ぶつぶつ日記
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現在の日本語教師には明らかにある境界線があり, その前後により、業界への欲求度が明らかに違うような気がする。 1つのグループは、ある程度の仕事をしているだんな様がいて, 自分も日本語教育ではないが高学歴、 そしてだんな様の仕事の関係で海外に行き, そこで日本語を教える仕事を始めたような、 「やりがい」を日々の糧として生活していけるような人たち。 もう1つは、他の仕事をしていたが、 何か求めることがあり日本語教師を目指した比較的若い世代。 この世代には離婚組みも含まれるし, 独身組みも数多くいて、男性も、日本語を主専攻で勉強した人もいる。 後者はもちろんやりがいのある仕事だと思って日々生活しているが, 一般的な社会経験を経た人も多く, はっきり言って業界の体質ややり方にかなり不満を持っている。 「仕方ない」とは思えない人たち。
日本語業界は、前者の生活に心配のないグループの 「お母さん的」な気持ちを利用するだけ利用して、 この業界を作ってきた。 利用されている方はその事に気がついて入るものの, 「自分たちがやってきた」という自負があるため、 雇用条件の設備を求める若い世代には 一言二言言いたくなるらしい。 「私たちは,持ち出しでやってきたのよ。」と。 そのことを否定する気は全然ないが, 時代も社会も変わってきたことに, 教師自身も気がつかなければならない時期に来ていると思う。 そんな生活していけないような状態なら, どうして大学の「主専攻」などを作ったのだろうか? より良い条件を求めるため, この業界はますます高学歴志向になっていっている。 しかし、大学院まで行こうが, 雇う側の意識が変わらないのなら, どうして条件が良くなるだろうか。 そしてこの業界を離れていく人たちが, ある意味他の社会でもきちんとやっていける, それなりの実力と社会性のある人たちだと言うこと。 もったいないと思う。 一部で言われているように 「日本語の先生は、他では生きていけない変わり者。」 ばかりでは困るのに。
この仕事が好きだと思う。 ずっと続けたいと思う。 でも、生活を考え、将来を考え, いつもゆれている私がいる。 贅沢をしたいわけではないけれど, まともに月数万の貯金さえ厳しいと言うのでは, はなはだ老後が不安である。 なぜなら、私には安定した稼ぎのあるだんな様もいないし, アパートを持っている親もいないのだから。
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