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2001年12月05日(水) ■ |
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嗚呼、野村克也 |
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今日、バイトの面接から帰って来ると、「野村沙知代社長」が「野村沙知代容疑者」に変わっていた。
世論は、夫である阪神・野村克也にも厳しくあたる。確かに、3年連続最下位で、ドタバタ劇じゃ、腹の立つファンの気持ちも分からなくはない。
しかし、私はどうもこの野村克也という人を、悪いとは思えないし、憎んだり、嫌ったりできないのだ。
一般ファンの私だから、野村克也という人間がどういう人間なのかを知るには、マスコミやライターによる文章、テレビ等に頼らざるおえない。残念ではあるが、私たちはその中でああだこうだ言っているに過ぎない(決して、マスコミ批判ではないです、むしろ情報の提供には感謝の気持ちすらあります)。
そんななか、私たちは自分自身の持つ価値観や考え方で、あふれる情報の中の何を信じるかで、自分の中の「野村克也像」を作り上げる。
私の信じる野村克也像は、後藤正治氏の「大阪への帰還」という作品の中にある。
作品は、野村克也氏の阪神監督就任までの半生を追っている。その中心は彼が南海ホークス在籍時のことなのだが、文章の最後で彼を慕っていた柏原純一氏はこう述べている。
「理屈が多いとか、暗いとか人はいう。でも実は情の人なのではないかと僕は思いますよ」
それまでに読んできた後藤氏の文章にそうさせる何かがあったのかもしれないが、もしかしたら、これが野村氏の仮面をはずした素顔なのかなと思った。
先日、「プロ野球珍プレー好プレー」のゲストにメッツの新庄選手と出演していた。新庄を見るその目、その仕草は本当にかわいい息子を見守る親のそれとダブってしまった。新庄選手を特別にひいきしているという見方も出来ないではなかったが、それにしてもあんな朗らかな野村克也氏を見たのは初めてだった。
あの目、あの仕草を見た以上、やっぱり、野村克也という人を悪くは思えない、憎めない、嫌えない。
ある方からいただいたメールを拝読して、たとえたった1日でも首位になったあのときの歓喜の気持ちを考えると、野村克也という人間に感謝してもバチはあたらないと思った。
野村克也という人物を思うとき、すれ違い続きの悲恋映画を見たときのような心の奥底から泣きたくなるような衝動にかられる。
「もしもあのとき…」ということがあまりにも多すぎる。故鶴岡氏との決別はまさにその典型。不器用故に何かを誤解されたままの人生なのではないか。私にはそう思えてならない。
参考文献:後藤正治著「復活〜十の不死鳥伝説〜」(文藝春秋)より「大阪への帰還」
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