前潟都窪の日記

2004年07月03日(土) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�◆�

平成16年7月3日(土)
 西安から飛行機で敦煌へ飛んだ。機中から地上を俯瞰すると砂漠の中に帯状に緑が広がっている箇所が幾つか見える。これがオアシスでそこには河西回廊の都市が営まれているのである。敦煌近くになると緑の巾と長さがとても大きなものに変わり、敦煌が西域の重要な拠点都市であることがよく判る。
                         



俯瞰した沙漠の中のオアシス      





手前のオアシスの向こうに沙漠を挟んで崑崙山脈の雪山が見える


  


敦煌上空から見た俯瞰図



 敦煌とは盛大に繁栄する街という意味だという。この辺境の地の地名「敦煌」が史書に表れるのは漢の武帝(BC141〜87)の時代である。この頃この地域の支配者であった月氏が追い払われて、匈奴がこの地帯を支配していた。これに対抗して西域の不安を取り除くために武帝は匈奴討伐に乗り出したのである。武帝の命を受けた衛青(えいせ
い、?〜BC106)、霍去病(かくきょへい、?〜BC117)等といった将軍の活躍により武帝軍は匈奴を追い払ってしまった。爾来敦煌は河西回廊西端の重要な拠点として歴史に登場することになる。武帝は万里の長城を敦煌まで伸ばし匈奴に対する備えを万全のものにしたのである。かくして、敦煌はシルクロード(絹の道)の西の出口、東の入り口として盛大に繁栄する街の異名をとることになったのである。
 以下の記述は村上みどり氏のサイト【シルクロード・河西回廊、敦煌を行く】から引用させて頂いた。
引用開始
 シルクロードの冒険商人達は早くも1世紀頃に敦煌に姿を現している。中央アジアのサマルカンド、ブハラなどの商人が、東西を結ぶ役目を担っていた。敦煌の名前がプトレマイオスの「地理書」に登場するのもこの商人達のお陰である。 
 もうひとつ、敦煌が歴史において重要な役割を果たすのは仏教の伝来路としてである。紀元前2世紀頃、匈奴に追われた月氏は、その後、アフガニスタンで大月氏帝国を築きあげた。この月氏の手を経て中国に最初に仏教がもたらされたという。 
時代はちょうど、紀元の変わり目の頃である。更に2世紀になって、仏教の伝来は本格化する。インドの経典が続々ともたらされ始める。僧達は敦煌で漢語を学び、布教のために長安に赴いた。「敦煌菩薩」として知られる竺法護(じくほうご)、鳩魔羅什(くまらじゅう)といった名前が、インド経典の中国語訳の功労者として、敦煌の名と結びついている。
 敦煌が最盛期を迎えたのが隋、唐時代である。シルクロードの交易と、仏教への帰依が敦煌の重要性を高めた。敦煌は砂漠の街であるから砂嵐は通常のことで朝夕の寒暖の差が激しく、「朝は綿入れ、昼はシルク、夜はこたつに入ってスイカを食べる」といわれている。セキセキ草、ラクダ草、タマリスクがゴビの三宝になっている。
 莫高窟が盛んになるのもこの時期である。755年に起こった安・史の乱の影響で中央政府の影響が弱くなった。それに呼応して西域では吐蕃国の力が強まり、781年に敦煌はその支配下に置かれる。その後、唐の武宗が845年に廃仏を行い、中央の仏教寺院はことごとく破壊されたが敦煌は吐蕃の支配下にあったので難を逃れた。
 唐から宋に王朝が変わるに及んで、敦煌は中央から切り離され、西夏王国の支配下に入る。この時、西夏襲来に備えて仏典多数が洞窟に塗り込められた。これが有名な敦煌文書で20世紀の初頭に発見された。マルコポーロが敦煌を通過するときには敦煌をサチューとして「東方見聞録」に紹介している。「多くの寺院・僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されている」との記述がある。引用終わり

 空港から敦煌市内を経由して西千仏洞へ直行した。西千仏洞は党河の断崖の上にある石窟で莫高窟の西側にある。窟は19箇所現存するがそのうち六ヶ所の窟を見学した。3窟と4窟には何れも唐時代に彫られた3人の菩薩があった。5窟には北魏時代の千仏観音像が彫られており、窟の中心には柱が設けられているが像は水で壊れていた。
 6窟は北周時代のもの。7窟は西魏時代に設けられ過去仏、現在仏、未来仏、西夏の涅槃仏が安置されている。9窟は北周時代の千仏観音像。
 どの窟も内部の撮影が禁止されているので像を示すことができない。 
 大地を切り裂いたような裂け目の断崖に窟は穿たれていてよくも根気よく仏像を彫り続けたものだという印象が強い。断崖の前の広場には樹齢の大きなポプラの木が生い茂っていた。
                      



西千仏洞の窟の穿たれている断崖 ↑  





西千仏洞のある渓谷に生い茂るポプラ↑ 手前の砂岩の下方の断崖に窟がある。

 陽関に赴く前に南湖郷の「陽関農家園」という農家で昼食を摂った。野菜が豊富に使われた田舎料理だが美味かった。

                       


                     
「陽関農家園」の田舎料理


                       


陽関の狼煙台遺跡





陽関博物館                      





玉門関


 陽関には関は残っておらず、大きな粘土の固まりのような狼煙台の跡が残っていた。漢民族の勢力の及ぶ最西端の関所である。また西域南路への起点ともなる場所でここから先は西域となるのである。詩人王維の「謂城の朝雨軽塵を唈るおす」で始まる送別の歌で有名な所である。なお、狼煙台に「狼」という字が使われるのは狼煙の燃料として使われる植物の茎に狼の糞を乾燥して混ぜたからであるという。ここでは観光客誘致のため最近完成した陽関博物館を見学した。展示物には特筆に値する見るべきものはなかった。
 更に沙漠の中をかなりの距離疾駆して玉門関も見学した。玉門関へ急ぐバスの中で蜃気楼を見ることができた。或いは逃げ水であったかも知れない。
 玉門関には東西24m、南北26.7m、高さ9.7mの巨大粘土の固まりのような長方形の関の跡が残っていた。陽関と並んで漢民族の国家権力の及ぶ最西端の遺跡でありここから先は天山北路へ通じる西域となるのである。
 敦煌市博物館を見学した後、敦煌市内のレストランで敦煌名物の「雪山駝掌」という特別料理を賞味した。駱駝の足の掌を調理したものだがゼラチン質の肉片でそれほど美味いとも思わなかった。一切れ食べただけで止めにした。
 ホテルへ帰ってからは莫高窟の研究所に30年務めているという楊麗英女史から莫高窟についての講義を約一時間聞いた。文化大革命の時には各地の文化遺産が破壊されたがここ敦煌では紅衛兵が押し寄せはしたが管理人の説得に応じて破壊活動はしなかつたので被害にはあわなかったという。
               


                               
敦煌博物館     





敦煌名物料理「雪山駝掌」   





ガイドの楊麗英女史



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