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2005年11月29日(火) ■ |
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存在そのものが文学な人 |
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ほんの軽い気持ちでふらっと本屋に入ると、なかなか店を出ることができません。目当ての本があるときはいいのですが、「何かないかなあ〜」なんて目的もなく行くと、泥沼にハマッてしまいます。めぼしい本がなくても、「何かあるはずだ。あるに決まってる」と買いもしないのに探し回ります。頭では「もう帰ろう」と思っているのですが、体が言うことを聞いてくれないのです…。
今日もそんな感じで、本屋の泥沼にハマッていました。私は、ここ数年“本を読めない病”。ひどいときは、書籍はおろか、人がくれたメールすら読むことがつらいときもありましたが、今は野球以外の本だったらちょっとずつ読めるようになりました。また嬉しいことに、最近、「野球の本を読みたいなあ」と思うようになってきました。アホの一つ覚えみたいに野球の本ばかり読んでいた頃が懐かしいです(あの頃は夢のために読んでいたので、将来の自分を思い描きながら読んでいたのでしょう)。もっとも、思うだけでまだ無理なのですが、“読まないといけない”とは思っていても、読みたいと思うことがなかったので、嬉しい兆しです。
そのとき、何の脈絡もなくふと思い出したのが、山田詠美さんの小説です。文中にこんな感じのことが書いてありました。人は、“文学を書く人”と“存在そのものが文学な人”の2種類いる。小説の登場人物に言わせている台詞なのですが、著者の詠美さんの中にもそのような考えがあると思われます。私は間違いなく、“書く側”の人間でしょう。たいしたことを書いている訳ではないのですが。身近にいる人でいえば、ともきちは間違いなく“存在そのものが文学な人”です。“存在そのものが文学な人”は有名人や功績を挙げた人である必要はないと思います。普通の人だっていいんです。“存在そのものが文学な人”は、“書きたい”とか“書かないといけない”という概念から自由になっている人です。一種の憧れの境地です。
今、文章を(勝手に・個人的にですが)書かせてもらっていることはありがたいので、生きている間は大切にしたいと考えていますが、もし生まれ変わるとしたら(そんな願望はあまりないですが)、今度は“存在そのものが文学な人”になりたいものです。
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