
|
 |
| 2002年01月07日(月) ■ |
 |
| マスコミに踊らされたある女子高生の話。 |
 |
2002年になって、1週間。すでに仕事始めや新学期をむかえた人たちが多く、もうそろそろお正月気分も抜けてくるころだ。
今年のお正月は、私にとってちょっと予想外のものとなった。今年は、野球以外のスポーツ、たとえばラグビーや駅伝あたりをきちんと見ようと思っていたし、また見たいという明確な意志もあった。
しかし、いざ年が明けてみたら、その大半をプロ野球選手が出演しているバラエティー番組やお笑い番組に費やしてしまった(そういや、「名探偵コナン」をやたらよく見ていたなあ…)。これは一体全体どうしたことか自分でもよくわからない。もしかしたら、宙ぶらりんな今の立場が、私に感動よりも笑いを求めさせたのかもしれない。
今年は、あちこちで「駅伝がよかった」「ラグビーがすごい」とか聞くので、ちょっともったいないことをした気がしないではないが、どうも自分の好奇心には逆らえない。もっと積極的に他スポーツを見る自分になるのを待つしかない。
ふと、自分はいつから野球しか見ない人間になってしまったのだろうと思う。ラグビーや駅伝は見ている年もあるのだが、サッカーなんてもう何年も見ていない。きっと、その大きな契機は1993年のJリーグ開幕にある。
こう見えても私は、高校野球とほぼ同時期に高校サッカーも見るようになっていた。中学3年生のときのことだ。当時は、高校野球よりもむしろ高校サッカーの方に熱心だったかもしれない。
友人に「キャプテン翼」を借り熟読したし、当時書いていた小説の登場人物もサッカー部所属という設定にしていた。体育の授業は嫌いだったけど、サッカーだけは多少参加意識を持って取り組んでいた。高校時代には、サッカーの入門書を買って読破した経験も持っている。
時代は、帝京や四日市中央工業・武南の黄金期。清水商業の1年生ゴールキーパー・川口能活選手や鹿児島実業のフォワード・前園・城両選手もまだ「将来のホープ」に過ぎなかった。そして、今や世界で活躍する中田英寿選手は、まだ高校サッカー界に登場していなかった。
読売クラブにラモス選手やブラジルから帰国したカズがいた、武田選手もいた。でも、サッカーの話を出来る友人などいなかった。
中学の卒業間際、答辞の内容をみんなで作ろうということになった。何がどういういきさつでそうなったかは定かではないが、私は「答辞作成実行委員」になり、皆からのアンケートを参考に答辞を作ることになってしまった。
答辞は苦労の割に大半を先生に修正され、「だったら自分で考えたらいいのに」と不快になった記憶があるが、アンケートの回答を見るのは楽しかった。
印象に残った回答があった。 「将来の夢・サッカー日本代表になって、ワールドカップに出場すること」。 まだサッカーがそれほどメジャーではなく、ワールドカップなど夢でしかなかった頃の話だ。回答した当事者は、おとなしい男の子で、話したこともなかったのだが、妙な親近感を覚えた。
夏は高校野球、冬は高校サッカー。そんなサイクルは2,3回だっただろうか。
何かが狂い始めたのは、前述した1993年のJリーグ開幕後のことだ。 今までサッカーの「サ」も言わなかったような女の子が、サッカー選手を見て、黄色い声をあげている。周りはこぞってJリーグの話題をする。サッカーがプロ化すること自体はいいことだとは思っていたが、あまりの激変についていけなかった。
ふと気付くと、周囲でおかしなことが起こっていた。世間では「野球VSサッカー」という構図が出来てしまっていたのだ。そして、それはややも野球に不利なように思えた。
私は基本的にどちらも好きだった。でも、どちらかに決めなければならないように思えた。そこで、私は野球を取った。一度そう決めると、Jリーグに賛同する声が野球バッシングに聞こえた。あまのじゃくな私はいよいよサッカーが嫌いになった。
それは、それから私はサッカーを見ることがなくなった。いや、意識的にサッカーを遠ざけていたのかもしれない。あの頃、なぜサッカーが好きだったのかすら忘れてしまった。
最近になって、マスコミに踊らされていたなと思う。そもそも「野球VSサッカー」などという構図、どこにもないのだ。野球は野球、サッカーはサッカー、全く違うスポーツだ。
冷静に考えると、サッカー界の取り組みは素晴らしいと思う。今は苦しいかもしれないが、10年20年単位で考えると間違いなく、成功を収めるだろう。全国に広がるクラブチーム制など、いいところはどんどん見習って欲しいと思う。
|
|