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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年12月23日(日)
物書く人(長文です)


 今日もひたすら寝ていた(体は元気です。怠けているだけです)ため、書くことがありません。だから、自分のことを書いてみようと思います。テーマは、「私が文章を書く理由」です。野球のことはほとんど出てきません。「お前のことは、どうでもええ。わしゃ、“野球”が読みたいんじゃ」という方は、明日以降にまたお会いしましょう。

 さて。

 1,DNA?? 

 私の母方の祖母の夢は、小説家だったそうです。実際、文章を書くのもうまかったと聞いたことがあります。残念ながら、祖母は私が物心つくまでに亡くなりました。生きていたら色々な話が出来たことでしょう。学校教師をしている母の弟も、文章を書くのが好きだったそうです。(ちなみに父の家系は理系なので、文章とは無縁です)

 2,作文

 これといった取り柄のない小学生だった私が、唯一先生に誉められたのが作文でした。年子の2人姉妹の下だった私にとっては、人に誉めてもらったことが自分の存在をしめす全てだったのです。だから、作文だけは張り切って書いていたように思います。

 3,パパママ、バイバイ。

 自発的に文章を書くようになったのは、小学3年生のときのことです。夏になると地元の公民館で、戦争を取り上げた映画を見るのが慣わしだったのですが、そのときの映画の影響です。

 小学3年生の時に上映されたのが「パパママ、バイバイ」という映画でした。確か広島の原爆のテーマになっている作品だったのですが、戦争映画にしては、主人公のキャラクターが生き生きしていたこと、そして、景色がものすごくきれいだったことが、私の想像力を刺激したのでしょう。

 かわいそうな結末に、涙が止まらなくなり、家に帰ったらすぐに、新しいノートに「おはなし」と書き始めました。もしも、あの子供達が平和な世の中(現代)に生まれていたら、どんなに楽しい生活を送れていたことだろう。そんな思いをこめて、ひたすら書き続けていました。

 毎日、狂ったように「おはなし」を書く私を見ていた(父方の)祖母が、「あんた、小説家にでもなったら?」と言っていました。当時の私は「小説家」が何なのか、全くわかっていませんでした。

 4,「おはなし」から「小説」へ。

 人に文章を読んだもらうようになったのは、中学2年生くらいからです。それまでは、独りよがりで自分のために書いていたのですが、おりしも、時代は少女小説ブーム。当然、周囲でも、小説を書き始める子が出てきました。

 当時の私は、自分が「おはなし」を書いていることを誰にも打ちあけていませんでした。でも、みんなが自分の書いた小説を見せあいっこしているのを見て、刺激を受けないわけにはいきません。なんせ、こちらは我流とはいえ、9歳のときから5年のキャリアを積んでいるのですから。

 小説を書こう。一発発起して、いわゆる「少女小説」とやらを買いあさって、読み始めました。そこは、未知の世界。目の前に広がる果てしない地平線。それからは、小説を読むことに夢中になりました。授業中であろうが何であろうがお構いなし。方程式や化学反応なんかを頭につめこむヒマがあったら、本読んでいた方がこれからの人生に役に立つ。根拠のない思いが私が駆りたてました。

 小説を書くようになったのは、中学3年のときです。目前にせまる受験から逃避するかのごとくひたすら書き続けました。試験直前に、小説の書きすぎで、腱鞘炎になったときは、ほんまに焦りました。当時は、中学生がワープロなんて使えなかった時代です。

 え、何の小説を書いてたかって?
 ご想像にお任せします。恥ずかしくてとても言えません(^^;)。

 5,野球を書く。

 本格的に野球に興味を持ったのは、高校に入ってからです。「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、たちまち野球にのめり込むようになり、小説を書くことに対する興味は薄れてきました。中学時代に小説を見せあっこしていた友人と高校が違っていたこともあるのでしょう。

 高校2年生のとき、衝撃的な本に出会いました。

 山際淳司さんの作品。「ルーキー」。この作品は、超高校級スラッガーと呼ばれた清原和博選手と、甲子園で対戦した選手にスポットを当てた作品でした。これまで、主役を書いた作品は何度となく見ていたのですが、こういう視点からの作品には初めて出会いました。体中にすごい衝撃が走ったのを今も昨日のことのように覚えています。

 「野球は、書くことも出来るんだ」。
 またまた、目の前に受験を控えた高3の秋から、私の小説熱は目覚め始めました。受験勉強を半ば放棄して、授業中であろうが何であろうがお構いなし、毎日ルーズリーフと格闘していました。

 いくつか野球小説たるものを書いたのですが、その中の1つが小さなコンクールながら、入選したのです。おりしも、大学合格の朗報と同じ日だったので、この日が人生至福の日のうちの1日でしょう。

 当時は、「小説家になりたい」と思っていたので、これでまだ、首の皮1枚夢につながっているんだなと思った記憶があります。

 高校3年のとき、一時期、大阪芸大を受けようと思っていたことがあります。同大学には、文芸学科という文章を書くことを専門にした学科があったからです。何故、思いとどまったはっきりした理由は覚えていなのですが、結局、普通の大学への進学を決めました。ですが、今になったら、その選択は間違っていなかったと思います。ちなみに、国語の成績は(も?)悪かったです。

 6,文章とは無縁?大学時代。

 大学生。長年の勉強地獄(途中で放棄したけど)から解放され、それなりに悩みもあったけど、何もかもが楽しかった4年間。今までにない価値観とバイトと手抜きとお酒を覚えました。

 バイト、サークル活動、車の免許、友達、彼氏、野球…。とても、文章を書いている余裕はありません。また、試験やレポートで形式張った文章を書くことを半ば強制され、文章を書くことに、興味は褪せていきました。

 7,読者投稿コーナーからリハビリ。

 一度興味が褪せた文章に対する情熱を取り戻すのには、時間を要しました。

 23歳、初めての社会人生活は、たったの2ヶ月で挫折。その後、郵便局員を目指して、アルバイトしながら勉強するも、段々気持ちが冷めていくばかり。そんな中、友人の紹介でベンチャー会社への就職の話を受けるも、うやむやに消えていく…。いよいよ無職、ほんまに無職。今でこそ、それなりの誇りを持って「無職」をしていますが、当時は、「無職=人であらず」みたいな直線的な考え方しか出来ませんでした。だから、一種の絶望感にありました。

 そんなとき、また、文章を書きたいなあと思うようになったのです。文章を書くことによって、目の前の現実から少しでも目をそらせるのではないか。そういう甘い考えがあったことも否定できません。でも、4年以上自分の文章を書いていなかったのです。文章に対する勘は完全に鈍っていました。

 おっかしいなあ、文章って何をどうして書くんやったっけ?
 自分の書きたいことって、何やったっけ?

 きっかけは、某野球雑誌の読者投稿コーナーでした。野球に関するネタを読者から募集し、いい作品は雑誌に掲載されるのです。ハガキ1枚で応募できる気軽さもあり、また想像力を鍛えるのにいい訓練になる。早速、近所の郵便局でハガキを購入しました。

 初掲載は、投稿を初めて3週間後でした。その後、多少の波はありましたが、わりと頻繁に載せてもらえるようになりました。

 8,1対1で自己主張 〜文通を始める〜

 読書投稿コーナーは、間違いなく私が再度文章を書くきっかけを与えてくれました。その後、私は野球を語りたくなって、雑誌を介して、野球の好きな人との文通を始めました。自分の思いを聞いてもらいたいだけではなく、相手の思いも聞いてみたいと思ったからです。世の中にいろんな人がいます。その人なりの野球観がきっとある。そう思ったからです。

 文通を続けるにつれて、「この人に私と文通してよかった」と思ってもらえるようになりたいという気持ちになってきました。そのためには、私にしか書けないことを書くしかない。そう思い、物の見方を少し変えてみよう、もう少し自分に素直になってみようと思いました。

 一時は、20名を越す方々と文通をしていましたが、今では5本の指に足るほどの人としかやりとりをしていません。残りの10数名の方には誠に申し訳ないことをしましたが、今もやりとりしている方々から学ぶことは多く、私の書いた文章を真摯に受け止めてくださる方ばかりなのです。

 9,野球小僧大賞

 1対1もいいけれど、もっと色々な人に自分の書く文章を見てもらいたい。そう思うようになったのは、ここ1年ほど前のことです。それも、野球に関して本格的に書きたいと思い始めるようになったのです。文通を始めたころから、私の興味の対象は小説より、ノンフィクションに傾き始めていたように思います。

 もうすでにインターネットは身近な存在になっていました。大学時代の友人でインターネットをしていないのは、私だけという有様。飲みに行ってもインターネットの話題が多くを占めていました。

 そこで、ホームページは誰でも作れるものだと知りました。「私も作りたい!」、強くそう思いました。ホームページなら、私のような素人でも人に文章を読んでもらえる。これが、最高の舞台だ。友人に無理矢理私もホームページを作ってもらうことをお願いし、毎日せっせと原稿書きにいそしんでいました。(結局、ホームページは後日自力で作ることになりました。今にして思うと無茶なことを頼んでいたなあと思います)

 そんなおり、購読していた「野球小僧」で、野球小僧大賞という名で野球に関する作品を募集していました。「これしかない!」、私は応募することに決めました。しかし、いかんせん時間がない。最後の手段で、ホームページ用に書いた原稿を手直しして、締め切り前日に速達しました。大学の卒論以来の徹夜を敢行しました。でも、そのとき、なんとも言えない充実感が体中を満たしていました。やっぱり、文章を書くのが好きだ。このとき、私の中で「スポーツライターになりたい」という思いがかすかに姿を現しました。

 ちなみに応募作は、入賞には至りませんでした。

 10,野球日記

 今年の2月、ようやく我が家でもインターネットが出来るようになりました。当初見た「野球小僧」さんのホームページでは、読者の方が野球日記をいうものをされていました。一目見て、私も書きたいと思いました。もともと、心の奥に「スポーツライターになりたい」という思いを抱いている身。好きな野球で毎日文章を書き、文章力を磨いていける。それほどいいことはない。説明書きの最後に「評判のいい方は作家デビューの可能性あり」って書いてあるし(苦笑)。

 ここで学んだことは大きいです。
 私は、本当は「ライターになりたい」ではなく、「物書く人でありたい」と思っている一人の人間にすぎないんだということをここで気づきました。

 スポーツライター、いや野球ライターになりたい。
 友人・知人にそう話し倒してきました。
 そのときに、「じゃ、なんで東京に行けへんの?(チャンス、多いよ)」「それやったら、出版社や新聞社に就職しないと厳しいんちゃう?」「ライターさんのアシスタントと何かになって、実践で勉強せんとあかんで」。まあ、いろんなことを言われました。

 「それをしないということは、きっと自分の中に何か躊躇することがあるんやろな。そういうときに無理して行動を起こしてもいいことないよ」。

 この一言がずっと頭から離れませんでした。でも、その理由がわかりました。これまで、私の文章の中にあった堅苦しさは、自分の夢を無理矢理スポーツライターという枠組みにはめ込んでいたが故のことだったのかもしれない。もっと、肩の力を抜こう。そう思う。


 おまけ・物書く理由

 私が文章を書く理由。
 もしかして、それは自分の「話す」という行為にコンプレックスがあるからかもしれません。

 私は人前で上手く話すことができません。極度の上がり症だということもあるのですが、自分の声が嫌いだからです。私は慢性鼻炎で、幼い頃から、その声をからかわれていました。

 また、成長段階を見ても、「話す」ことに対する発達が極度に遅かったのか、何らかの障害があったかで、幼少時代に大学病院に通院していた記憶があります。親はそのことについて私に話をしませんが、書庫の奥から、手あかのついたその類の本を見つけて、胸が痛みました。

 というわけで、自分の話を聞いてもらうのには、書くことが必要だったのです。もちろん、前述のようなもっともらしい理由を思うようになったのは、ここ最近のことですが。

 もし、私が普通の声で、普通に話せたら、文章を書こうとは思わなかったでしょうし、今も書いていないでしょう。

 今も基本には「自分の話を聞いてもらいたい(自己チューやなあ)」ということがあります。でも、ここにきて思うのは、今までのように現実逃避するためや自分の世界に浸るためのそれではなく、御覧になった方が、「読んでよかったなあ」と思う文章を書きたいと思うのです。できれば、心があったまる癒し系がいいかな。鋭い批評系の文章にも憧れますが、もっともっと人生を経験してからでないと書けないでしょう。

 文章には夢があります。いったいいつまで野球を書いているかは正直わかりません。でも、書くことは間違いなく「生涯の友」でありつづけると思います。