2001年11月13日(火) |
ドラフトを前に〜忘れられない言葉〜 |
2年前のドラフトで、最も注目を集めていたのは国学院久我山のエース河内貴哉だった。甲子園出場はないものの、左腕から繰り出される140kmを超えるストレートと、ダイナミックなフォームにスカウトは注目した。 ドラフト前、「意中の球団は中日」と報じられた。正式に公言したわけではないが、それが河内の心だった。ドラフト当日、河内を指名したのは中日を含めた3球団だった・・・。
ドラフトの4ヶ月前。河内は神宮球場で悔し涙に暮れていた。西東京大会の決勝。延長12回の死闘の末、8対6で日大三に惜敗した。 5回までは完璧なピッチングを繰り広げていた。大会通算25回無失点という記録も続行中。付け入る隙はないはず、だった。しかし、6回裏。自らが打った二ゴロで一塁へ向かおうとした際、右腿裏側を痛めた。それを機に、球速はダウン。反撃の隙を与えてしまった。そして、それに拍車をかけるように不運な当たりの連続。神宮の女神は、河内に微笑まなかった。 「プロでやってみたい。夢ですから・・・」とコメントを残し、神宮を去った。
河内はドラフトで最高級の評価を得た。甲子園で活躍した、正田樹(桐生第一ー日本ハム)、高木康成(静岡ー近鉄)を凌ぐ評価。甲子園不出場選手の重複指名は、あの江夏以来33年ぶりという快挙であった。 交渉権を得たのは、「意中の球団ではない」広島だった。
だが、河内は真っ直ぐと前を見つめ、「大好きな野球ができるので、球団は関係有りません。喜んで、入団させていただきます」と、少し緊張した面持ちで答えた。指名して頂いた他の2球団に対しても、自分を評価してくれたことに「ありがとうございました」と誠実に感謝の意を述べた。 「大好きな野球ができる」という言葉を聞いたとき、私は思わずジーンと来た。河内は、高校2年の春季大会で左肩の鍵板を負傷した経験がある。そのため、最終学年になるまで、満足行く投球ができなかった。ケガで野球ができない悔しさを身を持って知っていたのだと思う。
今年もまた、ドラフト会議が近づいてきた。 野球をしたものなら、誰もが小学校の文集に「夢はプロ野球選手」と書いたと思う。けれど、上へ行くにつれ、現実を見る。ふるいに掛けられ、自分の才能がないことに気づく。でも、「野球が好き」なことは変わらない。テレビの前で、球場で、にわか評論家となり、うんちくを語る。身体がうずけば、草野球で、そしてバッティングセンターで、野球に熱くなる。
ドラフトで指名される選手は、幸せものだ。野球をして、お金を貰えることができる。野球をすることで、子供たちに私たちに夢を与えてくれる。
河内はプロ入りに際し、「40歳まで野球を続けて、200勝投手になりたい」と抱負を語った。
河内らしい、夢だと思った。
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