉に責任を持つってことが骨の髄までしみてるしつけをされてきたから、無責任に『愛してる』なんて言っちゃいけない気がして。
・・・えーと・・・なんていうか、こう、結局はニュアンスなんだけど。
『愛してる』より『大好き』のが好きなんだよな、言葉的に。
大好きは、嫌いに転じても仕方ないなって気がするし。
ん〜・・・・結局恋って何だろう?
じゃあ例えば、昨日の夜はそばにあったけど、今晩はない誰かの体温を想ってせつなくなったり、人ごみの中でたまたま遠くに見つけた背中を見て、抱きしめたいって思ったりするこの気持ちは何だろう?
それは単なる衝動で、恋じゃないのかな。
わかんないなぁ・・・。
好きは好き。
大好き。
でも、それが恋かどうかはわからない。
それでいいんじゃないかと思う。
簡単に出る答えに、興味なんてないから。


















このまま消えてしまおう。



















 昨日  記録  明日


狗神史狼 [直訴]

My追加