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2003年03月03日(月) 光が強いと影が濃くなる

ある友人とたまに話をするのだけれど、
最近、自分の言いたいことが彼女に通じていないと
思えることが増えた。

最悪でも最後の部分だけちゃんと聞いてくれればいいのに、
話の一部にばかり注目されて、
結果さえわかればどうでもいいようなことに
目をむけられてしまう。
自分の言い方が悪いのか、実は私は日本語をしゃべっていないのか。
犬が「ごはんくださいよう」と言ったつもりでも
ご主人様には「わん」としか聞こえていないような変な気分になる。

途中部分を聞いてほしいわけじゃなくても
説明しなければ話が進まないので
そっちの話をしないといけない。
でも説明をするうち、本当に聞いて欲しい結果については
疲れてしまって説明する気力すらなくなっていく。

もともと普段から誰かに
話をきいてほしくて仕方がないと
思っているわけではないので、
そういうことになると理解を求める気がなくなる。
わかりたいと思ってくれているみたいだから
本当は感謝しないといけないんだろうね。

だけど、人同志が理解しあうには
こんなにエネルギーを使わないといけないものなのか?
みんなが私に何かを話すときは、
いつもこんなに大変なんだろうか?

実際のところ、わかりたいように見えるけど
本当はたまたまその場にいたから仕方なく
そういうポーズをきめているのではないかとも思える。
それなら私だってもうやめたいのだけど、
いまいち見極めがつかない。

だって、この話は前にした話を
少し角度を替えて話してみただけなのだ。
そのときに納得しているように見えたのは
わかったふりをしていただけだったのだろうか。
前に聞いてくれたことをふまえて聞いてくれれば
そんなに難しくないはずなのだけど、
こういうことがあるのは今日に限ったことじゃない。
それとも、前回会ったときの話なんて
重要かどうかにかかわらず覚えていないのが普通なの?

私との話がどうでもいい話だと思ってるのなら
本当にどうでもいい話に切り換えてもいい。
それならそれで、そっちのほうが気が楽なのだから。
というか、大事な友達じゃないなら
今すぐにでもそう言ってくれたほうが、
勘違いしなくてすむぶん気が楽なんですけど。
イヤミとかではなく、本当にそうしてくれたほうが楽。
相手の自分への気持ちと、自分の相手への気持ちの
温度差が違うままで付き合うのって、不幸じゃない?

曇りのない、クリアーな瞳。
何でもわかってあげたい、と言っているような
光を放っていて、私もわかってもらいたいように思ってしまう。
事実、何度もわかってもらった「つもり」でいた。
でも最近、その光が強ければ強いほど、
私の心の影が濃くなってきているように思えて仕方が無い。

そもそも、自分の気持ちを理解してくれた人や
理解したいと思っている人なんているのだろうか?
そのつもりがなければないでかまわないから、
わかろうとするふりやわかったふりはやめてほしい。


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