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2004年02月29日(日)
光州全州釜山への旅(2)

まさか、原稿用紙20枚以上になっているとは思わなかった。
シユウの物語は明日になります。
12月1日(月)
寝坊した。10時から8時まで寝ていた。さすがに疲れていたのか。さっさと降りて
フロントを見るとおじさんが寝ている。鍵を置いて外へ出る。外は霧だ。自動車が
ひっきりなしに通る。光州の朝が始っていた。日本みたいな風景だが、信号は玉が四
つ合った。
バスセンターに行き、今日は郊外バスに乗って支石墓を見に行く。コンチュ行きの切
符を買う。グズグスしているとバスに乗り遅れてしまった。次は9:20分発。30
分時間があるので近くで朝食を食べることにする。食堂のおじさんにコムルタンがな
いかと聞くとないという。腹が弱っているので何か辛くないものがほしいというと、
マンドゥパフ゛というのを教えてくれた。要するにギョーザご飯である。どのガイド
ブックにも載っていないこういうのがほしかったのである。韓国式に倣い、水ギョー
ザの汁の中にご飯を入れる。韓国ではたいていのご飯類はこのようにして「混ぜて」食
べる。たいていの食事が汁物とキムチなどの副菜で終わる。古代食みたいで面白い。
ギョーザご飯はおいしかった。

バスに乗った時点で昨日泊まったモーテルに手帳を忘れたことに気がつく。一日目の
日記の大半を書いた手帳である。仕方ない。後でとりに行こう。

バスはしばらく霧の中を走る。路線バスなのに高速に乗った。よっぽど高速料金が安
いのだろうか。霧が晴れると快晴。田舎道を走る。アスファルト道路が泥をかぶりゴ
ミゴミしているのはどのアジアでも同じだ。日本だけが道路もいつも清潔で特別なの
だろうか。川のそばに町や村があるのは日本と同じだ。低い山々を縫うように畑や田
んぼが作られている。日本と変わらぬ風景。

コンチュ(高敞)は路線バスといいながら、二駅目の終点にある。一時間のバス旅で
あった。バスセンターからタクシーで10分ほど行った所に、世界遺産登録遺跡コ
チャン巨石墳墓はある。支石墓(ドルメン)ともいう。コチャン郡は朝鮮半島、およ
び東北アジアでもっとも支石墓が密集している地域らしい。その数約2000基。
B.C.4〜5世紀の遺跡らしい。そして私が訪れた竹林(ジュッリム)里、上甲
(サンガップ)里の支石墓群は東西約1.7キロの範囲に447基が分布。(しかし
調査以前に破壊された数を併せると1000基前後)支石墓とはその漢字が示す如
く、支石がある墓である。福岡に在るような小さなものではなく、小は1m未満から
大は5m以上の高さ、テーブル式等幾つかのパターンに別れる。私は事務所でパンフ
と簡易日本語説明機を借りて散策に出かけた。

梅山村のドルメン。四角に綺麗に割った石を四つの支石が支えている。あるいは河の
流れにそって小さな石が並んでいる。階級差はやはりあったのだろうか。丘の上に登
る。ここから河や四方の村が見渡せる。巨大支石墓は3つ綺麗に並んでいた。明確な
人の意思。そしてこの石に土を被せるとそのまま古墳になる。原っぱにも無数の支石
墓がある。こんなにも密集しているのが今一つ分からない。一つ一つの墓は相当の労
力がないと作れないと思う。調子が悪くてレンタル説明機の説明はよく分からなかっ
たのだが、もっとも大きい140トンの石を運ぶのに、1200人の動員が必要だっ
たといっていたような。大仕事であるのと同時に、それだけの人を動員できるだけの
階級がこの頃すでに存在していたという事なのだ。私はひときわ大きいテーブル式の
石に登ってみた。もちろん回りに人がいない事を確かめてである。私はやはりこの岩
の上でなんらかの祭りをしたと思う。そしてひときわ大きいと、「私が一番高いぞ」
という気持ちにもなる。そういう「気持ち」(=階級差)はきっとあったろう。この
頃は青銅器時代である。鉄器で石を加工する事は出来ない。説明によると、巨石の割
れ目に木の楔を打ちつけ、水を注ぎつづけ、木が膨らみその力によって割っていたら
しい。原っぱに面した松の山がその石の採石場だったらしい。そこへ登っていくと松
の木の影から一人の青年が現れた。

時間を教えてくれという。私は携帯の時間を示した。それから会話集を介在して幾つ
かのやりとりがあった。どうやら彼は「エレクトロニックエンジニア」らしい。(ど
こかの工員かも。)私が日本人だと分かると、幾つかの単語を示してしきりに日本語
の発音を確かめる。これはほとんどの韓国人がそういう反応を示す。私たちは道端で
会ったアメリカ人に会話を習おうとするだろうか。彼の聞いてくるのは「どこから来
てどこへ行くの」「どうやって食事するの」「仕事は」食事(シクサ)の事をしきり
に聞くのでどこかへつれていかれるのか警戒したのだが、どういうことはない、日本
語の練習だった。取りとめのない話を30分くらいして、事務所でタクシーを呼んで
もらって別れた。

光州バスセンターに戻ると2時過ぎだった。私はともかく手帳を探しに昨日のモーテ
ルに戻った。受付ではおじさんが昼寝をしていた。私は会話集巻末の簡易辞書を駆使
してともかく、「忘れた」「ノート」「行く」「探す」等の単語を並べて示したが、
おじさんはなぜかいい顔をしない。何度もペけ印を出す。私は一目昨日の部屋に行け
ばいいのだが、どうしても行かせてくれない。「大事」「大切」の単語を示してねば
ること10数分、ついにおじさんは私をつれていってごみ箱をあさってくれた。なん
と昨日の部屋のごみがその中に確かにあった。しかし私の手帳はなかった。そこまで
してくれた以上私には何も言うことはない。私は無理を言った旅人として迷惑を掛け
た事と精一杯の感謝の気持ちを態度で示してモーテルを離れた。私の一日目の記録は
その日のうちに急遽思い出したまま書きとめたメモがもとになっている。


そのあとタクシーで5.18墓地に行った。光州に来た以上必ずここは行きたいと
思っていたのだ。韓国はほんのつい最近まで軍事独裁政権下にあった国である。第二
次世界大戦後の南北分断、1960年以降の軍事政権下のあと1980年の光州事件
でそれは頂点に達する。民主化運動を軍隊を使って弾圧しようとして、運動と関係な
い市民も含めて多大な犠牲者を出したのが光州事件である。今は完全に当時の政府の
処置は誤りとされ、犠牲者の墓地は「国立」として整備されている。長期軍事独裁政
権を武力に拠らず、民主化運動で覆した韓国の運動の雰囲気を少しだけでも味わいた
かった。バスセンターの観光案内所に行くと「光州広域市5.18宣揚課」が作った
カラー24Pに渡る日本語無料パンフがある。

5.18墓地に行くと20才、17才、15才等の墓が目立った。全員1980年5
月18日前後に死んでいる。17才、15才は明かに「巻き込まれ型」の死亡であ
る。体験館でドキュメントビデオを少しだけ見る。若者が大集会を起こし、そして整
然とデモをしている。そしてその通りの向こうから戦車がやってくる。この墓地の入
り口に立ったとき、受けつけのガイドの人が目ざとく見つけて暮れて幾つか説明して
くれた。なんと彼女は日本語が出来る。さすが国立墓地である。彼女の説明による
と、「光州は金大中の生まれ故郷。当時でも民主化運動のもっとも激しく象徴的な都
市でした。チョン・ド・ファン大統領はここを潰せば、全国の運動は下火になると踏
んだのでしょう。」この事件に関わったチョン・ドファンとロ・テウ両元大統領が囚
人服姿で法廷に並ぶ映像も見た。(日本でも「元首相」のこういう映像がながれても
決しておかしくはない国なのだが)ドファンは終身刑、テウは18年の刑が下った。
「でも今は釈放されて悪い事をしています。」「親戚にお金をまわして、自分は財産
を持っていないと税金逃れをしたり…」ガイドの人とはバス乗り場でもいっしょにな
り、いろいろと話を聞いた。光州という土地ガらか、元大統領に対する目は冷たい。

バスの乗り降りで失敗をしながら、繁華街に着いた。一度食べたいと思っていた無等
どじょう専門店があったので寄ってみる。まるで粉のようにどじょうがすりつぶされ
ており、臭みもまったくなく、これで滋養がいっぱいだと思うと少しありがたみあ
り。

2日目の宿は繁華街の近くにした。モーテルっぽいので少しためらったが、「部屋あ
る?」「ネー(はい)」「オンドルバンある?」ここでいろいろ言ってきた。てっき
りないのかと思って帰りかけると「オンドルバンあるよ」と言ってきた。うーむ、な
ににこだわっていたのか全然分からない。「キーある?」と事前に鍵の単語を覚えて
いたにもかかわらず、いざというときには言葉を出すタイミングを逸する。しかしア
ジェンマ(おばさん)は少しも動ぜず、鍵を持って部屋に案内してくれた。布団が最
初から敷いてある。布団がカラフルだ。床暖房でぽかぽか温かい。非常にきれいな部
屋だった。もっと場末の部屋を想像していただけに意外。これで25000Wは安
い。(風呂は付いておらずシャワーだったが)

さっそく一杯飲みに出かける。うろうろしている間に、中学生、高校生、若者がたむ
ろしている通りに出る。これがガイドの女性が言っていた「日本の原宿みたいなとこ
ろ」なんだな、と思う。8時過ぎているのに君たちの親は怒らないのか、と自分の国
のことは棚に上げて思う。写真の付いた専門店が目に止まった。ポっサムの専門店ら
しい。入ってみると板敷きの間に案内された。一人で食べに来ているのは私だけだ。
一番安いポっサムは17000Wだった。半人前もあるよ、と教えてくれてそを頼
む。ついでにビールも頼む。今回の旅ではじめて飲むビールだ。(OBビール)出て
きた白菜ポっサムはとても一人では食べきれそうにない量の半人前だった。白菜と味
噌と分厚い蒸し豚が12枚ほど。蒸し豚が柔らかくかつ微妙に味付けがされてある。
包んで食べると確かに美味しい。ビールも美味しかった。しめて13000W。

12月2日(火)
朝が来た。三日間たまっていた(大)をする。すこぶる快調。やはりキムチは凄い。
博物館が開く9時まで、朝の散歩をする。道庁前の5.18広場は今は単なるロータ
リーでしかない。しかし1980.5.18はここは人でぎっしり埋まっていたの
だ。身の危険を感じながらも数万の人たちが集まるという事はどういう事なのだろう
か。それから光州川に沿ってしばらく歩く。1929年の光州独立学生運動の記念碑
があるという公園に行ってみる。

そこは公園ではなかった。記念館があった。ソウルパコダ公園から始まった3.1独
立運動と並び、戦前の「日帝」に対する反対運動としては画期をなす独立運動だっ
た。大きな特徴は高校生の運動として始まった事である。ここは日本のガイドブック
には決して出ていない場所であった。しかし一応ここも光州の観光コースになってい
るのだろう、資料はあまり充実しているとはいい難かったが、日本語、中国語併記の
説明書も置いてあった。安重根記念館、独立運動記念館等、韓国にはいたる所に日本
帝国主義と闘って死んでいった人々を顕彰する施設がある。「闘った」人々を顕彰す
るのは社会主義国特有の事ではない。

そのあと光州国立博物館にいってみた。私が興味あるのはせいぜい百済時代までなの
で、この博物館の1/6を見ればことが済む。それでも一時間ぐらいかかってしまっ
た。

石器時代(BC.4500〜BC.3000)の石斧や石刀も、無紋土器鉢(BC.
3000−1500)もなんて薄いのだろう。しかも鉢は弥生時代の土器に似てい
る。こちらの青銅器時代は弥生時代初期に当たる。全て石剣、石斧は「磨製」であ
る。農耕文化である。漁労具などは弥生時代と同じ。大谷里遺跡(BC.4−3)独
特の八珠鈴が出土。初期鉄器時代(BC.2−1)。銭がすでにあった。原三国時
代。土器もバラェティに富み、鉄器も豊富に出てきている。武器類、鉋、鑿、斧、
釜、針、ナイフ全て鉄で作られていた。墓に日本とは違う円筒(円筒埴輪?)が出土
していた。

11時15分発の高速バスにのって全州にいった。バスターミナルで観光案内所を見つけ
るのに戸惑ったが、親切な切符もぎりのおっちゃんに案内されたどり着く。今回気が
付いたのだが、光州にせよ、全州にせよ、案内所や主要公共施設には必ず日本語が出
来る受け付けがいた。ソウルと違い普通の店では日本語は通じない。たぶんワールド
カップの影響だろう。そういえば、光州も全州もカップの会場だった。あれから2年、
めったに日本人はこないだろうに、職を失うことなくちゃんと働いているところがい
いですね。さて、その観光案内所で、宿として韓屋生活体験館というのを紹介され
る。韓屋の伝統家屋のオンドル部屋に安く泊まれるというのだ。(朝食付きで50000
W。)願ってもないけど、昨日泊まった宿みたいに決まった言葉だけ喋ればいいわけ
ではない。まあ、あたってくだけろ。タクシーで着いたのはちょっと勘違いして付属
施設の伝統酒博物館。オフィスの人に案内してもらいそこから10mほど離れた宿泊施
設の事務所につれていかれる。ちょっと困ったがなんとか部屋が取れた。部屋は昨日
より小さいけど、さすがに遥かに趣がある。「朝食は8時集合」「鍵はこれ」「シャ
ワーとトイレはこっち」と必要な事だけ聞いてあとは自由だ。あっ「鍵の開け方(南
京錠だった)と、何時までに帰ればいいのか聞くのを忘れた」でも事務所のお姉ちゃ
んは旅館の伯母さんより頭の回転も早いし、英語も少し出来るので、なんとか通じる
のだ。

荷物を置いて韓屋の町並みを見て歩いた。思えばこの旅で初めて一般の観光客みたい
な事をした。李朝時代の韓屋を保存してあるという事で、一般市民が住みながらの保
存は倉敷の町並み保存の方法によく似ている。黒い瓦は朝鮮半島では珍しいのだろ
う。小高い丘から眺めると、まさに倉敷の町並みを眺めているみたいだった。夕方街
中に出る。この小さな地方都市に、シネマコンプレックスがなんと4軒、名画座が1
軒固まっている。全州は年1回映画祭があるそうだが、若者が多い街になっていた。

全州といえばビビンバ。盛味堂のビビンバを食べる。味はソウルのそれとはあまり変
わらないが(値段はソウルより1000−2000高い。)、なんと副菜が12品目
もついた。「食は全州に在り」これは味の上手さよりも副菜の多さなのか。

さて、ここで次ぎの日の午前中に見た博物館なのだが、全州国立博物館の見聞記を書
いておきたい。この次ぎに載る「シュウの物語」に関連しているからである。光州博
物館も全州博物館も、もっと充実したパンフがあるかと思っていたのだが、300円
ほどの簡単なものしかなかったのはがっかり。ただ、全州のほうが古代でいくらか充
実していた。特に青銅器時代のシャーマンを再現した人形があるのはびっくり。どこ
の遺跡かは分からなかった。ここの祭祀長はひげづらの男である。体にいろんな青銅
器を身にまとっている。 パンフにはハングルの文章の間に粗文鏡、剣把形銅器、竿
頭鈴、銅鐸などの漢字がちりばめられている。ここの銅鐸は服に五つも六つも吊り下
げる事の出来るいわば鐘を鳴らすための銅鐸である。この文化の特徴は、無文土器、
狭い住居、支石墓、石棺墓、階級差。この「男」のシャーマンの元、あの支石墓が作
られたのである。初期鉄器文化(BC.1−紀元前後)は平野部川辺に広がっている
らしい。牛、馬、豚を飼っていたらしい。農業生産力深まる。住居は長方形の竪穴。
黒色磨製土器、精文鏡など出土。原三国文化(紀元−3AC.)は部族国家である。
鉄器を使い、登り釜、方形あるいは長方形の竪穴住居、占骨、周溝墓。そして伽耶の
文化の特徴は小国の連合組織で大きな国を作ろうとはしなかった、しかし鉄の生産と
対外貿易では大きな力を持っていたらしい。やがて新羅に滅ぼされるが、それは古墳
時代。シュウは百済が起き始めた頃、伽耶が連合組織として充実していた頃の話であ
るのだろう。

韓国二日目
   600    缶コーヒー
  1000    卵カステラけれども甘い餡いり
  3500    マントゥバブ
  6800    バス(往復)
 12000    タクシー(往復)
  1000    解説機
  5500    ソルロタン
 11000    みやげ
 13000    白菜ボッサム ビール
  5000    どじょう汁
 10000    タクシー
 25000    宿賃       計94400

韓国三日目
 14200    タクシー
   400    光州博物館
  9100    本
  7100    全州行きバス
  3000    キンパブ 水
 50000    韓屋生活体験館
  8000    どじょう汁(全州)副菜が11品目も付いた
  4000    カフェモカ(立派な喫茶店。味は普通。)
 11000    ビビンバブ 焼酎
 19000    本           計125800